響きと怒り

29件の記録
阿久津隆@akttkc2026年5月9日読み終わったつけたしが続いていて、ノリノリだなあフォークナー、と思う。「ジェイソン四世」の番で、始まると、「コンプソン家の人の中で最初の正気な人間であり、(子供のない独身者なので)最後の正気なコンプソンということになる」とあって、なんというか、ほら! という思いというか、ジェイソンの語りを読みながら、ジェイソンは箍が外れていない、まっとうだ、それゆえに退屈だ、と思っていたことが、作者もそう言ってくれたことで、何か正解を言い当てたようなそういう得意な気持ちになって、みっともない生徒根性というのはいつだって簡単に顔を出すものだ。
阿久津隆@akttkc2026年5月9日読んでるつけたしの続きをしばらく読んで、「クェンティン三世」でやっと今作の登場人物たちになった。「彼は妹の肉体を愛したのではなくて、ちょうど広大な地球全体の小型の模型が訓練されたあざらしの鼻の上にのせられるように、コンプソン家の名誉が妹の処女性の微妙でこわれやすい薄膜によってあぶなっかしく、(彼もよく知っていたのだが)ほんの一時的にささえられているという考え方を愛したのだった」とあって、なんともまあという愛し方だった。 p.569,570 彼は自分が犯したいとは思わなかった近親相姦の考えを愛したのではなくて、その罪に課せられる永遠の罰という長老教会派の考えを愛したのだった。すなわち、神ではなくて、彼自身が、近親相姦という罪によって、自分自身と妹を地獄に投げ込み、そこで彼は永遠に燃える火にかこまれながら妹をいつまでも守り、いつまでもそのままの姿で保つことができるという考えを愛したのだった。しかし彼は、なににも増して死を愛したのであり、ただ死だけを愛し、恋する男が愛する相手の待ちわび、望んでいる、好意的で、やさしく、信じられないような肉体を愛しながらも、故意にそれをさけようとするように、死を慎重にほとんど倒錯的に予想しながら、愛し生活したのであり、ついにそれをさけることではなくて自分を抑えることに耐えきれなくなり、自分の身を投げ出して、自らを棄て、溺れさせた。
阿久津隆@akttkc2026年5月8日読んでるラスターが馬車でベンジーを連れ出した。馬車は広場について、そこには南軍兵士の記念像があった。 p.557 一瞬のあいだ、ベンはまったく茫然として坐っていた。と、彼がわめき出した。わめきわめき、その声はほとんど息つくひまもないようにして高まっていった。その声には驚き以上のものが感ぜられた。恐怖であり、衝撃であり、盲目的な、口にはいえない苦悶であり、ただの響きにすぎなかった。そしてラスターの眼は、その瞬間、ぎょろっとひっくり返って白眼になった。「ああ、よわっただ」と彼はいった。「黙るだ! 黙るだ! よわったなあ!」彼はくるっと向き直って、クイニーに鞭をくれた。鞭が折れたのでそれを捨て、信じられないほどの高さに高まっていくベンジーの声をききながら、ラスターは手綱のはしをつかんで前にかがみこんだが、その時ジェイソンが広場を横切って飛んできて、馬車のステップに足をかけた。 ジェイソンがラスターをぶん殴り、馬車を奪還し、そして小説が終わり、ふーっと息をついて、解説とかが始まるのかと思って左ページに目を移すと「つけたし」とあり、「つけたし?」と思って説明を読むとマルカム・カウリーが1946年に編んだ『ポータブル・フォークナー』のためにフォークナーが寄せた補足的解説ということで、「コンプソン家 一六九九―一九四五」とあって、一六九九w 遡るなあ!www と思って、最初は「イッケモチュッベ」さんの紹介から始まった。
阿久津隆@akttkc2026年5月6日読んでるそろそろ終わりそうで、今にも終わるのではないかと思うと早くも寂しく、これまでの章とは異なってカメラはひとつの人物に固定されずに、ディルシーに据えたと思ったらジェイソンに移ったりもして、これまでにはないサスペンスが生み出されている。これ、どうなっちゃうんだろう、と思うし、キャディの語りパートも見たかった、という思いもあるようだ。ジェイソンがぶん殴られていた。
