99999

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デイヴィッド・ベニオフ
David Benioff
田口俊樹
新潮社
2006年4月1日
4件の記録
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    2025年5月24日
    青山南のエッセイ『本は眺めたり触ったりが楽しい』で出会ったブルース・ウィバーの発言を読んだら、小説のことが考えたくなった。小説のことを考えていたら、大好きな短編集が読みたくなった。デイヴィッド・ベニオフの『99999【ナインズ】』。ここにはオールタイム・ベストな短編小説『幸せの裸足の少女』も収録されているのだ。 久しぶりに冒頭の表題作から最後の一編まで順に読み通した。どれも、これが短編小説だ、と思えるような素晴らしさで改めて感動した。完全にクラシック。それでも、そのうえで、やはりこの一編は特別なのだった。 自分も未来も、世界すらも信じていた16歳。上級生の父親の車を盗んで体験する、輝いていた初夏の日、特別な出会い、幸せな数時間。 挫折し信じていたものにも裏切られたような14年後。なんとかやっている人生のなかで、甦るあの時、幸せだった記憶。しかし、そこにあったのは懐かしさや悦びよりも、世界と時間の冷淡さ、過去から現在を見つめ直すことの残酷さ、それに追憶することの哀しみだ。 わたしにも幾つかのことが信じられていた16歳があった。一年くらい前にもこの短編を読んで、つい最近もジャズを聴き中上健次の『路上のジャズ』を読んで思い出していた。今も思い出している。万引きした少女、溶けたチョコレート、新宿のリハーサル・スタジオ……輝いていた、かもしれないその時代と、なんとかやっている現在の間にも挫折も裏切り(自分を裏切る、か)も当然のようにあって、思い出し今を見つめ直せばやはり、哀しみが湧き上がってくるのだった。一年前より、今の方がそれを強く感じる気がするのは、ブルース・ウィーバー言うところの「自分の心の変化や成長」があったからだろうか。思い当たる節は、ある。 訳者あとがきで田口俊樹はこの短編集の収録作には「あきらめ」が「通奏低音のように流れているような気がする」と書いていたけれど、わたしは「あきらめ」を哀しみに入れ替えて、どの短編にもこの哀しみが流れている、と感じていた。レコード会社のA&R、ロシアの若年兵、元パートナーの嘘を暴いてしまった男のそれぞれの物語にも、その哀しみがあると思った。どんなかたちにせよ追憶には哀しみがついてくる。過去を思い出すことは、それが過ぎ去ってしまったという時点で、既に少し哀しい。 そうなのだとしたら、小説が基本的には過去形でしか表現出来ないアートフォームだということを考えると、そこに追憶の哀しみが「通奏低音のように流れているような気がする」のは当然なのかもしれない。そこでは哀しみは描かれるべきもの、少なくとも感じるべきものだ、とまで考え始めている。それは言い過ぎかもしれないとも思っている。 また小説のことを考えている。 今もまだ、少し哀しい。 この短編集は今2冊持っている。またみつけたら何冊でも欲しい。出来ればミント・コンディションだと嬉しい。理由は大好きだから。
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    2025年5月23日
    大好きな、心のアンソロジーにも必ず編み込みたい一編が収録された短編集。その大好きな一編だけ何度も読み返していたけれど、今回は冒頭の表題作から読みはじめる。これも哀しくて、美しくて、素晴らしい短編だ、と改めて感じられた。途中まで読んでいる、この短編集をまた読むきっかけにもなった、青山南『本は眺めたり触ったりが楽しい』で引かれていたブルース・ウィバーの言葉を孫引くなら、この短編の読み心地や感じ方も「じぶんの心の変化や成長で、どんどん変わって」いたということかもしれない。そういうことにしておきたい。
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    2025年3月20日
    オールタイムベストな一編、「幸せの裸足の少女」を去年の夏に読んだのだった。  夏は追憶の季節だ。大好きな短編小説を読みながら、少し唐突にそんなことを思った。  盗んだ55年型キャディラック・エルドラドで目指すカリフォルニア、道中で出会う裸足の少女。ロンドン・コーリング。バーガー・キングとハーシー・パーク。人生で初めてのいいキス。道路を支配した7時間、彼女と過ごした5時間。春、というようりも初夏と言いたい、16歳の6月の特別だった数時間。スクラップブックに納められた「心の底から幸福感に満たされ」た瞬間、そこにあるノスタルジー。  夏らしいと言っても厳しすぎる日差しを浴びた後に乗り込んだ、少し冷房の効きすぎた車内でそんな短編小説を読みはじめると、わたしのスクラップブックも開かれた。もう随分と長い間忘れていたけれど、しっかりと収められていた記憶、ノスタルジーに浸る。夏は追憶の季節。  二人乗りの自転車で下る校舎の前の急な坂道、坂の途中にあったサミット。万引きをした同じクラスのあの子、少し溶けたチョコレート。ベンチの代わりにした駅前の植え込み。ポケットのカセット・ウォークマンの中には、たしか7inchから録音した大好きだったEbullitionのあのバンド。なんでもなかったようで、幸福だったのかもしれないと気がつく数十分間の記憶。そのときわたしも16歳だった。  しかし、思い出は過ぎた時間の分だけ美化されていくのかもしれない。   改めて省みる、あの頃思い描いていた未来とはだいぶかけ離れてしまった現在。その間にあった決定的な変化。過ぎていってしまった時間の取り返しのつかなさ。空白を埋めようとしたときに明らかになる事実。そのどれもがとても残酷だ。小説でも、多分現実でも。  打ちのめされた夜にソファーの上から、あるいはその光景を読んでいる午後の電車のシートで、追憶しノスタルジーに浸るとき、美しさの後ろにある残酷さを、輝きがくすんでいく様を、「途中でやめるべきだったのに読んでしまった最後の陰惨なページ」を感じる、知ってしまう、突きつけられるものなのかもしれない。ああ。  それでも、その全てが書かれた小説は、それが書かれているからこそ素晴らしいのだし、やはり美しいのだとも思う。何度も繰り返し読みたくなる魅力がある。きっと読み返すたびにスクラップブックも開かれる。追憶と未来と現在、人生を思う。少し大げさかも、とも思う。それでも、その繰り返しも、そこにある哀しみも、大切に抱きしめたい。  寸前で気がついて慌てて降り立ったホームに立ち尽くして、この特別な短編小説と特別だった過去について考えていた数十分も、またスクラップブックに収められ、いつかの夏に開かれノスタルジーに浸ることになるのだろうか。ならないだろうか。そんなことを考えながら噴き出してきた汗を拭う。  そうか、あの日聴いていたはずのAmber Innもカリフォルニアのバンドだった。そう気がつく。辿り着くことのなかった目的地。夏は追憶、それにエモーショナル、哀しみの季節でもあるのかもしれない。そんなことをわたしは夏の夕方に文庫本と静けさを手にして考えていた。
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    @shirabe
    2025年3月20日
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