
綾鷹
@ayataka
2026年4月30日
すべて真夜中の恋人たち
川上未映子
34歳の孤独なフリー校閲者・入江冬子が、年上の男性・三束(ミツツカ)さんとの出会いと恋を通じて、光のような「確かな自分」を手に入れるまでを描く物語。
強く胸に残る物語だった。
主人公の不器用さ、自信のなさ、孤独感、何かに縋りたくなる気持ちには、自分も思い当たる部分があって切なく。。
ずっと受け身の主人公が、三束さんに対してだけは不器用にも想いを伝えていく姿には胸が詰まる。
三束さんの真実も、2人の結末も切ない。
孤独な者同士だからこそ引き寄せられたのに、、と思ってしまう。
それでも、自分の気持ちに向き合って、行動して失敗して折り合いをつけて...という過程がなければ、自己を発見することはできないのだなぁ。それが苦しい作業だとしても。
・黙って仕事をすればするほど、長く勤めれば勤めるほど、居心地が悪くなっていった。頼まれた仕事をいっさい断らないで、しめきりに一度も遅れたことのないのもよくなかったのか、良い人ぶるのに必死だよね、ここ以外に行く場所ないから必死だよね、あの人って何が楽しいんだろうね、と入社したばかりの十歳近くも年下の女の子ふたりがわたしのことを話しているのを偶然に耳にしたこともあった。でも、わたしはいつもよくわからなかったのだ。何をどう楽しんでいいのか。断りたい仕事があっても、それをどんなふうに断るのが正しいのか。考えれば考えるほど、最後にはいつも自分の気持ちのようなものがわからなくなって、それで行動を起こせないままにやってきただけだった。ほかに行くところがないということも、じっさいに何も楽しみがないというのも、彼女たちの言うとおりかもしれなかった。
・「わたしはね、信頼できる仕事をする人がすきなの」しばらくして、聖が言った。
「信頼?」
「そう。信頼」そう言うと聖はうれしそうな顔をして笑った。
「それはね、信用っていうのとはまたちょっと違っていてしなんていうのかな、読んで字のごとく、まあ、頼れるところがある、ってことなんだけど」
わたしは肯いた。
「信用っていうのは、信用貸しとかいう言葉もあるくらいでさ、この人とは利害が一致するなと思ったらしつまり、人って一方的に用したりしなかったりすることができるじゃない。
だからそこには相手がいない感じがするのよね。つまりいったん信用したとしても、何かのちょっとした加減で、そんなのいつでも信用できなくなることもできるっていうか」
「うん」
「その意味では、信用なんてたいしたことじゃないのよ。ちょっとした都合や風向きで簡単になかったことにできるものなのよ。でもね、言っていうのはわたしにとってそうじゃないのよ。信用と信頼は、ちがうの。信頼したぶん、わたしも相手に、何かをちゃんと手渡しているって、そういうふうに感じるの」聖はそう言いながら耳のうしろを掻いた。
「そして、ひとたびその相手を信頼したら、その信頼は消えることはないのよ」わたしは黙ったまま聖の言葉に肯いた。
「そういうものなの。それでね、わたしが信頼するのは、すきとか恋愛とか、愛とかしそういうところから出発するようなものじゃなくて、まずその人の仕事にたいする姿勢であるってことなの」
「仕事の姿勢?」わたしはききかえした。
「そう。姿勢。仕事にたいする姿勢よ。そこにはね、その人のぜんぶがあらわれるんだって、そんなふうにわたしは思ってるところがあるのよ」
「それは、真面目さとか、・・・・・そういうの?」とわたしはきいてみた。
「そうね」と聖はちょっと考えるようにしてすこしのあいだ天井のほうをみつめてから、何度か昔いた。「平たく言えば、そういうことかも知れない。仕事ってね、それが家事でも、スーパーのレジ打ちでも、たとえばディトレードでも肉体労働でもなんでもいいの。種類でもなければ、結果を出すとか出さないとか、そういうものでもないの。結果なんて運もあるし、そんなものいくらでも変わるもの。他人なんていくらだって言いくるめることはできるし、ごまかすことだってできるしね。でも、自分にだけは嘘はつけないもの。自分の人生において仕事というものをどんなふうにとらえていて、それにたいしてどれだけ敬意を払って、そして努力しているか。あるいは、したか。わたしが信頼するのはそんなふうに自分の仕事とむきあっている人なのよ。こう言っちゃうとなんだかまるきり時代錯誤の馬鹿みたいなんだけど、わたしはそう思ってるところがあるのよ」
