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ハヤシKYヘイ
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@heiheikyo1
きょうへい、と読みます。小説、ミュージカル、おいしいものが好きです。NYブロードウェイ観劇ひとり旅を決行、日記本にまとめたのが2024年ハイライト!/『姉参り・イン・ニューヨーク』
  • 2026年7月15日
    ソリティアおじさんがいた頃
    地の文がちょっとやりすぎなくらいの京都弁の語りで、それが心地よく、世界観がくっきり浮かび上がる感じがしてよかった。学生の頃に京都に住んでいたが、ちょっと上の世代、特に何かしらの商売をされている人はたしかにこういう「〜しはる」多め系のしゃべり方やったな〜、みたいな。 本の物語と関係ないけど、個人的に京都時代のバイト先の同僚Iさんのことを思い出した。実家が観光地のお土産物屋さんだとかで、しっかり者のリーダー的存在だった。オペレーションはもちろん、人と働くとは何かを教えてもらった気でいる。先輩だったけど同い年だったから、打ち解けたのちは、地方から来ていた私が調子に乗って「えろおすんまへん」みたいなエセ関西弁の軽口を叩くと「ごめんしとくれやっしゃ」と濃いめの京言葉を返してくれる、そういうやりとりが定番だった。 助け合い、やれる準備は率先して済ませておき、お客様には丁寧に、でも物怖じせず。そしてサービス精神というかユーモアが、前提にある感じ。京都の商売人すべての人格を決めつけるわけではないが、何か彼女が美徳としている「働く理想像」みたいなものを、こっそり学ばさせてもらったような記憶がある。 『ソリティアおじさん〜』を読んで、あの京都の人の言葉の感じを思い出し、無責任な学生バイトの身分だったから楽しめたところもあるだろうな、京都で会社員したり人生を定めるとなったらまた違う感じ方したかもな、とかぼんやり思った。まあ京都は最高なんですが。 バイト先はただのカフェチェーンで、その後私は飲食とまったく違う業界で会社員になって10年以上経つけど、どこか労働姿勢の基礎は、あのバイト時代から変わっていない気がする。
  • 2026年7月10日
    アンチ・グッドモーニング
    たまのミュージカル観劇が趣味の不眠症な会社員が主人公で、ワシやないかいっ!と思って夢中で読んだ。有給をとって訪れた平日の劇場で、開演少し前に、ついチャットツールを見てしまったがためにあれよあれよと資料送付のタスクが生じて、でも大容量のメール送付ができなくてサーバーにアップロードしようにも社内ルールがそういえば変更になっていたから同僚にチャットでお願いして、と思ったらその同僚から別の頼まれごとをされていたのに気づき既読になった瞬間また別の責任を負うことになって、とさすがにここまでプライベート中に切羽詰まった事態に陥ったことはないけれど、想像にかたくなくて、めちゃくちゃ肝が冷えた。 技術進歩とコンプライアンスの浸透によって、効率化され働きやすくなったとされる現代のスタイリッシュ労働が、いかに嘘ばっかりで、毒づくめなのかを告発する本書の文が痛快である。同時に、そんなトキシックな社会システムの中でさしあたって働き続ける必要のある私としては、深い絶望を一緒に突きつけられているようでもあり、ひぇ〜、もうやめて〜、という気分だった。面白かった。
  • 2026年7月9日
    fishy
    fishy
    まがまがしいグータンヌーボという感じで、よかった。
  • 2026年7月7日
    発光せえ身体
    発光せえ身体
