ごうき
@IAMGK
本を読むのが遅い。
私は馬鹿なので、同じ本を何回も読まないとその本を理解できない。
- 2026年6月20日
愛のことば岩波文庫編集部読み終わった「夜 相思う、 風吹いて窓簾動く、 言う 是れ所歓の来れるかと。」 愛に関する文言のアンソロジー。 愛の字引きのようなもの。 発見が多く、次に読む本を決める参考になる。 ちなみに冒頭の引用は『中国名詩選』(中)の「華山畿」から。現代は言葉がありふれてしまって、こんな純粋なポエジーを生み出せない。 - 2026年6月18日
福音書(新約聖書)塚本虎二読み終わった『マタイ福音書』 1周目。マタイ。 面白かった。収穫も多い。芥川龍之介(だった気がする)が聖書をとても優れた物語、みたいな風に言ってた気がするんだけど、調べても出てこなかった…。 とりあえず1周目の漁りをば。 一,"しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、見ただけですでに心の中でその女を姦淫したのである。"5・28 二,"あなた達は昔の人がモーセから『隣の人を愛し、』敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。"5・43-44 三,"空の島を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切なのではないだろうか。"6・26 四,"ところでお前たちに言うが、裁きの日には、ソドムの地の方が、まだお前よりも罰が軽いであろう。"11・24 五,"わたしは言う、人の話すいかなる無駄言も、最後の裁きの日にかならずそれについて責任を問われる。なぜなら、あなたはあなたの言葉で義とされ、あなたの言葉で罪とされるのだから。"12・36-37 六,"だれでも持っている人はさらに与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。"13・11-12 七,"それから群衆を呼びよせて言われた、『聞いて悟れ。口に入るものは人をけがさない。口から出るもの、これが人をけがす』"15・10-11 八,"不埒な家来"18・21-35 九,"弟子たちが言う、『夫婦の関係がそんな面倒なものなら、結婚をしない方が得だ』彼らに言われた、『そのことは本当の意味がわかって実行すれば確かに得ではあるが、それはだれにも出来ることではない。神から特別な力を授けられる者だけに出来るのである。というのは、同じ独身でも、母の胎内から結婚できないように生まれついた者があり、また人から無理に結婚できないようにされた者があり、また天の国のために自分で決心して結婚しない者がある。この最後のものが本当の独身である。出来る者はしたほうがよかろう。』"19・10-12 十,"イエスは言われた、『心のかぎり、精神のかぎり、思いのかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。これが最大、第一の掟である。第二もこれと同じく大切である。——隣の人を自分のように愛せよ。律法全体と預言書とは、この二つの掟に支えられている。』"22・37-38 十一,"だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。"23・12 十二,"アーメン、わたしは言う、これらのことが一つのこらずおこってしまうまでは、この時代は決して消え失せない。天地は消え失せる、しかしいま言ったわたしの言葉は決して消え失せない"24・34-35 十三,"わたしがあなた達に命じたことを皆守るように教えながら。安心せよ、世の終りまでいつもわたしがあなた達と一しょにいるのだから。"28・20 聖書は全て、「自分を愛すること」が前提にある。故にそれが希薄である。大変な人は聖書に頼るのではなく「自分を愛すること」を際立たせていくべきだし、そういう文学が必要だろう。今までにそんな文学はなかったので。 - 2026年6月14日
太宰治全集(9)太宰治読み終わった太宰治『酒の追憶』 「お酒は、それは、お燗して、小さい盃でチビチビ飲むものにきまっている」 昨日も飲酒を我慢できず、酔ったまま読破。10ページ程度の短編。私にとっては読み物というより、太宰に関する資料だな。 いやあ、太宰は文章を書くのが、本当にうまいな。太宰が遠くにいながら語りかけてきて、その語りに呑み込まれる。 太宰は1日に5〜7合もの日本酒を呑むらしい。んで、冒頭に引用した通り、太宰は熱燗を好んでおり、また、周囲からは「ひやは、からだに毒ですよ」と言われていたらしいが、冷酒を水の如く喉に流し込む私とは全く逆だな。 そういや、最近行きつけのバーができた。貧乏学生なので、1杯目にグラスホッパー、2杯目にメーカーズのロックを頼み、安いナッツをちまちまつまみながら煙草を吸っている。酒に酔っているというより、自分に酔っている、という感じだな、ありゃ。 - 2026年6月13日
