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ごうき
@IAMGK
本を読むのが遅い。 私は馬鹿なので、同じ本を何回も読まないとその本を理解できない。
  • 2026年9月19日
    文学入門 改訂 (講談社文芸文庫 いD 21)
    「私は、事件の描写は小説の本質的なものではなく、ただ作者のその事柄に対する思想であるモチーフを生かすためにだけ必要なものである、と考える。」  現在は絶版となって価格沸騰している伊藤整の『文学入門』。絶版でありながら大変人気の書物であるため、中古でも1万円くらいする。あ〜、そこらへんのブックオフにぽんって置いてないかなあ…。  内容としては文系のバックグラウンドを持たない自分にもとても分かりやすく、社会背景・文学のもたらす感動・詩歌や記録文学などの文学の諸形式という側面から文学を紐解いていく。今までは文学史をYouTubeでざっくり把握する、程度だったけど、この本のおかげで古今東西の大体の文学事情を掴むことができた。特に近代の産業革命やマルクス主義による文学への影響がとても分かりやすくて腑に落ちたし、芸術はこうも社会の影響を受けるのかと感心した。作家というものは、家に篭りきって机に齧り付いているだけじゃなく、ちゃんと社会の中で生きていく必要があるんだなあ。  幸運なことにこの本は大学の図書館で借りれたから無料で読めたんだけど、普通に手元に置いておきたい。
  • 2026年9月13日
    破局
    破局
    「その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。」  最近の大学生の少し翳りのあるリアルな恋愛物語を思い浮かべていたこと、それからYouTubeやXで活動している批評家が批判していたことから興味を持ち読んでみたが、終始「物語による印象」というものに欠ける作品だった。つまり、話の展開を、読んでいる途中ですら記憶できないのである。それはこの作品の主人公である「私」が平坦な生活のうちに、徐々に壊れていくからであろう。この作品の良さは、その展開と文体、それからモチーフが一致していることにある。  まず、この作品の最も大きな特徴はその文体であろう。この作品は主人公の一人称視点で語られるが、とてもファクトを感じる。実際に起こっている物事にのみ着目し、それを社会的規範に則って処理していく。それは自分の感情に対してもそうで、ある種自分をも客観視しているような、一人称でありながら三人称の視点を持った、そんな感じの印象を受ける。これが主人公の確固たるキャラクターを、強固な肉体という設定とともに形成する。こうした事実ベースに徹底したものの見方と処理の仕方が、「冷たい視点・文体」を実現し、現代的な人間だとの評価を受けたのだろう。 主人公は元カノと肉体関係を持ったことにより「破局」していくわけだが、この「大学生の性行為」という破局のための装置にも、この文体が馴染んでいるように見える。  作者は夏目漱石の文体に影響を受けたと話しており、漱石の作品をよく写経するらしいが、それは漱石のユーモアあふれる文体だとか教養溢れる文体だとかいうよりも、どちらかというと言文一致の点で成功しているように見える。非常に端的な文章だ。  また、堅牢で静的な私と、性欲によって徐々に変わっていく動的な彼女との対比も効いている。  ただ、これを読み、作者の思想、即ちこの作品が書かれた必然性はどこにあるのだろうか、と思った。本作は人物一人一人のセリフが長すぎて環境の時間経過を感じられないといった、極めて「作り物」感のある作品だと強く感じていたが、その箱庭的な世界を作者は何を思って構築したのか、その箱庭を通して読者に何を伝え・問いかけたかったのかが分からなかった。芥川賞選考員の奥泉光氏は本作について「主人公の欠落が一体何なのかと、思考を誘う力が弱い感じがした。」と述べているが、私も似たようなことを思う。私は作品を構成する(と私が勝手に思っている)形式-構成-思想のうち、思想に大変興味があるので、そこがぼんやりとしていたのが、少し残念だった。とはいえ、作品を評価する際には「どれだけ思想が優れているか」「どれだけその思想が深いか」を推し量ることは非常に難しいし、あくまで小説は文章による芸術なのだから、批評の場では形式や構成を重視することが多いのだろうなあ、と思ったり。
  • 2026年9月7日
    風立ちぬ/美しい村改版
    「風立ちぬ、、いざ生きめやも。」 堀辰雄『風立ちぬ』  この作品を、美しいという言葉を持ってせずに、なんと形容できようか。私の最も好きな作品であり、長年私を支えてくれている作品でもある。  描かれている情景が素晴らしい。山奥の大自然に、病床に伏した女性と、お互いの愛・幸福を確かめながら生きていく。そうして最後には、愛する人の死を乗り越えて、強かに生きていく…。そうしたゆっくりと去っていく時の流れを、堀辰雄は正確に捉え、人物の心情を詳らかに書き留める。また、特筆すべきはその文体であり、山岳の美しい自然が、独特な文体によって眼前に拡がりをもつ。本作はその構成・文体を凝ることによって、時間的・空間的に拡がりを持つ二次元的な作品となったのである。  しかし単にその耽美な人間関係、美しい自然を描いたからと言って、本作が、堀辰雄がロマン派とされるわけではない。堀辰雄が目指したのはロマン主義ではなく、あくまでフランス文学に基づいた四季派であった。確かに主題が「愛」「生と死」といったものだからロマンチックに見えるけど、その裏には人間の心理など、緻密な計算があったのだろう。  とはいえ、当時主流だった私小説に逆らい、意図的に美しいものを創り上げていくフィクション性には、魅力があるのだろう。厳しい現実を生き抜いていく間に灯る、理想的な、美しい生活…。私もいつか、そういう生活を送ってみたいなぁ。
  • 2026年9月6日
    愛をめぐる対話 他3篇 (岩波文庫 青 664-2)