阿久津隆@akttkc2026年5月6日読んでる途中で目が覚めてしまい、床から本を拾うとコンプソン夫人とディルシーが話していた。 p.522 「そんな馬鹿な」とコンプソン夫人はいった。「それは血統なんだよ。あの叔父にしてこの姪ありだよ。それともあの母にしてこの娘ありさ。あたしにゃあ、あの二人のどっちに似る方がいいのか悪いのか、わからないよ。もうどっちでもいいと思うよ」 「なんであんたは、そんなふうな話し方をするだね?」とディルシーはいった。「なんのために、あの子がそんなことをしたがるっていうだね?」 「あたしにゃあわからないよ。死んだクェンティンはなんのためにあんなことをしたんだろう? いったい、どんな理由があったんだろう? ただあたしを馬鹿にして傷つけるために、あんなことをしたとは思えないよ。神様だって、あんなことは決してお許しにならないと思うよ。あたしは貴婦人です。お前は、あたしの子供たちの行状から見て、そうは思わないかも知れないけれど、でもあたしは貴婦人なんだよ」 いやーすごい。
阿久津隆@akttkc2026年5月5日3時半ごろ布団に入り、思うようにすぐには眠くならず、小説は進んでいき、クェンティンの姿がない、部屋が静か過ぎる、ジェイソンが何かに勘づく、「鍵をください」と母に言い、「鍵ですよ」と母に言い、「さあ鍵を出してください」と母に言い、「鍵をくれってば、この間抜けばばあ!」と母に言った。 やっと眠くなったので閉じて寝ようとして、実際うとうとしていたが、頭がずっと表面に残っている感じで、遊ちゃんが、フランフランじゃなくて、と笑って、イランイランとフランキンセンスだよ、面白いね、とはっきりとした話し方で言って、そこで目が覚めて、眠気が近くにはなく、なので再び明かりをつけて読書に戻り、ジェイソンは破滅みたいなものに向かっていて、クェンティンは遠くに向かっていて、家に残されたベンジーはディルシーたちに連れられて黒人教会に行って、今日はゲスト牧師の日だった。入ってきたゲスト牧師はしかし頼りなさそうな、期待外れの風貌だった。しかし「兄弟姉妹よ!」と声を出すと空気が一変して、彼の声はホルンのように鳴り響いた。「おらは神の子羊の思い出と血を持っているだ!」 p.515 「長い、冷たいいく年かが―なあ、いいですだか、兄弟たちよ、長い冷たいいく年かがすぎるとき―おらにはその光が見えるだし、その言葉が聞こえるだ。哀れな罪人たちよ! あれらのゆり動く戦車はエジプトで消えうせただ。そして多くの年月がすぎていっただ。かつて金のあった者どもも今はどこにいるだ? なあ兄弟よ。かつては貧しかった者も今はどこにいるだ? なあ姉妹たちよ! おお、よく聞くがいいだ。もしお前らが古き救いの乳と露にあずからなければ、長い、冷たいいく年かがすぎていくとき、どうなると思うだ!」 「はい、イエス様!」 教会は熱狂していき、「うーーーーん!」という蜂の羽音のような低い音が轟き、「イエス様! イエス様!」とトランスしていった。 終わるとディルシーは涙を流して歩きながら、「おらは、最初とそして最後を見ただ」と言って、「おらは、初めを見ただし、そして今終わりが見えるだ」と言った。
阿久津隆@akttkc2026年5月4日読んでるキャディの章が始まる。「冷えびえとした物悲しい夜明けだった」と始まるその章は、その行からこのページの終わりまで、青いボールペンの線が行頭に蓋をするように引かれていて、「そしてディルシーが小屋のドアをあけて外に現われたとき」というところも線が引かれている。次のページを開くと蓋の線はずうっと続いて、「ついに彼女はうしろを向いて、ふたたび家の中にはいってドアを閉めた」に線が引かれ、小屋のドアが開いてディルシーがふたたび現われたが」にも線が引かれ、蓋の線はそこでおしまいになって、フレーズに引かれる線はまだいくつかあって、「いっ時してから、彼女はこん度は開いた雨傘を持って現われ」に引かれ、それから「傘をたたむと、入り口のすぐ隅のところにそれを立てかけた。彼女は薪のストーヴのうしろの箱の中へどっとおろした」には線と併せて「カメラが切り替わる」というメモもあって、大学生のとき、何かしらの真面目さや律儀さを持って小説を読んでいたのだなあと思う。ところでキャディの章だとばかり思っていたら、ディルシーの章だった!








