ごうき
@IAMGK
本を読むのが遅い。
私は馬鹿なので、同じ本を何回も読まないとその本を理解できない。
- 2026年8月12日
饗宴プラトン,久保勉読み終わった「人の代には平和(やわらぎ)を、 海原には鏡なす静けさを、 暴風(あらし)には休息(やすみ)を、 憂き身には塾寝(うまい)を もたらす者はエロスである」 古典にも触れなければならないと思って手を出した。基礎を固めることは重要なので、古典から頑張って勉強していこう。ちなみに私は歴史を知らない無学な男であり(俺は過去を振り返らない!)、プラトンが紀元前の人物ともまったく知らなかったので、イエス・キリスト誕生の400年前からこんな思想があったのかと驚いた。すごいなあ。 「愛」とか「美」とか「徳」とか、未だ大人になりきれていない自分を誘惑するような文字ばかりが連なっている(そろそろ大人ににならないと)。古代ギリシアでは「徳の高い人物になる=美」という図式が成立しているが、徳や善悪を問う現在、それはもはや成立はしない。とはいえ、私の思想は本書から善悪(徳)を取っ払っただけであり、通づるものがあるな、とも思う。愛にはやはり確かな能動性が潜んでいる。そして愛こそが最も人間らしい営みだ。これは本書の「愛される者が愛者に自発的に服従するのは屈辱的ではない」「エロスは最も古い神であり特別だ」という視点と対応している。何かを愛せるというのは、とても幸福なことだ。 本書はソクラテスとその弟子らによる愛をめぐる対話であり、神話をもとに展開されるのだが、その中でソクラテスは「愛はあらゆる者への愛なのだろうか?欠乏しているものに対してのみ存在するのでは?」と提議する。彼はアガトンのエロスへの賛美に「愛には何かを求めるという性質があり、また、神々の世界も美への愛によってその秩序を保っている。ではエロスは美を欠いているのでは?しかも善きものが美であるから、エロスは善くないということにならないか?」という三段論法をかますのである。鋭いと思う。確かにそうだ、確かにそうだ。これを読んで私が思ったのは、愛が獲得という性質を含んでいるのかということ。私はそれを恋愛に準えて、「自分の中にいる相手の像を欲する」のが恋、「相手そのものへの欲(所有欲に限らない)」が愛だと考えているから、そもそも定義が違う。私の考えること愛には、「相手を獲得する」という要素がない。しかしこの定義には、「果たして本当の相手を知ることは可能なのか」という疑問が残る。それに対するカウンターとしては「そう在る試みこそ愛なのかもしれない」という苦し紛れなロマンチストみたいな返答しかない。うーむ、どうなのだろうな、もっと愛に関する本を読まなければならない…。 - 2026年7月27日
自分以外全員他人西村亨読み終わった「人に過剰な親切を見せながら、決して踏み込まれないよう壁を作り、人を好きになることにも好かれることにも罪悪感を覚え、気の合う人と出会っても、関係が深まりそうになるとわざと嫌われるような真似をして遠ざけた。」 面白かった。私小説のようで、「LINE」や「既読スルー」と言った軽い単語や浅薄な感情がまざまざと現れ、その思想のなさに心底つまらなさを感じていたが、中盤の展開から一気に面白くなった。全体を通して思想は感じないが(そもそも、現代人は「普通とは何か」のような漠然とした概念を疑うようになったから、思想も浅薄になってしまうのかもしれない)、それでも町田康が評したように、「理不尽な身勝手さがすごく人間らしくていい」。 この作品は、いわゆる「弱者男性」的な、被害妄想の強い陰鬱とした人間、けれどもそれを「優しさ」と自覚している男が主人公であり、だからこそ色々と心を動かされてしまった。以前の私、現在の私と被るところが多い。以前の私にも当てはまるが、規律やルールを重んじて、相手を自分よりも優先することが「優しさ」と履き違えている人間が、この世には多すぎる気がする。「優しさ」とは単純に弱さのことであり、「他人を優先する=優しさ」と捉えているうちは、まだ優しくない。本作にも出てきたが、「他人を優先することは自己中心的ではない」という考えは、「他人を優先することもまた自己中心の行いである」という反論から、論理として弱いのがわかる。第一、この世の人間関係はギブ・アンド・テイクであり(それを唯一壊しうるのが愛である)、その視点に立って「自己中心」を規定しなければならない。しかし自称「優しい」人間はそういうこところまで考えず、「自分は優しい」と思い込んで澄ました顔をしている。果ては、その優しさに気づいてもらえないと、裏切られたと勘違いする。困ったものである。そういう「施しを与えている」という立場を取ることをやめなければならない。人間は皆、フラットな立場にいるので。 また、こうした態度を前提として初めて、作中で出てきた「他人の顔を殴りたくなる」などの表現に厚みが出てくる。本作序盤ではこうした「優しい」論争がなく、従って「殴りたくなる」などの表現も気の弱い中年男性の日記のようにしか思われなかった(それが最初つまらなかった原因でもある)。しかし、中盤、主人公が自身の「優しさ」に揺れ、次第に周囲に過剰なまでの八つ当たりをしていく場面は面白い。そしてこれは現在の自分にも当てはまる。表に出さずとも些細な人間に対して腹を立てる場面が多い私は、結局根っからどうしようもない人間なんだな、と思う。自分に犯罪者の素質があるようだ。それは社会の規律によって抑圧されているが、裏から言えばそれは私がどうしようもない人間であることの証左である。よくないことである。世の人間は一体全体、自分が自転車に乗っている時に通行人に対して苛立つことがあるのだろうか。私は、よくある。 - 2026年7月26日
愛の試み福永武彦読み終わった「しかし理想的な愛の状態に於ては、相手の孤独は自己が癒し、自己の孤独は相手が癒してくれることも、即ち同時に能動的かつ受動的であることも、不可能ではないだろう。その時に、これら二つの魂は、互いに相手の燃す焔によって暖められ、美しい調和の中に相手の孤独をやさしく愛撫し合うだろう」 本書は『愛の試み』という題だが、どちらかというと孤独の書である。福永が愛を孤独と相対的な状態と捉えていることがよく分かる。本書は『草の花』の解説書ではないかと見紛うほどに、福永の愛と孤独のエッセンスが詰まっている(しかし、実際そう捉えても良いはずである)。素晴らしい。 私は今まで愛というものを「他者」と「信頼」という要素から考えていたが、「他者」と「信頼」が異なるレイヤーに属すからこそ、そこから生まれる省察は愛の本質というより、むしろ愛の条件である。しかし福永は「他者」と「自己」という正当な配置から考えることで、愛の本質とはいかないまでも、その様相を深いところまで露わにしている。それを可能にしているのは、愛の生まれる状態からそれを失うまで描くという本書の形式にもある。しかもその洞察も鋭いものであるから、現代、いや、この先ずっと通用するものだと思う。恋愛について悩める文学徒は、ぜひ読むべきである。これを読んで文学から解放されるべきである。一体、なぜ福永武彦という名はあまり世間に知れ渡っていないのだろうか。甚だ疑問である。これも読み返すリストに入れることを決定。 話は変わるけど、『命の後で咲いた花』を読み終えた7月中旬、ずっと柄谷行人の『日本近代文学の起源』に向かい合っていたが、三分の一程度読んだ時点で挫折してしまった。ああいう本を読み、吸収するためには、どうすれば良いか…。チャレンジあるのみか…? - 2026年7月9日
