
みつ
@m-tk
2026年4月29日

読んでる
借りてきた
── 子どもは最初のうちは、大なり小なり自分を取り巻く大人──主として両親──の世界観をある程度受け容れて大きくなってくるが、子どもから大人へとなってゆく青年期にそれが大いに揺れるのである。今まで安定していたものが揺すぶられ、破壊されて新しいものができあがってくる。このときに、既成のものの否定的な面が拡大して意識されやすいのである。
子どもが大人になろうとするときは、したがって、今まで自分を守り育ててくれていた両親の否定的な面が急に見えてくる。しかも、それは映画のクローズアップのように拡大されてくるのである。それよりもむしろ、子どもは現実の親の姿を見ているのではなく、自分の心の中の親のイメージを見ているといった方がいいであろう。



みつ
@m-tk
── 親の世界と、子どもの見る世界の差について、われわれ大人はよくよく知っている必要がある。さもなければ、大人は子どもを不可解として突き放してしまうか、時には気狂いなどというレッテルを貼りたくもなってくるのである。

みつ
@m-tk
── 原因―結果の連鎖を探り出そうとする態度は、ややもすると目を過去にのみ向けさせ、そこに存在する悪を見つけて攻撃したり、後悔の念を強めたりするだけで、そこから前進する力を弱めることが多い。意味を探ろうとする態度は、むしろ未来へと目を向け、そこからどのように立ち上ってゆくかという建設的な考えに結びつきやすいのである。

みつ
@m-tk
── 古代社会においては、一回のイニシエーションによって、 子どもははっきりと大人になり、それで安心していられるわけであるが、社会の進歩ということを考えはじめた近代人にとっては、そのようなイニシエーション儀礼というものが、既に示したように、意味を持たなくなったのである。子どもaがAという社会の大人となったとしても、社会Aが進歩して社会Bへと変化してゆくとき、彼がそのままでいると、大人としては認められない存在となってくる。ここには極めて図式的に示した が、社会の進歩はこのように単純に図示できるものではないので、ある個人が子どもと大人の境界において、どちらともつかぬ状態になることが、近代社会において多くなるのも当然のことなのである。

みつ
@m-tk
── 現在、「大人になること」について、これほど語ることが難しく、ハウツー式のことが述べにくいのも、結局はモデルが無いからである。昔からの日本流も駄目だし、西洋流も駄目なのである。そうすると、いったい「大人になる」とは、どの ようになることか、モデルが無ければ判定のしようもないじゃないか、といわれそうだ。この点に関しては、モデルが無いことを認識し、モデルの無いところで自分なりの生き方を探ってゆこうとし、それに対して責任を負える人が大人である、といえるのではなかろうか。大人になるという決められた目標があり、そこに到達するというよりは、自分なりの道をまさぐって苦闘する過程そのものが、大人になることなのである。