russnaction "文學界 2026年 5月号" 2026年4月18日

russnaction
@russnaction
2026年4月18日
文學界 2026年 5月号
沓乃よう『ドロップ』 生物教師の語り手の内面を辿る。としか言えない。悪い意味ではなく本当に。 動詞がおもしろい。言葉が空気を滑って飛び散ったり、身体が塩素で長持ちしたりする。生物教師である語り手特有の言語感覚(≒身体感覚)が地の文にも発揮されている。だから何だというわけではないが、それが文章の体幹になっているというか、安定感をもたらしている。 とにかく細部が光っている。想像の少女との対話の終わらせ方が、「少女の髪を梳いていた手が何かに引っかかり、その拍子に小さな顔が天井を向く。」という文章なのが本当に良い。夢と現実の狭間での出来事なのに、主語が語り手の「手」と明記しているのが良い。静(の中の会話)→動(顔が天井を向く)→無(空行)という流れも気持ち良過ぎる。小説で言及された語り手の身体感覚にも重なる。みたいな表現が多々ある。 が、こうした細部の積み重ねと、いくつかの想像(戦争と生徒、そしてその中にある入れ子構造的想像)という構造からは、何も浮かび上がって来ない。語り手が捉える(いや、捉えてすらおらず、なんとなく想像させられる)想像力についての小説。語り手の想像力は周囲へも遠くへも及ぶし、目に触れる悲劇を自分事として考える共感力はあるが、じゃあ、教えるべき生徒らが「女子会」で議論を白熱させたとき、どうして語り手はドロップを舐めるのか。 要は、もう「想像すること」についての想像力の時代なんだろう。「想像すること」への理解と共感はあるが、その重みに耐えられなくなったとき、語り手は飴を舐めるんじゃないか。いつの時代にもあるはずの想像されるべきもの(語られるべきもの、撮られるべきもの、描かれるべきもの)を、いま、正確に捉えようとしたとき、試みることそのものの価値と、掬いきれないものへの罪悪感、それでも書く、ということ。実際に、僕は書かれたものを読んだ。それ以上でも以下でもなく。 どうやら選考でも賛否あったようで、僕はどちらかというと否。想像力(物語)は想像することそれ自体のためじゃなくて、想像されるべき何かのためにあるはずだと思うから。でもこの小説の感覚はまさに時代の声だとも思う。近くにあるのに遠くにあるのに近くにあるのに.....の連鎖とそれに伴う葛藤、みたいな。 長くなった。飴舐めたい。嘘、煙草吸いたい。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved