ノット・ライク・ディス

ノット・ライク・ディス
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
以文社
2024年5月25日
25件の記録
  • るり
    るり
    @utatanest
    2026年2月8日
  • 終章 【引用】  「私は自分の身体を愛することができるか」という問いはトランスの人たちにとって自らの実存に差し迫る問いである。性別違和を経験するトランスにとって「私の身体」は「困ったからだ」としてあり、それを「愛する」ことは難しい。しかし、「私」はこの(原文傍点)身体──身体の形を変えるにせよ変えないにせよ──を生きる以上、自分の身体となんらかの形で「和解」する必要がある。そうでなければ、「私」の生存は困難になってしまうだろう。ところで、ここで同時に指摘しておきたいことはその問いがトランスの人たちにのみ完全に閉じたものでもないということである。実際、「典型的な身体」ではない身体を生きる人たちにもこの問いは切迫した問いであって、例えば、異性愛男性中心主義的社会のなかで性的対象化を被る女性、ルッキズムにさらされる人たち、障害を抱える人たち、人種的マイノリティの人たちにとってもそうであろう。  身体とそれに対する愛の問題は、身体が物質的な所与としてあるにもかかわらず身体を「単なる物質的な所与」には還元できないという事実を突きつける。私たちは身体を「ありのままに」愛することなどできない。冷静に考えれば、それは奇妙な事実である。私たちはこの身体でしかありえず、身体そのものを選ぶことなどできない──程度の差はあれ、身体の形態を変容することはできるにせよ。それなのに、その身体への愛は自然には発生しない。それは、ある「身体の形」が「理想的」とされる社会的な規範が存在することと明らかに関係しているだろう。その規範的枠組みのなかで、細部の身体部位にいたるまで意味づけられ、価値づけられているのである。「私」の身体、その身体イメージは、そのような規範のなかで、その下で、あるいはそれとの「交渉」のなかで、形作られるものである。  「私は自分の身体を愛することができるか」という問いがまずなによりも個人的(原文傍点)なものであるのは、当然、「私」という個人の身体に関わるものだからだ。それは、厳密に(原文傍点)個人的なものである。身体イメージが他者との関係や社会的世界との関わりのなかで形成されるものであるとしても、身体イメージは決して画一的に形成されるものではなく、この私(原文傍点)という個別性をもつのであり、そのイメージは各個人において異なって生きられるものだ。性別違和はそのようなイメージと現実の身体とのギャップにおいて生起するのであり、それが身体を愛することを困難にする。(pp.256-257) 【引用】  身体を愛することは単なる「認識」の問題ではない。性教育の言説も、ラディカルな社会構築主義の言説も、あるいはボディ・ポジティブの言説も、「ときには効かない日がある」。ジェンダー規範をはじめとした社会的規範のなかを生きる私たちは程度の差はあれ、その規範のなかで自らの感性を形成してしまう。その規範はいわば身体化されるのであって、単なる認知の問題として片づけることはできないだろう。実際のところ、私たちはそのような規範との「交渉」のなかで、上手くいけばなんらかの折り合いをつける、あるいは折り合いをつけようと試みる。各個人において多様に行われるそのような「折り合い」や「和解」の試みはまさしく「自分の身体を愛する」ための作業である。「私は自分の身体を愛することができるか」という問いが個人的な(原文傍点)問いであるのは、自分の身体を「ありのままに」愛することの困難を前に、それでも自らの身体となんらかの仕方で折り合いをつけ、和解するための、その人自身の実存に差し迫った問いであるからだ。(p.258) 【引用】  したがって言い換えれば、「私」の身体への愛の困難に直面することは、どんな身体が「愛するに値する身体」としてカウントされるのか、どんな身体が「愛されるに値しない」「おぞましいもの」として排除されるのか、その規範に対峙することでもある。バトラーが述べているように、「直面すること(coming up against)」は「身体を定義する様態」である(Butler 2009: 34)。なぜなら、「身体が不可避的に外部の世界に直面しているということは、他者に、そして自分ではコントロールできない状況に、意図せずして近接してしまっていることの一般的な苦境のしるしである」(Butler 2009: 34) ことを意味し、身体が根本的に社会的世界に曝されたものとして存在することを意味しているからである。そのとき、トランスジェンダーらの〈違和〉の経験はこの「苦境」をとりわけ開示するものだと言えるだろう。それは、どのような身体が規範的な身体として「カウント」され、どのような身体が「非規範的な身体」として排除されているのか、それらを規定している社会的規範に直面することである。