・隣のビルの看板や外壁や窓がうっすらとむこうにみえ、そのうえに、かすかに青味がかって浮かびあがっているわたしは、なんだかとても哀れにみえた。それは可哀想なのでもなく、みすぼらしいのでもなく、哀れという言葉がいちばんぴったりとしているそんな姿だった。雑多なものがすこしずつ映りこんでいるガラス窓に重なっているのは、そんな女の人だった。頭の輪郭のあたりには東ねきれなかった後れ毛や短い毛が散っていた。だらりと肩がさがり、目のまわりは落ちくぼみ、足も手も短くて首だけがいやに細長くみえた。鎖骨や喉のあたりには筋が浮き、張りどころか肉がごっそりと落ちて頼には変な斜線が引かれているみたいだった。そこに映っているのはカーディガンに色あせたジーパンをはいた三十四歳のわたしだった。ひとりで、こんなに天気のいい日に街へでても、どうやって楽しめばいいのかもわからない、哀れな女の人だった。そして、みんなが無視するか受けとってもすぐに捨ててしまうようなものでぱんぱんに膨らんでいるバッグだけを大事そうに抱えていた。
・「三十四年というのが長いのか短いのかはわからないけど」と聖は言った。「生きることにこっというものがもしあるとするなら、それはやっぱり全面的には深刻にならないことよね」
「全面的に?」
「そうよ。もちろん生きてるからにはどこかで深刻さを引き受けなきゃならないことはたしかだけど、でもそれはある部分だけにしておいたほうがいいと思うのよ」
・「すきだけじゃなくてね、わたし、自分の感情のことが、そもそもよくわからないところあるもの」と聖は言った。
「感情が?」
「そう。これっていつからなのかなあ。もう思いだせないし思いだす気もないんだけど、感情とか気持ちとか気分とか!1そういったもの全部が、どこからが自分のものでどこからが誰かのものなのか、わからなくなるときがよくあるの」わたしは空になったビールの缶に口をつけて、へりを軽く噛みながら聖の話をきいた。
「・・・・・なんだかね、たとえばさ、うれしいとか悲しいとか、不安とか、色々あるじゃない。テレビみて面白いなあとか、エビ食べておいしいなあとか、なんでも。でもね、そんなのっていつか仕事で読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの」
「引用?」
「うん。自前のものじゃない感じ」「それは、実感がもてないということ?」
「ううん。それとはちょっと違くて。実感があるから、これがあほみたいなのよ」と聖は言った。「ひとそろいの実感も手応えもあるから、混乱するのね。でも肩じきれない。だからいったいこれはなんなんだろうって、何か思ったり感じたりするたびに、そんなあほみたいなことを思うのよ。感情みたいなのが動くたびに、白々しいような気持ちと自分が何かに乗っとられてるような気持ちになって1気がついてなかっただけで、じつは物心ついたときからわたしが生きてきたって思いこんでいるものは、しょせんそんなものだったんじゃないのかって、まあそんなふうに感じるってことなのよ」
わたしは肯いた。
「だから、この『しょせん何かからの引用じゃないか、自前のものなんて、何もないんじゃないのか』っていうこの気持ちも、やっぱりどこかからの引用じゃないかっていうような気がしていて、まあ、なんかいろいろ、だめなのよ」聖はそういうと声をだして笑った。「だから恋愛とかね、それにむから唯一の武器であるような感情がそもそもそんなぐあいだから、もう基本的に土台がぐらぐらなわけ。そんな状態で誰かと深刻に関係をむすぶなんてことは不可能よ」
・「ひと言でいうと、あなたみたいな人はああいうタイプの人に、自分を正当化するための道具にされちゃうのね。彼女みたいな人は自分の生きかたや考えかたをまわりの人に認めさせるだけじゃ満足できなくて、それを日々強化しつづけないと気が済まない人なのよ。ほら、そうじゃなくても人って自分の考えとかさ、言葉にするとさ、なんだかいっきにその気になっちゃうとこってあるじゃない。相談ってさ、あるじゃない。みんな相談するじゃない、よく。でもあれって何も誰かの意見をきいたり参考にしたいわけじゃ全然なくて、自分の思ってることとか状況とかをさ、とりあえず言葉にしたいだけなのよね。だから何にも解決しないでしょ、人に相談したところで。解決した人生相談なんてあなたみたことある?言葉にしちゃったせいで自分のなかで問題がひとつ増えるかよけいに複雑になるか、そんなのどっちかしかないじゃない。だからね、石川さんはスポンジみたいにものを言わない、ただ黙って色々と吸いとってくれる人をうまく使って自分のある部分を補強しつづけているの。