ごうき
@IAMGK
2026年5月15日
ハンチバック
市川沙央
読み終わった
「生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。」
はじめに断っておこう。私はこの作品を好きになれなかった。だから、冒頭の引用も感動した文章からではなく、当たり障りのない文章を選んだ。それほどまでに私はこの作品を好きになれなかった。ので、この作品ならびに作家が好きな人は、この文章を読まない方が良いだろう。
性的な描写が多く、外で読むのが恥ずかしかった。しかし、私がこの作品を良いと思えなかった理由はそこにはない。私がこの作品を受け入れられなかったのは、文体と作者の幼い僻みにある。
まず、文体についてだが、その作品は序盤から「個人アカ」や「学歴ロンダリング」のような軽薄な言葉遣いを用いた口語体と端的な文語体が入り混じっており、なかなかに気持ち悪い。文体の均整が取れておらず、主人公である釈迦の抱える二面性(被護欲と攻撃性)が見つけにくくなる。ただ、淡白ながらユーモア溢れる皮肉には、面白い部分がある。
問題は後者である。本作は「作者の怒り」的なところを評価されていることは有名な話だが、少なくとも私には怒りというより拙い僻みにしか見えなかった。特に「紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。」という部分は、視野の狭いルサンチマンに他ならない。特に前半はこの軽率な僻みが多く、ただの感想文に過ぎないように思え、それが非常にノイズとなり、読む気も失せ、再読する気にもならないといった始末である。尤も、この怒気と迫力ある文体を僻みとしか捉えられないのは、障害者である姉を間近に見続け育ってきた私の受け取り方の問題なのだろうが。芥川賞の選評を見ると、この文体とそれによる問題提起が評価されたようであるが、少なくとも私には、本作を芸術(文芸)と呼ぶにはあまりにも僻みという拙い私情が混ざり過ぎているように思える。芸術(文芸)が社会への問題提起を含むべきか否かはまた別の議論を用意する必要がありそうだが、少なくともこの作品を終盤まで見ると、優れた点はそういった部分しかないだろう。さしずめ、「背骨文学」といった具合である。
この作品を作品たらしめるのは、最後の展開であろう。私が先程「少なくともこの作品を終盤まで見ると…(後略)」と語ったのは、そのためである。最後の展開があることにより、この膨大なルサンチマンを抱えた感想文は作中作となり、強制的に層を帯びて作品に深みが生まれる。この部分については色々と解釈の仕方が分かれるようだが、私は主人公の物語を客観視することで、その人生を供養し尊厳を見出す構造になっている、と捉えている。『人間失格』のようなものである。とはいえ、そういう構造は一見「釈迦の人生を価値あるものへ昇華する」という点では説得力があるが、ストーリー的な面から見た時に、井沢釈迦が殺された必然性は薄い。また、その直前も、聖書からの引用が述べられているが、これに関しても必然性が全くなく、極めて不可解である。
これらの展開によりこの作品は作品へと昇華したのだろうが、その展開を設る必然性に些か欠けていたため、私には読後の爽快感というものが感じられなかった。して、「社会を恨む感想文が、社会に問題提起をした」「しかし、文学作品のようには思えない」「ユーモア溢れる皮肉が面白い」くらいの感想しかないのである。文庫本に付された往復書簡を読めば見方が深くなるのだろうが、読む気にはなれない。
この感想を読んだことにより、私には2つ、問題点があることが分かった。1つ目は、私はかなりの芸術至上主義であるということ。平野啓一郎は芥川賞の選評で他の作品に対し「他者性」(即ち、読者の存在)について言及していたが、どうも私の中で読者の存在というのは薄い。「現代の文学作品が他者性を意識してデザインされるべきかどうか」というのは、私の考えなければならないところである。もう1つは、一度作品に不満な要素があると、途端にその作品が嫌いになって親身になって考察できないこと。この作品についても、序盤で「嫌いだ」となり、以降あまり深く考えずに読み進めていたが、これは良くない。なおさねばならない。
