
綾鷹
@ayataka
2026年4月29日
水車小屋のネネ
津村記久子
身勝手な親から逃れた18歳と8歳の姉妹が、山間の町の水車小屋で暮らす賢いヨウムの「ネネ」や周囲の人々に支えられながら、40年間にわたって助け合い、絆を深めていく物語。
ただただ温かい物語だった。
「自分はおそらく姉やあの人たちや、これまでに出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている」という律の言葉はじんわり心に沁みる。。
正直、こんなに美しい世界は現実に存在しないだろうと思ってしまう。
だけど、登場人物の不器用な真っ直ぐさ、相手を想うこと、人との繋がり、人を信頼すること...この本に描かれている温かさが、自分も人に優しくありたいと思わせてくれる。
・一人でちゃんとやってるって本人も思ってただろうし、私も思ってたけれども、本当は、母親は心のどこかで男の人に頼りたかったのかもしれない、と思い至ると、理佐は泣きたくなる。
自分はまだ頼りないけれども、十八歳になって、高校も卒業した。それから二年また学業に就くとはいえ、平日はアルバイトをして日々の出費は自分でまかなっているし、アルバイト先でさまざまな年代の同僚の女の人たちと話すうちに、世の中の仕組みもぼんやりと見えてきた。
大人だと言い切るにはまだ少し足りなかったかもしれないが、もうすぐ大人になるだろうとい
う実感はあった。
どうして私じゃだめなの?と母親にたずねたかったけれども、成人した男と自分を頼りになる相手として比べるのは、理佐の中では正当なことであるのに対して、母親の中では違うことなのだということも、なんとなくわかっていた。わかることが悔しかった。
そんなに男の人と私たちは違うんだろうか。理佐はそう思いながら、とりあえず同じバスに乗っている男性を探してみる。
運転手さんと通路を隔てて向かい側の席に座っているおじいさんが、このバスの中では男性だ。バスの運転ができるのはすばらしいことだと思うけれども、私も学校に行って訓練をすればちゃんとこなせると理佐は考える。隣の席のおじいさんは、険しい顔で居眠りをしている。
居眠りなら理佐でもできる。
・部屋に帰ると理佐は、テレビを観ながら律が選んだパイナップルの柄の布で巾着を作った。
母親が短大の入学金を振り込んでいないことが発覚して以来、一度も針を動かしていなかったので、律のために簡単な巾着を作るだけでもものすごく気が晴れた。
いつもより丁寧に縫って、三晩かけて完成させて律にあげると、お姉ちゃんすごいね!
とても喜んだ。すごいかな?と訊き返すと、気が付いたらこんなもの作ってるなんてすごいよ!びっくりした!と律は目を輝かせた。
律はほとんど大人みたいな口をきくこともあるし、子供扱いをして変に甘やかしたりしたくない、と理佐は常々考えていたのだが、その時はどうしても自然に手が出て、目の前の律の頭をなでた。まだ小さな、子供の頭だった。
・私さ、七月に百貨店にお父さんと行って、服が決まらなかったんだよ、二人で何買ったらいいかわからなくなってさ、私にどういう服が似合うとか、私がお店の人に着せてもらってみてもお父さんわからなくて、そのことをすごく気にしててさ、と寛実が律に言っているのが聞こ
えた。「私はお父さんといて、毎日将棋したりして楽しいんだけど、お父さんはお母さんがいないことをたまにすごく気にしてて、私に女の子らしいことを何も教えてやれないって言うんだけど、でもべつにいいよね」
こうやってりっちゃんのおねえちゃんとかりっちゃんが手伝ってくれるんならさ、そんなに気にしなくていいよね、私もわからないことがあったら二人に相談するし、と寛実は続けた。
「じゃあ私もわからないことがあったら相談していい?」
理佐がそうたずねると、もちろんいいよ、と寛実はうなずいた。一緒にいいように考えていこうよ、と寛実と理佐の真ん中にいた律は、二人の背中を軽く叩いた。
・はぎれのワゴンの所に戻ると、これ二百円なんだけど、買っていい?と律が大きなスマイルマークの図案が散らばっている生地を見せてきた。いいよ、とうなずくと、やった、と律はうれしそうに笑った。