    「『夫と妻とが 一つ心をいだいて一戸の家にある』 これほど大きな喜びは夫婦以外からは得られないし、これほど長続きのする人間どうしの関わり合いというものもほかにはない。愛情の美しさが、これほど誉れとされ羨むべしとされる場合もほかにない。」  『愛をめぐる対話』は前に読んだ『饗宴』の後継のような立ち位置にあるだろうが、『饗宴』よりも神話や引用・登場人物が多く、読むのに難航した。難しかった。  おそらく本作で論考されていることは、『饗宴』で語られるエロスを、少年愛だけでなく夫婦関係にもあてはめる、ということだろう。愛とは徳を積み、美へ至る道であるという前提は変わらないが、プルタルコスはそのうえで、少年愛も夫婦の関係も、どちらとも愛と言えるだろうと看破する。そして理想的な夫婦関係を、単なる肉体関係だけではなく(尤も、それは夫婦関係を始める始めの一歩とされているが)、相手を愛し、生涯を共にすることとする。この解釈は『饗宴』からはだいぶ進み、現代にも通ずるところが多い、というか礎になっているなと思う。  本書を読むにあたってだいぶ時間を要したが、それは本書が難解だったということの他にもう一つ、文章を書いていたというのがある。原稿用紙60枚弱の文章を書いていたのだが、書けば書くほど、やはり文学を勉強しなければと思うようになる。リルケとか読みたいけど、夏目漱石をとりあえず片っ端から読んでみようかな、あとは伊藤整辺りの論評も読みたい。
  • 2026年8月12日
    饗宴
    饗宴
    「人の代には平和(やわらぎ)を、 海原には鏡なす静けさを、 暴風(あらし)には休息(やすみ)を、 憂き身には塾寝(うまい)を もたらす者はエロスである」  古典にも触れなければならないと思って手を出した。基礎を固めることは重要なので、古典から頑張って勉強していこう。ちなみに私は歴史を知らない無学な男であり(俺は過去を振り返らない!)、プラトンが紀元前の人物ともまったく知らなかったので、イエス・キリスト誕生の400年前からこんな思想があったのかと驚いた。すごいなあ。  「愛」とか「美」とか「徳」とか、未だ大人になりきれていない自分を誘惑するような文字ばかりが連なっている(そろそろ大人ににならないと)。古代ギリシアでは「徳の高い人物になる=美」という図式が成立しているが、徳や善悪を問う現在、それはもはや成立はしない。とはいえ、私の思想は本書から善悪(徳)を取っ払っただけであり、通づるものがあるな、とも思う。愛にはやはり確かな能動性が潜んでいる。そして愛こそが最も人間らしい営みだ。これは本書の「愛される者が愛者に自発的に服従するのは屈辱的ではない」「エロスは最も古い神であり特別だ」という視点と対応している。何かを愛せるというのは、とても幸福なことだ。  本書はソクラテスとその弟子らによる愛をめぐる対話であり、神話をもとに展開されるのだが、その中でソクラテスは「愛はあらゆる者への愛なのだろうか?欠乏しているものに対してのみ存在するのでは?」と提議する。彼はアガトンのエロスへの賛美に「愛には何かを求めるという性質があり、また、神々の世界も美への愛によってその秩序を保っている。ではエロスは美を欠いているのでは?しかも善きものが美であるから、エロスは善くないということにならないか?」という三段論法をかますのである。鋭いと思う。確かにそうだ、確かにそうだ。これを読んで私が思ったのは、愛が獲得という性質を含んでいるのかということ。私はそれを恋愛に準えて、「自分の中にいる相手の像を欲する」のが恋、「相手そのものへの欲(所有欲に限らない)」が愛だと考えているから、そもそも定義が違う。私の考えること愛には、「相手を獲得する」という要素がない。しかしこの定義には、「果たして本当の相手を知ることは可能なのか」という疑問が残る。それに対するカウンターとしては「そう在る試みこそ愛なのかもしれない」という苦し紛れなロマンチストみたいな返答しかない。うーむ、どうなのだろうな、もっと愛に関する本を読まなければならない…。
  • 2026年7月27日
    自分以外全員他人
    「人に過剰な親切を見せながら、決して踏み込まれないよう壁を作り、人を好きになることにも好かれることにも罪悪感を覚え、気の合う人と出会っても、関係が深まりそうになるとわざと嫌われるような真似をして遠ざけた。」  面白かった。私小説のようで、「LINE」や「既読スルー」と言った軽い単語や浅薄な感情がまざまざと現れ、その思想のなさに心底つまらなさを感じていたが、中盤の展開から一気に面白くなった。全体を通して思想は感じないが(そもそも、現代人は「普通とは何か」のような漠然とした概念を疑うようになったから、思想も浅薄になってしまうのかもしれない)、それでも町田康が評したように、「理不尽な身勝手さがすごく人間らしくていい」。  この作品は、いわゆる「弱者男性」的な、被害妄想の強い陰鬱とした人間、けれどもそれを「優しさ」と自覚している男が主人公であり、だからこそ色々と心を動かされてしまった。以前の私、現在の私と被るところが多い。以前の私にも当てはまるが、規律やルールを重んじて、相手を自分よりも優先することが「優しさ」と履き違えている人間が、この世には多すぎる気がする。「優しさ」とは単純に弱さのことであり、「他人を優先する=優しさ」と捉えているうちは、まだ優しくない。本作にも出てきたが、「他人を優先することは自己中心的ではない」という考えは、「他人を優先することもまた自己中心の行いである」という反論から、論理として弱いのがわかる。第一、この世の人間関係はギブ・アンド・テイクであり(それを唯一壊しうるのが愛である)、その視点に立って「自己中心」を規定しなければならない。しかし自称「優しい」人間はそういうこところまで考えず、「自分は優しい」と思い込んで澄ました顔をしている。果ては、その優しさに気づいてもらえないと、裏切られたと勘違いする。困ったものである。そういう「施しを与えている」という立場を取ることをやめなければならない。人間は皆、フラットな立場にいるので。  また、こうした態度を前提として初めて、作中で出てきた「他人の顔を殴りたくなる」などの表現に厚みが出てくる。本作序盤ではこうした「優しい」論争がなく、従って「殴りたくなる」などの表現も気の弱い中年男性の日記のようにしか思われなかった(それが最初つまらなかった原因でもある)。しかし、中盤、主人公が自身の「優しさ」に揺れ、次第に周囲に過剰なまでの八つ当たりをしていく場面は面白い。そしてこれは現在の自分にも当てはまる。表に出さずとも些細な人間に対して腹を立てる場面が多い私は、結局根っからどうしようもない人間なんだな、と思う。自分に犯罪者の素質があるようだ。それは社会の規律によって抑圧されているが、裏から言えばそれは私がどうしようもない人間であることの証左である。よくないことである。世の人間は一体全体、自分が自転車に乗っている時に通行人に対して苛立つことがあるのだろうか。私は、よくある。