阿久津隆@akttkc2026年5月4日読んでる早い時間に一度目が覚めてそこから寝入ることに苦労し、『響きと怒り』を開くとジェイソンに意地悪くなじられたクェンティンが自室に籠り、食事の部屋に残ったジェイソンと母親が話していた。ジェイソンが姪のことを「あんな、自分の子供の父親の名前もいえないような女」というと母親は「ジェイソン」といい、ジェイソンは「わかっていますよ」といい、「ぼくはなにも、あのことをいっているんじゃあない。もちろん、そうじゃあないですとも」という。 p.461 「今まで散々苦労した上に、もしこのあたしまでが、あれは本当かもしれないなんて信じるとしたら、あたしは一体どういうことになるんだろう」 「もちろん、そんなことはあるもんですか」とおれはいう。「ぼくはそんなつもりでいったんじゃないですよ」 「すくなくとも、それだけは勘弁してもらいたいと思うよ」と母はいう。 「もちろんそうですとも」とおれはいう。「だって、そんな疑いを持つには、あの子はあまりにもあの二人に似すぎていますからね」 「あたしにゃあ、とてもそんなおとは考えられないよ」と母はいう。 「じゃあ、そんなことを考えなきゃあいいでしょう」とおれはいう。 すごい会話。とんでもない会話だ。そのあと「麻酔をかけて、あいつをジャクソンに送ったとしても、あいつはなんの違いも気づかないだろう。だがそんなことは、コンプソン家の者にはあまりにも単純すぎて、考えつくことさえできなかったのだろう。せめてその半分も複雑だったら、考えていただろうが」とあり、ジェイソンの部がぐわんぐわんと面白くなっていくというか語りが凄みを帯びていく。と思ったらジェイソンの部は終わりになり、次の日付は1928年の4月8日で、次はきっと最後で、そしてキャディの部なのだろう。
阿久津隆@akttkc2026年5月2日読んでる追走から職場に帰ってきたジェイソンは雇い主のアールに喧嘩を売っている。 p.431 「もし大丈夫でなかったら」とおれはいう。「どうしたらいいか、あんたは御存知のはずですね」 「大丈夫だって、いってるじゃないか」と彼はいう。 「聞こえましたよ」とおれはいう。「それでもし大丈夫でなかったら、どうしたらいいか、あんたも御存知だっていってるんでさ」 「君はここをやめたいのかい?」と彼はいう。 「それはぼくの知ったことじゃありませんよ」とおれはいう。「ぼくの希望なんか問題じゃありませんや。だけど、ぼくを使っておくのはぼくをかわいそうだと思うからだなんて、考えないようにしてくださいよ」 「なあ、ジェイソン、君はもしそのつもりにさえなれば、立派な商人になれるんだよ」と彼はいう。 「ぼくは少なくとも自分のやるべき事だけはちゃんとやって、ほかの人のことはかまわずにいるつもりでさ」とおれはいう。 ほんとこいつ中学生みたいだなと思う。
阿久津隆@akttkc2026年5月2日読んでる電車はずいぶん混んでいて、ぎゅーぎゅーだった。『響きと怒り』を開いて読むとクェンティンが赤いネクタイの男と歩いているのを街で目撃して、ジェイソンが追っていって、ふたりはフォードに乗って、どこかにしけこもうとしていて、ジェイソンが追っていて、「いつもいうように、おれはなにもそれをとやかくいうんじゃない、たぶんあいつには、それはどうしようもないんだろう。おれのいいたいのは、いくらあいつでも自分の家族の名誉を考えて、少しは慎重にやってくれっていうことなんだ」という言葉に当たってバキッと目が覚める感じがあって、たぶんあいつには、それはどうしようもないんだろう、おれのいいたいのは、少しは慎重にやってくれっていうことなんだ。これは僕はとても哀しく、そして、そうだそうだそうだと思うものだった。ジェイソンがこんなふうに考えていたとは。ジェイソンのそういう考えはしかし若いクェンティンには伝わらずに車を停めて藪の中を進んで、元のところに戻るとフォードの姿はなくなっていて、車は「ヤーーー、ヤーーー、ヤーーーーーー」とラッパの音を鳴り響かせながら走り去っていった。ジェイソンの車のタイヤの空気を抜いていくという悪行も。やめなさいよクェンティン、という思い。ジェイソンに寄り添う気持ちが自分の中に生じていることに面食らいながら移動する朝になった。