「私は自らの身体を愛することができるか」という問いはこの意味で政治的な問いでもあるのであり、私が自らの身体を愛することができないとき、その愛の困難は、この社会的世界への批判や抵抗を、また、〈いま・ここ〉ではない別の世界の希求を、潜在的に孕んでいるのである。そのような困難に直面しながら、しかし現に多くのトランスの人たちはそれぞれの仕方で自らの身体と折り合いをつけながら、あるいは折り合いをつけようと試みなから、生きている。自らの身体と折り合いをつける、その愛の技法は、ある身体を「おそましいもの」として排除する〈いま・ここ〉の社会的世界とは別の世界の可能性をいわば先取りしごいろのである。いわば、この世界こそがトランスの人たちから愛の技法を学ぶべきたのだ(原文傍点)。(pp.260-261) 【引用】  このような点を考える上で、町田の〈器〉をめぐる議論をメルロ=ポンティの身体論と接続させてみることには意味があるだろう。実際、町田が〈器〉の概念──それは「自らの未分化な感覚をおさめるような」「身体感覚に根差した概念」である──を対人関係を包含する間主観的なもの(あるいは間身体性)としても記述していたが、同様に、メルロ=ポンティにとっても、他者は「私に付きまとう」ものである。彼は『眼と精神』で次のように述べている。「ここで身体といっても、それは情報機械だと言っても差し支えないような〈可能的身体〉のことではなく、私が〈私の身体〉と呼ぶ現実の身体、私が話したり行為したりする際にいつも黙って立ち会っている見張番のようなこの身体のことである。そして、この私の身体とともに、多くの共同的身体(原文傍点)、つまり「他人」もまた蘇ってくるに違いない。〔…〕ここでいう「他人」とは、それが私に付きまとい、また私が彼らに付きまとい、そして私が彼らとともにただ一つ現存する現実的存在に付きまとう、といったものなのである」(メルロ=ポンティー九八六:二五五。強調原文)。町田とある意味では同様に、ここでメルロ=ポンティが指摘しているのは、他者は「私の身体」に「付きまとう」ということであり、したがって町田の言葉を借りれば、他者は私の「未分化な感覚をおさめる」〈器〉でありうるのであり、あるいは端的に言えば「私の身体」とは「間身体的なもの」である。ところで、メルロ=ポンティはここでは明確に述べてはいないが、「私の身体」が他者が「付きまとう」ものとして存在するのなら、その他者に「私の身体」が受け止められるか拒絶されるかは「私の身体」そのもの、その身体感覚を安定させたり揺り動かしたりするものでありうる。そして、そのような他者との絡み合いや付きまといにおいて、その他者の「受け止め」は社会的規範に構造化されてもいる。したがって、私たちはその他者の背景にある「世界」自体との連絡を問わざるをえない。(pp.267-268) あとがき 【引用】  「理論」は私にとって「生きた言葉」であり、「生き延びるために絶対に必要な言葉の織物」だ。フェミニズムの、クィアの、トランスの「理論」は明らかに私の生を押し拡げ、背中を押してくれた。「生」と「理論」を切り離す考えを、私は嫌悪し、そのような考えに全力で反対する。「理論家」とは「一部の専門家」のことではない。とりわけ、社会のなかでマイノリティとされる人たちは、自己のその「非規範的な」生を生きるために、学問的であろうとなかろうと、なんらかの「理論」を必要とする。(pp.276-277)
  • 7-3 【引用】  ここで、ゲイル・サラモンが理論化している「違和連続体」に関する議論を参照したい。サラモンは、個々のトランスが抱える違和のその差異は「質的差異」ではなく、「程度の差異」であると述べている。「違和」は「身体の外形に依拠しているのではなく、自分自身の身体の/についての/における感じに依拠している」のであり、「違和連続体」は「マイルドな不快感からトランスセクシュアルの身体改造への強い衝動まで」の身体の「感じられ方」のその「程度」や「グラデーション」の差異を記述する概念である(Salamon 2010: 164)。言い換えれば、この違和は、はっきりとした「質的差異」、安易な分節化を拒むものであり、「違和連続体」は個々のトランスが生きる違和の内実に肉薄しようとするための概念であるとともに、違和のあいだに優劣や順位のようなものを設定する政治に抗おうとするものでもある。そして、違和が安易な分節化を拒むものであるなら、それだけいっそう個々のトランスが自分に「しっくりくる」と感じる名もまた多種多様であるだろう。  グリフィン・ハンズブリーは「トランス男性連続体(transmasculine spectrum)」を、「woodworker/transman/genderqueer」のグラデーションとして捉えている(…) 。"woodworker"は日本語で言うところの「埋没系」に当たり、それはただの男 (just a man)」と記述される。つまり、「woodworker/埋没系」は自らを「トランス」とは記述しない。彼らは「ただの男」なのであって、日常生活においてトランスであること、かつて「女性」として社会的に割り当てられていたことを公的に表明せず、そして実際に「男」としてパスし、「埋没」して生活している。