    「わたしの本なんて、だれも読んではくれないのだ。読んでくれないからびんぼうなのだ。」 なんて、アヤちゃんは書くけれど、私はずっと読んでいる。とにかく火の玉が転がり続けるようなエネルギーが文章からほとばしる。目が離せない。 私は、男の子を好きになってしまう気持ちにどう折り合いをつけていいかわからなかった二十代の頃、アヤちゃんの文章に出会えた。同年代の人がこんなにも真正面から自分と向き合っているのかと驚き、自己との悪戦苦闘を、とてつもなく面白い文章にしている事実に衝撃を覚えた。以来、ずっとファンだ。 たぶん、どうにもならない自分の気持ちをアヤちゃんに仮託していたところがある。それでいて、アヤちゃんと自分との生き抜き方の違いが興味深いのだと思う。 会社員として10年ほど働いてきた。学校のルールに沿って勉強するのはわりと得意だったから、その延長で仕事もこなしていけばいいかと思っていたが、近頃限界を感じている。 メーカーで、無茶ぶりのように高められる目標達成のため、効率化だなんだと神経をとがらせる毎日。男ばかりの職場で、自分も健全に働ける均質な歯車なのだと、ゲイであることはクローゼットにして、まぎれこむ。そういう戦法をとってきた。 最近かりかりしすぎて後輩に優しくなれない自分がいて、自分が嫌だった不機嫌でコントロールしようとしてくるおじさんに自身が近づいている気がしてうげーっとなっていた。私にできる最善の方法で生き抜いているつもりだが、そのことが私を余計に生きづらくしているかもしれず、システムに取り込まれている感覚がある。 これに対してびんぼうを貫くアヤちゃんは、経済システムを超越した存在なのだ、とかトンデモ言説をうちたいわけではない。けれど、なんというか、態度が毅然としている。マイノリティに優しくない世間に対して、毅然とした態度でいるように、私からは見える。例えば何かトラブルがあったとして、私はどうしてもへらへらして、なんてことありませんよという顔をせねば、と反射で息を止めてしまうところがある。もっと毅然としていたい。アヤちゃんのように。 そうやってアヤちゃん文章もっと書いてくれ〜とかなんとか、読者のお気楽な期待だけをおしつけていたことで、知らず知らずのうちにアヤちゃんに重圧がのしかかっていたのではないかと心配した。どうか健康でいてほしいと、月並みなことを思ってしまう。同じ時代を生きてくれているという事実だけで、こんなにも心強いのだから。
  • 2026年6月16日
    ポルトガル退屈日記 リスボン篇
    コロナ前、前職の出張で3週間ほど、ポルトガルの田舎町に行ったことがある。同行してもらう旅慣れたサービスエンジニアの先輩に、「たぶん終盤の土日付近は余裕ができるはずだから、最後にポルトまで観光しに行こう」と言われ、人生で初めて大西洋が見られるんだ、こりゃ人生観が変わっちゃうかもな、と謎に浮き足立っていた。が、蓋を開けてみたら出張終盤の私は慣れない土地での緊張がピークに達してお腹を壊し、とてもじゃないが観光に行けるコンディションではなかった。そんなわけで結局大西洋は拝めず、人生観も変わらずじまいだった。ことで(私の中では)おなじみのポルトガル。 リスボン観光の描写がどれもよく、行きて〜となる。路面電車のある風景は大好物。からっとした日差し。石畳の街中にある店先では、日陰で人々がのんびり茶やビールをしばいている。なかなか暮れない夕方から、ゆっくり飲み食いしつつ夜へとシフトしていく。 為替も世界情勢も、どんどんヨーロッパに行きづらいほうへと向かっている気がするので、本書を読むことでバーチャル旅情が味わえてよかった。そしてそれだけいっそう、ポルトガルへの旅行欲が俄然高まる。
  • 2026年6月16日
    ポルトガル限界集落日記
