@s_ota92
2026年4月29日
恋恋蓮歩の演習
森博嗣
p11
「周囲のどちらへも行ける自由とは、すなわち砂漠の真ん中に取り残された夜のようなもので、つまりそれが、孤独の必要条件でもある。だから、自由と孤独は、切り放せない。道が一本あれば、行く手は自然にその一つに決まる。選択する機会が失われる。その不自由さに、人は安堵して、歩み続けるだろう。立ち尽くすよりも歩く方が楽だからだ。そして、その歩かされている営みを「意志」だと思い込み、その楽さ加減を、「幸せ」だと錯覚する。孤独という自由を、人は恐れ、その価値を評価しないよう、真の意志の存在を忘れるよう、人は努力する。自分たちを拘束する力を「正しい」と呼んで崇めるのだ。まるで蟻のようだ。」
p13
「まだ若かった私は、貨物船に乗って、海を渡った。祖国から逃げ出したのだ。」
p18
「風貌というよりは、彼に纏いついている空気、つまり電磁バリアのように触れないかぎり見てないカバーに、彼女の視線が接触して反応した、と表現した方が近い。」
p22
「その年代の男性にしては髪が長めで、スーツなのに、ネクタイをしていなかった。」
p34
「「えっと、つまり、はっきり言うと、貴女に会うために来ました。」」
p36
「「うーん、今は、建物の中へは入れませんけれど、たとえば、水平の柱がとても太くて、びっくりするほど広い空間があったり、廊下にまで畳が敷かれていたり。あ、そうそう、使用人が通るための廊下は板張りなんです。畳の廊下と板張りの廊下が、並行して別々にあるんですよ。」」
p44
「先週の二十分よりもずっと短い一時間に感じられた。」
p45
「このときは、ピザの二ピース、すなわち全体の四分の一を彼女が担当した。」
p46
「「そう、躰がエッシャの絵みたいになるかも。」」
p47
「店の名前はラ・ヴィーニャ。」
p50
「「もしかしたら、アーモンド・ポッキーが克服できるかもしれない。」羽村はそこで優しく微笑んだ。」
p57
「彼が少林寺を始めたきっかけが、彼の人生にとっては特別なものだったし、現在でも特別のままに大切に心の奥で保管されている。」
p59
「適度に親友といえば親友、最適ではないにしても、気の置けない仲である。」
p64
「「うーん、まあ、ありていに言うと、デート?恋?」」
p66
「まるで瞬時に人格が入れ替わるように、変化する。もちろん、本人が切り替えているのだろう。」
p67
「「いろいろな思惑があって、それらが交錯している。人はそれぞれに観察できる現象を解釈し、そこに理由付けをするのよ。良いことと悪いことの区別をして、自分の設計図を画く。未来のあり方を思い描き、自分で何もかも決めていこうとする。そう願っている。それができると信じているの。だけどね、結局のところ、歩くときに、どちらの足をさきに出すかの違いでしかない。人間の選べることなんて、せいぜいが、それくらいのちっぽけな差でしかないわ。」」
p70
「そして、どういうことだろう……、またも背中を誰かが押したとしか思えない、そんな不思議な力で、梨枝は彼の方へ引き寄せられ、そのままキスをした。」
p75
「「でも、当時の僕にはわからなかった。つまりこれって、恋は盲目というやつかなって……。」」
p77
「その日は、きっと特別な夜になる。そんな予感がした。否、それはもう、暗黙の了解。確実な約束にさえ思われた。」
p80
「「N大の航空学科の方ね。」」
p81
「「日にちを思い出しましょうか?」
「四秒ほどお待ちになってね。」そのまま目を瞑る。キスを待つ少女のようだった。」
p83
「抵抗しがたい女神のような微笑み、つまり、すべてのものをキャンセルする力のある微笑だった。」
p87
「「髭を剃ったんだ。」「ええ、誰かさんのおかげでね。」」
p87
「彼女の名前は各務亜樹良。」
p88
「あまり誇張はしたくないのだが、彼女の瞳は、隠しておくだけの価値がある魅力的な部分だった。そうやって、いつも一番肝心なときに、それを見せるというのが彼女の手法だ。なんでも無駄には使わない性分なのだろう。」
p89
「「パリで関根朔太の絵が落札された。」亜樹良は話す。「彼が若い頃に描いた唯一の自画像。落札したのは日本人。鈴鹿財閥の現在のトップ。」」
