ごうき
@IAMGK
本を読むのが遅い。
私は馬鹿なので、同じ本を何回も読まないとその本を理解できない。
- 2026年4月25日
都市と星新訳版アーサー・チャールズ・クラーク,酒井昭伸読み終わった「『〈評議会〉には、こう伝言していただけませんか——ひとたび開かれた道は、ただ決議をするだけでは、けっして閉じることはできない、と』」 風邪を拗らせ1週間ほど寝込んでいたので、読むのが遅れた。この本は500ページほどあり読み始めるのが大層めんどうだったが、意外と読みやすくて面白く、読み終わるまでにそう時間はかからなかった。 さて、本作は私が初めて読んだSF小説である。純文学ばかり好んで読む私にとってSF小説は遠い存在だったが、この度友人とささやかに開催している読書会のために読んだ。これはSF小説ならではの感覚かもしれないが、終始文体からとても映像的な印象を受けた。もちろん作者固有の文体であったり、翻訳家の影響もあったりするかもしれないが、おそらくSF小説ならではのものだろうと踏んでいる。というのも、SF小説はscience fictionという名の通り、我々が視認・認識・理解できる範疇を超えて物語が展開されるからである。その中で、読み手が想像できないというノイズを避けるために、どうしても現象の全景を詳らかに表す必要があるのだろう。今まで読んできた文学作品は、どちらかと言うと書き手が書く内容を取捨選択してコントロールしているといった印象が強いが(例えば、ある思想を持っている主人公を強調するために、それに反する思想を持つ登場人物をあえて力強く書くといったように)、SF小説は物語内で起こっている状況を説明しなければならないから、どちらかというと書き手が物語の状況にコントロールされている、とも言えるだろう。 また、本作は1965年に書き上げられたということで、現代の科学から見たら明らかに成り立たない点もあるかもしれない。時代の進歩によって「ありえない」と一蹴されてしまう可能性があるのは、SF小説の悲しき性質の一つなのかもしれない。 肝心の物語の内容的には、終盤の展開にやや違和感を感じたものの、冒険が中心となっていたので非常にワクワクするものだった。かつて小学生の頃に『デルトラ・クエスト』を読んだりポケモンやゼルダの伝説で遊んだりして世界の広さに興奮していたことを思い出す、そんな感じだった。思えば昔は、随分と遠くのものに憧れていた気がする。遠い昔のことや夜空に瞬く星を想起しては、えもいえぬ好奇心を抱いていた。そうした厨二病的な野心は誰に話すともなく密かに心の内で燃え続けていた。異世界に魅せられ、多元宇宙論の研究をしたいと物理や数学の勉強を頑張っていたのも懐かしい。もうそんな感情も、とっくに忘れてしまったなぁ…。 ということで皆さん、冒険心を大切にしましょう。そのために、ポケモンとゼルダの伝説をしましょう、 - 2026年4月13日
乳と卵川上未映子読み終わった「大人になるのは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどんどんどん変わっていく。過ぎていく。それがゆううつで、なんだかものすごく暗い。でもその暗さは厭、気分が厭、厭厭が目にどんどんたまっていって、目をあけてたくない。あけていたくない、から、あけてられない、になりそうでこわい。」 帯には「一夜にして、現代日本文学の風景を変えた芥川賞受賞作」とあった。大袈裟だと思ったが、読み終わった瞬間、とんでもないものを読んでしまった、と思った(ただし表題作を読み終えたのは先週のことなので、誇張された表現かもしれない)。 現代文学の情景描写を習ってみたいと思ってこの本をなんとなく手に取ってみたが、文体がとても特徴的なものだった。併せて収録された『あなたたちの恋愛は瀕死』もそうだが、口語体とも文語体ともつかない、延々と捲し立てるような文体であり、印象に残る。それは恐らく文章をあえて読点で繋げたり不要な部分に句点を置いて文章を切ることによって成り立っているのだろう。本来句点というのは「文章の終わり」という機能を持ち、それによって読み手は一段落する機会を得るが、本作はその暗黙の習性を破ることによって一人語り感を醸し出し、読者に思考の隙を与えない。