    前職の仕事で、ポルトガルの田舎町へと3週間ほど出張に行ったことがあった。コロナ前のことだ。客先の工場に導入した装置のマシントラブルで、向こうのイースター休暇のうちに修理をするミッションだった。なんとか装置を復旧させて緊張の糸が切れたのだろう。お腹がぶっ壊れて終盤はほぼ物が食べられなくなり、帰国したら5kg痩せていた。ことで(私の中では)おなじみのポルトガル。ユーロ圏の中で比較的に安い物価や、米や魚の多い料理がうまいこと、若い従業員のお母様が焼いて差し入れしてくれたフワフワと甘いカステラ。仕事成分をさっぴいたポルトガルという国の魅力はインパクト大で、いつかまた旅行したいと思ったまま、仕事を辞め、別の仕事に就き、年月が経った。為替や世界情勢的にガンガン行きづらくなっているのが切ない。書店で本書のタイトルを目にした時にビビッと来て即買いした。 私がかつて訪れた街は、車で少し移動すれば国内第三の都市があり、その街中にホテルをとっていた。だから本書に出てくる限界集落は私がイメージするポルトガル像をさらに上回るレベルでのどかで、おおらかだ。大量のぶどうやオリーブがとれ、高品質のワインとオリーブオイルが湯水のように飲める感じとか、豪快な肉料理を近所(といっても限界集落なので距離的に家はめっちゃ離れていたりする)の人と集まって分け合い、語らう感じ。異国情緒、異世界の体験記として面白い。 コロナ禍に突入した頃にドイツからポルトガルへと移住した著者が見た欧州でのコロナ対策の実情なんかも克明に記される。「あの時は大変だったよね」という点においてある種の共感をもって読めるところも、今となっては興味深い。仲良くなった村のおばあさんが具合を悪くした時に、お見舞いしようにもなかなかできなくて、といった場面は胸に迫る。あとこちらの予想に反したお年寄りの活力に逆に勇気づけられたりするところも、なんかわかるな〜と思った。
  • 2026年6月2日
    お隣さんの置き配がヤバすぎる
  • 2026年5月16日
    なぜ日本は原発を止められないのか?
    かつて核兵器の被害を受け、地震が多く、廃棄物を処理するスペースもない国なのに原発続けようとしてんの、やはり意味わかんなすぎる…… 施設がすでにあるからとかコストの問題とかなんとかいって原発推進するあまり再生エネルギーの研究が世界に遅れをとってどんどん取り返しがつかなくなっている、というのも悲しい。 かといって廃炉するにも技術者が足りない、もはや電力会社だけの問題でなく、やはり政治が変わらないことにはどうにも、という感じらしい。このあたりの事情など、さらにもっと色々知りたくなった。普段、見て見ぬふりをできてしまえている現実がある。安全神話にあぐらをかいているのは自分もそうだ。 出てくる原子力関連の要人がことごとく男性ばかりであることも象徴的に感じられて、印象に残った。
  • 2026年5月16日
    介護未満の父に起きたこと
    とにかくジェーン・スーの課題解決力に圧倒され続ける。家族といえど密になれば関係がぎくしゃくするのは当然だし、各家庭における適切な距離で、というのを徹底している感じが印象に残った。 スーさんのような上の世代の方がこういう奮闘を本に残してくれているのは道しるべになるから、後輩世代としてはありがたい。
  • 2026年5月11日
    急に具合が悪くなる
    急に具合が悪くなる
    偶然性を扱った九鬼周造を専門とする哲学者・宮野真生子さんと、臨床現場での調査を行う人類学者・磯野真穂さんによる往復書簡。 コロナ禍の直前、本が出てすぐの頃に初読してとても面白かった記憶があるけど、内容のあまりの濃さに咀嚼しきれないところもあった。じっくり再読するチャンスをうかがっていたらいつの間にか2026年。本書を下敷きにした映画の公開が近いということで、GWの課題図書として再読してみたのだった。 ガンを患う宮野さんが、病を抱えて生きる不確定性やリスクの問題を専門的に深めていく。そんな本企画のパートナーとなった磯野さんとは実は出会って1年も満たない状態でこのやりとりを始めていたのだということに、まず驚く。宮野さんと磯野さん、とにかくこの学者2人によるスマートでユーモアに富んだ文章がいい。理知的な文章の往復で互いの思考が深まり、両者の仲も深まるのがわかる。往復書簡という形態の面白さがまずあるわけだが、本書の後半において宮野さんがまさに「急に具合が悪く」なっていくことで、「出会いと別れの急降下」が繰り広げられる。 