
綾鷹
@ayataka
2026年4月8日
凍りのくじら
辻村深月
愛する父が失踪して5年。孤独な高校生・理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う不思議な青年・あきらに出会う。戸惑いつつも、他とは違う内面を見せていく理帆子。
ドラえもんのひみつ道具になぞらえたサブタイトルを持つ10章で構成されており、あきらとの出会いやドラえもんの要素を通じて、理帆子が自己と向き合い、他者とつながる過程を描いた青春ミステリー。
周りに本音を話せず、誰といても本当に楽しいと思えない。どこにでも溶け込める、でも冷めた目で見ている理帆子が、自分の本当の気持ちに向き合っていく。
子どものときに好きだったドラえもんのひみつ道具が出てくることで、この話により懐かしさと温かさが与えられている。
誰かと一緒にいてもどこか寂しいと感じるときに、読むと心が落ち着く小説だと思った。
藤子先生が『ぼくにとっての「SF」は、サイエンス・フィクションではなくて、「少し不思議な物語」のSF(すこし・ふしぎ)なのです』と言ったことから、理帆子が周りの人の性格を「スコシ・ナントカ」に当てはめていくのは、自分だったらなんだろう?と考えてしまった。
・あんなに敵を見つけることに熱心で、高校生活が充実しているくせに、加世の趣味が地味な子をいじめることだというのは、一体どういうわけだろう。
自分より劣っている人間を見つけては、孤立させたがる。ひょっとしたら、昔いじめに遭ってたことでもあるんだろうか。かわいいし、頭いいけど、だからこそ幼少時には苦労があってもおかしくない。私はこんなに傷つけられた、だからあなたも。そういう連鎖。
・「どこでもドア」を持つ私は、屈託なくどこのグループの輪にも溶け込める。愛想よくバカの振りをしながら。親身になって話を聞いて、いい人ぶりながら。どこでも行けるし、どんな場所や友達にも対応可。
だけど私は、Sukoshi・Fuzai (少し・不在)
だ。いつでも。
場の当事者になることが絶対になく、どこにいてもそこを自分の居場所だと思えない。それは、とても息苦しい私の性質。
・私は父によく懐いた子どもだった。私に本を買い与え、興味深く話を聞いてくれる父が大好きで、後ろをちょこちょこついてまわった。私の好きな漫画や小説を俗なものとして私から遠ざけようとし、文部省が推奨するような身障者問題や戦争の話だけを良質な図書なのだと主張する母が疎ましかった。遊びに行ってきます。誰と遊んでくるの?何をして遊ぶの?首を突っ込もうとするのに、私が答える瞬間には、尋ねたことにもう興味を失っている。母は私の個性を「子ども」として以上には捉えなかったし、話の内容にも真剣に耳を傾けてくれたことがなく、父とはそこが違った。
「お父さんはあんたにいろいろ物を買ってあげて、それであんたは懐いてたけど、私はほとんど買ってあげなかったから。だから理帆子は私に懐かなかったんだね」
いつだったか、そう言われて唖然とした。告げる母の声は、やはり嘆く様子すらまるでないあまりに平坦なものだった。自分と父との違いを物を買い与えたか否かでしか捉えないのか、と苛立った。なんて都合がいい解釈なのだ、と。
・その時期の私は、母にどうしても優しくできなかった。こういう喧嘩をした直後、いつでも苛立ちを抱えたまま、平行に反省する。仮定の話を考える。
例えば、今もし母が死んでしまったら私は後悔するだろうと。後悔し、涙御れるまで泣き、自分を責めるに違いない。もっと優しくすればよかった。多くを語り合えばよかったと。そしてそれがわかっていても、今現在の母に自分が優しくできないこと、それも知っている。人間というのは、理不尽で業が深く、そして間が悪い生き物だ。
母はその年の秋、突然倒れ入院した。それまでも徴候があったはずだ、と医者から言われた。喧嘩をした春のその日も、母はひょっとしたら癌の痛みと格闘していたかもしれない。それを思って、都合のいい私は胸が張り裂けそうになる。
・私には関係ない、そう思って本を借りる手続きのカードを書いていた。その時だった。皆に何事か説明していた司書教諭が、いきなり私の前に積まれていたホームズを手に掲げた。そして倍じられないことを言った。『悪い本の借り方を説明します」シリーズものの装丁は統一されている。同じ色彩、同じ装丁家の手に依る挿絵。似通った雰囲気の五冊のホームズを示し、彼女は『こうやって同じ種類のものだけしか借りないのは、よくない借り方です』と言った。『いろんな種類の本を読みましょう』と。
私は呆然と彼女の顔を見上げていた。屈辱的だった。いろんな種類の本?私、読んでる。だからこそ、今回はホームズって決めたんでしょう?
彼女は私の本を机に戻し、一通りの説明を終えた後で、私に向け苦笑じみた表情を作って見せた。そして謝る。
「ごめんね、芦沢さん。たまたま近くにいたから。あ、いいのよ、いいのよ。気にしないでそのまま借りて帰ってね」
あんた馬鹿じゃないの?私はみんなより一段階レベルが高いのに、それがわからないの?子ども相手だから構わないだろうって、そんな適当な真似をするの?私は子どもだけど、覚えててやる。あんたの愚鈍さを、ずっと覚えてるんだ。
・「どうしたら良かったと思う?」別所が私に、静かな声で尋ねた。
「後でそれが実行できる目処がなくなり、逃げることもできなくなった彼は、壊す以外にどうしたら良かったと思う?」
「挫折しなくちゃ」
私の声が微かに震え始めた。何故、こんな声を私が出さなければならないのだろう。
「いつも、持病のせいとか、親のせいとか、自分の力ではない他のせいにしてきた。だけど、悪いのは自分だと認めなくちゃ。全部を自分の責任だと認めて、その上で自分に実力がないんだと、そう思って諦めなくちゃならない。精一杯、本当にギリギリのところまでやった人にしか、諦めることなんてできない。挫折って、だから本当はすごく難しい」
・お母さん。呟くと、病室で最後一度だけ彼女が目を開けたその光景が、今更のように胸に蘇った。山のように積まれた父のポジフィルム。それを見て言う。『よかった、これでできた』。
飯沼に電話が繋がる。私は声が詰まらないように、一息で礼を言う。
「お話をいただいて、母に仕事をさせていただいて。ー本当に、ありがとうございました」母の死後、家を掃除していると、鏡台から小さな箱が出てきた。
控え目な石のついた安物のネックレス。まだ小学生だった頃、母が見せてくれたことがある。父が高校の頃、初めて母に写真のモデルを依頼する際に贈ったもの。照れ臭そうに、でもどこか自慢げに、母が私に見せてくれた。
彼女は、それをずっと保管し続けていたのだ。
・私に呼び掛ける都也の声。私の父が、都也にきっと呪いと願を掛けた。何も望まず、困難に耐えて決して弱音を吐かず。そしてピアノに齧りつく。
・なんて残酷なんだろう。そうだった。多分、最初からそうだった。都也は喋れないんじゃない。
喋らないんだ。
「都也・………」
力いっぱい、彼の薄っぺらい冷え切った体を抱きしめながら、私の喉が熱く震え始める。あんたは馬鹿だ。大馬鹿だ。どうしてそうなんだ。どうして誰も彼を自由にしないんだ。籠の中の鳥、空を飛ぶこともなく。
気が付くと、私は崩れた声で叫んでいた。
「欲しいものがある時は、それを言っていいんだ
よ」
麓で回っていた赤いランプの横で、高いサイレンがウーと鳴る。騒ぐ声がしている。誰かがこちらにやってこようとしている。心の中で、私は呼び掛ける。ここだよ、こっちだよ。
「痛かったら泣いて、苦しかったら、助けてって言っちゃえばいいんだよ。きっと誰かがどうにか、カを貸してくれる。もう嫌だって、逃げちゃえば、いいんだよ。そうすることだって、できるんだよ」あっちだ!私たちの方向を、示して叫ぶ声がする。
お坊ちゃんはどこ。声を聞いて、目を閉じる。多恵さん。彼女が迎えに来てくれてる。都也あ、いるのか。必死になって叫ぶ声がする。松永の声だった。
ねぇ、都也。ピアノなんて弾けなくてもいいよ。
私の腕の中で都也の冷たい胸が不器用に困惑していた。それがわかった。私はもう、全身が震えて熱くなっていた。
「誰かと繋がりたいときは、縋りついたっていいんだよ。相手の事情なんか無視して、一緒にいたいって、それを口にしてもー」
言いながら気が付く。それが自分自身に向けての言葉なのだということに。他でもない私がそうしたいのだということに。
私は一人が怖い。誰かと生きていきたい。必要とされたいし、必要としたい。
今、『テキオー灯』の光を浴びたばかりだった。
私。
口から、嗚咽が上がる。
ねぇ、都也、私じゃ駄目かな。私が家族じゃ、駄目かな。
「私、都也と一緒にいてもいい…・・・・?」母なのか、姉なのか。はたまた恋人なのか、妹なのか。関係の名前は、多分そのどれでもなかったが、名前なんてなくても縋りついていいのだと思った。
私は都也が好きだ。
美也が、カオリが。学校の友達が、両親が。松永のことも、若尾のことだって、好きだった。最初からずっと、そうだった。