それが事実の陳列として、乾いた視点を実現している。逆に、作品を上手く掴むことができなければ「結局何が言いたいの?」という疑問が読み手に残るという危険性も孕んでおり、そうなった場合単なる「プレイとしての作品」に落ち着く可能性もある。ただ、多くの人間がそうならないからこそ、この作品の完成度の高さというものは際立っている。 そうした特徴的な文体は、独特な詩的表現を伴って物語を紡いでいく。特に情景描写が精緻で、人物の心理を想像しやすい。緑子の思春期特有の繊細で孤独で些細で攻撃的な弱さは、しばしば日記として挿入されており、その生々しい独白が物語にアクセントをつけると共に、良いシーン転換のきっかけとなっている。それに対して母・巻子の暗い心情が明らかになっている場面はほとんどない。この緑子の本心にのみ着目するという一元的な視点によって、巻子の表面的な明るさが際立つ。とはいえ両者共に同じようなことで悩んでいる(母は乳に悩んでおり、子は生理について悩んでいる)ところが物語を作る核となっているし、親子だなぁといった感じである。 物語全体として緑子に共感できる場面が多かった私はまだ子供なのだろう。そして、その思春期の弱さは、行動して得られる経験値が少ないからなのだろう。 - 2026年4月1日
100分間で楽しむ名作小説 文鳥夏目漱石読み終わった「自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。 「百年はもう来ていたんだな」とこの時はじめて気が付いた。」 本書は角川文庫より出版された、「文鳥」「夢十夜」「琴のそら音」を収録する短編集であり、気軽に小説に触れてみようと少し大きな文字で素敵な短編を収録したものである。夢十夜を読みたかったのもあるが、いかんせんカバーが洒落ている。ジャケ買いなるものをしたのは今回が初めてだし、今後もうしないだろう。 さて、三作全て読破したので、それぞれに対して思ったことを残しておく。 【文鳥】 文体はシンプル。時たま文鳥を昔知っていた美しい女性に重ね合わせ具に観察する様には、どこか艶かしさを帯びながらも綺麗な感じがする。 ただ、結末には少しモヤモヤが残る。本の背表紙に書いてあるあらすじでこの文鳥が死ぬことを知っていたが、主人公(おそらく、漱石)がそれを下女のせいにしたのは解せない。主人公はそれについて「たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」という文句を言っていたが、それは究極的なニヒリズムによる暴論だろう(高校一年生の頃、自分も同じように感じていたことを思い出した)。ロマンスの中にもニヒリズムがひょっこり顔を出すのは、漱石らしさが伺える。 【夢十夜】 背中に背負った子供が石像になったり、明治時代に運慶が仁王像を彫っているなど、全体的に本当に夢の中にいるかのような雰囲気に包まれている。夢の中の不条理な風景を違和感なく読者に読ませることができる、優れた文章力を感じた。また、全夢を通して死や無為が強調されており、こちらにも漱石らしさを感じる。また、夢の締めくくりの一文にとてもセンスを感じる。何となくものすごい余韻を感じられ、本当に忘れ難い夢から覚めたかのような心持ちになる。 【琴のそら音】 漱石にしては珍しい、緩い男女のストーリーであり、夜寝付く時に色々と不安になって眠れず、けれども実際は大したことがなかったという、万人が共感できる可愛らしいストーリーと漱石のユーモア溢れる文体、教養が渾然一体となっており、不思議な読後感である。面白い。ただ、それだけに止まらず、最後には「西洋西洋と騒がれていても、こちら側がしっかりとしていれば化かされることはない」という、大衆小説らしさを醸しつつも、明治時代特有の啓蒙も感じられる。 これらの作品は全て1905年ごろに書かれたもの、つまり前期三部作と呼ばれる「三四郎」「それから」「門」より少し前に書かれた作品である。私が読んだ漱石の作品はほとんどこれらの時期のものであるが、後期三部作ではガラリと作風が変わっているらしい。これを機に、後期の作品に手を伸ばしてみたいとも思う。 - 2026年3月27日