これに対して、「ジェンダークィア」は「私をラベルで留めるな」という標語にまとめられ、「分類を拒む」人たちと形容され (Hansbury 2005: 256)、「トランス男性連続体」のなかでももっとも「曖昧さを受け入れる(embrace ambiguity)」極として考えられていぶ(Hansbury 2005: 258)。そして最後に、「トランス男性」は「woodworker /埋没系」と比較すればその「トランス(原文傍点)男性」を引き受ける点に、そして「ジェンダークィア」と比べて「トランス男性(原文傍点)」を引き受ける点に違いがある(Hansbury 2005: 255)。(pp.246-247) 【引用】  ジャック・ハルバースタムはTrans*という著書のなかで自己のアイデンティティを説明しており、それは先のハンズブリーの図式では「ジェンダークィア」に近いものであるが、ハルバースタムはそこで、「数週間に一回、同僚や友人、学生から私が好む名前/代名詞は何かと尋ねるメールを受け取る」(Halberstam 2018: 153) エピソードに触れて、次のように応答している。  バートルビーのように、〔…〕私は、トランジションを目的地をもった過程として理解するような仕方でトランジションしないことを好む(prefer not to)。むしろ、〔…〕私は自分自身が永続的にトランジションの過程にあるものとして考えている。私は、カテゴリー的に曖昧なままであるものを明確にしないことを好む。(Halberstam 2018: 154)(pp.248-249) 【引用】  トランスが「私はこの名/アイデンティティを好む」と言うとき、その言語行為の裏面にはつねに「私はその名/アイデンティティで呼ばれることを好まない(原文傍点)(prefer not to)」という言語行為を潜在的に含んでいる。そして、トランスが「私はこの名/アイデンティティを好む」と語るのは、既存の規範的な言語体系──「前提の論理」──のなかでは自己が誤って表象されるからである。したがって、トランスの「好みの論理」には、バートルビーほどではないにせよ、「前提の論理」の破壊、あるいは少なくともそれへの抵抗が潜在している。あなたが私を彼/彼女と呼び、私を女/男扱いせずにすめばいいのですが(原文傍点)......。  このことは言い換えれば、私たちの「好み」のあり方を百パーセント言い当てる言葉やカテゴリーは存在しないことを意味してもいる。ジョルジョ・アガンベンの言葉を借りれば、バートルビー的「好みの論理」は「好ましいものと好まれないもののあいだに不分明地帯を開く」ものであり、それは「何かである(何かを為す)ことができるという潜勢力と、何かでない(何かを為さない)ことができるという潜勢力とのあいだの不分明地帯」であり、その不分明地帯は宛先のない「to」という「前方照応」によって指し示される(アガンベン二〇〇五:四三)。言明されるトランスの好み」、その「to」が宛先をもっていたとしても、その「prefer to」が潜在的に「prefer not to」を含むのなら、その「宛先」はいわば潜勢力に対する現勢力であって、したがって、その名「よりむしろ」(アガンベン二〇〇五:五一。強調原文)が存在することになる。(pp.250-251)
  • 7-はじめに 【引用】 (…)清水がここで問題にしているのは、「トランス女性が女性であれば、トランス女性はシス女性と同じ女性(原文傍点)だということになるのだろうか」という問いである。その問いを考える上で、「「トランス女性も女性です」という「単純化」は「まとめきれない様々な人々の声」をかき消してしまうのではないかと危惧する」鈴木の言葉を引きながら、清水は次のように述べている。  彼女が「私は女です」と名乗れない/名乗らないのは、シスジェンダー女性が服装や振る舞いに女性らしさを求められる経験、あるいはジェンダー規範への違和感を覚える経験と、トランスフェミニンな人々のそのような経験とは、同じものではない、と彼女が感じているからではないか。〈女性〉という語が圧倒的にシス女性の経験だけを指し示すものと理解されている現状で、その理解を保持したままそこにトランス女性の経験を「単純」にまとめてしまったら、彼女たちの経験の固有性はかき消されたままになってしまう、と。だとすれば、一見逆説的にみえるかもしれないが、私たちはこう考えるべきではないだろうか──「トランス女性は女性だ」と言うことは、トランス女性とシス女性とは同じ女性ではない(原文傍点)と言うことでもある。(清水二〇ニー:一五〇。強調原文)  ここで私が考察したいのは、同じことが〈トランス〉というカテゴリーにも言えることである。「あのトランスとこのトランスは違う」し、自らのありようを記述する言葉はその「個人的なもの」まで含めばリスト化が不可能なほど多様なものだろう。さらには、たとえその名/アイデンティティが「同じ」ものだったとしても、その個々の使用やニュアンスは異なることがある。つまり、その「名のなかにあるもの」は必ずしも「同じ」ではない。  