前提として、私は高校生の時に当時大学生だった姉をガンで亡くしており、病が人を死に至らしめる理不尽さや、それでも周囲の人間の人生は続いていく途方もなさについて、わからないし色々知りたい、という気持ちがうっすらずっとある。お涙頂戴のしめっぽい語りでもなく、ユーモアがあり、客観性に根差した本書の語り口が新鮮で、だから初読時に熱中したのだと思う。 自他共に認める「合理性の鬼」である宮野さんが、治療方針を決めたり身近な人とやりとりする中で「合理的に選ぶ」ことの限界に突き当たる。それはつまり「選択の責任を1人で背負い込む」ことの限界ということで……と思考を広げていく箇所がすごかった。「この薬を使うと何%の確率で〇〇」みたいな言説もそうだし、これは現代の資本主義に基づくリスク管理社会全般に言えることなのだ、とも書いてあり、今回の再読であらためてグッときた。 私は初読時からコロナ禍を経て前職を休職・離職し、現職へと再就職して5年ほどが経過した。それこそ再就職のタイミングでは、どういう仕事なら次は辞めずに続けられるだろうか? とあれやこれや、まだ発生していないはずの事象に対する不安にがんじがらめになっていた。友達に相談したり、自分のやれる範囲でとりあえず飛び込んでみようと考えたりして、まずは1年、と覚悟を決めたのだった。気づいたら続けられている今がある。振り返ることでようやく、あの時の選択によって今の自分が形作られているのかも、と腑に落ちる感覚を得る。6年分、歳をとっただけ初読の時よりも本の内容が染み込んでくれたような気がする。本作でいうところの、偶然性を背負う覚悟をし、選択をした結果、自己のアイデンティティーが明確になったということかもしれない。 そういえば序盤に語られる、宮野さんの選択が印象的だ。治療方針にまつわる様々な決断が難航し「決断疲れ」していた時に、ふと気まぐれに訪れた京都でいい病院との出会いがあり、その後のケアの方針が決まっていったそうだ。私も宮野さんと同じく学生時代を京都で過ごした身なので、なんかやっぱ、京都ってそういうところあるよな~! と勝手に一人盛り上がった。宮野さんいわく、選ぶということには能動的な側面もあれば、たどりついた先で肌に馴染むような落ち着くような、身体感覚に近い受動的な側面もある、とのこと。 そして終盤の、「急に具合が悪く」なってからの2人のやりとりは、何度読んでも圧倒される。序盤の柔軟なやりとりから、明確な体調の悪化によって「患者」と「それ以外の人」という役割固定が進み、必然的に会話は硬直していく。だからこそ、本来タブーであるはずの「死」に関して今どう感じるかという問いを、磯野さんが宮野さんへと投げかけることで生まれていく、終盤の迫力がすさまじい。 色々なマイノリティに対する配慮にしてもそうだけど、役割固定のもと箇条書きの注意項目を気をつけよう、みたいな話ではないのだ。偶然性を互いに背負い、動的な交流に身を投じていくことで、そこに生きた人間同士のやりとりが生まれる。磯野さんから投じられる信頼と問いかけによって、本来息も絶え絶えであるはずの宮野さんが生きるエネルギーをつないでいく、そういう循環が本書には、たしかに刻まれていた。 この先、自分の人生の局面に応じて、読み返したくなる本だ。映画も楽しみ。
  • 2026年4月30日
    アニータの夫
    アニータの夫
    2001年に発覚した青森県住宅供給公社巨額横領事件に関する本。 いわゆる「チリ人妻」に入れあげて14億円を横領してしまい逮捕、刑期を終えた現在の男性を取材した前半部と、 チリにプール付きの豪邸を建てたアニータが現在地元でお騒がせタレント的な地位を築き、色んなビジネスに手を付けつつ9人の子供を育てている、などの情報も詰まった後半部から構成される。 とにかく、なんで14億円も!? と不思議で仕方ない。が、そこは本を読んでもけっこう不思議なまま。 男性はアニータにメロメロだった、というわけでもなく、アニータの前に別のスナックで知り合った女性への貢物などで借金をして最初の横領をし始めていたし、アニータの度重なる送金の催促に不快感を募らせていた。 