時をかけるゆとり朝井リョウ読み終わった「子ども心ながらに感じていた、この世界への不安、生きていくことへの揺らぎのようなものが、本の中のある一行によってぴったりと書き表されているようなとき、私は、自分はひとりではないのだと思えた。」 又吉直樹が「良い文章とは何か」という問いに対して似たようなことを語っていたが、この文章こそが、正しくそうだ。 普段あまり手に取らないような類の本書を読み始めたのは、単純に文体が面白そうだからだ。たまたまXで見た朝井リョウのエッセイの著者紹介に噴き出し、興味を持った。だから、何か重要な省察などを得たわけではない。 ただ、文体に関しては確かに面白い。恐らくすぐに飽きる文体ではあるが、ユーモアに溢れている。それはおそらく、「事前に出たワードの回収」「単純に言葉選びが独特」という要素がある。特に「単純に言葉選びが独特」というものに関しては、例えば「〜といった感じである」というように、「〜といった」という口語体に近い文体と「である」という堅苦しい文語体が合わさりあって、ある種言葉の雰囲気のギャップによって生まれるものが多い。お笑いなどでもこのギャップにより笑いを誘うというものがあるように感じるが、それは偏に、そのギャップが「オーディエンスの想像を超えつつも、オーディエンスの理解できる程度に収まっている」からであろう。我々は理解はできるけれども突拍子な物事に対し、おかしさを感じるのだろうと思う。それがお笑いのひとつの手法だろう。 とはいえ、全てが全てそういうおかしさに包まれているわけではない。終盤に著者が直木賞を受賞した際のエッセイがおさめられていたが、その文章には目を見張るものがある。書き出しの引用も、そこから持ってきたものだ。尤も、著者自身はそのエッセイをスカしてると自虐しているが。 ともかく、読みやすい文章であった。少し前、「イン・ザ・メガチャーチ」が話題になっていたが、(とてもとても)気が向けば読んでみようと思う。 - 2026年3月22日
ツァラトゥストラはこう言った(下)ニーチェ,フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ,Friedrich Nietzsche,氷上英広,氷上英廣読み終わった「わたしは眠りに眠りーー、 深い夢から、いま目が覚めた、ーー この世は深い、 『昼』が考えたよりもさらに深い。 この世の嘆きは深いーー しかしよろこびはーー断腸の悲しみよりも深い。 嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。 しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬーー、 深い、深い永遠を欲してやまぬ!」 読み終わってから整理するのに、少し時間がかかった。 本書は哲学書というよりは文学書の形式を取っており、ニーチェの著作の中でも読みやすい部類とされているが、だいぶ昔に書かれた本であることから、最初はなかなか読むのに苦戦した。そういう本でありがちなのは、中盤や終盤に差し掛かって漸く読む要領を得るということだ。なんともじれったい気分である。 私の話をする。私がこの本を手に取った理由は、数年程前私がここに描かれている「超人」と似たことを考えていたからだ。人間は、絶望しなければならない。絶望し、絶望し、絶望する。その絶望の底にある残滓こそが、幸福というものなのだ。そしてそれを達成する条件こそ、「自己を愛する」ということなのだ。絶望の底の幸福には、自己を軽蔑し尽くし、愛することによって初めて到達できる。そうした考えを私は持っていたから、「人間は克服されるべきものである」と謳う「超人」の概念は首肯できるものがあり、慰めからの読書など何も齎さないと分かっていながらも、本書を手に取ったわけである。 しかし本書には、もう一つ大事なキーワードがある。3章より徐々に強調されていく、「永劫回帰」である。私の解釈が間違っていなければ、ニーチェの思想の反映体であろう本書の主人公・ツァラトゥストラは、この永劫回帰を受け入れることこそ「自己を愛する」ことになると説く。