p100
「なんか……、今夜……、今夜、特別なことが、特別なスペシャルな、あらま、同じやん。何か、起こるのでは、あるまいか……。アルマイカって、なんか鉱物みたいやな。といった期待と不安で、どきどき。」
p102
「馬鹿!なんという情けなさ……。」
p108
「「なんや……、オセロかいな。」紫子は呟く。」
p113
「「ここに打てば、黒が次にここに打つから、そうしたら、ここに打って、うーん、勝負ありね。白の勝ち。でも、もし黒がここに打ったときは、今度は白はここに打たないかぎり……、負けるかな……、そうね、負けだね。」」
p115
「「つい最近、親しくなった人なんだけれどね、今、恋の真っ最中って感じなの。ずいぶん歳上の男の人との結婚を考えていて……。」」
p116
「「水平の柱とは言わないもの、建築家なら。」紅子は片手を小さくふった。」
p117
「その後、この二人のことが話題になるようなことは、しばらくの間なかった。「豪華客船から消えた死体」という見出しで新聞を賑わせ、世間の話題をさらった、あの奇怪な事件が発生するまでは……。」
p120
「どうして変化に対して人は臆病になるのだろうか、と考える。そんなことを考える自分を自覚して驚く。きっと、失敗したとき元どおりに戻れない、という心配(あるいは予測)があるからだろう。」
p123
「できるかぎり、自由に……。そういった思いが、このところ強かったからだ。まるで、その種の抵抗こそが、大人として、一人の人間として、独立することと等価だとさえ、彼女は感じていた。」
p126
「「そういう意味じゃないから、気にしないで。私が、多少特別なだけで、そんなね、周囲の雑多なことなんて考えちゃ駄目だよ。顔だけじゃなくて、頭の中こそ綺麗にして、自分の幸せだけ考えていたらそれで良いの、それが第一。」」
p126
「「私の場合はね、なんていうか……、どう説明したら良いかな……、複雑怪奇というべきか、糾える縄の如しってのも、当らずともいえど遠からずっていうか、まあ、人生は万事塞翁が馬とも言い切れない、やり切れない、切ないロンリィ・ハート。」」
p127
「「生活を変えようってことに興味がない、というよりもね、うーん、そもそも、どんなふうに生きていくのか、という点についても、特に希望はないの、私。生きていることは、単に容器を維持するという意味しかないと思うから。ただし、好きな人はいるし、その人と一緒の時間は、もう私じゃないくらい夢中。自分でも不思議だと思うけれど、なるべく自分に抵抗しないことにしているの。ただ、そんな大切な時間も、楽しい時間も、どれも、自分の本質、つまり容器の中身とは結びつかないわ。そうは思わない?たとえばね、貴女も研究をしているからわかると思うけれど、物理学の一分野に没頭することは、実生活とどう関わっているかしら?波動方程式に取り組んで、そこから得られたものを、恋人とどう共有したら良いかしら?逆に、生活の中で経験するいろいろな感情を、どう研究に還元できる?そもそも違うもの、相容れないものじゃなくて?それと同じだと思うの。」」
p128
「「あ、でも、私たち、似ていますよね。境界条件が。」」
p129
「やはり、紅子という人格は特異だ。第一に、客観性が際立っている。第二に、同時に多数の対象、様式、方法を容認する傾向があり、第三に、インターバルの短い思考の転換を見せる。」
p137
「「ヒミコという船に、二週間後に乗ることになる。」」
p141
「保呂草の知るかぎり、彼は年齢が九十歳、そして、彼の娘が天才画家、関根朔太の妻であった。」
p143
「貨物船のあの暗闇のせいだろうか……。」
p149
「「自分以外の人生を経験するみたいなところが、けっこう面白いから。」」
p150
「「ニュージーランドかあ……、良いなあ。」「船で行ったの。」」
p151
「「ヒミコっていうんだけど……。」」
p156
「なんということ!また、眠ってしまったのだ。」
p157
「素敵な夢を見た。そう、船に乗って……。」
p158
「自分は、独立した自由な人間なのだから。」
p160
「「これ?この、ヒミコに?」」
p167
「「何言うてまんねん。芦屋のお嬢様よ、こちとら。」」
p172
