
ジクロロ
@jirowcrew
2026年4月29日

読書と思索
田中美知太郎
読んでる
"わたしたちは良識によって、いろいろな手段を、ひろい関連のなかで、うまく用いるように教えられる時、わたしたちに生得の利己主義がもっている、その盲目性を脱することになるとも言われるだろう。わたしたちの抜き難い利己主義を思う時、わたしたちは、せめて利口な利己主義者になることを、ある意味では、よしとしなければならない。つまり大きな打算は、わたしたちの小さな利己主義を脱皮させるかも知れないのである。しかし恐らく、わたしたちに大きな打算を許し、ひろく手段を見渡すことを教えるものは、むしろ常識であると言われるかも知れない。"
(『良識と常識』)
「常識」という言葉の思索により馴らされた
その表面に「良識」という言葉が浮き出し、
その「良識」の思索により馴らされた
その表面に、今度は「常識」という言葉が
より「常識」に磨きをかけて、また浮き出す。
著者は、思索を呼吸のように繰り返す。
この文章にはそのライブ感があらわれている。
文字通り、思索が息をし、生きている(Live)。
"われわれは、それを何か一定した言葉や法則として語ることはできない。それはそのような定形をのり越えるものなのだ。だからわれわれは、良識を一定の仕方で、教えたり、学んだりすることはできない。われわれはただ、自由の心をめざめさせるために、たがいに批評し合うことができるだけだとも言える。"
(『良識とは何か』)
言葉を殺すこと、それはその言葉を出入りする「息」の根を止めることではないかと思う。
会話のうちにも死んだ言葉はあり、
沈黙のうちにも生きている言葉はある。
「息苦しさ」とは、言葉どうしの回路が「定形」として固まってしまっているときのサインではないかと思う。
著者の述べていることではなく、ああでもないこうでもないという文章上の放浪そのものにこそ、著者のほんとうに言いたいことが現れているのではないかと思う。