彼女はそういう種類の人間の典型で、単に自分の立派な理想とか考えかたを人にきかせることによって、それを日々逞しくして、悦に入ってるのよ。でもみんなもそんなのに付きあってられないじゃない。忙しいんだし、いい大人なんだし。石川さんの野心とか都合とか、そんなの知らないし。だからみんな離れていっちゃうのよね。ーでもね、彼女からみんなが離れていっちゃうのは彼女の性格の問題だけなんじゃなくて、なんていうのかな、彼女は自分が恵まれているってことに気がついていないせいなのよ。みんな自分とおなじ条件でスタートしてるってそう思ってんの。彼女は自分の努力や向上心だけでうまくやれてるってそう思ってるのよ。でもね、わたしからしたら完談じゃないと思うところもあるわね。はっきりものを言える子もいれば言えない子もいるわよ。そんなの当然じゃないよ。これは石川さんに限ったことじゃないけれどね、ああいう上機嫌な女の人たちが、ある意味で女を追いこんでるのよ」「追いこんでる?石川さんが?」とわたしはききかえした。
「そうよ。男にも同僚にも、みんな石川さんくらい仕事もしながら外見だって女おんなして、そうすることも仕事のうち、みたいな感じに思わせちゃってるのよ。あんなふうにまわりに媚びてないって思いこんでる彼女みたいなタイプこそが、じつは結果的に媚びてることになってるってことに、気がつかないの」
・わたしはこれまで、何かを、選んだことがあっただろうか。わたしは両手のあいだに置かれた携帯電話をみつめながら、そんなことを思った。この仕事をしているいまも、ここに住んでいることも、こうしてひとりきりでいるのも、話すことのできる人が誰もいないことも、わたしが何かを選んでやってきたことの、これは結果なのだろうか。
どこか遠くのほうでカラスの鳴くのがきこえ、わたしは窓のほうをみた。それから、何も選んでこなかったのだと、思った。
大学も、担任に勧められるままに受験して、会社にもなりゆきで入り、それからその会社を辞めたのだって、ただそこにある面倒から逃げただけのことだった。フリーになれたのも聖があれこれとお膳立てしてくれたからだった。わたしは自分の意思で何かを選んで、それを実現させたことがあっただろうか。何もなかった。だからわたしはいまこうして、ひとりで、ここにいるのだ。
でも、とわたしは思った。それでも目のまえのことを、いつも一生懸命にやってきたことはほんとうじゃないかと、そう思った。自分なりに、与えられたものにたいしては、力を尽くしてやってきたじゃないか。いや、そうじゃない。そうじゃないんだとわたしは思った。わたしはいつもごまかしてきたのだった。目のまえのことをただ言われるままにこなしているだけのことで何かをしているつもりになって、そんなふうに、いまみたいに自分に言い訳をして、自分がこれまでの人生で何もやってこなかったことを、いつだってみないようにして、ごまかしてきたのだった。傷つくのがこわくて、何もしてこなかったことを。失敗するのがこわくて、傷つくのがこわくて、わたしは何も選んでこなかったし、何もしてこなかったのだ。
・三束さんは何も言わず、黙ったまま、わたしの涙が収まるのをじっと待ってくれているみたいだった。どこかそんなに遠くないところを車が走り去ってゆく音がきこえた。わたしは手のひらであごにしたたった涙をぬぐい、目をこすり、それから手のひらで顔を覆い、それからまた泣いてしまった。三東さんは、わたしがにぎっていないほうの手を、わたしの頭のてっぺんにのせた。手のひらの熱がゆっくりと肌に伝わってくるような気がした。わたしは頭のてっぺんに三東さんの手のひらをのせたまま、わたしの誕生日を、一緒に過ごしてくれませんか、とほとんど鳴咽まじりの声で言った。真夜中を、一緒に過ごして、一緒に歩いてくれませんか。
それからふたりで一緒に、あの曲を、一緒にきいてくれませんか。わたしは泣きながら、三東さんにお願いした。頭のうえの手がゆれたので目をあけて三束さんをみあげると、三東さんがわたしの顔をみて、何度も肯いているのがみえた。すこし、微笑んでいるようにみえた。わたしはそれをみて、両手で顔を覆って、今度は声をあげて泣いた。
