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2026年4月10日
ポロポロ
田中小実昌
40年以上前の雑誌の記事に触発されて田中小実昌さんの『ポロポロ』を読み直している。これは何年も前の、初対面の方との会話のなかで教えて貰った一冊。
最初に収録されている表題作の「ポロポロ」は多分読むの三回目だけれど、やっぱりまだよくわからなかった。わからないことは悪いことではないし、そのわからなさを大切にしたいとも思うけれど、この小説はもう少しわかりたいんだよな、などと思った後に読んだニ編目の「北川はぼくに」が素晴らしかった。これも前に一度は読んでいるはずだけれど、今回でわかった気がする。
いや、まあ、わからないと思うところもあるけれど、完全にわからないわけじゃないし、もう少しで「わかる」に手が届きそうな気がするというか、みたいな絶妙な揺らぎに気持ちよく漂っているのかもしれない。それでもこの一編がわたしにとっての傑作だということはわかった、はず。寝る前に良い小説が読めたからその日もOKになった。
翌日以降に読んだ「北川はぼくに」から続く五編は田中さんの戦争体験を書いたもので、そこでは裏表紙の作品紹介にあるように、たしかに「物語化を拒否」(という言葉ではないにせよ)している印象があった。では、その「物語化を拒否」するとはどういうことで、どんな意味があるのか。もまだわかっていないけれど、考えながらこんな文章を書いてみている。
「あのころは、戦争に負けたことへのくやしさ、なさけなさといったものは、上級の兵隊と初年兵とではうんとちがってたはずだが、当時の初年兵に、今たずねたら、上級の兵隊だった者と、あまりかわらないことを言うのではないか。それにぶつかったとき、自分が感じたこと、おもったことが、だんだんにかたちを変えて、つまりは、世間の規格どおりみたいになるのだろう。これはふしぎなことだが、世間ではあまりふしぎにはおもってないようだ。ま、そんなふうだから、こんなことにもなるのか。」
「北川はぼくに」のなかにある一文。ここにも「物語化を拒否」する理由がある気がしている。田中さんのいう「物語」とはときの為政者によって書かれる歴史や、かれらが世間に求め誘導しようとする規格(というには誰かが作るものだ)——わたしの言葉で言うなら「大きな物語」——なのではないか。そこでは「自分が感じたこと、おもったこと」が「物語」「世間の規格」に飲み込まれ沈んでいき見えなくなってしまう。それはつまりは、「物語」を書くものの思う通りにコントロールされてしまうということだ。「そんなふうだから、こんなことにもなる」のを拒否するために「物語化を拒否」する。そんな風に思える。
「あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。」
「しかし、物語は、なまやさしい相手ではない。なにかをおもいかえし、記録しようとすると、もう物語がはじまってしまう」(「大尾のこと」)
という田中さんは、更に自らの記憶の当時の印象も、「今」にして思うことも書きかけては否定し、「事実」という言葉で語ることも疑いながら自らの体験した戦争を小説というかたちで記録していく。そこでみたこと聞いたこと、出会った人物、起こったことも「自分の規格」に当てはめた「物語」として書くことを拒否する。そうやって書くことはきっと難しく、読み取るのも(少なくともわたしには)難しい。それでも、自分の記憶にも「事実」にも誠実に真摯に向き合って書かれた小説は独特でいて、たしかに素晴らしい。それはわかる。わかりたい。
「なにかをおもいかえし、記録しよう」とするように書かれる私小説のようなものとは別に、既に歴史書かれてしまったり、「世間の規格」、「大きな物語」に飲み込まれみえなくなってしまった見知らぬ誰かの「自分が感じたこと、おもったこと」を想像力という柄杓で大切に掬い上げるように書かれるフィクションというものもある。それはもしかしたら田中さんのいうところの「物語化」で、「自分の規格」に合わせるような行為なのかもしれないけれど、それでも、それらのフィクション、想像力を使って書かれる小説は「(大きな)物語化を拒否する」ものであり、小説のあるべき姿のひとつだと思っている。
などと思うままに書いてみると、またわからなさが募ってきているから、脈絡を無視して文章を終わらそうとしてみるけれど、この「物語化を拒否」する小説たちを、わたしは戦争を拒否する「反戦小説」として「平和憲法を守るための緊急アクション」が行われた夜に読んでいた。「そんなふうだから、こんなことにもなる」のに抗うためにも。間違っていない気はしている。