命の後で咲いた花ワカマツ・カオリ,綾崎隼読み終わった「なあ、なつめ。 随分と先に死んじまったお前は今、何処にいるのかな。 今日も何処かで、やっぱり能天気に笑っているのかな。 いつかは俺だって死ぬけど、そしたら最初にお前を探しに行くよ。お前を見つけて、力いっぱい抱き締めるから、もう一度、俺の名前を読んでくれ。」 こういうエンタメを読むのは高校一、二年生ぶりだから、もう7年くらい前になるのか。本当に5年ぶりくらいに、本を読んで泣きそうになった。途中の語り手の転換が良く、見え透いた伏線を裏切るように物語は進行していくが、最後の最後にそれを回収するので鳥肌が立つ。文体も大衆ウケしそうなユーモアあふれるものだったので読みやすかった。語り手の性別によってその文体が変わるのがさすが小説家といった感じである。女性が語り手の時は女性らしい文章だし、男性が語り手の時は男性らしい文章だった。 とはいえ、最初は久しぶりに読むこのエンタメらしい文体に馴染めず、大いに違和感を感じた。やはりエンタメ小説は話の筋がとても大切でありそれを意識して書かれているのも分かるが、それがあまりにも顕著に出過ぎていると、却って違和感を感じる。登場人物そのものが喋っているのではなく、その登場人物のイメージがあり、そのイメージが登場人物の肉体を借りて喋っている感じ。要は登場人物が自律的に言動しているのではなく、物語の筋に登場人物が乗っている、というような感じだ。しかし逆に言えば、物語がサクサク進むので、私のような令和のドパガキでも読みやすい。 また、会話と心理・情景描写のバランスからも最初違和感を感じた。会話は時が流れるが、心理・情景描写はあまり時が流れない。だから、そのバランスが乱れると、無理に時が流れて物語が進行していく感じがある。例えば、「ある展開への導入(情景描写)→展開(登場人物の会話)→その展開の回収(情景描写)」という流れがあったとして、前座の情景描写や後の心理描写が会話に比べて極端に短すぎたりすると、全てがその会話(展開)のために設られた感じがする。 ただし、これらの違和感は読むにつれて次第に消えていった。そうした違和感が気にならなくなるくらい、物語が面白かったのであろう。 あとはあれだな、登場人物が花粉症とか、どうでもいい細かい設定があるのがいいな。そういう設定から生まれる展開や伏線もあるだろうし、第一リアリティが増す。 - 2026年7月6日
草の花福永武彦読み終わった「愛することは信じることだ、この一瞬を悔いなく生きることだ。不安が何だろう、死が何だろう、この魂のしずけさ、この浄福、この音楽、この月の光……。僕は今死んでもいい、こうやって、君を愛しながら、いま、——そう思い、あとはただそれを口に出して言うことだけが残った。」 好きだ。もっと皆に知られるべき名作。最近、素敵な作品にばかり出会う。これらの素敵な作品は皆私の血肉になり私の生命活動に大きく寄与しているのがよく分かる。やはり目的意識を持って本を選ぶと言うことは大切だ。 さて、本作についてであるが、この作品は「冬」「第一の手帳」「第二の手帳」「春」の四部構成となっている。最初の章ではサナトリウムでのある2人の人間の交流が描かれているが、私はどうもサナトリウム文学に惹かれる節がある。サナトリウムの、死を目前として一日一日をまるで大切な宝玉を撫でるかのように大切に、懸命に、しかし何事もなく生きる人々の淡麗と、作者の透明感あふれる今にも消え入りそうな文体がマッチしていて、大好きなのだ。そこには死を目前にした者にしか見えない生の脆さがあり、冷たい悟った雰囲気が荘厳と構えている。福永武彦の文体はそれを一番明瞭に描き出している。 続く「第一の手帳」「第二の手帳」では、主人公が恋愛に挫折したシーンが書かれる。主人公はある2人の人間を愛していると錯覚し、けれども1人には愛することの不安から、もう1人には愛されることの不安から拒絶されてしまう。絶望した主人公は、己の孤独のみを信用し、孤独の裡に生き、孤独を靭くしようと決意する。 ここで気を付けておかなければならないのが、この物語の主題は「愛」ではなく、「孤独」であるということである。主人公は孤独の裡に愛を実現しようとしたが、それは叶わないことであろう。山方方夫は「そうだ。孤独とは、だれも手を下して自分を殺してはくれないということの認識ではないのか」と言ったが、まさしく主人公のいう孤独とはこれだろう。そして、その孤独の上に、愛が建つはずもない。 私はこの作品がとても好きなのだが(私は自分の価値観を大きく変える作品よりも、共感できる作品の方が好きなのである)、一点、自分の考えと違う点がある。福永武彦は愛することを拒んだ登場人物に「愛するというのは、つまり愛されることを求めるということじゃないんですか」と語らせた。主人公はこれに対し「ただ愛していればいいんだ」と答えたが、いや、それは愛ではなくて恋だろう。恋には幾分かの欲望が含まれており、愛には多分な受容が含まれている(しかし、愛は恋によってでしか成就されない)。だから人間は事物を愛することはできても恋することはできない。母性を抜きにすれば、多くの人間は見返りがなければ何かを愛することはできない。唯一それを自可能とするガソリンは憧憬であるが、憧憬は肥大化すると自分の中で相手を壊し、愛を堕落させてしまう恐れがある。今回主人公が愛しているのはその相手ではなく「その相手との世界」であり、その人に抱いているのは恋心なのであろう。 彼は自分に愛する能力があると強く確信していた。しかし、だからこそそれに破れた時、孤独を選び、死を選んだ。彼は文字通り「愛に破れた」のである。 - 2026年7月2日
太宰治全集(9)太宰治読み終わった太宰治『美男子と煙草』 「私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑畑に舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ、これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌には必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永に惚れなさい。」 10ページもない短編。滅茶苦茶面白かった。太宰が編集部の人に連れられて地下街を歩いたというエッセイだが、この短い話の中に彼の優しさと面白さが詰まっている。太宰の優しさは、弱さからくる優しさ。だから彼はマタイを読んでイエスに泣いたし、「日陰者」からすれば天使のような人間だったのだろう。あと、とてもユーモアに溢れている。どういう頭してんだ。彼の作品を読まずして彼に会っていたら、こりゃ彼を愉快な人間のようにしか思えないだろう。あと、滅茶苦茶大人だ。一人で酒を飲んでいたら訳のわからぬ文学徒に囲まれて見当違いの説教をさせらたけれども笑って聞き流していたなんて、すげえなあ。俺だったら、発狂の1つや2つでもしてしまって、たちまちお縄になってしまうのに。 - 2026年7月2日