  • 2026年7月26日
    愛の試み
    愛の試み
    「しかし理想的な愛の状態に於ては、相手の孤独は自己が癒し、自己の孤独は相手が癒してくれることも、即ち同時に能動的かつ受動的であることも、不可能ではないだろう。その時に、これら二つの魂は、互いに相手の燃す焔によって暖められ、美しい調和の中に相手の孤独をやさしく愛撫し合うだろう」  本書は『愛の試み』という題だが、どちらかというと孤独の書である。福永が愛を孤独と相対的な状態と捉えていることがよく分かる。本書は『草の花』の解説書ではないかと見紛うほどに、福永の愛と孤独のエッセンスが詰まっている(しかし、実際そう捉えても良いはずである)。素晴らしい。  私は今まで愛というものを「他者」と「信頼」という要素から考えていたが、「他者」と「信頼」が異なるレイヤーに属すからこそ、そこから生まれる省察は愛の本質というより、むしろ愛の条件である。しかし福永は「他者」と「自己」という正当な配置から考えることで、愛の本質とはいかないまでも、その様相を深いところまで露わにしている。それを可能にしているのは、愛の生まれる状態からそれを失うまで描くという本書の形式にもある。しかもその洞察も鋭いものであるから、現代、いや、この先ずっと通用するものだと思う。恋愛について悩める文学徒は、ぜひ読むべきである。これを読んで文学から解放されるべきである。一体、なぜ福永武彦という名はあまり世間に知れ渡っていないのだろうか。甚だ疑問である。これも読み返すリストに入れることを決定。  話は変わるけど、『命の後で咲いた花』を読み終えた7月中旬、ずっと柄谷行人の『日本近代文学の起源』に向かい合っていたが、三分の一程度読んだ時点で挫折してしまった。ああいう本を読み、吸収するためには、どうすれば良いか…。チャレンジあるのみか…?
  • 2026年7月9日
    命の後で咲いた花
    命の後で咲いた花
    「なあ、なつめ。 随分と先に死んじまったお前は今、何処にいるのかな。 今日も何処かで、やっぱり能天気に笑っているのかな。 いつかは俺だって死ぬけど、そしたら最初にお前を探しに行くよ。お前を見つけて、力いっぱい抱き締めるから、もう一度、俺の名前を読んでくれ。」  こういうエンタメを読むのは高校一、二年生ぶりだから、もう7年くらい前になるのか。本当に5年ぶりくらいに、本を読んで泣きそうになった。途中の語り手の転換が良く、見え透いた伏線を裏切るように物語は進行していくが、最後の最後にそれを回収するので鳥肌が立つ。文体も大衆ウケしそうなユーモアあふれるものだったので読みやすかった。語り手の性別によってその文体が変わるのがさすが小説家といった感じである。女性が語り手の時は女性らしい文章だし、男性が語り手の時は男性らしい文章だった。  とはいえ、最初は久しぶりに読むこのエンタメらしい文体に馴染めず、大いに違和感を感じた。やはりエンタメ小説は話の筋がとても大切でありそれを意識して書かれているのも分かるが、それがあまりにも顕著に出過ぎていると、却って違和感を感じる。登場人物そのものが喋っているのではなく、その登場人物のイメージがあり、そのイメージが登場人物の肉体を借りて喋っている感じ。要は登場人物が自律的に言動しているのではなく、物語の筋に登場人物が乗っている、というような感じだ。しかし逆に言えば、物語がサクサク進むので、私のような令和のドパガキでも読みやすい。  また、会話と心理・情景描写のバランスからも最初違和感を感じた。会話は時が流れるが、心理・情景描写はあまり時が流れない。だから、そのバランスが乱れると、無理に時が流れて物語が進行していく感じがある。例えば、「ある展開への導入(情景描写)→展開(登場人物の会話)→その展開の回収(情景描写)」という流れがあったとして、前座の情景描写や後の心理描写が会話に比べて極端に短すぎたりすると、全てがその会話(展開)のために設られた感じがする。  ただし、これらの違和感は読むにつれて次第に消えていった。そうした違和感が気にならなくなるくらい、物語が面白かったのであろう。  あとはあれだな、登場人物が花粉症とか、どうでもいい細かい設定があるのがいいな。そういう設定から生まれる展開や伏線もあるだろうし、第一リアリティが増す。
  • 2026年7月6日
    草の花
    草の花
    「愛することは信じることだ、この一瞬を悔いなく生きることだ。不安が何だろう、死が何だろう、この魂のしずけさ、この浄福、この音楽、この月の光……。僕は今死んでもいい、こうやって、君を愛しながら、いま、——そう思い、あとはただそれを口に出して言うことだけが残った。」  好きだ。もっと皆に知られるべき名作。最近、素敵な作品にばかり出会う。これらの素敵な作品は皆私の血肉になり私の生命活動に大きく寄与しているのがよく分かる。やはり目的意識を持って本を選ぶと言うことは大切だ。  さて、本作についてであるが、この作品は「冬」「第一の手帳」「第二の手帳」「春」の四部構成となっている。最初の章ではサナトリウムでのある2人の人間の交流が描かれているが、私はどうもサナトリウム文学に惹かれる節がある。サナトリウムの、死を目前として一日一日をまるで大切な宝玉を撫でるかのように大切に、懸命に、しかし何事もなく生きる人々の淡麗と、作者の透明感あふれる今にも消え入りそうな文体がマッチしていて、大好きなのだ。そこには死を目前にした者にしか見えない生の脆さがあり、冷たい悟った雰囲気が荘厳と構えている。福永武彦の文体はそれを一番明瞭に描き出している。  続く「第一の手帳」「第二の手帳」では、主人公が恋愛に挫折したシーンが書かれる。主人公はある2人の人間を愛していると錯覚し、けれども1人には愛することの不安から、もう1人には愛されることの不安から拒絶されてしまう。絶望した主人公は、己の孤独のみを信用し、孤独の裡に生き、孤独を靭くしようと決意する。  