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( ᵕ ᵕ̩̩ )
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@carlymatsushita
お気に入りの箇所を引用して残しておくことが多いです。ネタバレ注意です!
  • 2026年2月21日
    体の居場所をつくる
  • 2026年2月20日
    アンチ・オイディプス(下)
    アンチ・オイディプス(下)
  • 2026年2月20日
    アンチ・オイディプス(上)
    アンチ・オイディプス(上)
  • 2026年2月17日
    世に棲む患者
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  • 2026年2月16日
    捕食 欲望をカネに変えるトクリュウ型犯罪集団「ナチュラル」の闇
    捕食 欲望をカネに変えるトクリュウ型犯罪集団「ナチュラル」の闇
  • 2026年2月10日
    アセンブリ
    アセンブリ
  • 2026年2月10日
    触発する言葉
    触発する言葉
  • 2026年2月9日
    百年の誤読
    百年の誤読
    紙のものを買いました。
  • 2026年2月8日
    ノット・ライク・ディス
  • 2026年2月8日
    ノット・ライク・ディス
    終章 【引用】  「私は自分の身体を愛することができるか」という問いはトランスの人たちにとって自らの実存に差し迫る問いである。性別違和を経験するトランスにとって「私の身体」は「困ったからだ」としてあり、それを「愛する」ことは難しい。しかし、「私」はこの(原文傍点)身体──身体の形を変えるにせよ変えないにせよ──を生きる以上、自分の身体となんらかの形で「和解」する必要がある。そうでなければ、「私」の生存は困難になってしまうだろう。ところで、ここで同時に指摘しておきたいことはその問いがトランスの人たちにのみ完全に閉じたものでもないということである。実際、「典型的な身体」ではない身体を生きる人たちにもこの問いは切迫した問いであって、例えば、異性愛男性中心主義的社会のなかで性的対象化を被る女性、ルッキズムにさらされる人たち、障害を抱える人たち、人種的マイノリティの人たちにとってもそうであろう。  身体とそれに対する愛の問題は、身体が物質的な所与としてあるにもかかわらず身体を「単なる物質的な所与」には還元できないという事実を突きつける。私たちは身体を「ありのままに」愛することなどできない。冷静に考えれば、それは奇妙な事実である。私たちはこの身体でしかありえず、身体そのものを選ぶことなどできない──程度の差はあれ、身体の形態を変容することはできるにせよ。それなのに、その身体への愛は自然には発生しない。それは、ある「身体の形」が「理想的」とされる社会的な規範が存在することと明らかに関係しているだろう。その規範的枠組みのなかで、細部の身体部位にいたるまで意味づけられ、価値づけられているのである。「私」の身体、その身体イメージは、そのような規範のなかで、その下で、あるいはそれとの「交渉」のなかで、形作られるものである。  「私は自分の身体を愛することができるか」という問いがまずなによりも個人的(原文傍点)なものであるのは、当然、「私」という個人の身体に関わるものだからだ。それは、厳密に(原文傍点)個人的なものである。身体イメージが他者との関係や社会的世界との関わりのなかで形成されるものであるとしても、身体イメージは決して画一的に形成されるものではなく、この私(原文傍点)という個別性をもつのであり、そのイメージは各個人において異なって生きられるものだ。性別違和はそのようなイメージと現実の身体とのギャップにおいて生起するのであり、それが身体を愛することを困難にする。(pp.256-257) 【引用】  身体を愛することは単なる「認識」の問題ではない。性教育の言説も、ラディカルな社会構築主義の言説も、あるいはボディ・ポジティブの言説も、「ときには効かない日がある」。ジェンダー規範をはじめとした社会的規範のなかを生きる私たちは程度の差はあれ、その規範のなかで自らの感性を形成してしまう。