この永劫回帰とは簡単に言えば万物は繰り返されるという主張だが、思うに、ツァラトゥストラの言う「自己を愛する」とは、永遠の絶望があるならば永遠の幸福があるということを認識し、その微かにニヒリズムを予感させる一切の価値転換を受け入れ、究極的にポジティブになろうとする試みなのであろう。 また、文学的に本書を捉えるならば、これはツァラトゥストラが宗教を否定して人々に教えを説くというあらすじになっているが(宗教による束縛を否定する本書がこう捉えられるのも皮肉なものだが、これもまた、キリスト教と同じく宗教的なものに見える。本書の最終節の『徴』というタイトルは、正しくそういう類のことを思わせる)、同時に、ツァラトゥストラが自己超克する物語であるとも取れる。特に、読者である私をも神的存在と捉えていたツァラトゥストラが永劫回帰を受け入れ、同情に甘んじ、「大いなる正午」を迎える結末には、震えるものがある。 当たり前だが、私は本書を完全には理解できていない。だからこそ、2周目を読んだ時の喜びは、もっと大きなものになるだろう。分厚い本だから読むのがとても大変だが、またいつか読み直したい。 余談であるが、本書は解釈が難解な点に関しては、chatGPTと訳者解説を参考に読み進めた。なかなか良いものであるので、お勧めしたい。 また、第二の余談として、1章だか2章だかの、気に入った一節を載せておく。 「孤独はいつも1×1だがーー長いあいだには、それが2になってくる。」 あと、これが一番好き。 「そうだ、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れたからではない。むしろ愛することに慣れたからだ。」 - 2026年3月9日
すべての、白いものたちのハン・ガン,斎藤真理子読み終わった「私はあなたにきれいなものを見せてあげたかった。残酷さ、悲しみ、絶望、汚れ、苦痛よりも先に、あなたにだけはきれいなものを。」 美しい精神である。「白」は「私」にとって清きものの象徴であり、日常に溢れる「白」を切り取る行為そのものが、鎮魂となる。 本作に対する第一印象として、平易だが現実的な文体と「白」というテーマ、更には途中途中で挿し込まれている写真が相まってとても詩的に見えるというのがあったが、その実、とても小説的で1つのストーリーとして読者の受け皿となる作品であった。 この作品は、いかに死を生に昇華させるかという試みから作者自身の訣別・哀悼を一直線にしたものである。「姉という生を断絶してしまった存在の魂を自身の中に取り入れることにより、姉の生を実現する」という発想はありそうでなかったもので面白い。けれども結局、それは実現できず、我々生者は死者を弔い、前を向くしかない。本作は生の力強さを表象することなく、静かにその現実を突きつける。 私は最初、「死者への哀悼と、死者と訣別して生きること」という点から堀辰雄の『風立ちぬ』を連想した。しかし本作が『風立ちぬ』と異なる点は、一貫して、死者が生者として存在しないことにある。哀悼を捧げる「姉」は、常に死者として描かれる。そのため、対比としての生の力強さは薄くなる。これはどちらが優れているという話ではなく単に「生と死」というテーマのベクトルの向きが違うだけであろう。 余談であるが、この作品を読むにあたって、私は初めて文章に線を引き、頁に付箋を貼った。最初、そうすることでより多くのものを作品から吸収しようと思ったが、別段そうもいかなかった。とはいえ、再読する際にそういう目印があると面白いだろうから、今後も積極的に続けていこうと思う。 - 2026年2月26日
願ったり叶わなかったり宇野なずき読み終わった「将来の夢を描くには遅すぎるパレットの隅っこにある余白」 まず、短歌について。本書は私が人生で初めて手に取った歌集であるが、面白かった。1をきいて9を知り、100を妄想するような私にとって短歌は意外と心地よい。普段小説を読む時は余白を作者の言葉で埋めようとするが、短歌は余白を自分の言葉で埋めていくのだろう(もっとも、小説も自分の言葉で埋めて差し支えないのだろうが)。また、歌集一冊でストーリーになっているのも面白い。息抜きとして、難解な本と歌集を併読するのが私に合ったスタイルだろう。