
chika
@koitoya
2026年4月21日
読み終わった
「昭和三十年代の府中や国分寺こそが武蔵野だったのである。(省略)東京という大都市が、開発によって武蔵野を呑みこんでゆく最前線であり、町はずれであり、郊外であるような特別な場所だった。少年院や刑務所があり、カソリック墓地や多磨霊園、精神病院があり、広大な米軍基地があった。(省略)」(p19)
赤坂憲雄の幼少の記憶の武蔵野、カブトムシを捕まえ、雑木林で遊び、キャベツ畑が広がっていたという風景は、現在の場所からは想像がつかない。
さらに武蔵野は、単なる自然ではなく、都市と深く結びついた循環の場でもあった。
「蘆花が早くに、「都会の汚物を浄化してまた送り戻す循環作用」と表現していたことを思い返すのもいい。(省略)糞尿は発酵と分解によって、はじめて作物への肥料として役に立つ下肥となる。(省略)それはたんなる負のシステムではなかった。やがて、それは皮革や肉をめぐる差別や穢れの問題へと敷衍されてゆく。」(p94)
「『草の花』の終わりに近く、(省略)草は暖かく萌え、たんぽぽの花が咲き乱れていた、と。しかし、いかにも草の武蔵野は淡く霞んでいる。それと比べれば、武蔵の雑木林はそれなりにくっきりと像を結んでいた。」(p154)
また、たくさんの文学作品の中にも武蔵野も現れる。どの作品にも原風景としての美しいイメージが重なる。
「武蔵野の文明史を研究しようとする人にとっては、「水の問題は最初に注意すべき事柄である」と見える。(省略)水の流れがときに地下に隠れるのを「逃げる」といい、こうした逃げ水は武蔵野には多かったのである。(省略)「まいまいず井戸」こそが、武蔵野の井戸掘りのふつうの形であったか。」(p161)
実際に府中市郷土の森博物館で見たまいまいず井戸は印象的だった。ひとりで覗き込んでいると通りがかりの人もつられて覗くが、皆「なんだろう」という顔をして通り過ぎていく。それは素朴だったからだろう。でも奇妙な構造に、かつての生活の気配が凝縮されているように思えた。
こうして読み進めるうちに、「武蔵野」という曖昧で、しかしどこか懐かしい存在に触れていると、次第に寂しさが立ち上がってくる。実際に体験したわけではないのに、もう戻ることのできないものに触れているような感覚。寂しい原風景。
そのイメージに重なるのが夕景だ。
「東都の西のはずれの丘のうえが、美しい夕陽を眺める特別な場所として指名されている。(省略)西の空一帯に夕陽の燃え立つとき、そこに、「最も偉大なる壮観」が姿を現わすのである。(省略)夕焼けの空が(省略)殺風景な山の手の大通りをいくらかでも美しいと思わせるのは、夕陽があるゆえだ。(省略)そして、荷風は続けて、これら夕陽の美ととも語られるべきは、市中より望む富士山の遠景である、という。(省略)夕陽と富士はあくまで西の方位を指しており、それゆえに、そこには武蔵野が見え隠れしていたのである。」(p184-185)
群馬で育ちながらも、イメージの中の武蔵野を思い描くときに夕日が重なるのは、おそらくこうした文学的・文化的なイメージの共有によるものだろう。
「百姓たちは「ここへ畑起してもいいかあ」「ここに家立ててもいいかあ」(省略)森はいっせいに「いいぞお」とか「ようし」と答えるのだ。(省略)これはまさに〈借り〉の思想であった。(省略)〈借り〉とは野生にたいして適度な距離をとり、生態環境が再生・更新されてゆくように持続可能な関係を築くための作法であり、モラルであった。」(p242-243)
この視点から見ると、参照されていた『借りぐらしのアリエッティ』も、人間と自然のあいだの緩衝地帯としての生活を描いた作品として理解できる。
武蔵野とは単なる地理ではなく、いくつもの層から成る存在である。幼少期の記憶、文学によって見出された風景、生活の循環の場、そしてすでに失われたものとしての像。それらが重なり合い、「寂しい原風景」として立ち上がる。
武蔵野とは、日本の近代が生み出した想像上の故郷だった。

