
ジクロロ
@jirowcrew
2026年4月9日

読んでる
「記号が、何ものをも意味しないでただそこにある」ということに機械は耐えることができない。機械はそれを何か既知のものに同定するか、あるいはまったく無視するか、どちらかを選ぶ。凡庸な知性はある意味で機械に似ている。というのも、凡庸な知性もまた「何も意味しない記号」に遭遇すると、既知のものと同定するか、あるいは無視するか、どちらかを選ぼうとするからである。
「記号が何ものをも意味しないでただそこにある」とき、その決定不能のものを前に、判断中止をしている「私」を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎づける、ラカンはそう考える。
……
私たちは「記号が何ものをも意味しない」ことに耐えることによって、「もう一つ次数の高い思考の準位」へ進むことができる。
(p.126)
判断するとは、機械になるということ。
「ありのまま」の一面を、自己の欲望に
見合うように切り取る。
「何も意味しない記号」の豊かさは、
そうやってあっさりと失われている。
「時間がない」という思いは、そのまま
時間の否定を意味する。
極論を言えば、「時間がない」という思いが、
すでに生命のない物どもを手に入れさせようとしているということ。
手に触れるすべてが黄金と化してしまうミダス王のごとく。
「時は金なり」というダブルミーニング。