ともかく、短歌の世界をほとんど知らないので、気になった歌集は手当たり次第読んでいこうと思う。 次に、本作品について。初めて読んだ歌集がこれで心底良かったと思う。現代的な感性で分かりやすく、挫折することなくスラスラと読めた。想像もしやすく、楽しい。短歌は5-7-5-7-7で文章や単語が構成されているのかと勝手に思っていたが、単語や文章が節(?)に跨っていると、短歌らしさを感じずに、そのまま等身大の意味で受け取れた(5-7-5-7-7の韻に囚われることがよくあるので)。 多分この歌集は、孤独の哀愁、愛を知り捨てて独りで生きることを志す様を1冊で表現しているのだろう。そりゃあ、現代人に刺さりますよ。 恐らく本書が私の短歌への触れ方の源流となるので、定期的に戻ってこよう。 - 2026年2月26日
学問芸術論ジャン・ジャック・ルソー,Jean-Jacques Rousseau,前川貞次郎読み終わった「天からそれほど偉大な才能をわかち与えられてもいず、多くの栄誉をうける運命も与えられていないわれわれ凡人は、世にうもれたままにとどまっていましょう」 1年前にとある先輩から借りたルソーの学問芸術論を読み始めた(先輩、さーせん)。現代は技術によって支えられている部分があまりにも大きすぎるので「学問は習俗の純化に寄与しない」という主張に対しては疑問を呈するが、その大枠自体は現代のみならずあらゆる時代や場所において通用するだろう。そしてこれは、私が原始的な生活に憧れることの根源でもある。優劣は奢侈を生み、奢侈は更なる優劣を生む。 ところで、この本はモンテーニュの『エセー』の影響を色濃く受けているようだ。この本をもっと理解するためにはエセーを読む必要があるな。また、加えて、この本は中世ヨーロッパの歴史をよく例に挙げていたが、私は無学で歴史を知らぬ男なので、何一つ分からなかった。本論考はアカデミーの懸賞問題に提出された論文であるが、少々文学的で論文らしさはあまりなかった。 - 2026年1月26日
或旧友へ送る手記芥川竜之介読み終わった「唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期まつごの目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」 良い。芥川龍之介の弟子の堀辰雄の代表作、風立ちぬの中にも、似たような一節があったな。 「自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ」 - 2024年6月23日
桜桃太宰治読み終わった読了。できれば4日前に、読みたかったね。桜桃は、太宰が好きだった、さくらんぼのこと。太宰治の家族への向き合い方とどうしようもなさが描かれていた。彼は本当に優しすぎて、弱すぎて、孤独が極まっていたのだなぁ、と。これを読んで甘いと思える人間は太宰の作品に向いていないのだろうね。さくらんぼを食べたことのない自分の子供達に食べさせる想像をしながらさくらんぼを食べて、不味いと言っている心の葛藤、子供よりも親が大事と虚勢を張るかのように呟く葛藤、これは家族以外の人に道化を演じることよりも、辛いのだろうな。又吉直樹はこの作品の結末に対して「最後に救いを与えている、生きようとしている。」と解説していたけど、そんな風には到底感じなかったなぁ、、、。惰性に縋って同じ日々を繰り返す、みたいな。それは遠くから見たら生きるということなんだろうけど、近くから見たら死んでいて、本当の救いってのはその自己矛盾から逃れることで、けれどもそれが無理なんだろう。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2024年6月19日