その規範はいわば身体化されるのであって、単なる認知の問題として片づけることはできないだろう。実際のところ、私たちはそのような規範との「交渉」のなかで、上手くいけばなんらかの折り合いをつける、あるいは折り合いをつけようと試みる。各個人において多様に行われるそのような「折り合い」や「和解」の試みはまさしく「自分の身体を愛する」ための作業である。「私は自分の身体を愛することができるか」という問いが個人的な(原文傍点)問いであるのは、自分の身体を「ありのままに」愛することの困難を前に、それでも自らの身体となんらかの仕方で折り合いをつけ、和解するための、その人自身の実存に差し迫った問いであるからだ。(p.258) 【引用】  したがって言い換えれば、「私」の身体への愛の困難に直面することは、どんな身体が「愛するに値する身体」としてカウントされるのか、どんな身体が「愛されるに値しない」「おぞましいもの」として排除されるのか、その規範に対峙することでもある。バトラーが述べているように、「直面すること(coming up against)」は「身体を定義する様態」である(Butler 2009: 34)。なぜなら、「身体が不可避的に外部の世界に直面しているということは、他者に、そして自分ではコントロールできない状況に、意図せずして近接してしまっていることの一般的な苦境のしるしである」(Butler 2009: 34) ことを意味し、身体が根本的に社会的世界に曝されたものとして存在することを意味しているからである。そのとき、トランスジェンダーらの〈違和〉の経験はこの「苦境」をとりわけ開示するものだと言えるだろう。それは、どのような身体が規範的な身体として「カウント」され、どのような身体が「非規範的な身体」として排除されているのか、それらを規定している社会的規範に直面することである。「私は自らの身体を愛することができるか」という問いはこの意味で政治的な問いでもあるのであり、私が自らの身体を愛することができないとき、その愛の困難は、この社会的世界への批判や抵抗を、また、〈いま・ここ〉ではない別の世界の希求を、潜在的に孕んでいるのである。そのような困難に直面しながら、しかし現に多くのトランスの人たちはそれぞれの仕方で自らの身体と折り合いをつけながら、あるいは折り合いをつけようと試みなから、生きている。自らの身体と折り合いをつける、その愛の技法は、ある身体を「おそましいもの」として排除する〈いま・ここ〉の社会的世界とは別の世界の可能性をいわば先取りしごいろのである。いわば、この世界こそがトランスの人たちから愛の技法を学ぶべきたのだ(原文傍点)。(pp.260-261) 【引用】  このような点を考える上で、町田の〈器〉をめぐる議論をメルロ=ポンティの身体論と接続させてみることには意味があるだろう。実際、町田が〈器〉の概念──それは「自らの未分化な感覚をおさめるような」「身体感覚に根差した概念」である──を対人関係を包含する間主観的なもの(あるいは間身体性)としても記述していたが、同様に、メルロ=ポンティにとっても、他者は「私に付きまとう」ものである。彼は『眼と精神』で次のように述べている。「ここで身体といっても、それは情報機械だと言っても差し支えないような〈可能的身体〉のことではなく、私が〈私の身体〉と呼ぶ現実の身体、私が話したり行為したりする際にいつも黙って立ち会っている見張番のようなこの身体のことである。そして、この私の身体とともに、多くの共同的身体(原文傍点)、つまり「他人」もまた蘇ってくるに違いない。〔…〕ここでいう「他人」とは、それが私に付きまとい、また私が彼らに付きまとい、そして私が彼らとともにただ一つ現存する現実的存在に付きまとう、といったものなのである」(メルロ=ポンティー九八六:二五五。強調原文)。町田とある意味では同様に、ここでメルロ=ポンティが指摘しているのは、他者は「私の身体」に「付きまとう」ということであり、したがって町田の言葉を借りれば、他者は私の「未分化な感覚をおさめる」〈器〉でありうるのであり、あるいは端的に言えば「私の身体」とは「間身体的なもの」である。ところで、メルロ=ポンティはここでは明確に述べてはいないが、「私の身体」が他者が「付きまとう」ものとして存在するのなら、その他者に「私の身体」が受け止められるか拒絶されるかは「私の身体」そのもの、その身体感覚を安定させたり揺り動かしたりするものでありうる。