詩という仕事について (岩波文庫)J.L.ボルヘス,鼓直読み終わった「しかし、私の生涯でもっとも重要な事柄は、言葉たちが存在すること、そしてそれらの言葉を詩に織り上げるのが可能ということでした。最初は私は読者でしかありませんでした。これは確かです。しかし、読者の悦びは作者のそれよりも大きいと思います。読者はいかなる苦しみも不安も感じる理由がない。悦びを求めるだけなのですから。」 途中で他の本を読んでいたり忙しかったりしたから、2週間くらい読んでいた気がする。しかも、読了したのは一昨日だから、あまり詳しく書けないかもしれない。 本書は『バベルの図書館』で有名なボルヘスがハーバードで講義した時の記録であり、詩についてよく書かれている。これは最近考えていたことと重なることが多く、とても参考になった。同時に、彼は講義中で数多くの例を出したが、聞いたことがないものも多く、まだ世界には知らない本がたくさんあるのだな、と痛感。 1章は「詩という謎」というタイトルで、詩とは何か、どこから生じるのかという問いについて書かれている。でも内容はあまり覚えていない。言葉は単なる記号に過ぎない以上、詩は我々の経験や文脈から形作られる。我々の内部に深く根差しているものから詩趣は生まれ、して我々は詩を心得ている、らしい。 2章は、「隠喩」について。これは面白い。そもそも隠喩は無限通りあるかの風に思われるが、実際には世界中の詩人が、ありとあらゆる時代を通して、同じような隠喩しか使っていない。ふむふむ、確かにそうだ。思うにそれは、言葉の持つ歴史・民族性が関係していそうだ。「目=星」「女性=花」「時=河」などのメタファーは、それ自身が全民族納得できるものであり、しかもあらゆる時代の人間が目撃している。しかし、例えば「死体=何年も使われていないスマートフォン」は現代人、しかもスマホを買い替えた人にしか伝わらない。 また、ボルヘスはこの章で隠喩を3種類に区分している。1つ目は「伝統」。これはさっき言った通り、言葉の持つ歴史みたいなもの。2つ目は「絶妙な正確さ」。『六兆年と一夜物語』みたいに、単に『六兆年物語』とするのではなく、一夜を付け足すことで妙な具体性が増し、ポエジーが生まれる。確かに。3つ目は、「kening(ケニング)」。アングロサクソン人の時代特有の隠喩で、「海=鯨の道」みたいに、単一の名詞を複数の名詞で比喩するもの。ゲームのコースタイトルとかで、よくあるやつ。 この章は、非常に興味深かった。 3章は、「物語り」。「物語り」って、良いな…。「物語」は名詞だが、「物語り」は「物語る」という動詞の活用形であり、書き手の能動性を感じる。 内容としては、叙事詩の形式は①トロイ物語②オデュッセイア③福音書のいずれかに集約されるというもの。また、叙事詩と小説の違いとして「韻文か散文か」「叙事詩は英雄像、小説は人間の崩壊を描く」という傾向があるらしい。特に後者については、なるほどなるほど。 19〜20世紀の境目、ポーの「文章は最後の一文のためにある」という考えの元、多くのプロットというものが生まれたが、結局それもなんとなく技巧的な感じがする。結局物語としては先に挙げた3つの抒情詩が強くて、歴史の中にずっといる。それほど、新しいものは求められていないということである。 4章は「言葉の調べと翻訳」で、主に語感や翻訳について述べられている。私は日本人だから、英語の語感はよく分からない。翻訳については、確かにと思うところあり。翻訳によってポエジーが失われてしまう可能性があるが、逆にポエジーが生まれることもある。例えば、ヘブライ人は最上級を持たないので"the best song(最高の歌)"を"the song of song(歌の中の歌)"と訳す。すると、途端に詩感が生まれる。確かに。 ところがそれとは別の問題として、逐語訳なるものが存在する。要は直訳みたいなもの。今日では我々はあらゆる人間に公平であるため殆どを逐語訳で考えるが、マシュー・アーノルドは「逐語訳は忠実だが、誤った強調になる」可能性があると述べている。確かにそうだ。となると、逐語訳ではない翻訳は、詩の再生とも言えるね。 5章は「思考と詩」。ここではポエジーが我々の生活から生まれるとか、逆にあらゆる単語は自立し唯一無二であること、言葉の持つ魔術性を強調している。そんな言葉によって紡がれる物語を読むためには、その中の登場人物を信じるべきだ、とも。 そして6章では「詩人の信条」として、ボルヘス自身が創作に向かい合う際の心構えを述べている。 いやあ、難しかった。理解できた箇所も多いけど、難しくてすぐ忘れちゃった。いけないな。やはり私は馬鹿だから、同じ本を何度も読まないといけない。 - 2026年5月30日