阿久津隆@akttkc2026年4月30日読んでるまだジェイソンのところ。つらい。読んでて気分が悪いし、なんせ、今のところ、ただ嫌なやつがしゃべっているだけというか、嫌なやつがまともに凡庸によく知られた言葉遣いで話しているだけという感じで、ジェイソンはちゃんとしてる。まっとうだ。一家で一番ちゃんとしてる。嫌なやつというだけで、箍は外れていない。それを読むのは今のところそんなに面白いことではない。









阿久津隆@akttkc2026年4月29日読んでる布団に入り、『響きと怒り』を床から持ち上げるとき、この時間がこそが一日の楽しみだった、と思う。ジェイソンがまた、嫌なやつだった。こいつの語りに付き合わないといけないのはだるい。
阿久津隆@akttkc2026年4月28日読んでるキャディが登場して、ジェイソンに頼み事があるらしい。ジェイソンが「ぼくを信用しないのかい?」と訊くと「ええ」と言い、「あたしあんたのことはよく知ってるわ。だって、一緒に育ったんですもの」と言う。キャディの望みは娘の姿を見させてもらうことで、50ドルとかを受け取ってそれを約束したジェイソンは馬車に乗って、キャディが待つところに近づくと、赤子が見えるようにし、そしてそこで馬に鞭を打って、すごい速度で駆けていった。その翌日とかにキャディがまたジェイソンの職場に来て、ジェイソンは「ちゃんと見せたじゃないか」みたいなことを言う。中学生みたいだ。「彼女はなにもいわず、また動こうともしなかった。おれには彼女が小声で、罰あたり この罰あたり この罰あたり と口の中でつぶやいているのが聞こえた」。本当に罰当たりの嫌なやつだ。それからキャディは怒りからふっと転換し、「あたしは気がどうかしているわ」「あたしは気違いだわ。どうしてあたしに、あの子を引きとれるものですか」と言って、クェンティンの面倒を見てくれるようにジェイソンに頼んだ。 p.368,369 「よだれ掛けやあんよ車を買ってやれっていうのかい? ぼくは今までは一度もねいさんにこんなことをいったことはないんだが」とおれはいう。「ぼくはねえさんよりずっと危険をおかしているんだよ。だってねえさんはなに一つ賭けてはいないんだからね。だからもしねえさんが―」 「そうだわ」と彼女はいい、ついで笑いだしたが、それと同時に一生懸命それをこらえようとした。「そうだわ。あたしはなに一つ賭けていないわ」と彼女は笑いながら、両手を口に当てながらいう。「な、な、なんにもね」と彼女はいう。 「おい」とおれはいう。「笑うのはよしてくれ!」 「とめようとしているのよ」と彼女は両手で口をおさえながらいう。「本当に、どうしたんでしょう」 クェンティンが車の中で破裂するように笑い出したところと重なる場面。ふたりの哄笑が小説中に響き渡るようで、それは痛ましいものだった。
阿久津隆@akttkc2026年4月26日読んでる布団に入るとその分厚い文庫本を開いて、すっかりかぱかぱすることは気にならなくなったというかかぱかぱしなくなった。スムースに開く。濡れ方は一様ではなかったということだ。ジェイソンは嫌なやつだ。嫌なやつの一人称の語りを読むというのは嫌な気持ちのするもので、それに付き合うことは、好きなことだった。こいつ鬱陶しいな、と思いながら読み続けた。