仮面の告白三島由紀夫読み終わった「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」 これまたとんでもないものを読んでしまった。これほどまでに揺さぶられたのは久しぶりだ。三島の作品は丁度1年ほど前に『金閣寺』を読んだ以来で、三島で読むのは本作が2作目だが、とても良かった。1年ほど前に出会っていたら、私の命運に大きく関わっていたかも知れない。いや、そうでなくとも、本作が私の読んだ本の中でも尤も大きな感銘を与える作品の1つであることに変わりはない。 初めて読んだ『金閣寺』では、その晦渋な文体、観念的な作風にひどく辟易していたが、本作はより、徹頭徹尾、観念的であり実体が感じられなかった(作中でも述べられていたが、それは三島の意図するところであったらしい。逆にここまで観念的でないと、人間の心理とその機序は説明できないのだろう)。だから、私にはこの作品を読み感じることはできても、観ることはできないのかもしれない。 しかしその己の非人間的な要素への憂いをひた隠すような文体と論理からは自伝をとても感じる。『人間失格』よりもだ。先日とある古本祭りで昭和46年に刊行された『新潮 三島由紀夫読本』を入手したのだが、それによると三島はクリエイティビティへの飽くなき追求心を持っていた。ノートいっぱいに、作品の構成を緻密に設計しているのである。思うに本作もそうした精緻な作り、物語の構成と人生を重ねあわせる設計になっているが、全くと言っていいほど「作り物感」は感じられなかった。思うに、構成の流れがとても綺麗なのだろう。これは、完成された独白だ。そして、独白とは、芸術の尤もピュアな形ではなかろうか。 三島は本作で愛する能力のない自分・人間として生きる能力のない自分を、骨の髄まで描いた。三島は作中で(そしておそらく自身の指針として)「愛する資格もないのに愛を求める人にはならない」と強く自己暗示していたが、そもそも「他人を愛するためには、まず自分を愛さなければならない」ということ、そして自己愛の実現のためには「観る自分」と「観られる自分」の関係性を疑ってはいけないということを理解していたのだろうか?いや、本作を読む限りではそうは見えなかった。克己を求めるために冷静な論理に走るからこそ、その先には精神と肉体のあくなき分離、「観る自分」と「観られる自分」の分離しかない。本作でもそうした二項対立がよく見られたものである。 ところで、私には「三島の文体は美しい」という世論がよく分からない。長年の疑問である。文体が美しいとは、どういうことだろう?例えば川端康成は文章が織りなすイメージ、文体というより文体によって生じる観念が日本美という美の一種を構築するが、三島のそれはそういうものとは違うだろう。文体の美しさというのは、それぞれの語の用法・調和を指しているのか?お化粧をした女の顔を美しいと崇めるがの如く、特異な言葉遣い・調和を成す文体を世間は美しいと言うのか?いや、しかし、この世の事物には着飾るだけでなく、素朴さ・単調さより生じる美というものがあるだろう、必ず。私は三島の全作品を読んだわけではないが、少なくともあの堅牢な文体は先述した通り、弱さへの精神的な反逆からくるものだろう。そうした克己から生まれる文体そのものには美もへったくれもなく、ただ必然性のみが存在するだけだろう。 - 2026年6月20日
愛のことば岩波文庫編集部読み終わった「夜 相思う、 風吹いて窓簾動く、 言う 是れ所歓の来れるかと。」 愛に関する文言のアンソロジー。 愛の字引きのようなもの。 発見が多く、次に読む本を決める参考になる。 ちなみに冒頭の引用は『中国名詩選』(中)の「華山畿」から。現代は言葉がありふれてしまって、こんな純粋なポエジーを生み出せない。 - 2026年6月18日
福音書(新約聖書)塚本虎二読み終わった『マタイ福音書』 1周目。マタイ。 面白かった。収穫も多い。芥川龍之介(だった気がする)が聖書をとても優れた物語、みたいな風に言ってた気がするんだけど、調べても出てこなかった…。 とりあえず1周目の漁りをば。 一,"しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、見ただけですでに心の中でその女を姦淫したのである。"5・28 二,"あなた達は昔の人がモーセから『隣の人を愛し、』敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。"5・43-44 三,"空の島を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切なのではないだろうか。"6・26 四,"ところでお前たちに言うが、裁きの日には、ソドムの地の方が、まだお前よりも罰が軽いであろう。"11・24 五,"わたしは言う、人の話すいかなる無駄言も、最後の裁きの日にかならずそれについて責任を問われる。なぜなら、あなたはあなたの言葉で義とされ、あなたの言葉で罪とされるのだから。"12・36-37 六,"だれでも持っている人はさらに与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。"13・11-12 七,"それから群衆を呼びよせて言われた、『聞いて悟れ。口に入るものは人をけがさない。口から出るもの、これが人をけがす』"15・10-11 八,"不埒な家来"18・21-35 九,"弟子たちが言う、『夫婦の関係がそんな面倒なものなら、結婚をしない方が得だ』彼らに言われた、『そのことは本当の意味がわかって実行すれば確かに得ではあるが、それはだれにも出来ることではない。神から特別な力を授けられる者だけに出来るのである。というのは、同じ独身でも、母の胎内から結婚できないように生まれついた者があり、また人から無理に結婚できないようにされた者があり、また天の国のために自分で決心して結婚しない者がある。この最後のものが本当の独身である。出来る者はしたほうがよかろう。』"19・10-12 十,"イエスは言われた、『心のかぎり、精神のかぎり、思いのかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。これが最大、第一の掟である。第二もこれと同じく大切である。——隣の人を自分のように愛せよ。律法全体と預言書とは、この二つの掟に支えられている。』"22・37-38 十一,"だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。"23・12 十二,"アーメン、わたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消え失せない。天地は消え失せる、しかしいま言ったわたしの言葉は決して消え失せない"24・34-35 十三,"わたしがあなた達に命じたことを皆守るように教えながら。安心せよ、世の終りまでいつもわたしがあなた達と一しょにいるのだから。"28・20 聖書は全て、「自分を愛すること」が前提にある。故にそれが希薄である。大変な人は聖書に頼るのではなく「自分を愛すること」を際立たせていくべきだし、そういう文学が必要だろう。今までにそんな文学はなかったので。 - 2026年6月14日