たとえ、ある人と別の人が「同じ」名/アイデンティティを用いていたとしても、その人がその名に賭けているものとは一体何なのだろうか。「名のなかにあるもの」に想像力を働かせることは、その名/アイデンティティ、そしてそのなかに賭けられているものを「良い/悪い」と判断することではない。そのような「判断=判決(judgement)」は想像力を停止し、他者を攻撃する「道徳的暴力」へと容易にスライドする。「名のなかにあるもの」を想像することはむしろ、そのような力をこそ停止することで他者への倫理的構えを準備するものではないだろうか。(pp.226-227) 7-1 【引用】 (…)トランス排除派がしばしば言及する「生物学的女性」なるもの、その「生物学的」を保証するものは彼/女らにとって(原文傍点)紙(ルビ:ペーパー)──各種の証明書、例えば出生証明書とか戸籍、GID診断書──ということになる。もし、「GIDは良い/トランスは良くない」のなら、そして、トランスを排除して「生物学的女性」を定義するのなら、彼/女たちは身体の物質性について語りながら、実際にはいつも紙の話をしているのである。身体の問題を無視し、矮小化し、馬鹿にしているのは、トランス排除派の人たちの目にはトランス・アクティヴィストやクィア理論家に映るのかもしれないが、実は彼/女たちの方なのである。彼/女らにとって、身体とは紙である(原文傍点)。彼/女らは究極の言説構築主資者である(原文傍点)。(pp.233-234)
  • 6-おわりに 【引用】  以下に本章の最後で私が引用したいテクストは驚くべきことに二〇〇〇年頃に書かれたものだ。それは、Xジェンダーである森田MILKのテクストのなかにある「TG自助グループの約束事」という文章で、一九九七年からはじまった「TGブランチ」の自助活動のなかで得られた「約束事」を言語化したものであり、あるいはまさにその「約束事」はまさにそれ自体トランス的な「煉瓦」である。それが当時のコミュニティにおいて/向けて書かれたものであることは明白である。しかし、それをいま・ここで(本文傍点)引用することには明らかにそれ以上の(本文傍点)意味があるだろう。私は最後に、解説なるものを挟むことなく、その言葉をただ引用することでもって本章を閉じることにしたい。(pp.213-214) 【メモ】  上の文章に続いて、「TG自助グループの約束事」が引かれる。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~gfront/c-tr-ruru.html。最高のライフハックのように読める。
  • 6-3 【引用】  このように、蔦森は「〈男〉から限りなく遠ざかりたい」、「かといって、〈女〉になりたいわけでもない」のだが、その自分の「好きなスタイル」は他者から「〈女〉が表す何かに近いもの」として認知されてしまう。そしてここでさらに重要なのは、このようなことが単に「他者から見られる」という経験においてだけではなく、他ならぬ自己自身の感覚や認知においても生きられているということである。「身体に、自分の好きなイメージだけを組みつけたい。でも好きなイメージは、〈女の〉とされるもの、〈男の手がかりのない〉状態の数々にある。このバイアス以外のシナリオを知らない」(高森二〇〇一:一三四-一三五)。  それはバイアスである、しかし、そのバイアス以外のシナリオを私は知らない。それが社会的に構築されたものだとしても、私たちはそれからまったく自由に生きることはできない。だからこそ、「外見など取るに足らないこと、どうでもよいことだと、断定的に言う人たちを私は疑う」と蔦森は言う、「似合う似合わないという一見純粋な個人的感覚も、自分らしさという独立した思いも、実のところは生きていく過程で身に滲みこませてしまった、男と女は別のものであることを前提とする範囲内での選択にすぎない。〔…〕/そして、育ってしまった文化や人間の歴史の積み重ねに、私もまた巻きこまれている。この前提は私の中に巣喰っているものでもあるのだ」(蔦森二〇〇一:一二〇-一二一)。したがって、蔦森は次のように問いかけている。「どんなことであっても人は、そのイメージなくして形を保つことかができないのではないだろうか」(蔦森二〇〇一:一二二。強調引用者)。(pp.209-210)
  • 4-2 【引用】  これまで考察してきたサルトルの議論を敷行するならば、例えば医者が捉えるような生理学的、生物学的身体、あるいは、私たちが「客観的で物質的な身体」と考えているようなモノとしての身体は、「他者から見られたものとしての身体」であり、その極限的な抽象物であると言えるだろう。それは「認識の秩序」あるいは「時間的順序」から言えば最後にくるものであって、したがって厳密には所与の自然的実在と言うことはできない。たしかに、私たちの身体が生理学的、生物学的構造をもつことは明白だが、それは眼差しの結果=効果として知覚され、認識されるものなのである。(p.135) 【引用】  このファノンの記述が私たちにとって重要なのは、ファノンは自らの身体に「客観的な眼差し」を注ぐことではじめて自分の「肌の黒さ」を「発見した」という点である。