
ハヤシKYヘイ
@heiheikyo1
2026年5月11日
急に具合が悪くなる
宮野真生子,
磯野真穂
読み終わった
かつて読んだ
偶然性を扱った九鬼周造を専門とする哲学者・宮野真生子さんと、臨床現場での調査を行う人類学者・磯野真穂さんによる往復書簡。
コロナ禍の直前、本が出てすぐの頃に初読してとても面白かった記憶があるけど、内容のあまりの濃さに咀嚼しきれないところもあった。じっくり再読するチャンスをうかがっていたらいつの間にか2026年。本書を下敷きにした映画の公開が近いということで、GWの課題図書として再読してみたのだった。
ガンを患う宮野さんが、病を抱えて生きる不確定性やリスクの問題を専門的に深めていく。そんな本企画のパートナーとなった磯野さんとは実は出会って1年も満たない状態でこのやりとりを始めていたのだということに、まず驚く。宮野さんと磯野さん、とにかくこの学者2人によるスマートでユーモアに富んだ文章がいい。理知的な文章の往復で互いの思考が深まり、両者の仲も深まるのがわかる。往復書簡という形態の面白さがまずあるわけだが、本書の後半において宮野さんがまさに「急に具合が悪く」なっていくことで、「出会いと別れの急降下」が繰り広げられる。
前提として、私は高校生の時に当時大学生だった姉をガンで亡くしており、病が人を死に至らしめる理不尽さや、それでも周囲の人間の人生は続いていく途方もなさについて、わからないし色々知りたい、という気持ちがうっすらずっとある。お涙頂戴のしめっぽい語りでもなく、ユーモアがあり、客観性に根差した本書の語り口が新鮮で、だから初読時に熱中したのだと思う。
自他共に認める「合理性の鬼」である宮野さんが、治療方針を決めたり身近な人とやりとりする中で「合理的に選ぶ」ことの限界に突き当たる。それはつまり「選択の責任を1人で背負い込む」ことの限界ということで……と思考を広げていく箇所がすごかった。「この薬を使うと何%の確率で〇〇」みたいな言説もそうだし、これは現代の資本主義に基づくリスク管理社会全般に言えることなのだ、とも書いてあり、今回の再読であらためてグッときた。
私は初読時からコロナ禍を経て前職を休職・離職し、現職へと再就職して5年ほどが経過した。それこそ再就職のタイミングでは、どういう仕事なら次は辞めずに続けられるだろうか? とあれやこれや、まだ発生していないはずの事象に対する不安にがんじがらめになっていた。友達に相談したり、自分のやれる範囲でとりあえず飛び込んでみようと考えたりして、まずは1年、と覚悟を決めたのだった。気づいたら続けられている今がある。振り返ることでようやく、あの時の選択によって今の自分が形作られているのかも、と腑に落ちる感覚を得る。6年分、歳をとっただけ初読の時よりも本の内容が染み込んでくれたような気がする。本作でいうところの、偶然性を背負う覚悟をし、選択をした結果、自己のアイデンティティーが明確になったということかもしれない。
そういえば序盤に語られる、宮野さんの選択が印象的だ。治療方針にまつわる様々な決断が難航し「決断疲れ」していた時に、ふと気まぐれに訪れた京都でいい病院との出会いがあり、その後のケアの方針が決まっていったそうだ。私も宮野さんと同じく学生時代を京都で過ごした身なので、なんかやっぱ、京都ってそういうところあるよな~! と勝手に一人盛り上がった。宮野さんいわく、選ぶということには能動的な側面もあれば、たどりついた先で肌に馴染むような落ち着くような、身体感覚に近い受動的な側面もある、とのこと。
そして終盤の、「急に具合が悪く」なってからの2人のやりとりは、何度読んでも圧倒される。序盤の柔軟なやりとりから、明確な体調の悪化によって「患者」と「それ以外の人」という役割固定が進み、必然的に会話は硬直していく。だからこそ、本来タブーであるはずの「死」に関して今どう感じるかという問いを、磯野さんが宮野さんへと投げかけることで生まれていく、終盤の迫力がすさまじい。
色々なマイノリティに対する配慮にしてもそうだけど、役割固定のもと箇条書きの注意項目を気をつけよう、みたいな話ではないのだ。偶然性を互いに背負い、動的な交流に身を投じていくことで、そこに生きた人間同士のやりとりが生まれる。磯野さんから投じられる信頼と問いかけによって、本来息も絶え絶えであるはずの宮野さんが生きるエネルギーをつないでいく、そういう循環が本書には、たしかに刻まれていた。
この先、自分の人生の局面に応じて、読み返したくなる本だ。映画も楽しみ。