太宰治全集(9)太宰治読み終わった太宰治『酒の追憶』 「お酒は、それは、お燗して、小さい盃でチビチビ飲むものにきまっている」 昨日も飲酒を我慢できず、酔ったまま読破。10ページ程度の短編。私にとっては読み物というより、太宰に関する資料だな。 いやあ、太宰は文章を書くのが、本当にうまいな。太宰が遠くにいながら語りかけてきて、その語りに呑み込まれる。 太宰は1日に5〜7合もの日本酒を呑むらしい。んで、冒頭に引用した通り、太宰は熱燗を好んでおり、また、周囲からは「ひやは、からだに毒ですよ」と言われていたらしいが、冷酒を水の如く喉に流し込む私とは全く逆だな。 そういや、最近行きつけのバーができた。貧乏学生なので、1杯目にグラスホッパー、2杯目にメーカーズのロックを頼み、安いナッツをちまちまつまみながら煙草を吸っている。酒に酔っているというより、自分に酔っている、という感じだな、ありゃ。 - 2026年6月13日
詩という仕事について (岩波文庫)J.L.ボルヘス,鼓直読み終わった「しかし、私の生涯でもっとも重要な事柄は、言葉たちが存在すること、そしてそれらの言葉を詩に織り上げるのが可能ということでした。最初は私は読者でしかありませんでした。これは確かです。しかし、読者の悦びは作者のそれよりも大きいと思います。読者はいかなる苦しみも不安も感じる理由がない。悦びを求めるだけなのですから。」 途中で他の本を読んでいたり忙しかったりしたから、2週間くらい読んでいた気がする。しかも、読了したのは一昨日だから、あまり詳しく書けないかもしれない。 本書は『バベルの図書館』で有名なボルヘスがハーバードで講義した時の記録であり、詩についてよく書かれている。これは最近考えていたことと重なることが多く、とても参考になった。同時に、彼は講義中で数多くの例を出したが、聞いたことがないものも多く、まだ世界には知らない本がたくさんあるのだな、と痛感。 1章は「詩という謎」というタイトルで、詩とは何か、どこから生じるのかという問いについて書かれている。でも内容はあまり覚えていない。言葉は単なる記号に過ぎない以上、詩は我々の経験や文脈から形作られる。我々の内部に深く根差しているものから詩趣は生まれ、して我々は詩を心得ている、らしい。 2章は、「隠喩」について。これは面白い。そもそも隠喩は無限通りあるかの風に思われるが、実際には世界中の詩人が、ありとあらゆる時代を通して、同じような隠喩しか使っていない。ふむふむ、確かにそうだ。思うにそれは、言葉の持つ歴史・民族性が関係していそうだ。「目=星」「女性=花」「時=河」などのメタファーは、それ自身が全民族納得できるものであり、しかもあらゆる時代の人間が目撃している。しかし、例えば「死体=何年も使われていないスマートフォン」は現代人、しかもスマホを買い替えた人にしか伝わらない。 また、ボルヘスはこの章で隠喩を3種類に区分している。1つ目は「伝統」。これはさっき言った通り、言葉の持つ歴史みたいなもの。2つ目は「絶妙な正確さ」。『六兆年と一夜物語』みたいに、単に『六兆年物語』とするのではなく、一夜を付け足すことで妙な具体性が増し、ポエジーが生まれる。確かに。3つ目は、「kening(ケニング)」。アングロサクソン人の時代特有の隠喩で、「海=鯨の道」みたいに、単一の名詞を複数の名詞で比喩するもの。ゲームのコースタイトルとかで、よくあるやつ。 この章は、非常に興味深かった。 3章は、「物語り」。「物語り」って、良いな…。「物語」は名詞だが、「物語り」は「物語る」という動詞の活用形であり、書き手の能動性を感じる。 内容としては、叙事詩の形式は①トロイ物語②オデュッセイア③福音書のいずれかに集約されるというもの。また、叙事詩と小説の違いとして「韻文か散文か」「叙事詩は英雄像、小説は人間の崩壊を描く」という傾向があるらしい。特に後者については、なるほどなるほど。 19〜20世紀の境目、ポーの「文章は最後の一文のためにある」という考えの元、多くのプロットというものが生まれたが、結局それもなんとなく技巧的な感じがする。結局物語としては先に挙げた3つの抒情詩が強くて、歴史の中にずっといる。それほど、新しいものは求められていないということである。 4章は「言葉の調べと翻訳」で、主に語感や翻訳について述べられている。私は日本人だから、英語の語感はよく分からない。翻訳については、確かにと思うところあり。翻訳によってポエジーが失われてしまう可能性があるが、逆にポエジーが生まれることもある。例えば、ヘブライ人は最上級を持たないので"the best song(最高の歌)"を"the song of song(歌の中の歌)"と訳す。すると、途端に詩感が生まれる。確かに。 ところがそれとは別の問題として、逐語訳なるものが存在する。要は直訳みたいなもの。今日では我々はあらゆる人間に公平であるため殆どを逐語訳で考えるが、マシュー・アーノルドは「逐語訳は忠実だが、誤った強調になる」可能性があると述べている。確かにそうだ。となると、逐語訳ではない翻訳は、詩の再生とも言えるね。 5章は「思考と詩」。ここではポエジーが我々の生活から生まれるとか、逆にあらゆる単語は自立し唯一無二であること、言葉の持つ魔術性を強調している。そんな言葉によって紡がれる物語を読むためには、その中の登場人物を信じるべきだ、とも。 そして6章では「詩人の信条」として、ボルヘス自身が創作に向かい合う際の心構えを述べている。 いやあ、難しかった。理解できた箇所も多いけど、難しくてすぐ忘れちゃった。いけないな。やはり私は馬鹿だから、同じ本を何度も読まないといけない。 - 2026年5月30日