「また松ぼっくり入れる巾着を作ろうか?」
「自分で折ってブックカバーを作るよ」
律の言葉に、そうか、と理佐はうなずく。
「ケープを作って、ワンピースも作って、もう作るものがないのかと思うとちょっと寂しいな」
「じゃあ自分用に何か作れば?」
律に言われて、自分用に、というのをまったく考えていなかった理佐は、驚いたように少しの間目を見開いて、それもそうだね、と言った。
「でも今度は杉子さんの帽子か、浪子さんのエプロンを作ろうかな」「そうやって好きなだけうまくなってから、自分のを作ったらいいよ」理佐は、わかった、とうなずきながら、来年は婦人会はどの曲を歌うのだろうと考え、寛実はなんという曲を弾くのだろうと想像した。それまでは、自分と周りの人たちのために、何か少しずつ作ることができたらいいと思った。
・杉子さんや寛実や律に囲まれた園山さんが、細身の体で腕を組んで自宅の門の前で今か今かという様子で理佐を待っていたのが、申し訳ないけれどもなんだかおもしろく見えて、わざわざすみません、と理佐は笑いながら頭を下げた。
足踏みミシンは、それも倉庫にあったからと園山さんが貸してくれたリヤカーに積んで、みんなで進んだ。園山さんの息子さんも不意に現れて、寛実や律と一緒にリヤカーを押して手伝
ってくれた。
アパートに到着すると、その場にいる全員で、ミシンとその台に群がるようにして持てるところを持ち、部屋の中に運び込んだ。重そうに見えるけど、何人かで持つとぜんぜん重くなかったね、と律が言っていたことが、理佐はなぜか長い間忘れられなかった。手伝ってくれた人たちにお茶でも出そうとお湯を沸かそうとしたけれども、じゃあまた、と言い合いながらみんないつの間にか帰っていた。
・山下さんは本当のことを話している、と聡は思った。その時聡が感じたのは、他人の来し方を耳にすることの気詰まりさではなく、本当のことだけを話してくれるとわかっている人と接する時の不思議な気楽さだった。聡の周りが全員嘘つきばかりだったわけではないし、現に今は嘘をつく必要のない生き方をしている人のほうが多いのだが、聡はあまりにも、自分の弱さを正当化するためだとか、誰かに罪悪感を抱かせるために口を開く人々の言葉を真に受けながら生きてきた。その人たちの保身に、どこまでも翻弄されながら生きてきた。
山下さんの話を聞きながら、聡は、けれども結局、自分は自分で思うほど他人を否定して生きてきたわけでもないことに気が付いた。確かに、家族に起こったことは、不幸という以上に許せないだろうし、生きている者たちとは一生和解などできないだろうし、自分が人と関わっていくことへの倍頼を大きく損なったけれども、だからといって自分が他人からまったく助けられたことも、他人に興味を持ったこともないということはないと思った。聡には、自暴自棄になっている時に支援団体につなげてくれた友人がいたし、その団体の人々が親身になってくれたし、自動車部品の工場でも挨拶を交わし合う同僚がいたし、川村杉子さんは家を貸してくれた。
「よかったですよね」聡はほとんど何も考えずにそう言った。そんなふうに話せることに喜びを感じた。「自分にはもう家族はいません。でも、だからといって何もかも投げ出すことはないんだと思いました」
今本当に思いました、と聡は山下さんの方に体と顔を向けて言った。
・「中に入る?」
「ここでいい」
聡の言葉に、山下さんは無言でうなずく。
「話したいことがあって。自分のことなんだけど。自分は若い時にひどい挫折をして、それで
もう、自分は終わった人間なんだと思ってて、それならどこにでも行ってそこで浦えようと思って、ここに働きに来た」
山下さんはじっと聞いていた。聡が、次の言葉を探しながら息を吸うと、続けて、という声が聞こえた。
