ジクロロ "ラカンによるレヴィナス 他者..." 2026年4月26日

ジクロロ
ジクロロ
@jirowcrew
2026年4月26日
ラカンによるレヴィナス 他者と死者 (文春文庫 う 19-12)
「当たり」というのは、仮説が客観的に「正しい」ということではなく、その仮説に基づいて行う作業が主観的に「愉しい」ということである。この本で私がラカンとレヴィナスについて述べていることが、どれくらい学術的な検証に耐えるのか、私にはあまり自信がないが、この本を書く作業が私にとってたいへん「愉しい」時間であったことは自信をもって断言できる。  ある知的営為が「愉しく」感じられるというのは、ふつう、そこでなされていることがどこかで「人間の本性にかなっている」からである。 (p.277 あとがき) 読み終わるのにかなり時間がかかった。 そして何かを掴んだようで何も掴めていない、ウナギのヌメヌメだけが読後感として残っている感じ。 わかりやすく書かれてはいるが、一気に読める内容では到底ない。 「紆余曲折」が、目的地(のような場所)への 最短距離であるような難事な「汝」、 ラカンとレヴィナス、二匹のウナギがウロボロス。 どうしてこんな難しい課題に取り組めるのか、 読んでいる方が何度も手を止めたくなる内容を どうして自信をもって書き続けられるのか。 読みながら度々浮かんでいた疑問に対し、 「愉しいから」という回答が後書きにある。 なるほどだから読み手としても、曲がりなりにも最後までなんとか辿りつけたのかなと思う。 振り返ると、その「愉しさ」は十分に伝わっていたと思う。 「読む」ということの深みと「愉しいな」の軽み。 読み終えたのにやっぱり何もわかっていないな、 そんな爽快感が自分にとっての「愉しさ」でもあるのかもしれない。 So truthfully, only calling me Kweli and Common? Proves, that ignorance is bliss. (『Ignorant is Bliss』ケンドリック・ラマー) そこに顕現してしまっている 「真実」(Kweli)や「良識」(Common) それを鏡とする限り、 その鏡には真の欲望は何も映らないということ。
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