ここで気を付けておかなければならないのが、この物語の主題は「愛」ではなく、「孤独」であるということである。主人公は孤独の裡に愛を実現しようとしたが、それは叶わないことであろう。山方方夫は「そうだ。孤独とは、だれも手を下して自分を殺してはくれないということの認識ではないのか」と言ったが、まさしく主人公のいう孤独とはこれだろう。そして、その孤独の上に、愛が建つはずもない。  私はこの作品がとても好きなのだが(私は自分の価値観を大きく変える作品よりも、共感できる作品の方が好きなのである)、一点、自分の考えと違う点がある。福永武彦は愛することを拒んだ登場人物に「愛するというのは、つまり愛されることを求めるということじゃないんですか」と語らせた。主人公はこれに対し「ただ愛していればいいんだ」と答えたが、いや、それは愛ではなくて恋だろう。恋には幾分かの欲望が含まれており、愛には多分な受容が含まれている(しかし、愛は恋によってでしか成就されない)。だから人間は事物を愛することはできても恋することはできない。母性を抜きにすれば、多くの人間は見返りがなければ何かを愛することはできない。唯一それを自可能とするガソリンは憧憬であるが、憧憬は肥大化すると自分の中で相手を壊し、愛を堕落させてしまう恐れがある。今回主人公が愛しているのはその相手ではなく「その相手との世界」であり、その人に抱いているのは恋心なのであろう。  彼は自分に愛する能力があると強く確信していた。しかし、だからこそそれに破れた時、孤独を選び、死を選んだ。彼は文字通り「愛に破れた」のである。
  • 2026年7月2日
    太宰治全集(9)
    太宰治『美男子と煙草』 「私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑畑に舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ、これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌には必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永に惚れなさい。」  10ページもない短編。滅茶苦茶面白かった。太宰が編集部の人に連れられて地下街を歩いたというエッセイだが、この短い話の中に彼の優しさと面白さが詰まっている。太宰の優しさは、弱さからくる優しさ。だから彼はマタイを読んでイエスに泣いたし、「日陰者」からすれば天使のような人間だったのだろう。あと、とてもユーモアに溢れている。どういう頭してんだ。彼の作品を読まずして彼に会っていたら、こりゃ彼を愉快な人間のようにしか思えないだろう。あと、滅茶苦茶大人だ。一人で酒を飲んでいたら訳のわからぬ文学徒に囲まれて見当違いの説教をさせらたけれども笑って聞き流していたなんて、すげえなあ。俺だったら、発狂の1つや2つでもしてしまって、たちまちお縄になってしまうのに。
  • 2026年7月2日
    仮面の告白
    仮面の告白
    「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」  これまたとんでもないものを読んでしまった。これほどまでに揺さぶられたのは久しぶりだ。三島の作品は丁度1年ほど前に『金閣寺』を読んだ以来で、三島で読むのは本作が2作目だが、とても良かった。1年ほど前に出会っていたら、私の命運に大きく関わっていたかも知れない。いや、そうでなくとも、本作が私の読んだ本の中でも尤も大きな感銘を与える作品の1つであることに変わりはない。  初めて読んだ『金閣寺』では、その晦渋な文体、観念的な作風にひどく辟易していたが、本作はより、徹頭徹尾、観念的であり実体が感じられなかった(作中でも述べられていたが、それは三島の意図するところであったらしい。逆にここまで観念的でないと、人間の心理とその機序は説明できないのだろう)。だから、私にはこの作品を読み感じることはできても、観ることはできないのかもしれない。  しかしその己の非人間的な要素への憂いをひた隠すような文体と論理からは自伝をとても感じる。『人間失格』よりもだ。先日とある古本祭りで昭和46年に刊行された『新潮 三島由紀夫読本』を入手したのだが、それによると三島はクリエイティビティへの飽くなき追求心を持っていた。ノートいっぱいに、作品の構成を緻密に設計しているのである。思うに本作もそうした精緻な作り、物語の構成と人生を重ねあわせる設計になっているが、全くと言っていいほど「作り物感」は感じられなかった。思うに、構成の流れがとても綺麗なのだろう。これは、完成された独白だ。そして、独白とは、芸術の尤もピュアな形ではなかろうか。  三島は本作で愛する能力のない自分・人間として生きる能力のない自分を、骨の髄まで描いた。三島は作中で(そしておそらく自身の指針として)「愛する資格もないのに愛を求める人にはならない」と強く自己暗示していたが、そもそも「他人を愛するためには、まず自分を愛さなければならない」ということ、そして自己愛の実現のためには「観る自分」と「観られる自分」の関係性を疑ってはいけないということを理解していたのだろうか?いや、本作を読む限りではそうは見えなかった。克己を求めるために冷静な論理に走るからこそ、その先には精神と肉体のあくなき分離、「観る自分」と「観られる自分」の分離しかない。本作でもそうした二項対立がよく見られたものである。  ところで、私には「三島の文体は美しい」という世論がよく分からない。長年の疑問である。文体が美しいとは、どういうことだろう?例えば川端康成は文章が織りなすイメージ、文体というより文体によって生じる観念が日本美という美の一種を構築するが、三島のそれはそういうものとは違うだろう。文体の美しさというのは、それぞれの語の用法・調和を指しているのか?お化粧をした女の顔を美しいと崇めるがの如く、特異な言葉遣い・調和を成す文体を世間は美しいと言うのか?いや、しかし、この世の事物には着飾るだけでなく、素朴さ・単調さより生じる美というものがあるだろう、必ず。私は三島の全作品を読んだわけではないが、少なくともあの堅牢な文体は先述した通り、弱さへの精神的な反逆からくるものだろう。そうした克己から生まれる文体そのものには美もへったくれもなく、ただ必然性のみが存在するだけだろう。
