
DN/HP
@DN_HP
2025年3月20日

99999
デイヴィッド・ベニオフ,
David Benioff,
田口俊樹
かつて読んだ
また読みたい
心のアンソロジー収録作
オールタイムベストな一編、「幸せの裸足の少女」を去年の夏に読んだのだった。
夏は追憶の季節だ。大好きな短編小説を読みながら、少し唐突にそんなことを思った。
盗んだ55年型キャディラック・エルドラドで目指すカリフォルニア、道中で出会う裸足の少女。ロンドン・コーリング。バーガー・キングとハーシー・パーク。人生で初めてのいいキス。道路を支配した7時間、彼女と過ごした5時間。春、というようりも初夏と言いたい、16歳の6月の特別だった数時間。スクラップブックに納められた「心の底から幸福感に満たされ」た瞬間、そこにあるノスタルジー。
夏らしいと言っても厳しすぎる日差しを浴びた後に乗り込んだ、少し冷房の効きすぎた車内でそんな短編小説を読みはじめると、わたしのスクラップブックも開かれた。もう随分と長い間忘れていたけれど、しっかりと収められていた記憶、ノスタルジーに浸る。夏は追憶の季節。
二人乗りの自転車で下る校舎の前の急な坂道、坂の途中にあったサミット。万引きをした同じクラスのあの子、少し溶けたチョコレート。ベンチの代わりにした駅前の植え込み。ポケットのカセット・ウォークマンの中には、たしか7inchから録音した大好きだったEbullitionのあのバンド。なんでもなかったようで、幸福だったのかもしれないと気がつく数十分間の記憶。そのときわたしも16歳だった。
しかし、思い出は過ぎた時間の分だけ美化されていくのかもしれない。
改めて省みる、あの頃思い描いていた未来とはだいぶかけ離れてしまった現在。その間にあった決定的な変化。過ぎていってしまった時間の取り返しのつかなさ。空白を埋めようとしたときに明らかになる事実。そのどれもがとても残酷だ。小説でも、多分現実でも。
打ちのめされた夜にソファーの上から、あるいはその光景を読んでいる午後の電車のシートで、追憶しノスタルジーに浸るとき、美しさの後ろにある残酷さを、輝きがくすんでいく様を、「途中でやめるべきだったのに読んでしまった最後の陰惨なページ」を感じる、知ってしまう、突きつけられるものなのかもしれない。ああ。
それでも、その全てが書かれた小説は、それが書かれているからこそ素晴らしいのだし、やはり美しいのだとも思う。何度も繰り返し読みたくなる魅力がある。きっと読み返すたびにスクラップブックも開かれる。追憶と未来と現在、人生を思う。少し大げさかも、とも思う。それでも、その繰り返しも、そこにある哀しみも、大切に抱きしめたい。
寸前で気がついて慌てて降り立ったホームに立ち尽くして、この特別な短編小説と特別だった過去について考えていた数十分も、またスクラップブックに収められ、いつかの夏に開かれノスタルジーに浸ることになるのだろうか。ならないだろうか。そんなことを考えながら噴き出してきた汗を拭う。
そうか、あの日聴いていたはずのAmber Innもカリフォルニアのバンドだった。そう気がつく。辿り着くことのなかった目的地。夏は追憶、それにエモーショナル、哀しみの季節でもあるのかもしれない。そんなことをわたしは夏の夕方に文庫本と静けさを手にして考えていた。

