
ましろ
@ruhistory
2026年2月9日
愛する源氏物語
俵万智
読み終わった
源氏物語で登場した和歌たちを取り上げて、その和歌が生まれるに至った物語背景を解説する。加えて、俵万智が和歌を再構築する、という一連の試み自体がおもしろい。俵万智がリメイクするなんて、おもしろくなるに決まってるじゃん!と思って読み出したし、実際そうだった。
源氏物語のストーリーの作り込み、登場人物の個性まで、俵万智流の解説で、面白さを再確認することになったし、挟まれる考察が鋭さにうなる部分が多かった。
〇「同時進行恋愛」の章にて
「…あまりに大きな悲しみにあって、言葉を失いそうになるとき、その思いを形にするための支えとして、和歌の型が働くことがある。流れゆく感情を注ぎこむ器、崩れゆく言葉をとどめるつっかえ棒。紫の上のこの一首は、まさにそのようにして生まれたものの典型に見える。」
→和歌がツールとして、そんな働きをすることもあるのか、と納得した一文。
〇「紫の上の死」の章にて
「…不安や悲しみが、光源氏への歌には、あまり感じられない。最愛の人への歌であるはずなのに、湿っぽさが、むしろ少ないのだ。「悲しさ」とか「頼まるる」とかいう言葉は、ここにはない。自分をひたすら露にたとえ、死を自明のこととして、むしろ清々しく淡々と詠んでいる。そのわけは?」
「…そしてもう一つは、ここまで生きてきて、あらためて光源氏と対峙したとき、死も悪くないという思いが、彼女にはあったのではないだろうか。出家を許されなかった紫の上は、もう死ぬことでしか光源氏から自由になれないのだ。だとすれば、死もまた一つの救いである。」
→この解釈に納得しかない。「納得!」ボタンがあったら連打しているほど、腑に落ちて、読んだときに思わず唸ってしまった。
〇あとがき にて
「同じ五七五七七でも、思えば遠くへ来てしまった私たちだ。が、『源氏物語』の和歌のたたずまいを、どこかで意識することは、大切だと思う。言葉のための言葉ではなく、 心を伝えるための言葉なのだから。」
→たしかに。とここでもまた納得。平安時代の人は作品としてだけではなく、感情を伝えるツールとして、和歌を使っていたんだと再確認。