阿久津隆@akttkc2026年4月25日読んでる本を開くと p.312 父はこう考えるのはむずかしいことだが愛とか悲しみとかいうものはなんの計画もなしに購入された一つの債権のようなものでそれは否応なしに満期になってなんの予告もなしに償還されその時たまたま神様が発行しているものと行き当たりばったりに取り替えられるだけなのさいやお前は彼女でさえもたぶん絶望に値しないだろうということを信じるようになるまではそう考えないだろうよといいぼくはいいえぼくは決してそうは考えないでしょうぼくの知っていることはだれにもわかりゃあしないのですといいすると父はお前はすぐにケンブリッジへ出かける方がいいと思うお前は と息継ぎなしに話し続ける異様なページになっていて、僕も息を止めながら読んで、めくると、めくると、右ページの左側に余白があって章が終わるようで、であれば、それはつまり、クェンティンの? と緊張しながら読むと、明かりの消えた暗い部屋で、窓の外の弱い光ですっかりシルエットだけになったクェンティンの姿が見えるようで、彼は荷物をまとめると部屋から出て行った。出て行った、と僕は思って、死ななかった、と僕は思って、次の扉には1928年の4月6日とあって、最初の章は7日だからその前日で、そして語りは「おれ」で、ジェイソンだろうと見当がついた。そこにはまた別のクェンティンがいて、彼女は反抗期の模様。
阿久津隆@akttkc2026年4月24日読んでるクェンティンが大学の部屋に帰ってきた、いよいよ死にそうな気配がある、しかしどういうふうになるのか予想がつかない、買った火熨斗はどう使うのか皆目見当もつかない、火熨斗は僕はなんなのかわからなかったので調べたら柄杓みたいな形の、アイロンみたいなものらしかった。この数十ページ火熨斗について触れられていなくて、今も所持しているのかもわからない。書き出される思念の濃度みたいなものが上がってきて、そうだこれだ、これが読みづらい進まないフォークナーだ、あっという間に何を読んでいたかわからなくなるフォークナーだ、と思いながらしばらく読んで、眠くなり寝。
阿久津隆@akttkc2026年4月23日読んでるクェンティンがいつの間にか友人を殴っていたみたいで、そんなことは描かれていただろうかと思って少し戻ったりしてみたが見当たらず、『野生の棕櫚』の船の上のときみたいに、いつの間にか殴っていたのかもしれない。ただの読み落としの気もする。
阿久津隆@akttkc2026年4月21日読んでるもう2時55分じゃないか、と考えて立ち上がり、布団に入るとクェンティンと少女は川遊びの男の子たちから離れたところだった。 p.244 ぼくたちは歩きつづけた。「あそこはぼくたちのいくところじゃあないんだ、そうだろう」太陽がいよいよ西に傾き、あちこちの苔の上に射しこんでいた。「可哀想だが、君は女の子だからね」苔のあいだに小さな花が、見たことのないほど小さな花がさいていた。「君も女の子だからね。可哀想だけど」小径があり、川にそって曲がっていた。やがて川はもとの静けさに帰り、小暗く、静かに、早く流れていた。「やっぱり女の子なのさ。気の毒だが」ぼくたちは息をはずませながら濡れた草の上に横になり、雨が冷たい弾丸(たま)のようにぼくの背中に当たっていた。お前だって本当は気になるんだろう どうだい どうだい あら あたしたちはすっかり泥だらけだわ 立ちましょうよ。雨がぼくの額に当たるとそこがひりひりし 手でさわってみると赤く血がつきそれが雨のなかで桃色の条(すじ)になって流れた。痛い もちろんさ お前はどう思うんだい それから女の子の家族にぶん殴られ、誤解だ、彼は家に帰そうとがんばったんです、しかし本当に誤解だろうか、と私は考えながら行くすえを見、都合のいいことにシュリーヴたちと遭遇し、しかし妙な裁判になり、7ドルを支払って、車に乗り込み、それからキャディとの話にしっかり移り、『アブサロム、アブサロム!』ではおくびにも出していなかったクェンティンの暗い過去というか、そういうものを読み、お前、とんでもないやつだったんだな、空洞の、物語を反響させるだけの装置だと思っていたけれど、お前もまたとんでもない物語を抱え込んでいたんだな、と考えてから寝た。