公社のずさんな管理体制をいいことに、 「アニータがせがむもんだから金を送るしかなかったんですよ」 みたいな感じだったらしい。 貢がれた大金で豪邸を建てたり華やかな方へと邁進し続けるアニータの動きは、いわば細木数子的な文脈で解釈可能だし(ちょうど同時期にネトフリドラマの『地獄に堕ちるわよ』を見ていた)、あけすけな物言いでスカッとする! と支持する声も多いらしい。 ただ横領していた男性の当事者性の薄さというか、主体性が希薄な感じが、どうにもピンと来ず、不思議な感じだった。(やはり同時期に鑑賞した映画『マーティ・シュプリーム』的なクズ男の)その場しのぎの必死さ・きらめきみたいなものは皆無で、個人的にはさっぱり惹かれない人物だが、それだけいっそう、なぜ14億円も? の問いに立ち返る。 ジェンダーの非対称性がなければ起きない構図である。 その二人の人間がたどる顛末もまた、ジェンダーの非対称性によるものなのか、あるいは個人の資質によるところが大きいのか。 果てしない欲望の引力と、満たされない器の空虚さが偶然共鳴し増幅した結果なのか。 膨大な取材を結集した本書を読んでもよくわからないし、理解を超えた人間の底知れなさが面白かった。
  • 2026年4月27日
    ノーメイク鑑定士
    おもしろかった〜 短編集、 「我らがDNA」と 「ノーメイク鑑定士」の回すき
  • 2026年4月27日
    俺の恋バナを聞いてくれ
    おもしろかった〜 短編集、 「ハイスペ」の回すき
  • 2026年4月13日
    人恋しくて女性用風俗に行ったあとで考えたお金とケアと欲望のこと
    自分の欲望とこんなに向き合えるのか…とすごみに圧倒された。同時に、自己について「書くこと」とこんなにも向き合えるのか、とも。著者が以前にたしか中央公論の雑誌で雨宮まみさんのことを振り返る鼎談をされていたのを覚えていたのもあり、雨宮まみさんのことを連想した。 能町みね子さんが著書の『結婚の奴』で雨宮さんのことを書いていたのが非常に印象的だけど、「いつか(過激な起伏がなくなって平凡な人生になって)つまらなくなって、書くことがなくなるのがゴール」みたいのを笑って言い合っていたのに、そんな最後なんてないよ…と回想していたところがあった。「書くことの面白さ」と「自分を切り売りする危うさ」というのは、切り離せないものみたいで、作家さんがどうそこに攻め入っていくのか、というのはやはりどうしても興味を引き、同時にとてもハラハラして、余計な心配をしてしまう。本書を夢中で読んでしまったのは間違いない。 また、風俗ビジネスや推し文化という題材を通して、金銭を介した他者との交流・消費のシーソーみたいなところに迫っていたのも心に残る。それはやはり同時に「他者について書く」ことの暴力性の話にもなり、他者との関係が完全な「対等」になることって現実的に不可能なんじゃないかと思えてきて、怖くなった。不可能だからこそ、少しでも対等であろうと、常に色々考えることをやめないようにしようね、ということなのかもしれない。
  • 2026年4月6日
    女の子たち風船爆弾をつくる
    1935年、都内の女子小学生と思われる「わたし」という主語の語りが始まる。 「わたしは、姉と、母と、あるいは、お手伝いの子と、買い物へ行く。」 という感じの文体で、特定の個人ではなく複数の人間の総体として、戦前、戦中、戦後の時代を眺めていく。膨大な数の注がつけられ、kindleで読んだのだけど後ろ12%は参考文献の羅列に終始していてびっくりした。淡々と事実が並んでいき、実際の証言に基づく人の声が、戦争へと向かう時代を浮かび上がらせる。 少女たちのあこがれの的だった東京宝塚劇場はある時を境に、国によって秘密裏に開発された風船爆弾の製造工場となり、少女たちは様々なことを隠されたまま協力させられていたのだった。並行して宝塚歌劇団の団員が海外をまわった記録や、戦争の進行状況が記される。個人的に知らない事実がいくつもあり、自分の無知を恥じた。