「紫子はもう一度目を瞑った。彼女の唇に何かが触れる。目を開けて確かめた。保呂草の顔が遠ざかる。」
p176
「三度目の正直である。」
p177
「愛のクルージング。豪華客船のアバンチュール。太平洋二人ぼっち。」
p183
「「うんとね、船が好きだって言ってたもん。あ、そうそう、新婚旅行が船旅だったんだってさ。エリザベス号って言ってたかな。」」
p189
「「パンクしないといいね。」運転席の森川が洒落たことを言う。だが、よく考えたら、彼は降ろしたスペアタイヤのことを言っているだけだった。」
p192
「「もしかして、かの有名な各務亜樹良女史では?」」
p193
「「お供の四人が麻雀でも始めてくれたら、しめたものだけど。」」
p201
「「私、貴女が好きよ。」紅子が言った。「信じてる?」」
p206
「キスをする。一度唇を離し、もう一度確かめる。」
p207
「今さっき……、デッキで、あの男を見たばかり。向こうは気づかなかったようだ。良かった……。」
p208
「そう……、鈴鹿明寛が歩いていた。」
p209
「「しこさんのことを心配しているんでしょう?」」
p210
「「私のボディガード。」紅子はウインクした。」
p211
「「小鳥遊君にはチョコが良いね。」「紅子さんには、ハンカチくらい?」「ブランドものでね。」保呂草が頷く。「あそうだ、日傘とかも良いな。」「森川君は?」紫子が尋ねる。だんだん楽しくなってきた。「喉飴。」保呂草が即答する。「じゃあ、へっ君には?」「地図帳。」「根来さんは?」「紅茶の葉。」」
p212
「ヒミコ号のレリーフである。木製の枠にクリスタル。端にデジタル時計が仕込まれている。」
p213
「「鈴鹿明寛氏の奥様?」」
p223
「「そうだね、小鳥遊君は向いていると思う。だけどね、医者だって同じじゃないかな。直すように見えるけど、結局、悪いところを見つけて、取り除いているだけじゃない?治る力は、もともと患者が持っていた能力だよね。社会が良くなるのも社会の力だし。人と人の関係が修復するのも、その人たちの能力によるしかないんだ。周りのものは、悪い部分を指摘することしかできない。」」
p226
「「僕がそうやって生まれたとしたら?」保呂草は微笑んだ。「僕には母親がいない、としたら?」」
p229
「「以前に、瀬在丸のお嬢様にはずいぶんとお世話になりましたもんで、さきほどやっとかめにお会いできて、光栄です。そりゃもう、嬉しくて嬉しくて、顎が外れてしまいそうになったくらいでして。」」
p237
「突然、短い爆発音が鳴った。」
p258
「この部屋の乗客は、羽村怜人という名の男と、大笛梨枝という名の女。」
p266
「年齢は九十と聞いている。クロウド・ボナパルト。」
p270
「「あかんて、もう、ぜーんぶ……、計画めっちゃくちゃ。」」
p274
「「疑惑の海のために。」「乾杯。」」
p285
「どこかで一度経験のある匂いだ。懐かしい。しかし思い出せなかった。」
p285
「「もう、盗まれたあとか。」」
p291
「「エンジェル・マヌーヴァを追っているんでしょう?」」
p296
「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)とは、関根朔太画伯に絡んだ美術品の名称である。」
p297
「「ボナパルト氏と関根氏の因縁の財宝だよ。」」
p298
「「私は一億二千万円でそれを買いました。売るときは、倍以下では売りません。」」
p299
「「お知り合いですか?」七夏は彼の表情の変化を見逃さなかった。「ええ、まあ……。」明寛は頷く。」
p303
「母親がそばにいなくても、子供は安眠できるものだ。きっと、できるだろうな、と彼は思う。そして、微笑もうとした。鏡は湯気で曇り、自分の顔はもう見えなかった。」
p309
「「探しなさい。」鈴鹿幸郎が七夏を睨んで言う。ぞっとするほど鋭い視線だった。「見つかるはずだ。必ずある。」」
p312
「小学六年生になる紅子の息子も、幼稚園に通っている七夏の娘も、父親は同じだった。」
p320
「「額に入っていて、大きさはせいぜい三十センチ角くらいです。」」
p321
「「自画像って必ず顔が描いているんですか?」」
p330
「「そうじゃなくて、もしかして、鈴鹿さん、盗まれたことにしたいだけなんじゃないかな。」」