東京都同情塔九段理江読み終わった「他人の言葉を継ぎ接擬してつくる文章が何を意味し、誰に伝わっているかも知らないまま、お仕着せの文字をひたすら並べ続けなければいけない人生というのは、とても空虚で苦しいものなんじゃないかと同情したのだ」 5月末、非常に大変なことがあり、精神が極めて不健康だったので、読むのが遅れてしまった。裏表紙の粗筋を読むに少しフィクション感の強い作品で、純文学を銘打っておきながらフィクション感の強い設定にやや嫌悪感を感じる私はずっと嫌厭してきたが、いざ読んでみるととても良かった。もう一度読むべき作品だろう。というのも、私はこの作品をまだ完全に咀嚼しきれていないからである。そんな状態で記録を記すことは若干憚られるが、まあそれも大切なことだろうから、一応書いておこう。 まず、作品の吸引力がすごい。読めば読むほど作品は私をどんどん呑み込んでいき、次第に右も左もわからなくなって、ただただ作品の中で波に揉まれてしまう、そんな感覚に陥った。非常に強い力を持った作品だ。建築とは無縁であろう作者:九段理江が全く人種の異なる人間にここまで思想を詰められるのが圧巻である。登場人物の緻密な人格形成には驚かされるばかりである。 本作は「AI時代の到来を預言する」とかで評価されていたようだが、少なくとも私にはそうは思えなかった。この辺りがまだ私が掴みきれていない部分だが、本作の主題は恐らく「言葉」そのものであろう。本作は言葉の持つ重さ・適切さ・価値から語感・構造・虚構性まで、言葉に備わる機能や性質について網羅し、言及されている。しかしその言葉に意味を持たせるには、恐らく主体性が大切である、というのが主題であろう(もしかしたら、違うかも)。AIの生成する文章の軽薄さ、あくなき寛容さが齎す主体の軽薄化、それらが発する言葉には重みがないのだろう。というのが、1周目でぼんやりと考えていたこと。とはいえ、主人公自身が建築であると自覚して終わるという展開から、まだ大事なキーワードを逃している気がする、「内部」とか「外部」とか…。うーむ、分からんな。言葉のフォルム(形式)とテクスチャ(手触り)とはまた一線を画す議論ではありそうだけれど……。 あとは、そうだな、単純に文体が好きだ。現象に対する内面の鋭敏さというか、世界を内面に落とし込む描写に非常に優れている。感覚が敏感すぎる。 虚構の言葉を操って言葉について語るなら、その語りもまた、虚構なのだろうか? 面白かった。必ず、もう一度読もう。 - 2026年5月20日
苦役列車(新潮文庫)西村賢太読み終わった「そして更には、抱えているだけで厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みや嫉みに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。」 私の知る限り、西村賢太は日本最後の私小説作家である。その私小説作家がどのような作品を書いているのだろうととりあえず代表作である『苦役列車』を読んでみたが、うーむ、という感じ。文章は面白かった。ただ、太宰の私小説を読んでいたときは吐くほど感嘆していたのに、この作品ではそうはならなかった。恐らく、太宰は私小説において自身の心情を空になるまで吐露していたのに対し(言うまでもなく、全ての作品がそうではない)、この作品はある種自分を客観視して自己劇化する節があるからだろう。先日読んだ『山月記』と同じである。主人公はなかなか共感しにくい境遇で育ち生きており、だからこそ自身の心情を吐露しても負け犬の遠吠えにしかならないのであろう。或いは、あまりにも短絡的すぎて、そうした深い哀しみのようなものないのかもしれない。どちらにせよ、そういった理由から自己劇化という手法はある種理に適っているとも言える(それが私小説にするメリットを最大限活かしきれているかどうかは甚だ疑問ではあるが)。しかし、そういう境遇の主人公に、私は何とも思えなかった。それどころか、不潔な描写は喉を通らなかったのである。結果として、作品全体を呑み込むことなく読み終えてしまった。また、社会的な視点から見ても、何か漁りがあるわけでもなく、嘲笑の的にされて終わるだけだろう。だからこそ、うーむ、という感じだったのである。これも一種の「主体を獲得し、それで生きようとしている泥臭さ」のリアリティを反映しているのかなあ…とも思う。 私は未来の読者(本作が発表され芥川賞を受賞したのは2011年)なのでその程度の感想しか抱けなかったが、ここで当時の芥川賞の選評を見てみようと思う。 本作に◎をつけた石原慎太郎氏は『この作者の「どうせ俺は――』といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジュニュインなるものを感じさせてくれる」と述べている。ふむふむ、なるほど。今まで文壇に上がらなかった類の作者であり、それが新鮮でしかも人間味を感じる、と。確かにそうだ。一方で◻︎をつけた村上龍氏は「相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である」、「作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。新人作家に対し、このような注文をつけるのは、『きことわ』と『苦役列車』が質の高い作品だとわたしが認めているからである。」と語っている。誠に同感、特に後半。私は初めて『人間失格』を「読んだ」高校一年生の頃から、後半のようなことをずっと思っていて、それこそが作品を規定する要素の一つだと確信し8年間ほど生きてきたので、本作に関してはあまり肯定的になれなかったのだろう。ところで氏はあくまでそれは巧みな技術があることを前提に語っているが、氏の言う「巧みな技術」とは、何だろうか。 本作を通じて、私小説難しっ!と思った。そもそも私小説って、作者が「これ自分の体験なんですよ」って明かさないと分からないよね。その境目が、曖昧だ。 以前私は「作家が全て設定を考え構成した小説は意図が常に作家のうちに留まるが、私小説においては意図は全て作家の外、とりわけ読者やその背後にある社会にある」と考えていたが、どうもその通りな気がする。直感だけど。 もう少し、最近の文学作品を読んでみよう。んで、勉強も並行しよう。もう少しで自分の中の問題意識がちゃんと形になる気がする。 - 2026年5月16日