東京都同情塔九段理江読み終わった「他人の言葉を継ぎ接擬してつくる文章が何を意味し、誰に伝わっているかも知らないまま、お仕着せの文字をひたすら並べ続けなければいけない人生というのは、とても空虚で苦しいものなんじゃないかと同情したのだ」 5月末、非常に大変なことがあり、精神が極めて不健康だったので、読むのが遅れてしまった。裏表紙の粗筋を読むに少しフィクション感の強い作品で、純文学を銘打っておきながらフィクション感の強い設定にやや嫌悪感を感じる私はずっと嫌厭してきたが、いざ読んでみるととても良かった。もう一度読むべき作品だろう。というのも、私はこの作品をまだ完全に咀嚼しきれていないからである。そんな状態で記録を記すことは若干憚られるが、まあそれも大切なことだろうから、一応書いておこう。 まず、作品の吸引力がすごい。読めば読むほど作品は私をどんどん呑み込んでいき、次第に右も左もわからなくなって、ただただ作品の中で波に揉まれてしまう、そんな感覚に陥った。非常に強い力を持った作品だ。建築とは無縁であろう作者:九段理江が全く人種の異なる人間にここまで思想を詰められるのが圧巻である。登場人物の緻密な人格形成には驚かされるばかりである。 本作は「AI時代の到来を預言する」とかで評価されていたようだが、少なくとも私にはそうは思えなかった。この辺りがまだ私が掴みきれていない部分だが、本作の主題は恐らく「言葉」そのものであろう。本作は言葉の持つ重さ・適切さ・価値から語感・構造・虚構性まで、言葉に備わる機能や性質について網羅し、言及されている。しかしその言葉に意味を持たせるには、恐らく主体性が大切である、というのが主題であろう(もしかしたら、違うかも)。AIの生成する文章の軽薄さ、あくなき寛容さが齎す主体の軽薄化、それらが発する言葉には重みがないのだろう。というのが、1周目でぼんやりと考えていたこと。とはいえ、主人公自身が建築であると自覚して終わるという展開から、まだ大事なキーワードを逃している気がする、「内部」とか「外部」とか…。うーむ、分からんな。言葉のフォルム(形式)とテクスチャ(手触り)とはまた一線を画す議論ではありそうだけれど……。 あとは、そうだな、単純に文体が好きだ。現象に対する内面の鋭敏さというか、世界を内面に落とし込む描写に非常に優れている。感覚が敏感すぎる。 虚構の言葉を操って言葉について語るなら、その語りもまた、虚構なのだろうか? 面白かった。必ず、もう一度読もう。 - 2026年5月20日
苦役列車(新潮文庫)西村賢太読み終わった「そして更には、抱えているだけで厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みや嫉みに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。」 私の知る限り、西村賢太は日本最後の私小説作家である。その私小説作家がどのような作品を書いているのだろうととりあえず代表作である『苦役列車』を読んでみたが、うーむ、という感じ。文章は面白かった。ただ、太宰の私小説を読んでいたときは吐くほど感嘆していたのに、この作品ではそうはならなかった。恐らく、太宰は私小説において自身の心情を空になるまで吐露していたのに対し(言うまでもなく、全ての作品がそうではない)、この作品はある種自分を客観視して自己劇化する節があるからだろう。先日読んだ『山月記』と同じである。主人公はなかなか共感しにくい境遇で育ち生きており、だからこそ自身の心情を吐露しても負け犬の遠吠えにしかならないのであろう。或いは、あまりにも短絡的すぎて、そうした深い哀しみのようなものないのかもしれない。どちらにせよ、そういった理由から自己劇化という手法はある種理に適っているとも言える(それが私小説にするメリットを最大限活かしきれているかどうかは甚だ疑問ではあるが)。しかし、そういう境遇の主人公に、私は何とも思えなかった。それどころか、不潔な描写は喉を通らなかったのである。結果として、作品全体を呑み込むことなく読み終えてしまった。また、社会的な視点から見ても、何か漁りがあるわけでもなく、嘲笑の的にされて終わるだけだろう。だからこそ、うーむ、という感じだったのである。これも一種の「主体を獲得し、それで生きようとしている泥臭さ」のリアリティを反映しているのかなあ…とも思う。 私は未来の読者(本作が発表され芥川賞を受賞したのは2011年)なのでその程度の感想しか抱けなかったが、ここで当時の芥川賞の選評を見てみようと思う。 本作に◎をつけた石原慎太郎氏は『この作者の「どうせ俺は――』といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジュニュインなるものを感じさせてくれる」と述べている。ふむふむ、なるほど。今まで文壇に上がらなかった類の作者であり、それが新鮮でしかも人間味を感じる、と。確かにそうだ。一方で◻︎をつけた村上龍氏は「相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である」、「作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。新人作家に対し、このような注文をつけるのは、『きことわ』と『苦役列車』が質の高い作品だとわたしが認めているからである。」と語っている。誠に同感、特に後半。私は初めて『人間失格』を「読んだ」高校一年生の頃から、後半のようなことをずっと思っていて、それこそが作品を規定する要素の一つだと確信し8年間ほど生きてきたので、本作に関してはあまり肯定的になれなかったのだろう。ところで氏はあくまでそれは巧みな技術があることを前提に語っているが、氏の言う「巧みな技術」とは、何だろうか。 本作を通じて、私小説難しっ!と思った。そもそも私小説って、作者が「これ自分の体験なんですよ」って明かさないと分からないよね。その境目が、曖昧だ。 以前私は「作家が全て設定を考え構成した小説は意図が常に作家のうちに留まるが、私小説においては意図は全て作家の外、とりわけ読者やその背後にある社会にある」と考えていたが、どうもその通りな気がする。直感だけど。 もう少し、最近の文学作品を読んでみよう。んで、勉強も並行しよう。もう少しで自分の中の問題意識がちゃんと形になる気がする。 - 2026年5月16日
新約聖書 福音書 8月若松英輔読み終わった「何かを願うとき私たちは、物事が自分の思う通りになってほしい、思いが実現してほしいと考えます。しかし『祈る』とは『願う』こととは異なり、「み旨のままに」、という思いを胸にわが身を投げ出すことだといえるのではないでしょうか。」 聖書を、読みます。 もちろん私はクリスチャンでもないしツァラトゥストラを通っているし、第一理系の人間でローレンス・クラウスを愛読していたくらいだから神など信じていない。 ただ、海外文学をよりよく知るために、何より人間の愛、他の気になっているテーマについて包括的に考察するために、世界で最も読まれている聖書を読みます。 読了報告は、しないでしょう。聖書に限らず、「本を読み終わる」ということは決してあり得ないので。特に聖書の場合、一生をかけても読み終えることができないだろう。 最初にマタイ、次にヨハネ…。愛を知るのは、いつになることやら…。 - 2026年5月16日