海を覗く伊良刹那読み終わった読了。そもそも私は1冊の本を買うのに数ヶ月間吟味するという石橋を叩きすぎる性格なのだが(叩きすぎると、割れちゃうか)、この本はあろうことか通販で中身も見ずに買った。そしてそれだけの価値は、やはりあった。17歳がこの作品を完成させたという事実に恐怖さえ感じる。さて、肝心の内容であるが三島由紀夫を想起させる美しい文章とやらは、よく分からなかった。三島由紀夫を読んだことがないので似ているのかは分からないが、それがよく言われる美しい日本語なのかは同意しかねる。しかし、この作品を成り立たせる緻密かつ正確無比に構築された理論には目を見張るものがある。全ての理論と私の思想が一致しているわけではないが、大きく頷いた場面も少なくない。この一致していないというのはどちらかの理論が間違っているわけではなく、その問いへの向き合い方が違うだけなのだろう。丁度主人公とその親友の、美の押し問答のように。従ってこの作品の最も称賛すべき点はその文体ではなく(勿論文体もだが)、この作品を成り立たせる大小のありとあらゆる理論なのだろう。小さな理論にも、大きな意思を感じる。買ってよかったと心の底から思えるような作品で何回も読み直したいが、この作品に染まりたいとは思わないな。 けれどもいやはや、これが17歳は、末恐ろしい。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2024年6月8日
罪と罰 下ドストエフスキー,工藤精一郎読み終わった最近全く動かしていなかったので。というわけで読了。春ずっと忙しくて、しかも今までに読んだことないくらいの長編だったから、長い間この本に向き合っていた。さて、内容に関してだが、この本は罪と罰の普遍的な関係性のヒントを求めて読み始めたんだけれど、そんなこともなく、寧ろ最後の愛に打ち破れる展開の方が印象に残った。やはりこういう自壊的な人間が愛に救われる話は大好物だ。けれども罪と罰について全くの言及がなかったかといえばそうでもないし、寧ろ私の消化不良感もある。完全に近しい理論を遂行しきれない革命家として不完全な人間には罪が下る。この構図は丸っきり私に当て嵌っているようで複雑な気持ちになった。しかもその罪の意識が次第に罰を生む。それは不完全な人間としての自責の念。それから逃れるには最早自分が救おうとした人間、似通った人間からの愛か、或いは自死しかない。自死を選ばなかった時に、世間は所謂法的な罰を与える。だから結局、弱き者への罰は罪の意識、でもドストエフスキーが伝えたかったことは、本当にこれだけなのかなあ?でもそれって前々から分かりきったことだよね。罪と罰に関係性というよりは寧ろ、それを絡めた当時の社会情勢を緻密に風刺したという面での評価が大きいのかな。 何はともあれ、もう一度読みたいと思える本だけれど、どうも私は長い本が苦手なので読むかどうか分かりません。 いずれ読まないといけないのだろうけど。 あとは太宰治の斜陽に通ずるものも感じられたよね。 「真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだ。」 とある登場人物にも、どことなく太宰治が感じられました。HUMAN LOST、読まねば。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2024年6月8日
罪と罰 上ドストエフスキー,工藤精一郎読み終わった最近全く動かしていなかったので。というわけで読了。春ずっと忙しくて、しかも今までに読んだことないくらいの長編だったから、長い間この本に向き合っていた。さて、内容に関してだが、この本は罪と罰の普遍的な関係性のヒントを求めて読み始めたんだけれど、そんなこともなく、寧ろ最後の愛に打ち破れる展開の方が印象に残った。やはりこういう自壊的な人間が愛に救われる話は大好物だ。けれども罪と罰について全くの言及がなかったかといえばそうでもないし、寧ろ私の消化不良感もある。完全に近しい理論を遂行しきれない革命家として不完全な人間には罪が下る。この構図は丸っきり私に当て嵌っているようで複雑な気持ちになった。しかもその罪の意識が次第に罰を生む。それは不完全な人間としての自責の念。それから逃れるには最早自分が救おうとした人間、似通った人間からの愛か、或いは自死しかない。自死を選ばなかった時に、世間は所謂法的な罰を与える。だから結局、弱き者への罰は罪の意識、でもドストエフスキーが伝えたかったことは、本当にこれだけなのかなあ?でもそれって前々から分かりきったことだよね。罪と罰に関係性というよりは寧ろ、それを絡めた当時の社会情勢を緻密に風刺したという面での評価が大きいのかな。 