  • 2026年6月20日
    愛のことば
    愛のことば
    「夜 相思う、 風吹いて窓簾動く、 言う 是れ所歓の来れるかと。」 愛に関する文言のアンソロジー。 愛の字引きのようなもの。 発見が多く、次に読む本を決める参考になる。 ちなみに冒頭の引用は『中国名詩選』(中)の「華山畿」から。現代は言葉がありふれてしまって、こんな純粋なポエジーを生み出せない。
  • 2026年6月18日
    福音書(新約聖書)
    『マタイ福音書』 1周目。マタイ。 面白かった。収穫も多い。芥川龍之介(だった気がする)が聖書をとても優れた物語、みたいな風に言ってた気がするんだけど、調べても出てこなかった…。 とりあえず1周目の漁りをば。 一,"しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、見ただけですでに心の中でその女を姦淫したのである。"5・28 二,"あなた達は昔の人がモーセから『隣の人を愛し、』敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。"5・43-44 三,"空の島を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切なのではないだろうか。"6・26 四,"ところでお前たちに言うが、裁きの日には、ソドムの地の方が、まだお前よりも罰が軽いであろう。"11・24 五,"わたしは言う、人の話すいかなる無駄言も、最後の裁きの日にかならずそれについて責任を問われる。なぜなら、あなたはあなたの言葉で義とされ、あなたの言葉で罪とされるのだから。"12・36-37 六,"だれでも持っている人はさらに与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。"13・11-12 七,"それから群衆を呼びよせて言われた、『聞いて悟れ。口に入るものは人をけがさない。口から出るもの、これが人をけがす』"15・10-11 八,"不埒な家来"18・21-35 九,"弟子たちが言う、『夫婦の関係がそんな面倒なものなら、結婚をしない方が得だ』彼らに言われた、『そのことは本当の意味がわかって実行すれば確かに得ではあるが、それはだれにも出来ることではない。神から特別な力を授けられる者だけに出来るのである。というのは、同じ独身でも、母の胎内から結婚できないように生まれついた者があり、また人から無理に結婚できないようにされた者があり、また天の国のために自分で決心して結婚しない者がある。この最後のものが本当の独身である。出来る者はしたほうがよかろう。』"19・10-12 十,"イエスは言われた、『心のかぎり、精神のかぎり、思いのかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。これが最大、第一の掟である。第二もこれと同じく大切である。——隣の人を自分のように愛せよ。律法全体と預言書とは、この二つの掟に支えられている。』"22・37-38 十一,"だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。"23・12 十二,"アーメン、わたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消え失せない。天地は消え失せる、しかしいま言ったわたしの言葉は決して消え失せない"24・34-35 十三,"わたしがあなた達に命じたことを皆守るように教えながら。安心せよ、世の終りまでいつもわたしがあなた達と一しょにいるのだから。"28・20 聖書は全て、「自分を愛すること」が前提にある。故にそれが希薄である。大変な人は聖書に頼るのではなく「自分を愛すること」を際立たせていくべきだし、そういう文学が必要だろう。今までにそんな文学はなかったので。
  • 2026年6月14日
    太宰治全集(9)
    太宰治『酒の追憶』 「お酒は、それは、お燗して、小さい盃でチビチビ飲むものにきまっている」  昨日も飲酒を我慢できず、酔ったまま読破。10ページ程度の短編。私にとっては読み物というより、太宰に関する資料だな。  いやあ、太宰は文章を書くのが、本当にうまいな。太宰が遠くにいながら語りかけてきて、その語りに呑み込まれる。  太宰は1日に5〜7合もの日本酒を呑むらしい。んで、冒頭に引用した通り、太宰は熱燗を好んでおり、また、周囲からは「ひやは、からだに毒ですよ」と言われていたらしいが、冷酒を水の如く喉に流し込む私とは全く逆だな。  そういや、最近行きつけのバーができた。貧乏学生なので、1杯目にグラスホッパー、2杯目にメーカーズのロックを頼み、安いナッツをちまちまつまみながら煙草を吸っている。酒に酔っているというより、自分に酔っている、という感じだな、ありゃ。
  • 2026年6月13日
    詩という仕事について (岩波文庫)
    「しかし、私の生涯でもっとも重要な事柄は、言葉たちが存在すること、そしてそれらの言葉を詩に織り上げるのが可能ということでした。最初は私は読者でしかありませんでした。これは確かです。しかし、読者の悦びは作者のそれよりも大きいと思います。読者はいかなる苦しみも不安も感じる理由がない。悦びを求めるだけなのですから。」  途中で他の本を読んでいたり忙しかったりしたから、2週間くらい読んでいた気がする。しかも、読了したのは一昨日だから、あまり詳しく書けないかもしれない。  本書は『バベルの図書館』で有名なボルヘスがハーバードで講義した時の記録であり、詩についてよく書かれている。これは最近考えていたことと重なることが多く、とても参考になった。同時に、彼は講義中で数多くの例を出したが、聞いたことがないものも多く、まだ世界には知らない本がたくさんあるのだな、と痛感。  1章は「詩という謎」というタイトルで、詩とは何か、どこから生じるのかという問いについて書かれている。でも内容はあまり覚えていない。言葉は単なる記号に過ぎない以上、詩は我々の経験や文脈から形作られる。