李陵・山月記中島敦読み終わった中島敦『山月記』 「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」 高校3年生(2年生かもしれない)の頃に授業で読んだきりだったが、今度ある読書会に参加するために再読した。2回目である。 やはり名作だ。どこからどこまで、エッセンスが詰まっている。とても良い文学作品だ。中島敦って、こんなに良かったのか。 本作には様々なテーマが込められており、だからこそ読む人にとって受ける印象が違うのだろう。また、或いは解釈の違いもあるのかもしれない。「李朝は虎になっていない」と言う説もあるくらいなので。ただ、最初に着目すべきはやはり文章の形式であろう。この作品は李徴に焦点が当てられているが、物語として、李徴の鉤括弧が付いている台詞は、序盤に虎として叢から躍り出た時の「あぶないところだった」「如何にも自分は隴西の李徴である」しかない。その他の台詞には一切の鉤括弧がついておらず、物語の進行とともに李徴の独白は量を増していく。これにより李徴の語りは物語そのものとなり、李徴は自己劇化される。自己劇化し李徴のバックストーリーを作中作のように配置することで、我々は袁傪に共感しながら、李徴を客観視することができる。 さて、この作品は「内面のコントロール」「罪と罰」「芸術家の苦悩」といった様々なテーマを包含しているようだが、やはり「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という語が有名なように、一番大きなテーマは「芸術家の苦悩」であろう。思うに芸術家の素質は例えば孤独であることやら矜持心やら青臭さやらナルシシズムであることやら己への厳格やら色々な要素があるだろうが、一番大切なのは謙虚であることだろう。これはナルシシズムとは異義に思えるが、そうではない。あくまで芸術家として自信家な姿勢を見せつつ作品に対しては謙虚である、そういう姿勢だろう。袁傪は虎になった李徴の詩を聴き、「作者の素質が第一流に属するものは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか」と述べる。この「何処か」とは、紛れもなく謙虚であることだろう。不思議なものだ。作品への思惑や姿勢は、作者が意識しないところで読者に読み取られる。作家に唯一コントロールできないもの、それが作家の生まれながらの内面であり、これが本作品のテーマの一部である「内面のコントロール」であろう。これは鋭敏なる読者には、例えその読者が文章の鍛錬をさほど積んでいなくとも、すぐに直感できるものである。そして李徴はそれに勘付いていた。しかし、勘付いたのが、少し遅かった。そしてそれを勘づいて初めて、己が中途半端な精神、即ち「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」と詩作への油断が、妻子を苦しめていたと言うことに気がつくのである。 李徴は人間にも芸術家にもなりきれないようであるが、謂わば芸術家としての矜持を持ちながら、そうして芸術家として生きる性質を持たなかった、そうして生活を送る能力のなかった人間だったのだろう。そうしてこういう人間は現代にもごまんといる。芸術家や芸能人、その他何者かになろうかと思いつつ、けれども何者にもなれない、年齢は歳をとっているけれども年齢は若いフリーターのような夢追い人、そういう人に重なるところがあある。そういう点では、本作は芸術家を志す人間の手本・バイブルとなるポテンシャルを秘めていると言えるだろう。 - 2026年5月15日
ハンチバック市川沙央読み終わった「生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。」 はじめに断っておこう。私はこの作品を好きになれなかった。だから、冒頭の引用も感動した文章からではなく、当たり障りのない文章を選んだ。それほどまでに私はこの作品を好きになれなかった。ので、この作品ならびに作家が好きな人は、この文章を読まない方が良いだろう。 性的な描写が多く、外で読むのが恥ずかしかった。しかし、私がこの作品を良いと思えなかった理由はそこにはない。私がこの作品を受け入れられなかったのは、文体と作者の幼い僻みにある。 まず、文体についてだが、その作品は序盤から「個人アカ」や「学歴ロンダリング」のような軽薄な言葉遣いを用いた口語体と端的な文語体が入り混じっており、なかなかに気持ち悪い。文体の均整が取れておらず、主人公である釈迦の抱える二面性(被護欲と攻撃性)が見つけにくくなる。ただ、淡白ながらユーモア溢れる皮肉には、面白い部分がある。 問題は後者である。本作は「作者の怒り」的なところを評価されていることは有名な話だが、少なくとも私には怒りというより拙い僻みにしか見えなかった。特に「紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。」という部分は、視野の狭いルサンチマンに他ならない。特に前半はこの軽率な僻みが多く、ただの感想文に過ぎないように思え、それが非常にノイズとなり、読む気も失せ、再読する気にもならないといった始末である。尤も、この怒気と迫力ある文体を僻みとしか捉えられないのは、障害者である姉を間近に見続け育ってきた私の受け取り方の問題なのだろうが。芥川賞の選評を見ると、この文体とそれによる問題提起が評価されたようであるが、少なくとも私には、本作を芸術(文芸)と呼ぶにはあまりにも僻みという拙い私情が混ざり過ぎているように思える。芸術(文芸)が社会への問題提起を含むべきか否かはまた別の議論を用意する必要がありそうだが、少なくともこの作品を終盤まで見ると、優れた点はそういった部分しかないだろう。さしずめ、「背骨文学」といった具合である。 この作品を作品たらしめるのは、最後の展開であろう。私が先程「少なくともこの作品を終盤まで見ると…(後略)」と語ったのは、そのためである。最後の展開があることにより、この膨大なルサンチマンを抱えた感想文は作中作となり、強制的に層を帯びて作品に深みが生まれる。この部分については色々と解釈の仕方が分かれるようだが、私は主人公の物語を客観視することで、その人生を供養し尊厳を見出す構造になっている、と捉えている。『人間失格』のようなものである。とはいえ、そういう構造は一見「釈迦の人生を価値あるものへ昇華する」という点では説得力があるが、ストーリー的な面から見た時に、井沢釈迦が殺された必然性は薄い。また、その直前も、聖書からの引用が述べられているが、これに関しても必然性が全くなく、極めて不可解である。 これらの展開によりこの作品は作品へと昇華したのだろうが、その展開を設る必然性に些か欠けていたため、私には読後の爽快感というものが感じられなかった。して、「社会を恨む感想文が、社会に問題提起をした」「しかし、文学作品のようには思えない」「ユーモア溢れる皮肉が面白い」くらいの感想しかないのである。文庫本に付された往復書簡を読めば見方が深くなるのだろうが、読む気にはなれない。 この感想を読んだことにより、私には2つ、問題点があることが分かった。1つ目は、私はかなりの芸術至上主義であるということ。平野啓一郎は芥川賞の選評で他の作品に対し「他者性」(即ち、読者の存在)について言及していたが、どうも私の中で読者の存在というのは薄い。「現代の文学作品が他者性を意識してデザインされるべきかどうか」というのは、私の考えなければならないところである。もう1つは、一度作品に不満な要素があると、途端にその作品が嫌いになって親身になって考察できないこと。この作品についても、序盤で「嫌いだ」となり、以降あまり深く考えずに読み進めていたが、これは良くない。なおさねばならない。 - 2026年5月13日