阿久津隆@akttkc2026年4月20日読んでるクェンティンは川遊びをする少年たちと別れたところだった。それからお腹でも空いたのか、空腹なんて関係なさそうな顔をしているが、それでもお腹でも空いたのか、家みたいなパン屋に入り、そこで移民の子どもの小さな女の子と遭遇し、パンとケーキを奢ってあげて、アイスクリームも買ってあげて、女の子がずっとついてきて、女の子は一言も口をきかず、しかしなれなれしい目で見てくる、その女の子の家を探してずいぶん歩き回って、見つかったかに見えたが違う家だったようで、しかしそこに置いていくわけにもいかないようで、だから離れて、埒が明かないので走って逃げたがまた別のところで出くわしちゃって、いつまで経っても家は見つからず、川で遊ぶ少年たちのところに行ったらどうして少年たちはクェンティンを敵認定したのか、「あっちへいっちゃえ、ハーヴァード生!」と言われ、罵声を浴びせかけられ、水もかけられた。そのあいだずっと、キャディとのことが思い出され続けていた。
阿久津隆@akttkc2026年4月19日読んでるクェンティンの章になって、ハーヴァードの部屋にいて、目が覚めて、そうしているとシュリーヴが出てきて、昔なじみに再会したようでうれしかったが、クェンティンはずいぶん陰々滅々としていて、「もし死んでもただ地獄へ行くだけなら、もしそれだけのことだったら」と考え、「それで終わるのなら」と考え、「万事が終わるだけだったら」と考え、「そして地獄に彼女(キヤデイ)と自分以外にだれもいなければ」と考え、「もしぼくたち二人が、自分たち以外はみんな地獄から逃げ出すほどに恐ろしいことをすることさえできたなら」と考えていた。 p.146 ぼくは近親相姦(インセスト)を犯しましたとぼくはいった おとうさんそれを犯したのはぼくでドールトン・エイムズじゃありません、 そして彼が、ドールトン・エイムズがピストルを。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。彼がピストルをぼくの手に持たせた時ぼくは射たなかったが。射たなかったのはそのためだったのだ。もし射ったなら彼は地獄にいくだろうし彼女もいきぼくもいくだろうから。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。もしぼくたち二人がそれほど恐ろしいことをすることさえできたらというと、父は、それもまた悲しいことなのだと、人間にはそれほど恐ろしいことはなに一つできやしない、非常に恐ろしいことなんかなに一つできやしないのだ、きょう恐ろしいと思えたことだって翌日になったら思い出すことさえできないくらいだといい、そこでぼくが、人間はどんなことだって避けることができるんですというと、父は、そうかい、お前はそう思うかいといった。 フォークナーの登場人物は誰もがおかしいが一番おかしいのはコンプソンさんであるような気もしてくる。 この章の日付けは1910年6月2日となっていて、『アブサロム、アブサロム!』の年譜でクェンティンは1910年に死亡と見てしまっていた。今日クェンティンは死ぬのだろうか、と思いながら読んでいる。