
ジクロロ
@jirowcrew
2026年5月8日

最初の哲学、最後の哲学: 形而上学と科学のあいだの西洋の知 (991) (平凡社ライブラリー 991)
ジョルジョ・アガンベン,
岡田温司
読んでる
「存在としての存在」という決まり文句がここで本質的に自然学と数学の対象を限定するのに役立っていることは明らかである。他の二つの理論的学の対象とはなりえないものが第一哲学の課題である以上、第一哲学は、一方では、こうした引き算による残余であり、他方では、他の二つを自分の一部であると位置づけることによってのみその単一性を定義できるものなのである。
(p.20-21)
第一哲学の役割はここで、自然学者の仕事における限界の位置づけ(「どの程度まで」)と一致している。自然学者はただ単に「何か(ti)」、つまり特定のあるものだけを知ることができるとするなら、哲学者は「何かではないもの(non-ti)」、つまり特定できないものを知らなければならないだろう。
(p.22)
「第一哲学」(形而上学)は、自然学と数学ありきの相対的な学問であり、「残余」や「後からやってくるもの」であるということ。
それゆえ、その相対性を忘れ、その輪郭を見誤ると、足場を失った饒舌、無意味なお喋りとなってしまうということ。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
相対的であるからこそ、終わりがない(自然学と数学が生成変化し続ける限り生成変化し続ける)学問であるということ。
"「語ること」が肯定し次いで撤回する「語られたこと」、すなわち還元された「語られたこと」の残響を保つこと"
(『存在の彼方へ』 レヴィナス)
思うに第一哲学とは、知りたいという欲望に支配された迷宮であり幻聴との闘いであるとも言えるのかもしれない。
ある意味、身も蓋もなく、セイレーンの誘惑に耐えつつ、そこで常に「迷子」。
これまであまり意識していなかった哲学の「そもそも」のところから丁寧に教えてくれる本。
だからこそ読んでいて、コダックみたく頭痛くなる。