
たけうち
@von_takeuchi
2026年4月18日
中動態の世界
國分功一郎
読み終わった
ここ最近、いや、ここ三年ほどのあいだに、ある感覚が心のなかに居座るようになった。なにかを自分の意志で新しくはじめるということが、どうにも信じられなくなってしまったのである。
振り返れば、なにかがはじまるときはいつも、それは決断の形をしていなかった。それはすでに決断されたものであり、すでにはじまってしまっていたものにあとから名前をつけるような仕方であらわれた。
会社を辞めたこと。留学先の入学許可を待たずに留学して語学学校で学びはじめたこと。将来の保証もなしに哲学プラクティスに足を踏みいれたこと。
これらの「決断」は自分の意志で行ったということになっているが、実のところ、そう思わされているだけである。別の選択肢を選ぶことは、はじめからできなかったのだから。
これは、運命だとか、あらがえない流れのなかに翻弄されている、といった話ではない。そのようなドラマチックなものではなく、もっと地味で日常のなかに染みついているものだ。気づかないほどに当たり前で、だからどこにも逃げ場がない。
つまり、私は、この私であるほかなかったし、私の人生はこの人生以外にはありえなかった。ここにあるのは自分で決めたことでも、無理やりやらされたことでもなく、あるのはそうであったという出来事だけである。出来事としての私、出来事としての人生、これら出来事は私の身が朽ちるまで連綿とつらなってゆく。
中動態について私が理解するのは、私が生きているということは、この私とこの私の人生とが、私のもとに起こっているということである。



