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@millefeuille_328
2026年5月3日
中動態の世界
國分功一郎
読み終わった
母国語で高等教育を行える国は少ない。
いろんな事情があるけれど、大きな要因のひとつとしては誤訳の問題。
たとえばドイツ語の医学書があるとする。これを母国語で学ぶために翻訳する。翻訳の際に十分には訳しきれず原典と意味のずれが生じる。そうすると当然、理解にもずれが生じてくる。
ずれは言語間の構造的な差異に因るかもしれないし、訳者の主観に因るかもしれない。いずれにせよコンバートされた文字が全く同じ意味を持つことは有り得ない。
仕方ないと言うと身も蓋もないけれど、ある程度起こってしまうのは避けられないと思う。
ただここで本当に問題なのは、〝原典を知らない者に自分がずれた理解をしているとは知り得ない〟ことだ。
文庫版補遺に「responsibility」の訳としての「責任」の不適切が語られている(なんて重大な言及なのか。補足じゃないわけだよ)。
レスポンスが応答の意なのは知ってのとおり。アビリティは能力なので、直訳は「応答する能力」となる。
さて。
応答する能力とは責めを任うことを指すのか? あまりにも飛躍していないか?
順序立てて考えれば誰しもがたどり着く疑問だが、それが今日の社会的価値観の基盤である西洋哲学、ひいてはラテン語(インド=ヨーロッパ語族)を起源としているなんて多くの人は知らない。
いや、知っていても感じられない。本書で述べられたスピノザの太陽の例えと同じ構造だろうと思う。
言語というフレームワークのお陰で思考が適っている一方、フレームワークによる直観への抑圧が発生する。
その抑圧を折りに触れ意識しながら、私たちは判断をフレームワークに任せた自動生産的に行ってはいないかと問うていく。そして必ずしも言語化できない直観に寄り添ってみることが自由へと導いていくのかもしれない。
名詞優位のパースペクティブの発見から動詞優位の指摘がすとーんと腑に落ちて気持ちよかった。
フーコーの、権力は生産的であるのに対して暴力は破壊的、なのでこれは対立する。
ライプニッツの、世界は出来事の起こるフィールドではなく、出来事の束こそが世界である。
この辺りがとくに。
『免責が引責を可能にする』の論と実例は思い出していたい。
これは「能動─受動」のパースペクティブを免除することによって一度解体し、新たなパースペクティブで責任を捉え直すことによって起こるのだと推測した(私たちの直観は「能動─受動」を退けるので)。
本書の総括的なアハ体験なのでぜひ文庫版で。
私は「responsibility」を「気づき得る」と訳し直した。
言葉のやり取りで生まれざるを得ない誤解の影響が、思うよりずっと広く深く浸透してゆく怖さを認識しちゃうな。
(一方、渡邉康太郎さんのポジティブな「誤読」の捉え直しが大好きなので、人がなにかを自分の側へ引き寄せる、内に落とし込もうとする、その関係と表現性はいつまでも賛歌していたい)