「何でもどうにでもなったらいいと思ってた。でも、きみの就職が決まった時に、一年後もうまくやれてるだろうか、そうだったらいいなと思ったんだ。自分のことでも他人のことでも、一年後のことなんて考えたのは二十歳の時以来だ」顔が熱くなってきたので、聡はフードを利いで玄関口に立っている山下さんを見つめた。山下さんも、目を逸らさなかった。「そういうふうに思えるってことは、まだ終わりじゃないからだと気が付いた。きみが近くにいると、自分はたぶん勇気を持つことができる。報われないことを恐れなくて済んで、自分がそうしていたいだけ誠実でいられるんじゃないかと思う。守さんを迎えに行った時だってそうだった。そのことについて、感謝を伝えたかった。どうもありがとう」山下さんは変な顔はしなかった。代わりに、ほんの少しだけ笑って、話を聞けて良かった、と言った。
「今お茶を淹れたところで」
「うん」
「飲んだらネネの様子を見に行って、浪子さんと守さんのところに行く」
聡がうなずくと、山下さんが手を伸ばして、聡の前腕にそっとさわった。
「それまで話をしていって」
「わかった」
それから一緒に行ってもいい。目の前を横切る雪が強くなるのを眺めながら、聡はその向こうにいる山下さんをじっと見つめていた。そして、自分はもう、どうでもいいなどと思うことはないだろうということを、強く確言した。
・陽が落ちる直前の渓谷を眺めながら、律は地元の駅へと帰っていた。恵まれた人生だと思った。母親の婚約者に家から閉め出されて、夜の十時に公園で本を読んでいた子供が、大人になって自分の稼ぎで特急に乗って、輝く渓谷をぼんやり眺めている。自分を家から連れ出す決断をした姉には感謝してもしきれないし、周囲の人々も自分たちをちゃんと見守ってくれた。義兄も浪子さんも守さんも杉子さんも藤沢先生も榊原さんも、それぞれの局面で善意を持って接してくれた。
自分はおそらく姉やあの人たちや、これまでに出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている。
・「迷惑かもしれないけど、孫みたいに思うところもあったんだよね」榊原さんは、五分の一ほどまでに減った寿司桶を見下ろし、庭の花木を見上げた。「とても寂しい」「寿司がなくなるのが寂しいみたいに見えたよ、今」「違う。研司君がいなくなることだ」
寛実の言葉に、榊原さんは花木でも人々でもない方向に視線を向けて、顔を見られまいとしたように見えた。
「いなくなりはしませんよ。母親もいるしときどき帰ってきます」「でも期限は決まってないんだろう?」
「そうですね」
「いいことだ」榊原さんは、そう言ったらそれがよりいいことになるとでもいうような様子で続けた。「誇らしい」
「よその息子さんに何言ってんのよ」
寛実は笑って、残ったローストビーフを指さし、持って帰る?と研司にたずねた。研司は、お願いします、とうなずいていた。律の肩にやってきたネネが、持って帰る?と律に向かって寛実の真似をしたので、お願いします、と同じやりとりをした。
・「山下さんが昔話してくれた、いろんな人によくしてもらって、それでお姉さんに勇気があったから自分はこんな人間になったんだっていう話を思い出して」研司は、ネネに髪を摘まれながら、律と同じ方向に視線をやる。「自分もそうなのかもしれないと思ったんです。山下さんもだし、榊原さんもそうだし、鮫渕さんも理佐さんも、守さんとか渡子さんも自分によくしてくれたから。もちろんネネもな」
研司はネネを見上げて笑う。ネネの頭と研司の肩が夕日に照らされている。
「自分が元から持っているものはたぶん何もなくて、そうやって出会った人が分けてくれたいい部分で自分はたぶん生きてるって。だから誰かの役に立ちたいって思うことは、はじめから何でも持ってる人が持っている自由からしたら制約に見えたりするのかもしれない。けれどもそのことは自分に道みたいなものを示してくれたし、幸せなことだと思います」
律は長い間何も言えなかった。悲しいのでもうれしいのでもない感慨が、自分の喉を詰まらせていることだけが明らかだった。
陽が落ちきる直前に、それはよかった、と律はやっと言った。本当によかった。