先に確認したサルトルの用話に倣えば、ファノンの「黒い身体」は「対私的身体」においては現前しておらず、「対他身体」の次元においてはじめて現前するのだと言えるだろう。言い換えれば、ここでファノンは自らの身体を「白人の眼差し」で見ているのであり、ここで言われている「客観的な眼差し」とは実際には「白人の眼差し」のことなのである。ファノンが「自分自身の身体によって困らされる」のは「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」によってであり、この場合の「他者」とは「白人」であり、引いては「白人中心主義的な社会」そのものである。(p.137) 4-3 【引用】  鶴田が述べているところによれば、このトランス女性は他人から見れば十分にパスしている。それでも、Mさんは「かつて男だったときの自己」の「痕跡」を見出し、それゆえ「十分にパスできていない」と感じてしまう。このとき、「かつて男だった自己」を探り出すこのMさんの自己に対する眼差しは、具体的な他者よりもいっそう厳しい眼差しを向ける他者であると言えるかもしれない。(…)  サルトルが赤面恐怖症者に関して述べていたのと同様に、トランスは「自分自身の身体によって困らされる」のだが、その身体とは「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」であり、言い換えれば、他者の観点から自己の身体を見るときにトランスは「自分自身の身体によって困らされる」のである。そして、サルトルは「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」を「とらえられないもの」と特徴づけていたが、この「とらえられなさ」は、上でみたMさんの事例に顕著に現れていると言える。まさに彼女が躍起になって「かつて男だった自己」を探し出し、それを消去しようと努めるのは、「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」が私にとってはとらえ難いものだからである。実際、鶴田が観察しているように、「Mさんは、“理想があるわけではない”と私の予測を否定し、それは”漠然”とした"きりない”ものであると説明を加えている」(鶴田 二〇〇九:八九)。  性別違和とはサルトルの用語法に倣って言えば、「対私-身体」と「対他-身体」の不一致であると言えるかもしれない。しかしながら、「私にとってあるがままの私の身体」と「他者から見られたものとしての私の身体」との不一致が性別違和だと言うのであれば、それはまだ不十分な特徴づけである。というのは、すでにみたように、そのズレや不一致を誰よりも意識しているのはその当人自身だからである。まさに、この当人自身の不一致への違和や嫌悪が高まれば高まるほど、それはときに実際の身体的な性別移行を促していくのであり、ときにそれは整形手術をも促すものになる。だが、この私、すなわち、「私の身体」を誰よりも厳しくチェックしジャッジする「採点者」としての「私」、私の身体に「客観的な眼差し」を向ける超自我のような「私」とは、実は私ではない(原文傍点)のではないか。私のジェンダー化された身体をジャッジするために「客観的な眼差し」を向ける「私」とは、実は、ジェンダー規範的な社会という他者の代理であり、その体内化なのではないだろうか。性別違和の経験において、「他者の眼差し」は「自己の身体に対する私自身の眼差し」として内面化されているのではないか。性別違和とは「対私身体」と「対他身体」の不一致であるが、この「対他身体」は単に「他者から見られた私の身体」であるというだけでなく、「私が見る(原文傍点)ものとしての私の身体」でもあるのではないだろうか。(pp.140-142)
  • 4-4 【引用】 (…)男女という性別の「外部」という位置はアイデンティティや理解可能性を剥奪されることであり、「おぞましいもの」として排除されるということである。先に言及したMさんやLさんといったトランス女性がある意味では周囲の人から見れば必要以上にパスを追求するのは、「曖昧なジェンダー」──性別二元論から零れ落ち、「おぞましいもの」として排除される身体──の排除に対する恐怖や不安がその背景にあるからだと言えるかもしれない。  実際、鶴田は別のトランス女性であるIさんの経験の分析から次のように述べている。  Iさんは、”はっきり”わかっていたのは男であることに対する“違和感”や”苦しさ”だけであり、そこからは"返す刀の反作用でそのまま足が前に行く"ようにして性別の変更を進めていったのだという。しかし、Iさんは”ニュートラルなところまでいければ”よいというところでは、とどまることができなかった。つまり「端的な女の外見」を手に入れるところまで、行き着かざるをえなかったのである。これがまさに”中途半端な”外見に対して向けられる威圧的なまなざしの効果である。〔…〕”女装”や”中途半端”という「ふつう」ではない外見をしていることに対するまなざしは威圧的だと感じられるものであり、そのまなざしを向けられる側に、あら種のいたたまれなさを生み出させる。