我々の内部に深く根差しているものから詩趣は生まれ、して我々は詩を心得ている、らしい。  2章は、「隠喩」について。これは面白い。そもそも隠喩は無限通りあるかの風に思われるが、実際には世界中の詩人が、ありとあらゆる時代を通して、同じような隠喩しか使っていない。ふむふむ、確かにそうだ。思うにそれは、言葉の持つ歴史・民族性が関係していそうだ。「目=星」「女性=花」「時=河」などのメタファーは、それ自身が全民族納得できるものであり、しかもあらゆる時代の人間が目撃している。しかし、例えば「死体=何年も使われていないスマートフォン」は現代人、しかもスマホを買い替えた人にしか伝わらない。  また、ボルヘスはこの章で隠喩を3種類に区分している。1つ目は「伝統」。これはさっき言った通り、言葉の持つ歴史みたいなもの。2つ目は「絶妙な正確さ」。『六兆年と一夜物語』みたいに、単に『六兆年物語』とするのではなく、一夜を付け足すことで妙な具体性が増し、ポエジーが生まれる。確かに。3つ目は、「kening(ケニング)」。アングロサクソン人の時代特有の隠喩で、「海=鯨の道」みたいに、単一の名詞を複数の名詞で比喩するもの。ゲームのコースタイトルとかで、よくあるやつ。  この章は、非常に興味深かった。  3章は、「物語り」。「物語り」って、良いな…。「物語」は名詞だが、「物語り」は「物語る」という動詞の活用形であり、書き手の能動性を感じる。  内容としては、叙事詩の形式は①トロイ物語②オデュッセイア③福音書のいずれかに集約されるというもの。また、叙事詩と小説の違いとして「韻文か散文か」「叙事詩は英雄像、小説は人間の崩壊を描く」という傾向があるらしい。特に後者については、なるほどなるほど。  19〜20世紀の境目、ポーの「文章は最後の一文のためにある」という考えの元、多くのプロットというものが生まれたが、結局それもなんとなく技巧的な感じがする。結局物語としては先に挙げた3つの抒情詩が強くて、歴史の中にずっといる。それほど、新しいものは求められていないということである。  4章は「言葉の調べと翻訳」で、主に語感や翻訳について述べられている。私は日本人だから、英語の語感はよく分からない。翻訳については、確かにと思うところあり。翻訳によってポエジーが失われてしまう可能性があるが、逆にポエジーが生まれることもある。例えば、ヘブライ人は最上級を持たないので"the best song(最高の歌)"を"the song of song(歌の中の歌)"と訳す。すると、途端に詩感が生まれる。確かに。   ところがそれとは別の問題として、逐語訳なるものが存在する。要は直訳みたいなもの。今日では我々はあらゆる人間に公平であるため殆どを逐語訳で考えるが、マシュー・アーノルドは「逐語訳は忠実だが、誤った強調になる」可能性があると述べている。確かにそうだ。となると、逐語訳ではない翻訳は、詩の再生とも言えるね。  5章は「思考と詩」。ここではポエジーが我々の生活から生まれるとか、逆にあらゆる単語は自立し唯一無二であること、言葉の持つ魔術性を強調している。そんな言葉によって紡がれる物語を読むためには、その中の登場人物を信じるべきだ、とも。  そして6章では「詩人の信条」として、ボルヘス自身が創作に向かい合う際の心構えを述べている。  いやあ、難しかった。理解できた箇所も多いけど、難しくてすぐ忘れちゃった。いけないな。やはり私は馬鹿だから、同じ本を何度も読まないといけない。
  • 2026年5月30日
    東京都同情塔
    東京都同情塔
    「他人の言葉を継ぎ接擬してつくる文章が何を意味し、誰に伝わっているかも知らないまま、お仕着せの文字をひたすら並べ続けなければいけない人生というのは、とても空虚で苦しいものなんじゃないかと同情したのだ」  5月末、非常に大変なことがあり、精神が極めて不健康だったので、読むのが遅れてしまった。裏表紙の粗筋を読むに少しフィクション感の強い作品で、純文学を銘打っておきながらフィクション感の強い設定にやや嫌悪感を感じる私はずっと嫌厭してきたが、いざ読んでみるととても良かった。もう一度読むべき作品だろう。というのも、私はこの作品をまだ完全に咀嚼しきれていないからである。そんな状態で記録を記すことは若干憚られるが、まあそれも大切なことだろうから、一応書いておこう。  まず、作品の吸引力がすごい。読めば読むほど作品は私をどんどん呑み込んでいき、次第に右も左もわからなくなって、ただただ作品の中で波に揉まれてしまう、そんな感覚に陥った。非常に強い力を持った作品だ。建築とは無縁であろう作者:九段理江が全く人種の異なる人間にここまで思想を詰められるのが圧巻である。登場人物の緻密な人格形成には驚かされるばかりである。  本作は「AI時代の到来を預言する」とかで評価されていたようだが、少なくとも私にはそうは思えなかった。この辺りがまだ私が掴みきれていない部分だが、本作の主題は恐らく「言葉」そのものであろう。本作は言葉の持つ重さ・適切さ・価値から語感・構造・虚構性まで、言葉に備わる機能や性質について網羅し、言及されている。しかしその言葉に意味を持たせるには、恐らく主体性が大切である、というのが主題であろう(もしかしたら、違うかも)。AIの生成する文章の軽薄さ、あくなき寛容さが齎す主体の軽薄化、それらが発する言葉には重みがないのだろう。というのが、1周目でぼんやりと考えていたこと。とはいえ、主人公自身が建築であると自覚して終わるという展開から、まだ大事なキーワードを逃している気がする、「内部」とか「外部」とか…。うーむ、分からんな。言葉のフォルム(形式)とテクスチャ(手触り)とはまた一線を画す議論ではありそうだけれど……。  あとは、そうだな、単純に文体が好きだ。現象に対する内面の鋭敏さというか、世界を内面に落とし込む描写に非常に優れている。感覚が敏感すぎる。  虚構の言葉を操って言葉について語るなら、その語りもまた、虚構なのだろうか?  面白かった。必ず、もう一度読もう。
  • 2026年5月20日
    苦役列車(新潮文庫)
