
ジクロロ
@jirowcrew
2026年5月3日

崩壊概論 (ちくま学芸文庫)
E.M.シオラン
かつて読んだ
躍動する生きいきとした精神は、
危機に瀕したわれわれの身体上の機能から生じる。
すなわち、われわれの五官に空虚がひろがれば
ひろがるほど、精神も翼をひろげるのである。
われわれの中にある健全なものとは、ただ、
そのためにわれわれが特定の個人でなくなるものにすぎない。
われわれを特定の個人たらしめるのは、
われわれの嫌悪感である。
われわれにひとつの名前をつけてくれるのは、われわれの悲哀であり、己れ自身を所有させてくれるのはわれわれの挫折である。われわれは、自分の失敗の総和によってのみ、己れ自身たり得るのである。
(p.113 『漠然たる嫌悪感』)
「大人」に対する嫌悪感は、破壊的な創造をもたらす。
逆に「大人」への歩み寄りは、「健全」という言葉に均(慣)される。
(本当の意味での「個人」や「多様性」の増殖は、集団の破滅を予感させるゆえ)
反抗期のない子どもは、「健全」なのか。
「健全」とは、ある種の終止符といえるのではないか。
「大人」になっていくごとに、可能性の意味は「不安」の領域に浸潤していく。
そして可能性こそが「嫌悪感」を抱かせる。
「大人」の「嫌悪感」は、次世代の者たちの「嫌悪感」とは全く異なり、それはただの(可能性の)「破壊」でしかない。
「ぼんやりとした不安」は、自死を選んだ。
それが「嫌悪感」へとうまく反転していれば、もっと奥行きの深い読み物を、次世代の僕らは読めていたのかもしれない。
"ものを書く時は、すらすらと書かなければならない。稚拙でとりとめのない文章になってしまうかもしれないが、言葉がすらすらと流れ出ているのであれば、書く喜びから生まれる勢いがすべてを輝かせてくれる。慎重に書かれた文章は死んだ文章だ。
……
ヘミングウェイは絶対に笑うことができなかった。朝の六時にしゃんとしてものを書ける者など誰であれユーモアのセンスを持ち合わせているわけがない。そういう人間は何かを打ち負かしたいと思っているのだ。"
(『死をポケットに入れて』 ブコウスキー
91年12月9日1:18AM)
「書く喜びから生まれる勢い」、書くという行為に限らず、「勢い」にブレーキを差し挟むのが「大人」である。
ブコウスキーは「ヘミングウェイ」を記号として説明する(嫌悪感を露わにしている)。
「大人」とは、すべからく悪いものではない。
ただ、その「はたらき」を認識しておく必要がある
ーー二人の反逆を「健全」にまとめると、こういうことだろう。