何はともあれ、もう一度読みたいと思える本だけれど、どうも私は長い本が苦手なので読むかどうか分かりません。 いずれ読まないといけないのだろうけど。 あとは太宰治の斜陽に通ずるものも感じられたよね。 「真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだ。」 とある登場人物にも、どことなく太宰治が感じられました。HUMAN LOST、読まねば。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2023年12月24日
風立ちぬ/美しい村改版堀辰雄読み終わった読了。風立ちぬのみ(美しい村は以前読んだ)。本当に情景が美しい。今にも消えてしまいそうな微かな生の灯火、それが静かに消えゆく落ち着いた悲しみ、それに捧げる鎮魂歌、全てが美しかった。生きる美しさ、死ぬことの意味、それを超えて生きていくことの沈黙の自立が、ありありと感じられた。数年前、こうやって生きていきたいと願っていたことを思い出したなぁ、、。あとあんまり作品の中で重要ではないのだろうけど、「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」って一節が真理のように思えて震えて、けれども本当にそうなのかと、真に幸福を妨げるものは何かと考える必要があると感じたから後で考えとけと未来の自分に伝言。 後美しい村然り風立ちぬ然り、どうも堀辰雄の文章って海外文学っぽいというか、、、。作品の構成上そう感じるだけなのかな?まぁ堀辰雄この2つしか読んだことないから知らんけど。 たまにはこういう作品に手をつけるのも良いね (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2023年12月17日
人間失格太宰治読み終わった読了。何回目だろう。最近作品制作で忙しかったから、読書のリハビリということで久しぶりに読んだ。前に読んだ時、ハッピーエンドじゃないかと気付き泣いた覚えがある。今回読み返してやっぱりハッピーエンドだよなと思うと共に、ドストエフスキーの罪と罰なり聖書の勉強なり、もっと他の本を読まなければならないと思った。でも堀辰雄の風立ちぬも読みたいし、、、 とりあえず、信頼は愛よりももっと深いテーマで、信頼(無知、弱さ、純粋さ)は罪なんだろうなぁと、浅薄な思想じみたものを二日酔いで働かない頭を動かしながら思う。どちらにせよもっと読まなければ、、、。前に読んだ時はもっと深い知見が得られた筈なんだけど忘れてしまった、、、、。やはり記録って、大事ですね。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2023年11月11日
火花 (文春文庫)又吉直樹読み終わった読了。3周目。今回は作者の思想というより、又吉直樹の黎明期の文章を観察しようという目的で読み始めたが、やはり面白かった。文章には作家としての若さが多少あったものの、全く違和感が無かったし、何よりも内容が本当に良い(そもそも私も、偉そうに批評できる程できた人間ではないけれど)。現代の純文学における「良い作品」というような印象を受けた。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2) - 2023年11月10日
人生と愛エーリッヒ・フロム,佐野五郎,佐野哲郎読み終わった読了。こういう感じの本は久しぶりだからゆっくりと読んだけれど、何周もしたいと思える本だった。元々愛とは何かについて語る本ではないと知っていたが、過剰の齎す倦怠や人間の攻撃性について、思弁的な文学とは違って精神分析家の実験や臨床、ヒトラーの人間性を例に挙げたりしながら書かれていた。人生における愛とは何かというより、人生を愛するための本って感じですね(文字数制限って、こんなに短いんだ、、、)。 (過去、今は亡きTwitterの読書アカウントに投稿したもの 2026.3.2)
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