chika "草の花" 1900年1月1日

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@koitoya
1900年1月1日
草の花
草の花
福永武彦
草の花 は、サナトリウムで、なかば自殺のように成功率の低い手術を受けた青年・汐見を、友人である主人公の視点から描き、その後、汐見の死後に託された二冊の手帳に記された「二つの失恋」に関する独白、さらにそれを読んだ主人公の章から構成される小説である。 ⸻ 汐見は、感受性が強く、現実への違和感を抱き、理想や純粋性を過剰に信じる傾向がある。その結果として、彼は孤独へと追い込まれていく。 汐見には共感するところが多い。 「何ごとをする気力もなく、何ごとを考える気力もない。それでいて幾つもの写象が、とりとめもない聯想の糸に繋がって、或いは過去の記憶へ、或いは未来の空想へと、私たちを導く。しかしその何れもが、耐えがたい程暗いのだ。少年の日に夢みた生きるということは、現在のような、こんな惨めな状態を指すのではない筈だった。生きるという言葉の中には、燃え上るような、一身を賭けて悔いないような、悦びや悲しみが彫り込まれていた。それなのに、今、生きることは一日一日の消耗にすぎなかった、ーすることなく考えることもなく、ただ願い倦怠の中に。そして人生のコースを違えてしまったことから生じる悲しみが、現実的なさまざまの困難を伴って、重苦しく私たちの心を鎖していた。」(『草の花』福永武彦 p24-25) この感覚はよく理解できる。心を消耗しすぎると、すべてがどうでもよくなり、ただ一日一日をやり過ごすことしかできなくなる。 汐見は決して暗い人物ではなく、むしろ明るく機敏な青年として描かれている。しかしその内側には、深い孤独がある。人間は悲しみを抱えながらも明るく振る舞うことができるし、そもそも生に執着しなくなった人間特有の明るさというものも存在するのだと思う。 彼の破綻は、二度の失恋として描かれる。 それは 恋愛論 における〈結晶作用〉によるものといえるが、そもそも彼は世界との接続が不安定な人間だった。恋愛は、その不安定さを露呈させるきっかけにすぎなかったのではないか。 「美しい魂がある、その魂の認識のしかたがある。だって当の本人は、自分が美しい魂の持主だなんて考えてやしませんからね。僕は藤木のそういう謙虚なところがたまらなく好きなんです。藤木の魂を理解しているのは僕だけです。僕は人間の中にあるそういう美しいもの、純粋なものを、一度発見した以上、僕自身の魂、この汚れた魂をも美しくし、また他人をも美しい眼で見て行くことが出来ると思うんです。美しい魂の錬金術、と僕は名づけたんですが、僕自身がこの魂を発見したということから出発して、みんながもっと美しく、もっと幸福に、暮して行けるようになれると思うんです・・・・。」(『草の花』福永武彦 p123-124) 「ーそれは君の誤解だ。君は物の表面だけを見ているんだ。 ーそうかもしれません。しかし汐見さんが本当に苦しんでいるかどうか、表面以外にどうして分るんです?僕なんか何の価値もない人間なのに、汐見さんにはもっと別のように僕が見えるんでしょう。僕たちはそうした、表面だけの、眼に見えるものの中に住んでいるんです。そこからは抜け出せないんです。 ーそんなことはないよ、藤木、そうした見える世界から見えない世界にはいって行く、それが愛なんだよ。愛するということは世界を創り変えてしまうんだ。」(『草の花』p123) このやりとりにおいて、藤木は「自分以上のものとして見られてしまう」ことへの違和感を語っている。相手の愛が、自分の実像を越えてしまっている。そのギャップに苦しんでいるのだろう。 「あなたは夢を見ている人なのよ。ええそうよ。昔あなたは、兄ちゃんを好きだった頃にも夢を見ていらした。あたし兄ちゃんの言った言葉が忘れられないわ、汐見さんは夢を見てる、けれど僕には見られないって。」(『草の花』p198) 「それにわたくしは、このわたくしとして、この生きた、血と肉とのあるわたくしとして、愛されたいと思いました。あの方が、わたくしを見ながらなお理想の形の下にわたくしを見ていらっしゃると考えることは、わたくしにはたまらない苦痛でした。わたくしは平凡な女でございます。それをあの方は非凡なように御覧になりました。そのような思い過しはいつかは覚めるものでございます。わたくしはいつか幻滅の嘘であの方から眺められるのかと思えば、ぞっと寒気立ちました。あの方は夢を見て暮すかたでございましたし、わたくしは現実をしか見るすべを存じておりませんでした。」(『草の花』p306) 結晶作用がもたらす苦しさとは、まさにここにある。 