Xへの手紙・私小説論小林秀雄読み終わった小林秀雄『私小説論』 「小は単語から大は一般言語に至るまで、その伝統が急速に破れて行く今日、新しい作家達は何によって新しい文学的リアリティを獲得しようとしているのか。」 ずっと読まねばと思っていた私小説論を読み終わりましたよっと。 ふむふむ。なるほど。40ページほどの短い文章だったが、ゴリゴリ理系(略して、ごりごりけい)の私にとって慣れぬ人文学系の論文で、理解できない部分は一つずつ噛み砕いて整理していったので、読破するのにだいぶ時間がかかってしまった。 読む前は日本の私小説について語るものだと思っていたが、蓋を開けてみれば批評でした。とても大雑把に図式化すると、要は日本の近代私小説はただの「自己開示」だが、西洋などの私小説は「自己の飽くなき客観視」ってことで、そこに違いがあるという。しかし、小林秀雄はそれに優劣をつけるのではなく、寧ろその歴史を通して「『自己を描く』という近代文学の姿勢そのもの」に疑問を抱いていて、それを4つの章によって立ち上げている。 1章では海外自然主義の輸入と、それが日本に土着しなかったことを述べている。西洋の文学が輸入される前、日本文学や当時の社会は ・戯作文学という長く強い文学の伝統 ・完成された新美観 ・未完成な実証主義 という有様だったので、西洋の自然主義の背景的な部分も含めてではなく、技法的な部分のみが日本に受け入れられた。その結果、西洋の私小説は「内面を『外面描写』から立ち上げる」ものだが、日本の私小説は「単に内面をそのまま描くもの」となってしまったのである。 2章では、海外作家と日本の作家を比較した上で、日本の作家の私小説とその危機について論じている。フローベールのボヴァリー夫人について、フローベール自身は「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。有名な話である。フローベールがこう語ったのは、偏に、海外作家は「自己と作品の分離」を徹底していたからである。それは私小説にも言える。海外の私小説というのは、当時蔓延っていた実証主義により生活に失望した作家達が、その均一化された社会の中での自己の立ち位置を確認すべく、作品に全てを託して自己という人間を客観的に描いた成果である。即ち、私生活を作品のモチーフにすることで、私生活を破壊したわけである。一方で、日本の(大正時代の)作家は日常体験が作品そのものになると信じて疑わなかった。しかし、それが進むと日常生活の理論と創作の理論の矛盾、即ち、生活の有り様と芸術家としての在り方が相剋するという自体に陥るわけである。ここに、日本の私小説の危機が潜む。生活=作品という図式が完全に成立した時、作家は成す術がなくなる。それに対して島崎は歴史物に打ち込み、正宗は感想的批評文の創作から危機を横目に見、徳田は異常な生活力から却って自在な創作態度を取るといった、それぞれの始末を強いられているのである。また、マルクス主義の輸入により、心理手法が貧弱になるといった公式主義に陥りがちであったという事実もある。 3章では、横光利一の『純粋小説論』を挙げ、その純粋小説に絡めつつ、田山花袋と比較しながらジッドの私小説の構造を解明している。先に何度も述べているように、田山花袋は私生活と私小説を信じる(文学を土につける)態度を取っていたが、ジッドは「私」と「小説」を完全に切り離し「私」を深く静観することで人間を描いた。とはいえ、小説というものは作家により規定される以上、作家による世界の切り口の中でしか作品は躍動しない。これは制作理論上の必然である。しかしジッドは、『贋金つくり』で100年も前にこの問題に対しある対策を講じた。彼の設えた装置は、『贋金つくり』の執筆と並行して『贋金つくりの日記』を書くことにより、ジッド本人と主人公を合わせ鏡にした。これにより、作者の姿は完全に消え、小説自体が残るのである。これが、ジッドの純粋小説の思想であろう。 4章では、文学のリアリティの在り方について、本格的に問いを投げかける。そもそも、言語は言語として独立していない。言語は社会的堆積により成り立っているからである。故に、如何なる作家も純粋な言葉の意味を抽出し、使用することは不可能である。更に、『私小説論』が書かれた1935年は、マルクス主義の流行と崩壊、急速な近代化、封建制度の柔化などにより、言葉の使われ方が激変する。現代のSNS空間における言葉がとてもインスタント化されているのも、これと同じである。共同体が崩壊し、言葉が軽くなり、主体が空洞化した先では、もはやリアリズムというものは成立し難い。言語の持つ意味に縛られるという前提はありながら、村田沙耶香の『コンビニ人間』のような孤独で主体性が抜け落ちた文学が成立するのは、そのためであろう。この指摘が、最初に引用した「小は単語から大は一般言語に至るまで、その伝統が急速に破れて行く今日、新しい作家達は何によって新しい文学的リアリティを獲得しようとしているのか。」という問題提起に繋がる。 ああ、例の詩人が言っていたことも分かってきたような気がしますね。やはり、何事にも勉強は大切です。 次に読むは、西村賢太か、モーパッサンか、ルソーの『懺悔録』か、あるいは、『贋金つくり』か。どうしよう、他の興味のあるやつも読みたいなぁ。 - 2026年5月1日
風の歌を聴け村上春樹読み終わった「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。 僕たちはそんな風にして生きている。」 とんでもないものを読んでしまった、と思った。 私は今、とある詩人の影響で、フォルマリズムとロマンチシズムというものについて考えている。堀辰雄の『風立ちぬ』が大好きな(おそらく)ロマンチストの私にとって、反叙情を掲げ詩を紡いでゆく彼の影響は大きいのだ。 本作は、そんな私が初めて読んだ村上春樹の作品である。彼の作品は屡々雰囲気小説だと揶揄されるが、少なくとも本作は極めてフォルマリズムに則ったものであるように思う。雰囲気小説と言われるのはおそらく、なんの脈絡のない接続詞であったり斜に構えた態度であったりストーリーの展開のせいだろうが、その実文章は極めて現実的であり、感傷の欠片もない。作者は然るべき展開を然るべき位置に拵え、しかもそれを無意識的にしているような感じがする。それが本作の最も優れた点だ。 けれども、比喩はとても詩的だ。「それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった」という部分、なんて比喩だ。 