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2026年4月29日
岬
中上健次
「中上における志賀の文体(「主語の意識的な省略、一節の短縮、文末「た」の過剰使用」)の急進は「浄徳寺ツアー」で完成を見」(諏訪哲史『偏愛蔵書室』)たという一編から、続く「その武器を持って書かれた」「文学史上空前の傑作」(同)という「岬」を読んだ。二回半くらい読んだ。 「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。」 冒頭の一節に提示されるその文体に感動した。たしかにこれは美しい。その文体を意識しはじめれば、そこから一気に読まされる。主人公の「彼」が思うように「やっかいな物一切を、そぎ落と」し状況、心情を置き去りにしていくように進んでいく文章。しかし、そこにあるのは、その文体、文章から覚えそうな疾走感やドライヴするような感覚ではなくて、落とされたものから漂う今にも破裂しそうな暴力の不穏な雰囲気、近親相姦を思わせるような性的兆しに覚える忌避感、それらを感じることで生まれる焦燥感。その焦燥感によって、まさに、読まされた、気がする。 これはこの文体でなかったら、途中で読めなくなったかもしれない。そんな雰囲気の小説。それでも繰り返し読んでしまう、読まされる。 そうやって読まされ、読み進めていけば、最後には解放や昇華がある、あって欲しい気もしてきてしまうけれど、この小説の終わりに「やっかいな物一切を、そぎ落と」そうとしてきた「彼」がついに起こす行動には、解放や昇華は全くないし、それを感じたくもない。まったくままならない話だ。 ままらならい人生は小説が描くべきものだ、そんなことも思っているけれど、こんな話はあまり読みたくない。それでも、すぐに二回目を読んでしまったのは、やはり文体の力、魅力だろうか、それを意識して読んでいるということもあるにせよ、これは文体を読み、文体に読まされる小説だ。と今の時点では言い切っておきたい。その意味ではたしかに傑作だった。 - これは「父親殺し」に至るまでの話だ。「父親」を殺すためには「息子」にならざるを得ない。その「父親」の「息子」であると認めなくてはならない。その「資格」を得るためには、憎み蔑んでいたその男の血を受け入れ、彼のいるところまで落ちなくてはならない。その過程を描いた話だ。 「彼」が自分に似ていると思い、ある種の理想としてみている路地に一本植えられている木がある。 「花も実もつけなかった。ただ日に向って葉を広げ、風にゆれていた。それでいいと思った。花も実もつけることなど要らない。名前もなくていい。」 それはまさに「やっかいな物一切を、そぎ落と」した状態、彼の理想のようにも思われるのだけれど、木はその場所を動くことが出来ない。彼も「のがれがたい血のしがらみに閉じ込められた」その土地を出ることが出来ない、あるいは出ようと思えない。ならば、その土地で理想を叶えるには、その土地の「支配者」然と振る舞う、「彼」を根源的なところで悩ませる「父親」を殺すしかない。しかし殺すためには、理想とは逆に落ちるしかないのだ。 これは寝起きで考えて書いているから、多少適当な話だ。 この短編の続編にあたる二つの長編は、内容説明を読んでみたら、「物語」化し過ぎているような気がしたから、今のところ未だ読まなくていい気がしている。だから、わたしの「秋幸三部作」は一旦これにて完、ということで。この短編はこの短編だけで、たしかに傑作だったし。
岬
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