(鶴田二〇〇九:八三)  「他者の性別を判別する」眼差しは、それを向けられた人の性別を構成するだけでなく、威圧的なものとしても働く。それは、「中途半端で曖昧なジェンダー」にあからさまな「敵意」を向けるのだ。ゲイル・サラモンはエイダンという胸を切除したトランス男性の写真表象を論じるなかで、同様のことを指摘している。「外見に対する不快感という彼の内的な感覚は〔…〕拡張され、彼の身体から外的世界の眼差しにまで展開される。その眼差しはジェンダーの曖味さにあからさまに敵意を向けるものであり、それは彼のジェンダー化された自己の感覚の一部として内面化され、体内化されるのである」(Salamon 2010:117、サラモン 二〇一九:一八八)。(pp.149-150) 【引用】  この節の最後に付言しておくことがあるとすれば、このような「対-他身体」の次元をある種の「思い込み」として──「意識のもち方」によって変更可能なものとして──考えることはできないということだ。エピグラフにも引いたように、たかぎはトランス当事者の立場から「身体はもはや「意味抜き」では存在し得ないのではないだろうか。なぜなら、私たちは生育上、意味があるものと教育され、刷り込まれている。身体はもはや「ただそこに在る」ことを許されない」(ROS 二〇〇七:六五)と述べている。身体に付された社会的なイメージや意味はたしかに変化しうるだろう。だが、それでも、身体に社会的な意味が付されることそれ自体から私たちは決して逃れることはできない。身体とはつねにすでに意味づけられており、それゆえ、私たちは身体に向けられ、それに意味を付与する眼差しそのものから降りることはできないのだ。サルトルが述べているように、「他者から見られたものとしての私の身体」は「対私-身体」と同じだけの「実在性」をもつのである(Sartre 2017:477)。このような「身体の意味」から「降りろ」という無茶な要求がときにトランスに求められることがあるが、バトラーが言うように、「文化的な生存可能性を達成するための構成的制約を根本的に克服せよという要求は、それ自体、暴力の一形式だと言えるだろう」(Butler 2011:79)。(pp.151-152)
  • 3-3 【引用】  ジュリア・セラーノがシスセクシズムと呼んだものはまさにこの「格下げ」の例だろう。「トランスセクシュアルが主に直面する障壁は、単に、私たちが「間違った身体」に生まれたということではなく(…)、むしろ、私たちのジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー表現、そして性別の身体性といったものが概して、シスセクシュアルのそれらよりも正当ではない、自然ではないものとして見られるということだ」(Serano 2013: 114)。このようなシスセクシズムはいまや、トランス排除的言説においてしばしば出くわすものであり、そこではとりわけトランス女性が標的にされている。「生物学的女性/男性」「身体男性」「男体持ち」といった、トランス排除派の人たちがよく用いる言葉は明らかにトランス女性の実存やアイデンティティをシスのそれよりも「劣ったもの」として「格下げ」するために使用されている。そして明示的ではない仕方で、しかしその裏で確実に、トランス男性的主体の実存もまた「寸断されて」いる。例えば、トランス排除的ラディカル・フェミニストたちが「身体男性/女性」という用語を使って、トランスを定義し、その実存を「格下げ」するそのとき、トランス男性的主体は「身体女性」に還元されることになる。いわば、トランス男性的主体はトランスフォーブにとって「姉妹」なのであり、その「友愛」の影でトランス男性性は抹消されているのである。それはトランス女性に対して明示的に攻撃的に働く言説とは別の仕方で、しかし同時に進行している「格下げ」である。(p.120) 【引用】  「格下げ」が生じるのは私たちを形成するところの身体イメージがワイスが言うところの「身体イメージ理想」によって構造化されているからである。身体イメージは当然「イマジナリーな領域」だが、それはまたバトラーが言うように、ヘゲモニックなものだ。実際、コーネルは中絶やポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメントの議論においていかに女性が「格下げ」を絞るかを通じているが、そこで彼女が共通して指摘していることは、「イマジナリーな領域」が「白人男性のイマジナリー」によって構成されていることであり、その下でいかに女性の存在が「格下げ」されるかである。そして、この「格下げ」はまた、シスノーマティヴィティによって構造化されたイマジナリーによっても生じるのである。  コーネルはこのような「格下げ」に反対し、その「格下げ」から保護されるための条件を、「個体化のためのミニマルな条件」と彼女が呼ぶものに訴える。それが意味するところは「身体的統合性」である。