・女の子が住む町へは、十七時頃に戻った。まだ空は明るかったので、律は、川沿いを一緒に散歩してもらってもいいですか?と女の子に頼んだ。女の子が少し迷った後うなずいたので、やった、と律は川べりへと向かう階段を急いで降りていった。
この町の川岸の建物は、後方が川の側にせり出していて、建物自体が崖のようにそびえ立って見えた。同じようなピンク色の四角い洗濯物が、三階のベランダでゆらゆらしている家を指さして、あれは何をしてる家か知ってます?と女の子にたずねると、美容院だったと思う、と彼女は答える。
「家を見るのがわりと好きなんだけど、家の裏を見るのが特に好きなんですよ」女の子は無反応だったが、律はかまわずに続ける。「なんかどの人も生活してるんだなあと思って。当たり前のことだけど。そしたらなんか謙虚なのかえらそうなのかわからない気持ちになるんです。自分が物事をすごくわかってる人間みたいな気分がしてきて。自分はそういう人間になりたかったんだから、今はまあ不満を言うのはよしてやろうかって。どこの誰だかわからない人間も、めんどくさいなあってたぶん思いながら洗濯とかしてるんだから、自分も帰って手をつけられることからやるかって」
ざあざあという川の音が常に聞こえていたので、律はいつもより大きな声で話した。けれども、女の子に伝わらないならそれはそれでいいと思っていた。
・・・・・みが悪い、という声が、川の音に紛れて聞こえてきたので、律が、ええ?と訊き返すと、趣味が悪いって言ったの!と女の子は言う。
「そうですね。趣味が悪いしかっこ悪い。他人の生活だとか人生について想像するなんて。そんなこと考えずに、自分の居心地の良さのことだけを考えてる人の方が素敵な人生を送れるはずなのに!」
川の音に負けないように律が声を張り上げると、女の子はうなずく。律は、でも自分は、自分の居心地の良さのことばっかり考えてる大人から、家を閉め出されたりしたこともあったんで、そういうことばっかりは考えられなくなったんです、と打ち明ける。
女の子が立ち止まる。律は、河原の大きな石を踏みしめながら、水際のところまで歩いていって立ち止まる。流れの速い水面に、夕方の光が無数に反射している。
・自分がそういう生き方をしてみようと思ったのは、律を受け持つことになってからだと藤沢先生は最近話してくれた。それまでの自分は、教師の一家に生まれて、女で、一人っ子で、可能ならば同じような身分の人と結婚をして、子供を産んで、教師という人生の中で祖父や母親や父親が辿った昇進の後を追うことが何より望ましいと長いこと聞かされてきて、そのことにようやく疑問を持ち始めたけれどもどうしたらいいかわからないだけの人間だった、と藤沢先生は語った。けれども、山下さんのお姉さんが現れて、自分の生徒と一緒にすごく思い切った生活を始めて、本当に心配でたまらないけれどもなんとか暮らしを立ち行かせようとしているのを見て、自分がその手助けができるんだとわかった時に、私なんかの助けは誰もいらないだろうって思うのをやめたんですよ。
・律が冷蔵庫から四角い大きなバットを取り出し、姉が皿を用意してその場にいる人たちに渡すと、それぞれが好きなだけプリンを皿にとって食べ始めた。壁際の椅子に座ってプリンを食べながら、律は行き交う人々をぼんやりと眺めた。プリンはおいしかったし、勝手に淹れて飲んでいる紅茶もおいしかった。その場にいる人たちは親しい間柄の人もいればそうじゃない人同士もいたけれども、おおむね楽しそうに話したり、律と同じように静かに座っていたりした。
しばらくの間、自分という人間がおらず、何もしなくていいように感じることを気分良く思いながら、律は去っていった守さんや杉子さんや、この場にいない藤沢先生のことを思い出していた。彼らもその場にいるような気がした。誰かが誰かの心に生きているというありふれた物言いを実感した。むしろ彼らや、ここにいる人たちの良心の集合こそが自分なのだという気がした。
律はプリンを食べながら、背中側の壁に掛かった杉子さんの絵を見上げた。最後に描いた、菜の花とそれにつかまるてんとう虫が前景に描かれた、菜の花畑の絵だった。何か言葉を思い付くことはなかった。ただ、満足だと思った。