( ᵕ ᵕ̩̩ ) "ノット・ライク・ディス" 2026年4月14日

ノット・ライク・ディス
「体の性」と「心の性」という多くの人に刷り込まれている概念が真実であるなら、果たしてトランスの身体というものがあらかじめ肯定されることはないのだろうか。トランスの身体というものは、常に想定されなかった事態であり、「心の性」に添って作り替えられた工作物でしかないのだろうか。そのような問いに対して藤高和輝は、はっきり否と答える。なぜなら藤高が、本書の中で一つひとつ拾い上げる日本語圏のトランスジェンダーたちの実感に基づいた語りは、そのどれもが「体の性」と「心の性」という概念を基にする「心身二元論」とは、あまりにもかけ離れているからである。例えば、岩村匠の「筋肉も髭もペニスも睾丸も記憶のなかにある。(性別適合)手術で失われた自分の体を取り戻したい」という発言ひとつ取ってみても、心身二元論では説明がつかない。そこで藤高はこの発言をモーリス・メルロ=ポンティの「身体イメージ」という概念に接続し、性別違和を「身体イメージ」と「物質的身体」の間に生じるものだと説明し、その実感と身体を肯定する。このように、ありとあらゆるトランスの身体を肯定するために、藤高はトランスの語りと哲学者の思想を繋いでいく。榎本櫻湖が「生身のからだ」について考える時、それはジュディス・バトラーの「物質化」の概念に接続され、「普段うっとうしく感じていた肉体とは違う肉体」の存在を感じる時、ゲイル・サラモンによってその物質性が肯定される。これらは一例であるが、藤高はこのようにトランスの語りを援護するように哲学者の思想を繋ぐ。それはまた、哲学者の思想を机の上で眠らせずに現実の只中に放り込み、労働させようとする試みでもある。そして本書におけるこういった言葉や思想を繋いでいく試み自体が、藤高の思考の痕跡そのものであり、また他者に対して暴力的に「判断」を下そうとするトランスフォビアに対する抵抗運動なのである。
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