すでに述べたように、コーネルはこの「身体的統合性」をラカンの鏡像段階論から導き出しており、したがって「身体的統合性」は一種のファンタジーであり、厳密に言えば「身体」とは「私のもの」ではない。それは、「社会的紐帯、象徴的関係、原初的自己同一化の所与の網の目から一貫性のある自己の意味と自己のイメージを紡ぎ出すことによってようやく可能になる達成物」であり、したがって本性的に「極端に脆い」ものである(コーネル二〇〇六:五一)。しかし、だからこそ、「身体的統合性」は「保護」される必要があるのだ。(pp.121-122) 【引用】  身体イメージは明らかに、「ひとつ」ではない。私たちはこの社会のなかで、それとの関係のなかで、それぞれに固有の仕方で様々な身体イメージを現に生きている。胸の膨らみが嫌悪の対象であるため切除したい人もいれば、男性的なジェンダーないしノンバイナリーを生きたい人でも胸の存在がそれほど気にならない人もいるだろう。しかし、それでも、それらの多種多様な身体イメージは、社会的規範のなかで「バラバラに」切り刻まれるのであり、「非典型的な」身体として「格下げ」される。「わたしの身体はわたしのもの」──それはこのような状況下で振り絞られる叫び声である。 (…)  「わたしの身体はわたしのもの」その主張は自分の身体に対して単に所有権を主張するものではない。それはコーネルの言葉を借りれば、「一つの自己としての生き残りのために依拠している未来の他性の承認」(コーネル二〇〇六:五四 - 五五)を要求する主張なのだ。「わたしの身体はわたしのもの」と主張しなければならない人の身体が「わたしのもの」として守られるためには、現行の規範──「わたしの身体」を「非典型的なもの」として「格下げ」する規範──の批判的解体を必要とするのであり、したがって、自分の身体が「わたしのもの」として十分に承認される「未来の他性」を要求する。私たちの「アクロパットで面倒な作業」──自らの身体と対話しながら、この身体をいかに生きるかを模索する試み──が語り、要求しているのは、「未来」──そこでなら呼吸できる、そこでなら自らの身体が寸断されることなく承認される、そのような未来──である。(pp.123-124)
  • 3-2 【引用】 (…)ルービンはトランスの「性別違和」をシスジェンダーの「性別役割拒否」や「ジェンダー規範への嫌悪」と同一視することに反対していると言える。それは確実に必要な主張だろう。というのは、たしかに、トランスの「性別違和」とシスジェンダーの「性別役割拒否」とは同じではないし、そのような同一視はトランスの経験の固有性をシスジェンダーが横領するよくある手口のひとつであるからだ。しかし、両者に差異があるにしても、果たして、それらをあたかも異なる実体であるかのように、まったく別々に、完全に切り離すことは本当にできるのだろうか。むしろ、そこには「差異」と同時に「連続性」もまたあるのではないだろうか。(p.110) 【引用】  るぱん4性にとって、「GID」とは、性別違和を「疾患」や「病気」とみなし、「トランス女性/男性ならこうであるべき」と本質主義的に規定する認識枠組みとして考えられている。るぱん4性自身が述べている例で言うと、例えば、「トランスなら、まんこが嫌いで当然だ(まんこが嫌いじゃないトランスはトランスじゃない)」(ROS 二〇〇七:四一)といったナラティヴがそれである。それは吉野靫が言うところの「GID規範」と言ってもいいだろう。「GID規範」とは、「本物のGIDであるならこう振る舞うべきだとか、パスするためにこういう努力をすべきだとか、髪型や服装が「らしくない」だとか、まさに一挙手一投足にまで及ぶ規範」(吉野 二〇二〇:五九 - 六〇)のことである。したがって、「GIDなんか」というるぱん4性の表現からは、自分の身体への違和を本質主義的なものとして語ること/語られることへの拒絶を読み取ることができる。そして、るぱん4性の言う「美的センス」とは、この私の身体を社会や規範といった「大きな物語」による意味づけではなく、「私特有の」(ROS 二〇〇七:一五九)意味づけをすることであると言える。「それは別に他人に示さなくてもいい、自分さえ納得し、自分を揺るがせる脅威から守れたらいい、そういうものだった」(ROS 二〇〇七:一五九)。  「美的センス」というるぱん4性の言葉にはその言葉が与える印象よりもずっと、自らの生存に切迫したものが賭けられている。実際、るぱん4性自身、次のように述べている。  私が自分の身体感覚を、自分自身を、取り戻したいと思ったのは、満ち溢れる自己否定感に悩まされたからだと思う。逃げ場のない思考・襲ってくる自己嫌悪・心身症・鬱・自殺額望、自分のことを認めらくても認められない。社会通念として認められないあり方。私は自分の物差しを持つことを許されていなかった(自分でも許してなかった)。  死なないで生きていこうと思った時、私はあらゆる価値観を捨てて、社会や世間を敵に回しても、ホントの意味で、楽になろうと決心できた。(ROS二〇〇七:四五)  「美的センス」と呼ばれているものはここでは「自分の物差し」と言い換えられていると言ってもいいだろう。