理想化はやがて解けるものであり、そのとき、それを受け入れられないのではないか、関係を組み替えることができないのではないか、という恐怖が伴う。 藤木(兄)は描写が少なく断定はできないが、千枝子もまた恋愛における典型的な失敗を犯している。それは、自分を過剰に小さく見積もることだ。これは『恋愛論』における「疑惑」の段階を越えられなかった状態ともいえる。 愛の試み を読んでから本作を読めたことは非常に大きかった。 「ウェルテルの悲しみは、読者にその悲しみを追体験させることで人おのおのの持つ孤独を意識させる。が、誰もウェルテルに倣って自殺しようとは思わない。作品の発表後に、多くのウェルテル病患者が自殺したからといって、ゲーテは彼の描き出した絶望的な孤独に責任を持つ必要はない。真似をした馬鹿者たちが、果してウェルテルほどに孤独を痛感していたとは思われない。(中略)絶望的な作品の真の効用は、読者がそれを追体験することによって、そのような種類の絶望を乗り越えさせる点にある。それは免疫ということに似ている。折角のワクチンで本当に病気に罹るというのでは馬鹿げている。」(p13『愛の試み』福永武彦) これはまさにその通りだと思う。 「君は実に生きようという気持の強い人だ、僕はそれに敬服している、それは君に芸術家としての自覚があるからだ。芸術家は生きなきゃならない、仕事をしないで死んだのじゃ何にもならないからね。君の、いつかは必ずいいものを書いてみせるという気持、それが君という人を生かしているのだ。僕なんかそうじゃない、僕は芸術家になりたいと思ったことがある、が、若い時は誰だってそんなことを考えるのじゃないか。それに僕は、物を書かないでも、物を見ることによって芸術家でありたいと願った。或いは、生きることが芸術でありたいと願った。 生きるということは、その人間の固有の表現だからね。で、僕はそのように生きたのだ。」(『草の花』福永武彦 p41) これに似たような言葉を美大を卒業したときに私も言った記憶がある。 だが、芸術を作らないと決めた人間が、「生きること」によって芸術を表現することは可能なのだろうか。そもそも人生が芸術であるとするなら、それは永遠に完成されない未完の作品ではないか。死によって完成するのだとすれば、それは作品と呼べるのか。作品とは本来、作家が生きているあいだに完成され、評価を受け取るまでを含めて成立するものではないのか。 「僕等のように芸術家でない人間にとって、人生は彼が生きたその一日一日と共に終って行くのだ。未来というものはない、死があるばかりだ、死は一切の終りだ。現在というものはない、……そう、多くの場合に現在さえもないのだ。そこには過去があるばかりだ。それは勿論本当の生きかたじゃあるまい、今日の日を生きなくて何を生きると言うのだ。しかし人間は多く、過去によって生きている、過去が、その人間を決定してしまっているのだ。生きるのではなく、生きたのだ、死は単なるしるしにすぎないよ。」(『草の花』福永武彦 p42) 「僕には現実というものが分らない、僕は今やっている戦争なんか、これっぽっちも感激しない。いつ兵隊に取られるのかと思うと、厭で厭でしょうがない。しかし、僕にはこの戦争に反対する力も、やめさせる力もない。それだったら僕の方から逃げ出して行く、せめて僕の内部だけは、戦争に拘束されずに自由である他にしようがないじゃないか。 (中略) ーそんなの、でも卑怯じゃないかしら?と千枝子は紅茶茶碗の中をスプーンでゆっくり掻きまぜながら、顔を伏せて言った。 ー卑怯?なぜ? ーだってあたしたち、古典の中に生きてるんじゃないもの。」(『草の花』p195-196) 「孤独の中にわざわざ自分を閉じこめて、苦しみ抜いて、それがただあなた一人の問題にしかすぎないなんて、そんな寂しいことがあるでしょうか。汐見さんのように苦しい立場にある人が、なぜ信じる方に賭けられないのかしら?」(『草の花』福永武彦 p264) これらの言葉が示すように、汐見の生き方に共感し、同情するのであれば、それを単なる共感にとどめず、「免疫」として自分の生に反映させる必要があるのだと思う。おそらくそれこそが、福永武彦の意図した読まれ方なのだろう。 この作品は、共感させながらも同時に自分自身を相対化していくことを求めてくる、そんな気がした。 すごく面白かった。 前に読もうとしたとき全然読み進められなったのに。 そのときはまだ親友が生きており、自分も自分の未来も信じられていたからあまり読む気にならなかったのかもしれない。 私は汐見に似ている考えの人間なのかもしれないが、『愛の試み』の言うとおり、文学は免疫にしなくてはいけない。いい流れで本を読めたな。
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