
DN/HP
@DN_HP
2026年4月17日
地球へのSF
日本SF作家クラブ
読んでる
先日読んだ粕谷知世「独り歩く」という一編がとても素晴らしかったから、そこで一旦満足して枕元に積んでいたSF短編アンソロジー『地球へのSF』を眠れない夜にまた開いてみる。
「独り歩く」の次に収録されていた関元聡「ワタリガラスの墓標」がまた素晴らしいというか今の状況にも寄り添ってくれる、と思ってしまうような一編で、これもまた繰り返し読んでいるから、またその先には進めなくなってしまっているのだった。アンソロジーはいつもそんな風に読んでしまう。しまうというか、そんな風に読むのがあっている気がしている。この二編は今繰り返し読みたい短編小説だとも思っているし。
SFが未来を描くとき、それがどんなものにせよ、そこに、この先に未来が「ある」と想像している時点で、それはポジティブなものだと思っている。あるいは、そこには希望が書かれている、と思い込んで読んでいる。
温暖化の影響で海面が上昇し可住地を含む多くの土地が水没している少し先(百年くらい?)の未来、南極でも氷が溶け出しその下の乾いた大地、本来の地表が姿を表している。
その未来の南極の国連基地で活動する、エンジニアと生物学者。危機的状況の世界の中で、一方は新たに出現した土地とそこに眠る地下資源に、それらを巡る新たな人間同士の争いの芽を諦観しながら見つめている。もう一方は、その土地を生命の「フロンティア」と言い、感情論ではなくアカデミックの知見から新しい生態系の全く新しい世界を想像し、文字通りの意味でも種を蒔く。
「もうすぐ......ここは戦場になる。この浜から、たくさんの兵士が上陸して……私が蒔いた種子を軍靴につけて、大陸中に拡げるの。そして……」
利己と利他、想定出来る近い将来と想像を必要とする遠い未来。現実と理想。どちらも人が持ち得るものだけれど、前者を想定した上で後者を想像する。苦境のなかから改善を見出す、現在の最悪から未来の理想を見通す。そこに、その姿勢に、その想像力のなかに希望というものはあるのではないか。
SF小説は想像力を使ってその希望を、わたしたちが辿り着けないかもしれない未来の誰か、あるいはヒトではないなにものか、アンソロジーのタイトルを考えれば地球のためにも見出し、アラスカ・インディアンやアイヌ、エンジニアと生物学者のルーツがかつて物語っていた「神話」のように、わたしたちの前で新たに語り直すのだ。
わたしがここにある、と思っているような想像力と希望を持ち得るのかといえば、心許ないし自信もないのだけれど、一旦こんな風に言い切ってしまってから、またこの短編の頁を開いてみようと思う。そこにある希望を、想像力を、物語の外に、現在の現実のこの世界にも持ち出せるように丁寧に大切にもう一度読んでみる。やはり、わたしは今、未来を描いたSF小説をそんな風に読みたいのだった。