同時に、意識的に語り継いでいくイメージを持たないと、悲しみも、自国の過去の戦争責任もたやすく忘れ去られてしまうということを再認識させられた。 「わたしは、男だったらよかった。あるいは、わたしは、そんなことは考えない。」という印象的なフレーズが、何度も繰り返される。ジェンダーの不均衡が、戦時下において、よりいっそういびつな形で表出する。 本書で語られる、戦争を取り巻く情勢の変化が、今現在の世界の悲痛さとリンクしているように感じられ、なぜ人は過去に学べないのだと、悲しくなる。同時に、他人事にせず、冷笑的にならず、個々人の選択や行動の積み重ねで平和を作り上げるしかないのだということを、あらためて覚えておこうと思った。
  • 2026年3月21日
    プレイ・ダイアリー
    役者の「私」が、次に舞台で演じることになっている「菜月ちゃん」という役の半生を振り返りながら、役作りを進めて演劇本番当日へと向かっていく日記が書かれる。 菜月ちゃんは、母親と小学校の先生から「女の子は笑顔でいた方がいいよ」と言われた。その言葉が顔に張りつき、同級生の葬式でも「笑っているように見えた」と他者に言われてしまう。会社を休むようになった菜月ちゃん。母親に勝手に一人暮らしの家を解約され引越しを強制されそうになった菜月ちゃん。街中で男の人にぶつかった時の感覚が忘れられず、やがて男を対象とした「ぶつかり女」となっていき、行方知れずとなった菜月ちゃん。 「私」が菜月ちゃんという役へと近づく上で、女という社会的属性が鍵になっていくことが想起される。稽古場での男性俳優との議論において男側が、日常的にジェンダーに対して無自覚でいられることが浮かび上がる流れは、ありそう、という温度感で印象に残った。 それでも役作りに苦戦する「私」がある日、駅でぶつかり男に遭うシーンはかなりスリリングだった。ぶつかり男に対して思わず溢れた言葉の数々は、期せずしてぶつかり男の心情にシンクロしていく感覚を「私」にもたらした。ぶつかり男の心情を経由して、「ぶつかり女」にならざるを得なかった菜月ちゃんへと、「私」はさらに肉薄していく。 日記の形式で断片的な情報から類推せざるを得ない冒頭は読むのに集中を要したが、後半はガーっと一気読みしてしまった。面白かった。
  • 2026年3月10日
    今世紀最大の理不尽 それでも、結婚がしたかった
    2度の離婚を経ての3度目の結婚を考える筆者。過去2回、夫となる人の苗字へと女側が変えるという形をとってきたし、日本ではそういうパターンが圧倒的に多い。 離婚する時には、配偶者の姓をそのまま名乗るか旧姓に戻すかを選べ、離婚後3カ月を過ぎると、通常の届出とは別の家庭裁判所での申請が必要となるらしい。2回目の離婚の際に、忙しい日々で諸々の手続きが後回しになってしまっていた筆者が、なんとか裁判所の許可書を役所に持っていき手続きしようとした。そしてその日のちょうど前日に、法律が改正され、ふりがなが足りなくて受理されない、ということがあったそうだ。 そもそも結婚で姓が変わるたびに身分証明書や銀行口座などいくつもの手続きを乗り越えねばならなかったのに、挙げ句の果てにこんな「理不尽」があるとは。 日本における結婚と戸籍の制度とそれにまつわるジェンダー不平等を象徴するような、筆者のエピソードは強烈だった。 一方の足を踏みつけにして成り立っているような現制度を見直し、「選択的」夫婦別姓で平等にしよう、という至極真っ当で穏当な主張さえ通らないこの国において、同性婚とかマイノリティの権利保障なんていつになるやらと、気が遠くなって気絶しそうになる。 一部の人に不便・不都合を押し付けたままの構造に頼ってまで守りたい既得権益ってなんなんだ〜。 筆者が過去の恋愛や結婚を振り返ったり、現在のパートナーとの関係性を大切にしようと色々模索したり、相手の姓になるでもなく自分の旧姓を相手に押し付けるでもなく法律婚へ到達する打開策を打ち出す展開など、色んな思考の格闘が見られて、面白い本でした。
  • 2026年3月7日
    破果