    「そして更には、抱えているだけで厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みや嫉みに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。」  私の知る限り、西村賢太は日本最後の私小説作家である。その私小説作家がどのような作品を書いているのだろうととりあえず代表作である『苦役列車』を読んでみたが、うーむ、という感じ。文章は面白かった。ただ、太宰の私小説を読んでいたときは吐くほど感嘆していたのに、この作品ではそうはならなかった。恐らく、太宰は私小説において自身の心情を空になるまで吐露していたのに対し(言うまでもなく、全ての作品がそうではない)、この作品はある種自分を客観視して自己劇化する節があるからだろう。先日読んだ『山月記』と同じである。主人公はなかなか共感しにくい境遇で育ち生きており、だからこそ自身の心情を吐露しても負け犬の遠吠えにしかならないのであろう。或いは、あまりにも短絡的すぎて、そうした深い哀しみのようなものないのかもしれない。どちらにせよ、そういった理由から自己劇化という手法はある種理に適っているとも言える(それが私小説にするメリットを最大限活かしきれているかどうかは甚だ疑問ではあるが)。しかし、そういう境遇の主人公に、私は何とも思えなかった。それどころか、不潔な描写は喉を通らなかったのである。結果として、作品全体を呑み込むことなく読み終えてしまった。また、社会的な視点から見ても、何か漁りがあるわけでもなく、嘲笑の的にされて終わるだけだろう。だからこそ、うーむ、という感じだったのである。これも一種の「主体を獲得し、それで生きようとしている泥臭さ」のリアリティを反映しているのかなあ…とも思う。  私は未来の読者(本作が発表され芥川賞を受賞したのは2011年)なのでその程度の感想しか抱けなかったが、ここで当時の芥川賞の選評を見てみようと思う。  本作に◎をつけた石原慎太郎氏は『この作者の「どうせ俺は――』といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジュニュインなるものを感じさせてくれる」と述べている。ふむふむ、なるほど。今まで文壇に上がらなかった類の作者であり、それが新鮮でしかも人間味を感じる、と。確かにそうだ。一方で◻︎をつけた村上龍氏は「相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である」、「作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。新人作家に対し、このような注文をつけるのは、『きことわ』と『苦役列車』が質の高い作品だとわたしが認めているからである。」と語っている。誠に同感、特に後半。私は初めて『人間失格』を「読んだ」高校一年生の頃から、後半のようなことをずっと思っていて、それこそが作品を規定する要素の一つだと確信し8年間ほど生きてきたので、本作に関してはあまり肯定的になれなかったのだろう。ところで氏はあくまでそれは巧みな技術があることを前提に語っているが、氏の言う「巧みな技術」とは、何だろうか。  本作を通じて、私小説難しっ!と思った。そもそも私小説って、作者が「これ自分の体験なんですよ」って明かさないと分からないよね。その境目が、曖昧だ。  以前私は「作家が全て設定を考え構成した小説は意図が常に作家のうちに留まるが、私小説においては意図は全て作家の外、とりわけ読者やその背後にある社会にある」と考えていたが、どうもその通りな気がする。直感だけど。  もう少し、最近の文学作品を読んでみよう。んで、勉強も並行しよう。もう少しで自分の中の問題意識がちゃんと形になる気がする。
  • 2026年5月16日
    新約聖書 福音書 8月
    「何かを願うとき私たちは、物事が自分の思う通りになってほしい、思いが実現してほしいと考えます。しかし『祈る』とは『願う』こととは異なり、「み旨のままに」、という思いを胸にわが身を投げ出すことだといえるのではないでしょうか。」 聖書を、読みます。 もちろん私はクリスチャンでもないしツァラトゥストラを通っているし、第一理系の人間でローレンス・クラウスを愛読していたくらいだから神など信じていない。 ただ、海外文学をよりよく知るために、何より人間の愛、他の気になっているテーマについて包括的に考察するために、世界で最も読まれている聖書を読みます。 読了報告は、しないでしょう。聖書に限らず、「本を読み終わる」ということは決してあり得ないので。特に聖書の場合、一生をかけても読み終えることができないだろう。 最初にマタイ、次にヨハネ…。愛を知るのは、いつになることやら…。
  • 2026年5月16日
    李陵・山月記
    中島敦『山月記』 「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」  高校3年生(2年生かもしれない)の頃に授業で読んだきりだったが、今度ある読書会に参加するために再読した。2回目である。  やはり名作だ。どこからどこまで、エッセンスが詰まっている。とても良い文学作品だ。中島敦って、こんなに良かったのか。  本作には様々なテーマが込められており、だからこそ読む人にとって受ける印象が違うのだろう。また、或いは解釈の違いもあるのかもしれない。「李朝は虎になっていない」と言う説もあるくらいなので。ただ、最初に着目すべきはやはり文章の形式であろう。この作品は李徴に焦点が当てられているが、物語として、李徴の鉤括弧が付いている台詞は、序盤に虎として叢から躍り出た時の「あぶないところだった」「如何にも自分は隴西の李徴である」しかない。その他の台詞には一切の鉤括弧がついておらず、物語の進行とともに李徴の独白は量を増していく。これにより李徴の語りは物語そのものとなり、李徴は自己劇化される。自己劇化し李徴のバックストーリーを作中作のように配置することで、我々は袁傪に共感しながら、李徴を客観視することができる。  さて、この作品は「内面のコントロール」「罪と罰」「芸術家の苦悩」といった様々なテーマを包含しているようだが、やはり「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という語が有名なように、一番大きなテーマは「芸術家の苦悩」であろう。