ノット・ライク・ディス
12件の記録
( ᵕ ᵕ̩̩ )@carlymatsushita2026年1月11日読んでる【引用】 「非規範な身体」を生きる者にとって「諸々の物質性の生きられた意味」の「創造」や「変換」は「生存」の問題であり、言い換えれば、そのような「創造」や「変換」といった「アクロバットで面倒な作業」は、「わたしの身体」が社会によって「バラバラに寸断されて」しまう状況下においてなされるのである。(p.108)
( ᵕ ᵕ̩̩ )@carlymatsushita2026年1月10日読んでる【引用】 “ところで、社会や国家が要請する身体とは、単なる「物質的な身体」ではありえない。それは「物質的なもの」という見せかけをとりながら、実際には象徴的に規範化された身体イメージを強いる。実際、榎本が語っているように、「生身のからだ」は「「国家」がわたしに要求する「女性」」(榎本 二〇一七:一四二)(ないし「男性」)、あるいは「「社会」や「国家」仕様の性別」(榎本 二〇一七:一四二)に曝されつづける。バトラーの「物質化」という概念は、いかに特定の身体のあり方が「物質的なもの」として形成され、理念化されるかを考察するために導入された概念である。それは一方では、どんな身体が「物質的なもの」、「自然な身体」として規範化されるかを示すものであり、他方では、そのような「物質化」の過程においてどのような身体が「構成的な外部」として排除されているかを示すための概念である。言い換えれば、身体とは、規範的な「物質化」とそこから排除されたオルタナティヴな想像的身体とのあいだの緊張を生きるのである。「身体の輪郭と形態は、心的なものと物質的なものとのあいだの還元不可能な緊張に単に巻き込まれているのではなく、むしろ、その緊張である」(Butler 2011: 36 強調原文)。榎本の「生身のからだ」(及びそれに対する社会の眼差し)と「書く行為」において生起する「普段うっとうしく感じていた肉体とは違う肉体」との関係はまさにこの「緊張」を示しているように思われる。”(p.87)