そうなるともしかすると、ベンジーの章で出てきた女性のクェンティンというのは、キャディの子どもだったりするのだろうか、と考えながら読んでいる。兄クェンティンとの間にできた子どもにクェンティンという名をつけるのだとしたらなかなかだし、そうでなかったとしても近親相姦をした兄の名を子どもにつけるのだとしてもなかなかだ、サトペン家もヤバいがコンプソン家もなかなかだ。それにしても『アブサロム、アブサロム!』と比べるとずいぶんするすると読めてしまうもので、時計のチクタクと刻む音に気を取られ、荷物をまとめて部屋を出て、時計屋に入って出て、別の店で火熨斗を買い、電車に乗って、と読んでいると200ページまで進んでいて、そのあいだもずっと、キャディの声が響いていた。
阿久津隆@akttkc2026年4月18日読んでる布団に入ると『響きと怒り』。 p.139 父がドアのところへいってから、わたしたちのほうをもう一度見た。それからまた暗闇が戻ってきて、父がドアのところに真っ黒な姿で立っており、するとドアがふたたび暗くなった。キャディがわたしを抱き、わたしにはみんなのいるのが、それから暗闇が聞こえ、またなにかの匂いを嗅ぐことができた。すると窓が見えだしたが、そこでは木々がざわめいていた。すると暗闇がなめらかな明るく光ったものになって動きだしたが、それはいつもの通りでキャディが、あたしは眠っていたのという時でも、そうなるのだった。 そこで左側に余白ができて章が終わったらしく、裏に透けて日付けが見えて、別の日付けになるらしかった。きりがいいのでそこで止めて寝た。
阿久津隆@akttkc2026年4月17日読んでる会話が多くてするすると進んでいく感じはあるが、やはり変で、『アブサロム、アブサロム!』のクェンティンなのだろうと思っていたクェンティンが女性であるっぽいことがわかり、そこでも混乱が起きた。フォークナーはどれを読んでも最初は特に面白くない気がするが、手渡されたブロックを積んだり、別の場所に移したり、崩れたり、また積んだり、そういうことを繰り返しているうちに、気づいたらどでかい構築物で包囲されている、逃げ出せなくなる、そういう感じがあって、これもどんなどでかいものができあがっていくのか、すごく楽しみだった。なんせ分厚い。きっととんでもないのだろう。
阿久津隆@akttkc2026年4月16日読んでる@ 香港屋台 九龍p.22 「お前、ティー・ピー」と母がわたしをつかまえながらいった。わたしにはクイニーの蹄の音がきこえ、光ったものが馬車の両側をなめらかに動いていくのが見え、その光の影がクイニーの背中を横切って流れていた。それはまるで車輪の頂上が光ってでもいるふうに動きつづけていた。と、一方の側の光ったものが、兵士の像の立っている高い白い柱のところまできて、動くのをやめた。だがもう一方の側の光ったものは、なめらかにとざされることなく動きつづけ、しかしその動き方がいくらかゆっくりになった。 電車に乗ると『響きと怒り』を開いて光ったものが動くのを眺めた。 この馬車の場面、ラスターが25セント玉を捜している場面、ベンジーとキャディが寒いところにいる場面、3つの時間が流れているということなのだろうか。行きつ戻りつしながら、わかんないな、と思いながら読んでいると新宿三丁目で、着くとルノワールのところから上がって飲食店街で、7時前、歩く人はそんなに多くなく、先々月はもっと早い時間だったからそうかと思ったが、この時間でもこうだろうかと思いながら、九龍に行き、外の席に着いて、中は人気だが外は空いていて、思ったよりも寒い日で、風も冷たかった。リュックに入れてきた長袖を着たが、スパッツも履いてきたらよかった。 優くんに、着いた旨を伝える連絡をすると、やべ、と返事があり、7時半だと思っていたということだった。