新約聖書 福音書 8月若松英輔読み終わった「何かを願うとき私たちは、物事が自分の思う通りになってほしい、思いが実現してほしいと考えます。しかし『祈る』とは『願う』こととは異なり、「み旨のままに」、という思いを胸にわが身を投げ出すことだといえるのではないでしょうか。」 聖書を、読みます。 もちろん私はクリスチャンでもないしツァラトゥストラを通っているし、第一理系の人間でローレンス・クラウスを愛読していたくらいだから神など信じていない。 ただ、海外文学をよりよく知るために、何より人間の愛、他の気になっているテーマについて包括的に考察するために、世界で最も読まれている聖書を読みます。 読了報告は、しないでしょう。聖書に限らず、「本を読み終わる」ということは決してあり得ないので。特に聖書の場合、一生をかけても読み終えることができないだろう。 最初にマタイ、次にヨハネ…。愛を知るのは、いつになることやら…。 - 2026年5月16日
李陵・山月記中島敦読み終わった中島敦『山月記』 「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」 高校3年生(2年生かもしれない)の頃に授業で読んだきりだったが、今度ある読書会に参加するために再読した。2回目である。 やはり名作だ。どこからどこまで、エッセンスが詰まっている。とても良い文学作品だ。中島敦って、こんなに良かったのか。 本作には様々なテーマが込められており、だからこそ読む人にとって受ける印象が違うのだろう。また、或いは解釈の違いもあるのかもしれない。「李朝は虎になっていない」と言う説もあるくらいなので。ただ、最初に着目すべきはやはり文章の形式であろう。この作品は李徴に焦点が当てられているが、物語として、李徴の鉤括弧が付いている台詞は、序盤に虎として叢から躍り出た時の「あぶないところだった」「如何にも自分は隴西の李徴である」しかない。その他の台詞には一切の鉤括弧がついておらず、物語の進行とともに李徴の独白は量を増していく。これにより李徴の語りは物語そのものとなり、李徴は自己劇化される。自己劇化し李徴のバックストーリーを作中作のように配置することで、我々は袁傪に共感しながら、李徴を客観視することができる。 さて、この作品は「内面のコントロール」「罪と罰」「芸術家の苦悩」といった様々なテーマを包含しているようだが、やはり「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という語が有名なように、一番大きなテーマは「芸術家の苦悩」であろう。思うに芸術家の素質は例えば孤独であることやら矜持心やら青臭さやらナルシシズムであることやら己への厳格やら色々な要素があるだろうが、一番大切なのは謙虚であることだろう。これはナルシシズムとは異義に思えるが、そうではない。あくまで芸術家として自信家な姿勢を見せつつ作品に対しては謙虚である、そういう姿勢だろう。袁傪は虎になった李徴の詩を聴き、「作者の素質が第一流に属するものは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか」と述べる。この「何処か」とは、紛れもなく謙虚であることだろう。不思議なものだ。作品への思惑や姿勢は、作者が意識しないところで読者に読み取られる。作家に唯一コントロールできないもの、それが作家の生まれながらの内面であり、これが本作品のテーマの一部である「内面のコントロール」であろう。これは鋭敏なる読者には、例えその読者が文章の鍛錬をさほど積んでいなくとも、すぐに直感できるものである。そして李徴はそれに勘付いていた。しかし、勘付いたのが、少し遅かった。そしてそれを勘づいて初めて、己が中途半端な精神、即ち「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」と詩作への油断が、妻子を苦しめていたと言うことに気がつくのである。 李徴は人間にも芸術家にもなりきれないようであるが、謂わば芸術家としての矜持を持ちながら、そうして芸術家として生きる性質を持たなかった、そうして生活を送る能力のなかった人間だったのだろう。そうしてこういう人間は現代にもごまんといる。芸術家や芸能人、その他何者かになろうかと思いつつ、けれども何者にもなれない、年齢は歳をとっているけれども年齢は若いフリーターのような夢追い人、そういう人に重なるところがあある。そういう点では、本作は芸術家を志す人間の手本・バイブルとなるポテンシャルを秘めていると言えるだろう。 - 2026年5月15日