・わたしは泣きながら、頭のてっぺんに手を置いてみた。手のぬくもりはもう、どこにもなかった。三東さんはわたしのことを覚えているだろうかと、そんな言いようのない不安があとからあとからこみあげてきた。わたしは目をぎゅっと閉じて、記憶のぜんぶをゆりうごかして、三東さんにすこしでもふれているものをありったけのちからで追いかけた。駅の角からもどってきてくれた三東さん、ちょっと照れたように笑った三東さん、光のことをきけばいつだって、いつまでだってわたしに教えてくれた三東さん、息をするのが苦しかった。たくさんあったうれしいこと、つまらないわたしの話をいつだって肯いてきいてくれた三東さん、背かっこうも、歩きかたも、考えかたも、しゃべりかたも、着ている服も、冬の匂いも、もう何もかもが、ほんとうにすきで仕方なかった三束さん、わたしは三東さんのことをほんとうには知らないかもしれないけれど、三東さんもわたしのことを何も知らないまま、何も始まらずに、こうして、こうして終わっていってしまうんだということ、話せばたのしいはずのこと、やまほどあったはずなのに、会わない日が増えるにつれて、やがてわたしはそのひとつひとつを必ず忘れていってしまうだろうということ、不安や予感や、後悔や、ありがとうという気持ち、もう過ぎ去ってもどらないことがつぎからつぎにまざりあって体中を駆けめぐり、わたしは膝を抱えて泣いた。ねえ、ちょっと、泣かないでよ、と聖が小さな声で言った。それからわたしのそばに来て、聖はおろおろとわたしの腕をさすった。わたしは黙って首をふりつづけた。違うの、と言ったけれど、それは声にならなかった。聖はどうしていいかわからない顔をして、ごめんなさいと謝った。連絡がとれなくなって、どうしちゃったのかと思って、心配で、でも腹も立っていて、でも、こんなひどいことを言うつもりじゃなかったのに、ごめんなさい、ごめん、と言って床に座りこんで、わたしの腕をさすりつづけた。あんなひどいことを言うつもりじゃなかった、と言って聖は泣いた。わたしは違うの、と言って、あなたは何も間違ったことを言っていない、わたしが悪いのと言って、わたしの腕をさする聖の腕をさすった。聖は、違うの、わたし意地悪になって、いつもこうなってしまうの、それでいつもだめにしてしまうの、何もかもがだめになるの、あなたにも、ひどいことたくさん言ってしまった、言わなくていいことまで、そんなつもりのないことまで言ってしまった、と言って顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。わたしは、わかってる、わかってるからと言っていて泣き、聖は、わたしのことなんて何も知らないくせにっていうかもしれないけど、それはそうかもしれないけれど、でもわたしはあなたを友達だと思ってるの、と涙と鼻水がいっぱいに広がった顔を歪ませて声にならないような声で言った。わたしは肯いた。あなたのことをもっと知りたいと聖は言った。あなたのことをもっと知って、わたしはあなたの友達になりたいと聖は泣き、わたしは椅子から崩れるように床におりて、聖の指さきをにぎって、泣きながら何度も肯いた。
・そんなふうにして春が過ぎ、夏がやってきて、一日は何度でも夜になり、朝を迎え、知らないうちに秋は深まり、やがてまた冬が巡ってきた。わたしはいつのまにか、誕生日の夜だけではなく、ほかのなんでもない夜でも、それから昼でも、朝でも、家をでて散歩をするようになった。なんでもない光のなかを、あの夜とおなじような気持ちで歩くようになっていた。朝や昼間のおおきな光のなかをゆくときは今も世界のどこかにある真夜中を思い、そこを過ごす人たちのことを思った。ひとりきりの夜を、ひとりきりの真夜中を過ごす人たちのことを思った。わたしは三東さんのことを思いだして息を止め、ふたりで話したことを思いだし、とてもすきだったことを思いだし、ときどき泣き、また思いだし、それから、ゆっくりと忘れていった。
家に帰ってコップを洗い、アルミホイルやビニル袋をまるめてゴミ箱に入れてテーブルのうえを固くしぼった布巾であいて、しばらくぼんやりと時間を過ごし、わたしはふと思いたって引き出しからCDプレイヤーを取りだして、イヤホンを耳に入れて再生ボタンをそっと押した。記憶が波うち、懐かしさが目のまえにいっせいにあふれだして、わたしは息を止めた。これ以上それがわたしのなかになだれこんでこないようにぎゅっと目を閉じ、この曲をきくのはこれで最後なんだと思うと何度でも胸が痛んだ。でもそれはもう、遠くにある痛みだった。一日ごとに薄まり、忘れ、やがて消えてしまう記憶のなかにある痛みだった。ひとつひとつの音を指さきで抱きしめるように、時間と記憶にしるしをつけるように、わたしは目をつむった。
夢のようなきらめきの連なりを辿り、最後の一音が去ってしまうと、わたしはゆっくりと目をあけた。