思うに芸術家の素質は例えば孤独であることやら矜持心やら青臭さやらナルシシズムであることやら己への厳格やら色々な要素があるだろうが、一番大切なのは謙虚であることだろう。これはナルシシズムとは異義に思えるが、そうではない。あくまで芸術家として自信家な姿勢を見せつつ作品に対しては謙虚である、そういう姿勢だろう。袁傪は虎になった李徴の詩を聴き、「作者の素質が第一流に属するものは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか」と述べる。この「何処か」とは、紛れもなく謙虚であることだろう。不思議なものだ。作品への思惑や姿勢は、作者が意識しないところで読者に読み取られる。作家に唯一コントロールできないもの、それが作家の生まれながらの内面であり、これが本作品のテーマの一部である「内面のコントロール」であろう。これは鋭敏なる読者には、例えその読者が文章の鍛錬をさほど積んでいなくとも、すぐに直感できるものである。そして李徴はそれに勘付いていた。しかし、勘付いたのが、少し遅かった。そしてそれを勘づいて初めて、己が中途半端な精神、即ち「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」と詩作への油断が、妻子を苦しめていたと言うことに気がつくのである。  李徴は人間にも芸術家にもなりきれないようであるが、謂わば芸術家としての矜持を持ちながら、そうして芸術家として生きる性質を持たなかった、そうして生活を送る能力のなかった人間だったのだろう。そうしてこういう人間は現代にもごまんといる。芸術家や芸能人、その他何者かになろうかと思いつつ、けれども何者にもなれない、年齢は歳をとっているけれども年齢は若いフリーターのような夢追い人、そういう人に重なるところがあある。そういう点では、本作は芸術家を志す人間の手本・バイブルとなるポテンシャルを秘めていると言えるだろう。
  • 2026年5月15日
    ハンチバック
    ハンチバック
    「生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。」  はじめに断っておこう。私はこの作品を好きになれなかった。だから、冒頭の引用も感動した文章からではなく、当たり障りのない文章を選んだ。それほどまでに私はこの作品を好きになれなかった。ので、この作品ならびに作家が好きな人は、この文章を読まない方が良いだろう。  性的な描写が多く、外で読むのが恥ずかしかった。しかし、私がこの作品を良いと思えなかった理由はそこにはない。私がこの作品を受け入れられなかったのは、文体と作者の幼い僻みにある。  まず、文体についてだが、その作品は序盤から「個人アカ」や「学歴ロンダリング」のような軽薄な言葉遣いを用いた口語体と端的な文語体が入り混じっており、なかなかに気持ち悪い。文体の均整が取れておらず、主人公である釈迦の抱える二面性(被護欲と攻撃性)が見つけにくくなる。ただ、淡白ながらユーモア溢れる皮肉には、面白い部分がある。  問題は後者である。本作は「作者の怒り」的なところを評価されていることは有名な話だが、少なくとも私には怒りというより拙い僻みにしか見えなかった。特に「紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。」という部分は、視野の狭いルサンチマンに他ならない。特に前半はこの軽率な僻みが多く、ただの感想文に過ぎないように思え、それが非常にノイズとなり、読む気も失せ、再読する気にもならないといった始末である。尤も、この怒気と迫力ある文体を僻みとしか捉えられないのは、障害者である姉を間近に見続け育ってきた私の受け取り方の問題なのだろうが。芥川賞の選評を見ると、この文体とそれによる問題提起が評価されたようであるが、少なくとも私には、本作を芸術(文芸)と呼ぶにはあまりにも僻みという拙い私情が混ざり過ぎているように思える。芸術(文芸)が社会への問題提起を含むべきか否かはまた別の議論を用意する必要がありそうだが、少なくともこの作品を終盤まで見ると、優れた点はそういった部分しかないだろう。さしずめ、「背骨文学」といった具合である。  この作品を作品たらしめるのは、最後の展開であろう。私が先程「少なくともこの作品を終盤まで見ると…(後略)」と語ったのは、そのためである。最後の展開があることにより、この膨大なルサンチマンを抱えた感想文は作中作となり、強制的に層を帯びて作品に深みが生まれる。この部分については色々と解釈の仕方が分かれるようだが、私は主人公の物語を客観視することで、その人生を供養し尊厳を見出す構造になっている、と捉えている。『人間失格』のようなものである。とはいえ、そういう構造は一見「釈迦の人生を価値あるものへ昇華する」という点では説得力があるが、ストーリー的な面から見た時に、井沢釈迦が殺された必然性は薄い。また、その直前も、聖書からの引用が述べられているが、これに関しても必然性が全くなく、極めて不可解である。  これらの展開によりこの作品は作品へと昇華したのだろうが、その展開を設る必然性に些か欠けていたため、私には読後の爽快感というものが感じられなかった。して、「社会を恨む感想文が、社会に問題提起をした」「しかし、文学作品のようには思えない」「ユーモア溢れる皮肉が面白い」くらいの感想しかないのである。文庫本に付された往復書簡を読めば見方が深くなるのだろうが、読む気にはなれない。    この感想を読んだことにより、私には2つ、問題点があることが分かった。1つ目は、私はかなりの芸術至上主義であるということ。平野啓一郎は芥川賞の選評で他の作品に対し「他者性」(即ち、読者の存在)について言及していたが、どうも私の中で読者の存在というのは薄い。「現代の文学作品が他者性を意識してデザインされるべきかどうか」というのは、私の考えなければならないところである。もう1つは、一度作品に不満な要素があると、途端にその作品が嫌いになって親身になって考察できないこと。この作品についても、序盤で「嫌いだ」となり、以降あまり深く考えずに読み進めていたが、これは良くない。なおさねばならない。
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