ハンチバック市川沙央読み終わった「生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。」 はじめに断っておこう。私はこの作品を好きになれなかった。だから、冒頭の引用も感動した文章からではなく、当たり障りのない文章を選んだ。それほどまでに私はこの作品を好きになれなかった。ので、この作品ならびに作家が好きな人は、この文章を読まない方が良いだろう。 性的な描写が多く、外で読むのが恥ずかしかった。しかし、私がこの作品を良いと思えなかった理由はそこにはない。私がこの作品を受け入れられなかったのは、文体と作者の幼い僻みにある。 まず、文体についてだが、その作品は序盤から「個人アカ」や「学歴ロンダリング」のような軽薄な言葉遣いを用いた口語体と端的な文語体が入り混じっており、なかなかに気持ち悪い。文体の均整が取れておらず、主人公である釈迦の抱える二面性(被護欲と攻撃性)が見つけにくくなる。ただ、淡白ながらユーモア溢れる皮肉には、面白い部分がある。 問題は後者である。本作は「作者の怒り」的なところを評価されていることは有名な話だが、少なくとも私には怒りというより拙い僻みにしか見えなかった。特に「紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。」という部分は、視野の狭いルサンチマンに他ならない。特に前半はこの軽率な僻みが多く、ただの感想文に過ぎないように思え、それが非常にノイズとなり、読む気も失せ、再読する気にもならないといった始末である。尤も、この怒気と迫力ある文体を僻みとしか捉えられないのは、障害者である姉を間近に見続け育ってきた私の受け取り方の問題なのだろうが。芥川賞の選評を見ると、この文体とそれによる問題提起が評価されたようであるが、少なくとも私には、本作を芸術(文芸)と呼ぶにはあまりにも僻みという拙い私情が混ざり過ぎているように思える。芸術(文芸)が社会への問題提起を含むべきか否かはまた別の議論を用意する必要がありそうだが、少なくともこの作品を終盤まで見ると、優れた点はそういった部分しかないだろう。さしずめ、「背骨文学」といった具合である。 この作品を作品たらしめるのは、最後の展開であろう。私が先程「少なくともこの作品を終盤まで見ると…(後略)」と語ったのは、そのためである。最後の展開があることにより、この膨大なルサンチマンを抱えた感想文は作中作となり、強制的に層を帯びて作品に深みが生まれる。この部分については色々と解釈の仕方が分かれるようだが、私は主人公の物語を客観視することで、その人生を供養し尊厳を見出す構造になっている、と捉えている。『人間失格』のようなものである。とはいえ、そういう構造は一見「釈迦の人生を価値あるものへ昇華する」という点では説得力があるが、ストーリー的な面から見た時に、井沢釈迦が殺された必然性は薄い。また、その直前も、聖書からの引用が述べられているが、これに関しても必然性が全くなく、極めて不可解である。 これらの展開によりこの作品は作品へと昇華したのだろうが、その展開を設る必然性に些か欠けていたため、私には読後の爽快感というものが感じられなかった。して、「社会を恨む感想文が、社会に問題提起をした」「しかし、文学作品のようには思えない」「ユーモア溢れる皮肉が面白い」くらいの感想しかないのである。文庫本に付された往復書簡を読めば見方が深くなるのだろうが、読む気にはなれない。 この感想を読んだことにより、私には2つ、問題点があることが分かった。1つ目は、私はかなりの芸術至上主義であるということ。平野啓一郎は芥川賞の選評で他の作品に対し「他者性」(即ち、読者の存在)について言及していたが、どうも私の中で読者の存在というのは薄い。「現代の文学作品が他者性を意識してデザインされるべきかどうか」というのは、私の考えなければならないところである。もう1つは、一度作品に不満な要素があると、途端にその作品が嫌いになって親身になって考察できないこと。この作品についても、序盤で「嫌いだ」となり、以降あまり深く考えずに読み進めていたが、これは良くない。なおさねばならない。 - 2026年5月13日
Xへの手紙・私小説論小林秀雄読み終わった小林秀雄『私小説論』 「小は単語から大は一般言語に至るまで、その伝統が急速に破れて行く今日、新しい作家達は何によって新しい文学的リアリティを獲得しようとしているのか。」 ずっと読まねばと思っていた私小説論を読み終わりましたよっと。 ふむふむ。なるほど。40ページほどの短い文章だったが、ゴリゴリ理系(略して、ごりごりけい)の私にとって慣れぬ人文学系の論文で、理解できない部分は一つずつ噛み砕いて整理していったので、読破するのにだいぶ時間がかかってしまった。 読む前は日本の私小説について語るものだと思っていたが、蓋を開けてみれば批評でした。とても大雑把に図式化すると、要は日本の近代私小説はただの「自己開示」だが、西洋などの私小説は「自己の飽くなき客観視」ってことで、そこに違いがあるという。