そして、その「自分の物差し」は社会からも、そして自分からも「許されていなかった」ものである。そして、その「物差し」の否定が「自分の身体感覚」そして「自分自身」の否定をもたらすのであり、まさに「バラバラに寸断される」のである。  るぱん4性はそのエッセイのなかで「自分の美的センスからのものだ」と思えるようになった一因に「まんこを省みることで共存が可能になったこと」が挙げられている。その語りのなかで、るばん4性は、「わたしにとって一旦拒否することは、山盛りに積まれた身体に対するイメージ、意味を解体して、自分にとっての意味をつけなおす過程の一つだったと思うんだ」(ROS 二〇〇七:四三)と述べている。「いったん拒否すること」──それはおそらく、「女性器」への嫌悪だけでなく胸の切除を含むように思われる──は単なる拒絶や破壊ではなく、「自分にとっての意味をつけなおす過程の一つ」であり、新たな身体イメージの再構築に結びついているのであり、あるいはワイスが言うように、身体イメージとはこのような「構築/破壊/再構築」の過程のなかにある。したがって、るぱん4性は、自分で自分の身体に「私特有の」「意味をつけなおす」その過程を、「美的センス」という言葉で表現しようとしていると言えよう。そして、「取ってからしばらくして、イヤだったのはGIDなんかではなくて、自分の美的センスからのものだと思うようになった」という語りは、「胸」や「まんこ」への「拒否」、そしてその「共存」のための「再構築」を通して、自分の身体を「私のもの」としてより受け入れることが可能になったことを意味するだろう。(pp.114-117)
  • 3-1 【引用】 先に述べたように、「私」と「私の身体イメージ」のあいだにはつねに「距離=隔たり」が存在する。言い換えれば、「私」と「私の身体イメージ」がぴったりと一致することはありえない、それは、そのイメージがつねに主体にとって空間的、時間的に「外在的なもの」であるからだ。主体は自己自身から疎外を運命づけられており、ラカンの言葉で言うところの「誤認」を逃れられない。バトラーの言葉を借りれば、それは「私たちが生きることを強いられた錯乱」(Butler 2011: 57)である。そう、「私の身体」は「私のもの」ではありえない。しかし、ここでラカンの鏡像段階論に関して疑問なのは、「バラバラに寸断された身体イメージ」が「身体の全体的形態」へと(たとえそれが誤認や疎外を免れないにせよ)統合されるとき、そこで言われている「身体の全体的形態」とは何なのか。それはいわば、どんな身体をモデルにしているのか。あるいは、「誤認」や「疎外」があらゆる主体において普遍的に生じるにしても、それらはあらゆる主体において等価に生じるのか。「バラバラに寸断された身体イメージ」から「身体の全体的形態」ヘ──ラカンの鏡像段階論の記述はそのような推移を辿る。ラカンの記述は幼児の生活世界を直接的に記述したかのような印象を与えるものだ。そして、「身体の全体的形態」と呼ばれるものはいわばフラットな、つまり人種もジェンダーも障害もないような「人間=男(man)」をモデルにしているようにみえる。(pp.101-102) 【引用】 「非規範な身体」を生きる者にとって「諸々の物質性の生きられた意味」の「創造」や「変換」は「生存」の問題であり、言い換えれば、そのような「創造」や「変換」といった「アクロバットで面倒な作業」は、「わたしの身体」が社会によって「バラバラに寸断されて」しまう状況下においてなされるのである。(p.108)
  • 2-3 【引用】  ところで、社会や国家が要請する身体とは、単なる「物質的な身体」ではありえない。それは「物質的なもの」という見せかけをとりながら、実際には象徴的に規範化された身体イメージを強いる。実際、榎本が語っているように、「生身のからだ」は「「国家」がわたしに要求する「女性」」(榎本 二〇一七:一四二)(ないし「男性」)、あるいは「「社会」や「国家」仕様の性別」(榎本 二〇一七:一四二)に曝されつづける。バトラーの「物質化」という概念は、いかに特定の身体のあり方が「物質的なもの」として形成され、理念化されるかを考察するために導入された概念である。それは一方では、どんな身体が「物質的なもの」、「自然な身体」として規範化されるかを示すものであり、他方では、そのような「物質化」の過程においてどのような身体が「構成的な外部」として排除されているかを示すための概念である。言い換えれば、身体とは、規範的な「物質化」とそこから排除されたオルタナティヴな想像的身体とのあいだの緊張を生きるのである。「身体の輪郭と形態は、心的なものと物質的なものとのあいだの還元不可能な緊張に単に巻き込まれているのではなく、むしろ、その緊張である」(Butler 2011: 36 強調原文)。榎本の「生身のからだ」(及びそれに対する社会の眼差し)と「書く行為」において生起する「普段うっとうしく感じていた肉体とは違う肉体」との関係はまさにこの「緊張」を示しているように思われる。(p.87)
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