そして、そのような他者との絡み合いや付きまといにおいて、その他者の「受け止め」は社会的規範に構造化されてもいる。したがって、私たちはその他者の背景にある「世界」自体との連絡を問わざるをえない。(pp.267-268) あとがき 【引用】  「理論」は私にとって「生きた言葉」であり、「生き延びるために絶対に必要な言葉の織物」だ。フェミニズムの、クィアの、トランスの「理論」は明らかに私の生を押し拡げ、背中を押してくれた。「生」と「理論」を切り離す考えを、私は嫌悪し、そのような考えに全力で反対する。「理論家」とは「一部の専門家」のことではない。とりわけ、社会のなかでマイノリティとされる人たちは、自己のその「非規範的な」生を生きるために、学問的であろうとなかろうと、なんらかの「理論」を必要とする。(pp.276-277)
  • 2026年2月8日
    知覚の現象学(2)
    知覚の現象学(2)
  • 2026年2月8日
    知覚の現象学(1)
    知覚の現象学(1)
  • 2026年2月8日
    帰れない探偵
    帰れない探偵
  • 2026年2月8日
    ノット・ライク・ディス
    7-3 【引用】  ここで、ゲイル・サラモンが理論化している「違和連続体」に関する議論を参照したい。サラモンは、個々のトランスが抱える違和のその差異は「質的差異」ではなく、「程度の差異」であると述べている。「違和」は「身体の外形に依拠しているのではなく、自分自身の身体の/についての/における感じに依拠している」のであり、「違和連続体」は「マイルドな不快感からトランスセクシュアルの身体改造への強い衝動まで」の身体の「感じられ方」のその「程度」や「グラデーション」の差異を記述する概念である(Salamon 2010: 164)。言い換えれば、この違和は、はっきりとした「質的差異」、安易な分節化を拒むものであり、「違和連続体」は個々のトランスが生きる違和の内実に肉薄しようとするための概念であるとともに、違和のあいだに優劣や順位のようなものを設定する政治に抗おうとするものでもある。そして、違和が安易な分節化を拒むものであるなら、それだけいっそう個々のトランスが自分に「しっくりくる」と感じる名もまた多種多様であるだろう。  グリフィン・ハンズブリーは「トランス男性連続体(transmasculine spectrum)」を、「woodworker/transman/genderqueer」のグラデーションとして捉えている(…) 。"woodworker"は日本語で言うところの「埋没系」に当たり、それはただの男 (just a man)」と記述される。つまり、「woodworker/埋没系」は自らを「トランス」とは記述しない。彼らは「ただの男」なのであって、日常生活においてトランスであること、かつて「女性」として社会的に割り当てられていたことを公的に表明せず、そして実際に「男」としてパスし、「埋没」して生活している。これに対して、「ジェンダークィア」は「私をラベルで留めるな」という標語にまとめられ、「分類を拒む」人たちと形容され (Hansbury 2005: 256)、「トランス男性連続体」のなかでももっとも「曖昧さを受け入れる(embrace ambiguity)」極として考えられていぶ(Hansbury 2005: 258)。そして最後に、「トランス男性」は「woodworker /埋没系」と比較すればその「トランス(原文傍点)男性」を引き受ける点に、そして「ジェンダークィア」と比べて「トランス男性(原文傍点)」を引き受ける点に違いがある(Hansbury 2005: 255)。(pp.246-247) 【引用】  ジャック・ハルバースタムはTrans*という著書のなかで自己のアイデンティティを説明しており、それは先のハンズブリーの図式では「ジェンダークィア」に近いものであるが、ハルバースタムはそこで、「数週間に一回、同僚や友人、学生から私が好む名前/代名詞は何かと尋ねるメールを受け取る」(Halberstam 2018: 153) エピソードに触れて、次のように応答している。  