しかし、小林秀雄はそれに優劣をつけるのではなく、寧ろその歴史を通して「『自己を描く』という近代文学の姿勢そのもの」に疑問を抱いていて、それを4つの章によって立ち上げている。 1章では海外自然主義の輸入と、それが日本に土着しなかったことを述べている。西洋の文学が輸入される前、日本文学や当時の社会は ・戯作文学という長く強い文学の伝統 ・完成された新美観 ・未完成な実証主義 という有様だったので、西洋の自然主義の背景的な部分も含めてではなく、技法的な部分のみが日本に受け入れられた。その結果、西洋の私小説は「内面を『外面描写』から立ち上げる」ものだが、日本の私小説は「単に内面をそのまま描くもの」となってしまったのである。 2章では、海外作家と日本の作家を比較した上で、日本の作家の私小説とその危機について論じている。フローベールのボヴァリー夫人について、フローベール自身は「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。有名な話である。フローベールがこう語ったのは、偏に、海外作家は「自己と作品の分離」を徹底していたからである。それは私小説にも言える。海外の私小説というのは、当時蔓延っていた実証主義により生活に失望した作家達が、その均一化された社会の中での自己の立ち位置を確認すべく、作品に全てを託して自己という人間を客観的に描いた成果である。即ち、私生活を作品のモチーフにすることで、私生活を破壊したわけである。一方で、日本の(大正時代の)作家は日常体験が作品そのものになると信じて疑わなかった。しかし、それが進むと日常生活の理論と創作の理論の矛盾、即ち、生活の有り様と芸術家としての在り方が相剋するという自体に陥るわけである。ここに、日本の私小説の危機が潜む。生活=作品という図式が完全に成立した時、作家は成す術がなくなる。それに対して島崎は歴史物に打ち込み、正宗は感想的批評文の創作から危機を横目に見、徳田は異常な生活力から却って自在な創作態度を取るといった、それぞれの始末を強いられているのである。また、マルクス主義の輸入により、心理手法が貧弱になるといった公式主義に陥りがちであったという事実もある。 3章では、横光利一の『純粋小説論』を挙げ、その純粋小説に絡めつつ、田山花袋と比較しながらジッドの私小説の構造を解明している。先に何度も述べているように、田山花袋は私生活と私小説を信じる(文学を土につける)態度を取っていたが、ジッドは「私」と「小説」を完全に切り離し「私」を深く静観することで人間を描いた。とはいえ、小説というものは作家により規定される以上、作家による世界の切り口の中でしか作品は躍動しない。これは制作理論上の必然である。しかしジッドは、『贋金つくり』で100年も前にこの問題に対しある対策を講じた。彼の設えた装置は、『贋金つくり』の執筆と並行して『贋金つくりの日記』を書くことにより、ジッド本人と主人公を合わせ鏡にした。これにより、作者の姿は完全に消え、小説自体が残るのである。これが、ジッドの純粋小説の思想であろう。 4章では、文学のリアリティの在り方について、本格的に問いを投げかける。そもそも、言語は言語として独立していない。言語は社会的堆積により成り立っているからである。故に、如何なる作家も純粋な言葉の意味を抽出し、使用することは不可能である。更に、『私小説論』が書かれた1935年は、マルクス主義の流行と崩壊、急速な近代化、封建制度の柔化などにより、言葉の使われ方が激変する。現代のSNS空間における言葉がとてもインスタント化されているのも、これと同じである。共同体が崩壊し、言葉が軽くなり、主体が空洞化した先では、もはやリアリズムというものは成立し難い。言語の持つ意味に縛られるという前提はありながら、村田沙耶香の『コンビニ人間』のような孤独で主体性が抜け落ちた文学が成立するのは、そのためであろう。この指摘が、最初に引用した「小は単語から大は一般言語に至るまで、その伝統が急速に破れて行く今日、新しい作家達は何によって新しい文学的リアリティを獲得しようとしているのか。」という問題提起に繋がる。 ああ、例の詩人が言っていたことも分かってきたような気がしますね。やはり、何事にも勉強は大切です。 次に読むは、西村賢太か、モーパッサンか、ルソーの『懺悔録』か、あるいは、『贋金つくり』か。どうしよう、他の興味のあるやつも読みたいなぁ。 - 2026年5月1日
風の歌を聴け村上春樹読み終わった「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。 僕たちはそんな風にして生きている。」 とんでもないものを読んでしまった、と思った。 私は今、とある詩人の影響で、フォルマリズムとロマンチシズムというものについて考えている。堀辰雄の『風立ちぬ』が大好きな(おそらく)ロマンチストの私にとって、反叙情を掲げ詩を紡いでゆく彼の影響は大きいのだ。 本作は、そんな私が初めて読んだ村上春樹の作品である。彼の作品は屡々雰囲気小説だと揶揄されるが、少なくとも本作は極めてフォルマリズムに則ったものであるように思う。雰囲気小説と言われるのはおそらく、なんの脈絡のない接続詞であったり斜に構えた態度であったりストーリーの展開のせいだろうが、その実文章は極めて現実的であり、感傷の欠片もない。