さっき電車で本を読みながら、やはりかぱかぱして読みづらい、ページを開くごとに、剥がすような感じになる、これはさすがに不便だ、買い直そうか、時間があれば紀伊國屋書店はうってつけだ、しかし今日は、と思って直行したわけだが、これなら紀伊国屋書店に寄ってもよかった、そう思いはしたが、待ち時間は待ち時間でいいものだった。リュックから本を取り出すと読書を再開し、どうも斜体のところで時間が切り替わるようになっているようだった。それなら、1928年4月7日っていうのはなんだったんだよ、と思いながらも、斜体で時間が変わるのだなと得心して読んで、しかし斜体がどうも、『アブサロム、アブサロム!』よりも読みやすいような感じがして、フォントが違うんじゃないか。 何年も何年も前、同じ九龍で、そのときは店内で、武田さんが来るのを待ちながら赤い表紙の文庫本、赤だから岩波かと思ったら筑摩書房だった、『フラナリー・オコナー全短篇』を読んでいた時間も思い出されて、九龍ではアメリカ南部の小説を読んで待ちがちということだろうか、ともあれ人を待ちながらする読書の時間はとてもいい。 ディルシーが「神様のおぼしめしのある時がくりゃあ、わかるだから」と言って、同じ言葉が『死の床に横たわりて』で言われたような気がする、と思っているあたりで人影が走ってくるので顔を上げると優くんが走ってきて、走ってる、と言うと、走ってきた、と言った。










阿久津隆@akttkc2026年4月15日読んでるまた頭から始めることにして、また二人がゴルフをして、別の二人が柵に沿って進んでいた。続けていくと、「クェンティン」という名が見えた。『アブサロム、アブサロム!』のクェンティンとはまた別のクェンティンだったりするのだろうか。
阿久津隆@akttkc2026年4月14日持って帰ってきた@ 本の読める店fuzkue初台次はこれ。今年はひたすらフォークナーの再読をしているけれど何ひとつとして覚えていないのでひたすら新鮮。それにしてもこれは分厚い。同じ講談社文芸文庫の『アブサロム、アブサロム!』は上下だが重ねてもこれより薄いんじゃないか。なぜだ、なぜあちらは割った、あるいはなぜこちらは割らなかった、という思い。楽しみ。









阿久津隆@akttkc2026年4月14日読み始めた開くと1928年4月7日とあり、『アブサロム、アブサロム!』のクェンティンたちの時間は1909年だったからその20年後だ、「柵にまきついた花のすき間から、二人が球を打っているのがのぞけた。二人は旗の立っているところへ近づいていき、わたしは柵にそって進んだ」と始まった。 p.7 ラスターは花の咲いている木のそばの草むらのなかを捜していた。二人は旗をぬきとり、それから打ちだした。それから旗を元のところにさすと、テーブルの方へ進んでいき、そして一人が打ちもう一人が打った。それから二人はさらに先へ進み、わたしは柵にそって進んでいった。ラスターが花の咲いている木のところからやってきて、わたしたち二人は柵にそって進み、二人がとまるとわたしたちもとまり、ラスターが草むらを捜しているあいだ、わたしは柵のあいだから向こうをのぞいた。 最初のパラグラフを二度、三度と読んで、柵の向こう側でゴルフをする二人と、柵のこちら側で柵に沿って進む二人(そのうちひとりは草むらで何かを捜している)がいることがやっとわかった。小説の始まりの時間というのは光景を立ち上げるのはいつだって大変で、いいものだった。 それにしても、店では10年のあいだケトルの真下の位置にあった本で、お湯が溢れたりして何度も濡れているのだろう、かぱかぱで、開きづらい。これは読みづらい、これで読むだろうか、諦めて買い直すだろうかと思いながら何ページか進んだ。