p338
「「となると、鈴鹿明寛氏が、ここで羽村氏と言い争って、ベランダで撃った。そして、海へ投げ込んだ、という可能性があるのですね?」」
p341
「「でもね、本当に比較が可能なのは、得られると期待されるものと、失うと想像されるもの。」」
p344
「「首になるのがそんなに怖い?私なんか、もう何もないのよ。全部なくなってしまった。全部取られてしまったのよ。だけどね、どうしても取られないもの、誰にも渡せないものがあります。それが、人の価値を決めるものです。それだけは、最後まで、死ぬまで、誰のものでもありません。立ち上がりなさい。人の誇りを持ちなさい!」」
p346
「「今は優しいの。」紅子が簡単に答える。」
p350
「なんと……。また、やってしまった。」
p364
「「人違いの相手も、女性だってこと?」」
p368
「だが、のちのち祖父江七夏は後悔することになる。このとき、羽村怜人だけではなく、どうして大笛梨枝についても調べさせなかったのかと。」
p372
「「一緒にいたいがために、殺人事件を起こすっていうのは……。」」
p373
「「最初からなかったのかもしれませんね。」」
p374
「「自画像がどこにあるのか、知っています。」」
p375
「「各務亜樹良さんね?」」
p376
「「この船の中にあるわ。」紅子は答え、ワイングラスに口をつける。「どこ?」「だから、船の中。」」
p377
「「船にやってきた愛知県警の刑事さんは、このまえの飛行機事故を担当した方ですよ。貴女の指紋も、私が警察に届けたのです。私、殺されたくないから、貴女が宮崎を出るまでは黙っているわ。」」
p381
「「根来先生が大石内蔵助なんだね。」」
p387
「宛名は羽村怜人である。住所も書かれていた。保呂草は裏を見る。大笛梨枝という名前だけだった。」
p390
「「私、バイトで、保呂草さんの張り込みのお手伝いをしててんけど、そのとき、大笛さんを見たんです。カメラにも撮った。確かに、あの人やったわ。うん、絶対。ああ、ホンマすっきりした。もう思い残すことはない。」」
p391
「「私たち、似ていますよね、境界条件が。」」
p391
「「どっちの事件?羽村さん?それとも、関根朔太の絵?」「どっちも、同じなの。」」
p403
「彼女は微笑み返す。夏の道路に現れる逃げ水のように、近づけば消えてしまう、離れていなければ見ることのできない、そんな笑顔だ、と保呂草は思った。」
p409
「「そとそと羽村さんなんていなかった。絵も最初からなかった。ピストルはフランス人が大笛さんに渡した。大笛さんは、それで偽装をした。あ、そうそう、大笛さんって、鈴鹿さんの元の奥さんなんですよ。」」
p411
「「子供を抱きたいくらいで、すると思います?あんなこと。」」
p417
「紅子が省略した質問の目的語は、「関根朔太の自画像」である。「一度しか言いませんよ。」保呂草は窓を覗く振りをして話す。「見てしまったからです。」目的語は同じだろう。」
p417
「「愛知県警に電話をかけたのは、貴方ね。」」
p420
「「そもそも県警に入った通報が、保呂草の仕業だったのに違いない。」」
p423
「それは船だ。客船ヒミコ号である。その横に時計の数字が現れていた。クリスタルのレリーフである。」
p424
「「お酒が入ると、たちまち眠り姫とかさ。」」
p426
「「三十センチくらい。四角くて、平べったくて。」」
p428
「絵の一番明るいところに、焦点が合い、鮮明に描かれた部分がある。とても小さかった。目を近づけないとわからないほどだ。部屋の隅に腰掛け、膝に手をのせている若い女性が、克明に描かれていたのである。」
p428
「「関根朔太の自画像です。」」
p429
「「貴女のものです。」「最初から、貴女のものだった。」」
p432
「だが、私はその絵を見てしまった。これはもう、どうにもならない。私は、絵を見ることのできる人間だ。」
p435
「さらには、ほんの僅かばかりの風が、誰かを愛するために、自分は生きているのだという、思い込みの風が、くすぐる程度に吹けば良い。人はときに、そんな微風で動くものだ。」
p440
「保呂草さんっていうのね、それ、本当の名前なの?」