作者は然るべき展開を然るべき位置に拵え、しかもそれを無意識的にしているような感じがする。それが本作の最も優れた点だ。 けれども、比喩はとても詩的だ。「それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった」という部分、なんて比喩だ。 人生の無為から生きる動機を見出すのがロマンチストの所業なのならば、人生の無為を静観し、ただ在るという態度をとることこそ、フォルマリストの成す所業であろう。本作は意図的に無為なものを描写しているように感じる。また、「鼠」というロマンチスト(おそらく鼠はフォルマリストである主人公の奥底に僅かに残留するロマンチシズム的存在なのだろう)を無為に対するアンチテーゼとして置くことで、徹底的に無為を読者に突きつけているように思える。 読んでいる途中の思索があまりにも多く、メモしながら読み進め、しかもそれを忘れないうちに書き留めておきたかったので、なかなか支離滅裂な感想となってしまった。 後日、本作に関する論文を読むつもりなので、それを読んだら、もう一度整理してみる。 翌日の私より、P.S. 「『自分と自分をとりまく事物との距離を確認する』行為がなぜ必要なのだろうか。『ものさし』はその距離を介して現実へのコミットメントを取り戻そうとするための手段なのではないか。」 「注目すべきことは、この個がそれによっていつもある一般性(普遍性)を象徴することである。たとえば、特殊な個々の松を描くことによって、逆に「松」という普遍を描き出す、あるいは描きうるという信念こそが、リアリズムなのである。」 ふむふむ、なるほど…。柄谷行人と小林秀雄を読まねば。そして、道具化しなければ。 あと、前々から思っていたんだけど、こういう批評家や文学研究者の指摘を、作者自身は自覚しているのだろうか?作者自身も気がついていないような内面的な要素を指摘しているように見える…。もし作者自身もそれに気づいていて小説を設計しているのならば、なんとも恐ろしいことだ。 - 2026年4月25日
都市と星新訳版アーサー・チャールズ・クラーク,酒井昭伸読み終わった「『〈評議会〉には、こう伝言していただけませんか——ひとたび開かれた道は、ただ決議をするだけでは、けっして閉じることはできない、と』」 風邪を拗らせ1週間ほど寝込んでいたので、読むのが遅れた。この本は500ページほどあり読み始めるのが大層めんどうだったが、意外と読みやすくて面白く、読み終わるまでにそう時間はかからなかった。 さて、本作は私が初めて読んだSF小説である。純文学ばかり好んで読む私にとってSF小説は遠い存在だったが、この度友人とささやかに開催している読書会のために読んだ。これはSF小説ならではの感覚かもしれないが、終始文体からとても映像的な印象を受けた。もちろん作者固有の文体であったり、翻訳家の影響もあったりするかもしれないが、おそらくSF小説ならではのものだろうと踏んでいる。というのも、SF小説はscience fictionという名の通り、我々が視認・認識・理解できる範疇を超えて物語が展開されるからである。その中で、読み手が想像できないというノイズを避けるために、どうしても現象の全景を詳らかに表す必要があるのだろう。今まで読んできた文学作品は、どちらかと言うと書き手が書く内容を取捨選択してコントロールしているといった印象が強いが(例えば、ある思想を持っている主人公を強調するために、それに反する思想を持つ登場人物をあえて力強く書くといったように)、SF小説は物語内で起こっている状況を説明しなければならないから、どちらかというと書き手が物語の状況にコントロールされている、とも言えるだろう。 また、本作は1965年に書き上げられたということで、現代の科学から見たら明らかに成り立たない点もあるかもしれない。時代の進歩によって「ありえない」と一蹴されてしまう可能性があるのは、SF小説の悲しき性質の一つなのかもしれない。 肝心の物語の内容的には、終盤の展開にやや違和感を感じたものの、冒険が中心となっていたので非常にワクワクするものだった。かつて小学生の頃に『デルトラ・クエスト』を読んだりポケモンやゼルダの伝説で遊んだりして世界の広さに興奮していたことを思い出す、そんな感じだった。思えば昔は、随分と遠くのものに憧れていた気がする。遠い昔のことや夜空に瞬く星を想起しては、えもいえぬ好奇心を抱いていた。そうした厨二病的な野心は誰に話すともなく密かに心の内で燃え続けていた。異世界に魅せられ、多元宇宙論の研究をしたいと物理や数学の勉強を頑張っていたのも懐かしい。もうそんな感情も、とっくに忘れてしまったなぁ…。 ということで皆さん、冒険心を大切にしましょう。そのために、ポケモンとゼルダの伝説をしましょう、 - 2026年4月13日
