
阿久津隆
@akttkc
2026年4月19日

響きと怒り
ウィリアム・フォークナー
読んでる
クェンティンの章になって、ハーヴァードの部屋にいて、目が覚めて、そうしているとシュリーヴが出てきて、昔なじみに再会したようでうれしかったが、クェンティンはずいぶん陰々滅々としていて、「もし死んでもただ地獄へ行くだけなら、もしそれだけのことだったら」と考え、「それで終わるのなら」と考え、「万事が終わるだけだったら」と考え、「そして地獄に彼女(キヤデイ)と自分以外にだれもいなければ」と考え、「もしぼくたち二人が、自分たち以外はみんな地獄から逃げ出すほどに恐ろしいことをすることさえできたなら」と考えていた。
p.146
ぼくは近親相姦(インセスト)を犯しましたとぼくはいった おとうさんそれを犯したのはぼくでドールトン・エイムズじゃありません、 そして彼が、ドールトン・エイムズがピストルを。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。彼がピストルをぼくの手に持たせた時ぼくは射たなかったが。射たなかったのはそのためだったのだ。もし射ったなら彼は地獄にいくだろうし彼女もいきぼくもいくだろうから。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。もしぼくたち二人がそれほど恐ろしいことをすることさえできたらというと、父は、それもまた悲しいことなのだと、人間にはそれほど恐ろしいことはなに一つできやしない、非常に恐ろしいことなんかなに一つできやしないのだ、きょう恐ろしいと思えたことだって翌日になったら思い出すことさえできないくらいだといい、そこでぼくが、人間はどんなことだって避けることができるんですというと、父は、そうかい、お前はそう思うかいといった。
フォークナーの登場人物は誰もがおかしいが一番おかしいのはコンプソンさんであるような気もしてくる。
この章の日付けは1910年6月2日となっていて、『アブサロム、アブサロム!』の年譜でクェンティンは1910年に死亡と見てしまっていた。今日クェンティンは死ぬのだろうか、と思いながら読んでいる。そうなるともしかすると、ベンジーの章で出てきた女性のクェンティンというのは、キャディの子どもだったりするのだろうか、と考えながら読んでいる。兄クェンティンとの間にできた子どもにクェンティンという名をつけるのだとしたらなかなかだし、そうでなかったとしても近親相姦をした兄の名を子どもにつけるのだとしてもなかなかだ、サトペン家もヤバいがコンプソン家もなかなかだ。それにしても『アブサロム、アブサロム!』と比べるとずいぶんするすると読めてしまうもので、時計のチクタクと刻む音に気を取られ、荷物をまとめて部屋を出て、時計屋に入って出て、別の店で火熨斗を買い、電車に乗って、と読んでいると200ページまで進んでいて、そのあいだもずっと、キャディの声が響いていた。
