キイロノシャクナゲ "安楽死が合法の国で起こってい..." 2026年4月19日

安楽死が合法の国で起こっていること
「安楽死は合法化されるべきか」だけを問う議論からは、個々の人の「小さな物語」のリアリティーの中で、現実の物語を細かく丁寧に解きほぐしていく視点が抜け落ちている。 それでは苦しんでいる個々の人の展望にはならない 。 それでは【社会にとっても最も安直で、安価な問題解決策である安楽死が、誰にとっても、唯一の解決策であるかのように見えてしまう。】 社会が変わる必要からは、目が逸らされたまま問題解決の責が苦しんでいる個々の人に帰されて終わってしまう。社会のありようを考えることと個々の人の苦しみを考えること。どちらか一方だけではなくて、どちらもあって、初めて足元の現実問題が拾われていくのだと思う。 --- 一番そうだなと感じたところをまず記録。 読書時にたくさん付箋をつけていたけれど、全部記録するのは大変なため諦めて、最後のほうに大切なことがまとまっていたように思うので、ほかいくつかも以下に記録したいと思う。 打つのが面倒だったので音声入力しているため、すこしズレているところがあるかも。太字機能がそのうちほしいな。 --- おそらく、最も恐ろしい安楽死の「すべり坂」とは、対象者の拡大や移植医療との接続といった過去の現象ではなく、医療現場で安楽死が日常的な当たり前のことと受け止められていくにつれて、 *医療職が命への畏怖を失い、病み痛む人への心の感動を低下させていくこと* なのではないか。その無関心の冷たさが医療に浸透し、医療の利用を変質させていくことこそが、最も本質的で、恐ろしい「すべり坂」なのだと思う。 死にたいと誰かが訴えるとき、その言葉を学面通りに安楽死の自己決定と受け止めるのではなく、なぜその人はそのそんなことを言うのか、 *まずはその人の語りに真摯に耳を傾けて、その習慣的な苦しみのリアリティーを理解しようと努めること。それを通じて死にたいと言う言葉の裏にある思い、その人がほんとに求めているのは何かを知ろうとすること。そして寄り添いながら共に取り組むこと。* それこそが本来の緩和ケアのある対応だとベルギーのフェルメールやカラスは繰り返し主張していた。私たちの社会が死にたいほど苦しいと言う人を置き去りにしないということもまた、苦しんでいる人にそのようにアプローチをすることではないだろうか。 『患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのです』 尊厳死や安楽死を望む人の中には身近な人が冷淡な医療しか受けられず、苦しみも抱えて死ねって体験を持つ人が多い。だから、自分はあんな知り方をしないためにさっさと死なせて欲しいと結論に登るのではなく、 *なぜそう考えるようになったのかその手前のところにあった物語を語って欲しい。身近な人が何どのように苦しんで死んでいったのかそのいようには何が足りなかったのか、自分ならどうして欲しいと思うのかを。*
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