バートルビーのように、〔…〕私は、トランジションを目的地をもった過程として理解するような仕方でトランジションしないことを好む(prefer not to)。むしろ、〔…〕私は自分自身が永続的にトランジションの過程にあるものとして考えている。私は、カテゴリー的に曖昧なままであるものを明確にしないことを好む。(Halberstam 2018: 154)(pp.248-249) 【引用】  トランスが「私はこの名/アイデンティティを好む」と言うとき、その言語行為の裏面にはつねに「私はその名/アイデンティティで呼ばれることを好まない(原文傍点)(prefer not to)」という言語行為を潜在的に含んでいる。そして、トランスが「私はこの名/アイデンティティを好む」と語るのは、既存の規範的な言語体系──「前提の論理」──のなかでは自己が誤って表象されるからである。したがって、トランスの「好みの論理」には、バートルビーほどではないにせよ、「前提の論理」の破壊、あるいは少なくともそれへの抵抗が潜在している。あなたが私を彼/彼女と呼び、私を女/男扱いせずにすめばいいのですが(原文傍点)......。  このことは言い換えれば、私たちの「好み」のあり方を百パーセント言い当てる言葉やカテゴリーは存在しないことを意味してもいる。ジョルジョ・アガンベンの言葉を借りれば、バートルビー的「好みの論理」は「好ましいものと好まれないもののあいだに不分明地帯を開く」ものであり、それは「何かである(何かを為す)ことができるという潜勢力と、何かでない(何かを為さない)ことができるという潜勢力とのあいだの不分明地帯」であり、その不分明地帯は宛先のない「to」という「前方照応」によって指し示される(アガンベン二〇〇五:四三)。言明されるトランスの好み」、その「to」が宛先をもっていたとしても、その「prefer to」が潜在的に「prefer not to」を含むのなら、その「宛先」はいわば潜勢力に対する現勢力であって、したがって、その名「よりむしろ」(アガンベン二〇〇五:五一。強調原文)が存在することになる。(pp.250-251)
  • 2026年2月7日
  • 2026年2月5日
    ノット・ライク・ディス
    7-はじめに 【引用】 (…)清水がここで問題にしているのは、「トランス女性が女性であれば、トランス女性はシス女性と同じ女性(原文傍点)だということになるのだろうか」という問いである。その問いを考える上で、「「トランス女性も女性です」という「単純化」は「まとめきれない様々な人々の声」をかき消してしまうのではないかと危惧する」鈴木の言葉を引きながら、清水は次のように述べている。  彼女が「私は女です」と名乗れない/名乗らないのは、シスジェンダー女性が服装や振る舞いに女性らしさを求められる経験、あるいはジェンダー規範への違和感を覚える経験と、トランスフェミニンな人々のそのような経験とは、同じものではない、と彼女が感じているからではないか。〈女性〉という語が圧倒的にシス女性の経験だけを指し示すものと理解されている現状で、その理解を保持したままそこにトランス女性の経験を「単純」にまとめてしまったら、彼女たちの経験の固有性はかき消されたままになってしまう、と。だとすれば、一見逆説的にみえるかもしれないが、私たちはこう考えるべきではないだろうか──「トランス女性は女性だ」と言うことは、トランス女性とシス女性とは同じ女性ではない(原文傍点)と言うことでもある。(清水二〇ニー:一五〇。強調原文)  ここで私が考察したいのは、同じことが〈トランス〉というカテゴリーにも言えることである。「あのトランスとこのトランスは違う」し、自らのありようを記述する言葉はその「個人的なもの」まで含めばリスト化が不可能なほど多様なものだろう。さらには、たとえその名/アイデンティティが「同じ」ものだったとしても、その個々の使用やニュアンスは異なることがある。つまり、その「名のなかにあるもの」は必ずしも「同じ」ではない。  たとえ、ある人と別の人が「同じ」名/アイデンティティを用いていたとしても、その人がその名に賭けているものとは一体何なのだろうか。「名のなかにあるもの」に想像力を働かせることは、その名/アイデンティティ、そしてそのなかに賭けられているものを「良い/悪い」と判断することではない。そのような「判断=判決(judgement)」は想像力を停止し、他者を攻撃する「道徳的暴力」へと容易にスライドする。「名のなかにあるもの」を想像することはむしろ、そのような力をこそ停止することで他者への倫理的構えを準備するものではないだろうか。(pp.226-227) 7-1 【引用】 (…)トランス排除派がしばしば言及する「生物学的女性」なるもの、その「生物学的」を保証するものは彼/女らにとって(原文傍点)紙(ルビ:ペーパー)──各種の証明書、例えば出生証明書とか戸籍、GID診断書──ということになる。もし、「GIDは良い/トランスは良くない」のなら、そして、トランスを排除して「生物学的女性」を定義するのなら、彼/女たちは身体の物質性について語りながら、実際にはいつも紙の話をしているのである。身体の問題を無視し、矮小化し、馬鹿にしているのは、トランス排除派の人たちの目にはトランス・アクティヴィストやクィア理論家に映るのかもしれないが、実は彼/女たちの方なのである。彼/女らにとって、身体とは紙である(原文傍点)。彼/女らは究極の言説構築主資者である(原文傍点)。(pp.233-234)
  • 2026年2月3日
    ノット・ライク・ディス
    6-おわりに 【引用】  以下に本章の最後で私が引用したいテクストは驚くべきことに二〇〇〇年頃に書かれたものだ。それは、Xジェンダーである森田MILKのテクストのなかにある「TG自助グループの約束事」という文章で、一九九七年からはじまった「TGブランチ」の自助活動のなかで得られた「約束事」を言語化したものであり、あるいはまさにその「約束事」はまさにそれ自体トランス的な「煉瓦」である。それが当時のコミュニティにおいて/向けて書かれたものであることは明白である。しかし、それをいま・ここで(本文傍点)引用することには明らかにそれ以上の(本文傍点)意味があるだろう。私は最後に、解説なるものを挟むことなく、その言葉をただ引用することでもって本章を閉じることにしたい。(pp.213-214) 【メモ】  上の文章に続いて、「TG自助グループの約束事」が引かれる。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~gfront/c-tr-ruru.html。最高のライフハックのように読める。
  • 2026年2月2日
    ノット・ライク・ディス
    6-3 【引用】  このように、蔦森は「〈男〉から限りなく遠ざかりたい」、「かといって、〈女〉になりたいわけでもない」のだが、その自分の「好きなスタイル」は他者から「〈女〉が表す何かに近いもの」として認知されてしまう。そしてここでさらに重要なのは、このようなことが単に「他者から見られる」という経験においてだけではなく、他ならぬ自己自身の感覚や認知においても生きられているということである。「身体に、自分の好きなイメージだけを組みつけたい。でも好きなイメージは、〈女の〉とされるもの、〈男の手がかりのない〉状態の数々にある。このバイアス以外のシナリオを知らない」(高森二〇〇一:一三四-一三五)。  それはバイアスである、しかし、そのバイアス以外のシナリオを私は知らない。それが社会的に構築されたものだとしても、私たちはそれからまったく自由に生きることはできない。だからこそ、「外見など取るに足らないこと、どうでもよいことだと、断定的に言う人たちを私は疑う」と蔦森は言う、「似合う似合わないという一見純粋な個人的感覚も、自分らしさという独立した思いも、実のところは生きていく過程で身に滲みこませてしまった、男と女は別のものであることを前提とする範囲内での選択にすぎない。〔…〕/そして、育ってしまった文化や人間の歴史の積み重ねに、私もまた巻きこまれている。この前提は私の中に巣喰っているものでもあるのだ」(蔦森二〇〇一:一二〇-一二一)。したがって、蔦森は次のように問いかけている。「どんなことであっても人は、そのイメージなくして形を保つことかができないのではないだろうか」(蔦森二〇〇一:一二二。強調引用者)。(pp.209-210)
  • 2026年2月2日
  • 2026年1月29日
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