人生の無為から生きる動機を見出すのがロマンチストの所業なのならば、人生の無為を静観し、ただ在るという態度をとることこそ、フォルマリストの成す所業であろう。本作は意図的に無為なものを描写しているように感じる。また、「鼠」というロマンチスト(おそらく鼠はフォルマリストである主人公の奥底に僅かに残留するロマンチシズム的存在なのだろう)を無為に対するアンチテーゼとして置くことで、徹底的に無為を読者に突きつけているように思える。 読んでいる途中の思索があまりにも多く、メモしながら読み進め、しかもそれを忘れないうちに書き留めておきたかったので、なかなか支離滅裂な感想となってしまった。 後日、本作に関する論文を読むつもりなので、それを読んだら、もう一度整理してみる。 翌日の私より、P.S. 「『自分と自分をとりまく事物との距離を確認する』行為がなぜ必要なのだろうか。『ものさし』はその距離を介して現実へのコミットメントを取り戻そうとするための手段なのではないか。」 「注目すべきことは、この個がそれによっていつもある一般性(普遍性)を象徴することである。たとえば、特殊な個々の松を描くことによって、逆に「松」という普遍を描き出す、あるいは描きうるという信念こそが、リアリズムなのである。」 ふむふむ、なるほど…。柄谷行人と小林秀雄を読まねば。そして、道具化しなければ。 あと、前々から思っていたんだけど、こういう批評家や文学研究者の指摘を、作者自身は自覚しているのだろうか?作者自身も気がついていないような内面的な要素を指摘しているように見える…。もし作者自身もそれに気づいていて小説を設計しているのならば、なんとも恐ろしいことだ。 - 2026年4月25日
都市と星新訳版アーサー・チャールズ・クラーク,酒井昭伸読み終わった「『〈評議会〉には、こう伝言していただけませんか——ひとたび開かれた道は、ただ決議をするだけでは、けっして閉じることはできない、と』」 風邪を拗らせ1週間ほど寝込んでいたので、読むのが遅れた。この本は500ページほどあり読み始めるのが大層めんどうだったが、意外と読みやすくて面白く、読み終わるまでにそう時間はかからなかった。 さて、本作は私が初めて読んだSF小説である。純文学ばかり好んで読む私にとってSF小説は遠い存在だったが、この度友人とささやかに開催している読書会のために読んだ。これはSF小説ならではの感覚かもしれないが、終始文体からとても映像的な印象を受けた。もちろん作者固有の文体であったり、翻訳家の影響もあったりするかもしれないが、おそらくSF小説ならではのものだろうと踏んでいる。というのも、SF小説はscience fictionという名の通り、我々が視認・認識・理解できる範疇を超えて物語が展開されるからである。その中で、読み手が想像できないというノイズを避けるために、どうしても現象の全景を詳らかに表す必要があるのだろう。今まで読んできた文学作品は、どちらかと言うと書き手が書く内容を取捨選択してコントロールしているといった印象が強いが(例えば、ある思想を持っている主人公を強調するために、それに反する思想を持つ登場人物をあえて力強く書くといったように)、SF小説は物語内で起こっている状況を説明しなければならないから、どちらかというと書き手が物語の状況にコントロールされている、とも言えるだろう。 また、本作は1965年に書き上げられたということで、現代の科学から見たら明らかに成り立たない点もあるかもしれない。時代の進歩によって「ありえない」と一蹴されてしまう可能性があるのは、SF小説の悲しき性質の一つなのかもしれない。 肝心の物語の内容的には、終盤の展開にやや違和感を感じたものの、冒険が中心となっていたので非常にワクワクするものだった。かつて小学生の頃に『デルトラ・クエスト』を読んだりポケモンやゼルダの伝説で遊んだりして世界の広さに興奮していたことを思い出す、そんな感じだった。思えば昔は、随分と遠くのものに憧れていた気がする。遠い昔のことや夜空に瞬く星を想起しては、えもいえぬ好奇心を抱いていた。そうした厨二病的な野心は誰に話すともなく密かに心の内で燃え続けていた。異世界に魅せられ、多元宇宙論の研究をしたいと物理や数学の勉強を頑張っていたのも懐かしい。もうそんな感情も、とっくに忘れてしまったなぁ…。 ということで皆さん、冒険心を大切にしましょう。そのために、ポケモンとゼルダの伝説をしましょう、 - 2026年4月13日
乳と卵川上未映子読み終わった「大人になるのは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどんどんどん変わっていく。過ぎていく。それがゆううつで、なんだかものすごく暗い。でもその暗さは厭、気分が厭、厭厭が目にどんどんたまっていって、目をあけてたくない。あけていたくない、から、あけてられない、になりそうでこわい。」 帯には「一夜にして、現代日本文学の風景を変えた芥川賞受賞作」とあった。大袈裟だと思ったが、読み終わった瞬間、とんでもないものを読んでしまった、と思った(ただし表題作を読み終えたのは先週のことなので、誇張された表現かもしれない)。 現代文学の情景描写を習ってみたいと思ってこの本をなんとなく手に取ってみたが、文体がとても特徴的なものだった。併せて収録された『あなたたちの恋愛は瀕死』もそうだが、口語体とも文語体ともつかない、延々と捲し立てるような文体であり、印象に残る。それは恐らく文章をあえて読点で繋げたり不要な部分に句点を置いて文章を切ることによって成り立っているのだろう。本来句点というのは「文章の終わり」という機能を持ち、それによって読み手は一段落する機会を得るが、本作はその暗黙の習性を破ることによって一人語り感を醸し出し、読者に思考の隙を与えない。それが事実の陳列として、乾いた視点を実現している。逆に、作品を上手く掴むことができなければ「結局何が言いたいの?」という疑問が読み手に残るという危険性も孕んでおり、そうなった場合単なる「プレイとしての作品」に落ち着く可能性もある。ただ、多くの人間がそうならないからこそ、この作品の完成度の高さというものは際立っている。 そうした特徴的な文体は、独特な詩的表現を伴って物語を紡いでいく。特に情景描写が精緻で、人物の心理を想像しやすい。緑子の思春期特有の繊細で孤独で些細で攻撃的な弱さは、しばしば日記として挿入されており、その生々しい独白が物語にアクセントをつけると共に、良いシーン転換のきっかけとなっている。それに対して母・巻子の暗い心情が明らかになっている場面はほとんどない。この緑子の本心にのみ着目するという一元的な視点によって、巻子の表面的な明るさが際立つ。とはいえ両者共に同じようなことで悩んでいる(母は乳に悩んでおり、子は生理について悩んでいる)ところが物語を作る核となっているし、親子だなぁといった感じである。 物語全体として緑子に共感できる場面が多かった私はまだ子供なのだろう。そして、その思春期の弱さは、行動して得られる経験値が少ないからなのだろう。
読み込み中...