    破果
    60代女性の殺し屋が主人公となる韓国の小説がある。その情報だけですごく気になって記憶に残りつつ未読だった。そんな作品がミュージカル化し、日本で上演されるらしい。しかも主役を演じるのはあの、花總まり。 舞台俳優・花總まりといえば、日本で長らく人気のミュージカル演目『エリザベート』だ。私も大好きで、帝国劇場で彼女の歌を聴けた時は感無量だった。絶世の美貌を誇る皇后をずっと演じてきた花總さんが、ここにきて老齢の殺し屋を? 観に行くしかない! ミュージカル『破果』のチケットをなんとか入手し、観劇を来週に控えている。 予習として怒涛の勢いで原作小説『破果』を読み、面白くて夢中で完走した。 苛烈な競争社会であり、家父長制的な価値観が強いとされる韓国において、老人であり、女性であり、家庭を持っていない主人公・爪角(チョガク)は本来、弱者性を象徴するはずの存在だ。そんな彼女が殺し屋を生業とし、エージェンシーから斡旋される仕事を請けて、ターゲットとなる人間(それは彼女より若い、男性であることが多い)を消して生計を立てている。設定だけですでに、韓国の社会構造を皮肉っているような気さえして、読みどころとなる。 姉とたくさんの妹と末っ子の弟がいて貧しかった生家から、口減らし的に裕福な親戚の家へと奉公に出たような爪角の生い立ちも、儒教思想から男児を授かるまで子を産むものだとする人が多かったという時代背景がにじむ。やがて彼女は奉公先からも出て行かざるを得なくなり、裏社会で金を稼ぐリュウという男と出会い、殺し屋家業へと身を投じていく。命を奪い奪われるかもしれない弱肉強食の極まる世界で、守るべき大切な存在を作ってはいけないというのが、爪角のルールだった。 老齢となり、いつまで殺し屋を続けられるのか。爪角が日々巡らせる思考は、今日の資本主義にもとづく競争社会を生きる我々の不安にも通じる。 飼っている老犬の無用(ムヨン)や、ある仕事で負傷した爪角の手当てをしてくれたカン博士との出会いがあり、独りで生きていくと決めていたはずの爪角が、他者やその大切にする別の他者を、思いやる気持ちを自覚していく。 そうして、過去の因縁から彼女を狙う別の殺し屋が接近してきて、スリル満点のアクションへと突入する終盤は手に汗を握った。 小説版のラストのシーンがとても好きだった。ミュージカル版はどうなるだろうか。たいへん楽しみです。
  • 2026年2月17日
    かわいい中年
    かわいい中年
    「私、弁当に目のピントを合わせるために、メガネ外してるんですよ」 から始まるような雑談。終始おもしろい。体のちょっとした不調も、人間関係の話も、一緒に面白がりながらあれこれ話せる感じが、理想の中年という感じだ。 結婚とか子供とか、既定ルートの大人像にハマれないとモヤモヤしていた二十代の時に、三十代だったこの三人の面白さに出会い、救われた思いだった。気づけばウォッチし続け十年を超える。ちょっと先の人生に光をさしてくれる、灯台のような存在。
  • 2026年2月17日
    そいつはほんとに敵なのか
    自分もなにかと他者を敵認定しがちなところがあるので、考えを点検してほぐしていくような文章が読んでいて面白かった。 参政党支持の人にインタビューするところが、当初勝手に想像していたのより遥かに穏やかで、相容れない考えの他者を切り離しがちな自分を反省した。 あと、パートナーとマリオカートで遊んでいるうちに筆者が機嫌を損ねるシーンのようなことって、なんとなく身に覚えがある。筆者は少し時間を置いて詫びつつ、関係性にまつわる自分の要望を相手に伝えていて、すごいと思った。 自分だったら、相容れない考えを持つ他者と歩調を合わせるには、自分を押し留めて相手に合わせる一辺倒で、結果最終的に破綻してしまう、ということばかりだった。自分を出しつつ、相手も尊重しつつ、歩み寄るやり方を、少しずつ勉強していきたい。
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