乳と卵川上未映子読み終わった「大人になるのは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどんどんどん変わっていく。過ぎていく。それがゆううつで、なんだかものすごく暗い。でもその暗さは厭、気分が厭、厭厭が目にどんどんたまっていって、目をあけてたくない。あけていたくない、から、あけてられない、になりそうでこわい。」 帯には「一夜にして、現代日本文学の風景を変えた芥川賞受賞作」とあった。大袈裟だと思ったが、読み終わった瞬間、とんでもないものを読んでしまった、と思った(ただし表題作を読み終えたのは先週のことなので、誇張された表現かもしれない)。 現代文学の情景描写を習ってみたいと思ってこの本をなんとなく手に取ってみたが、文体がとても特徴的なものだった。併せて収録された『あなたたちの恋愛は瀕死』もそうだが、口語体とも文語体ともつかない、延々と捲し立てるような文体であり、印象に残る。それは恐らく文章をあえて読点で繋げたり不要な部分に句点を置いて文章を切ることによって成り立っているのだろう。本来句点というのは「文章の終わり」という機能を持ち、それによって読み手は一段落する機会を得るが、本作はその暗黙の習性を破ることによって一人語り感を醸し出し、読者に思考の隙を与えない。それが事実の陳列として、乾いた視点を実現している。逆に、作品を上手く掴むことができなければ「結局何が言いたいの?」という疑問が読み手に残るという危険性も孕んでおり、そうなった場合単なる「プレイとしての作品」に落ち着く可能性もある。ただ、多くの人間がそうならないからこそ、この作品の完成度の高さというものは際立っている。 そうした特徴的な文体は、独特な詩的表現を伴って物語を紡いでいく。特に情景描写が精緻で、人物の心理を想像しやすい。緑子の思春期特有の繊細で孤独で些細で攻撃的な弱さは、しばしば日記として挿入されており、その生々しい独白が物語にアクセントをつけると共に、良いシーン転換のきっかけとなっている。それに対して母・巻子の暗い心情が明らかになっている場面はほとんどない。この緑子の本心にのみ着目するという一元的な視点によって、巻子の表面的な明るさが際立つ。とはいえ両者共に同じようなことで悩んでいる(母は乳に悩んでおり、子は生理について悩んでいる)ところが物語を作る核となっているし、親子だなぁといった感じである。 物語全体として緑子に共感できる場面が多かった私はまだ子供なのだろう。そして、その思春期の弱さは、行動して得られる経験値が少ないからなのだろう。 - 2026年4月1日
100分間で楽しむ名作小説 文鳥夏目漱石読み終わった「自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。 「百年はもう来ていたんだな」とこの時はじめて気が付いた。」 本書は角川文庫より出版された、「文鳥」「夢十夜」「琴のそら音」を収録する短編集であり、気軽に小説に触れてみようと少し大きな文字で素敵な短編を収録したものである。夢十夜を読みたかったのもあるが、いかんせんカバーが洒落ている。ジャケ買いなるものをしたのは今回が初めてだし、今後もうしないだろう。 さて、三作全て読破したので、それぞれに対して思ったことを残しておく。 【文鳥】 文体はシンプル。時たま文鳥を昔知っていた美しい女性に重ね合わせ具に観察する様には、どこか艶かしさを帯びながらも綺麗な感じがする。 ただ、結末には少しモヤモヤが残る。本の背表紙に書いてあるあらすじでこの文鳥が死ぬことを知っていたが、主人公(おそらく、漱石)がそれを下女のせいにしたのは解せない。主人公はそれについて「たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」という文句を言っていたが、それは究極的なニヒリズムによる暴論だろう(高校一年生の頃、自分も同じように感じていたことを思い出した)。ロマンスの中にもニヒリズムがひょっこり顔を出すのは、漱石らしさが伺える。 【夢十夜】 背中に背負った子供が石像になったり、明治時代に運慶が仁王像を彫っているなど、全体的に本当に夢の中にいるかのような雰囲気に包まれている。夢の中の不条理な風景を違和感なく読者に読ませることができる、優れた文章力を感じた。また、全夢を通して死や無為が強調されており、こちらにも漱石らしさを感じる。また、夢の締めくくりの一文にとてもセンスを感じる。何となくものすごい余韻を感じられ、本当に忘れ難い夢から覚めたかのような心持ちになる。 【琴のそら音】 漱石にしては珍しい、緩い男女のストーリーであり、夜寝付く時に色々と不安になって眠れず、けれども実際は大したことがなかったという、万人が共感できる可愛らしいストーリーと漱石のユーモア溢れる文体、教養が渾然一体となっており、不思議な読後感である。面白い。ただ、それだけに止まらず、最後には「西洋西洋と騒がれていても、こちら側がしっかりとしていれば化かされることはない」という、大衆小説らしさを醸しつつも、明治時代特有の啓蒙も感じられる。 これらの作品は全て1905年ごろに書かれたもの、つまり前期三部作と呼ばれる「三四郎」「それから」「門」より少し前に書かれた作品である。私が読んだ漱石の作品はほとんどこれらの時期のものであるが、後期三部作ではガラリと作風が変わっているらしい。これを機に、後期の作品に手を伸ばしてみたいとも思う。 - 2026年3月27日
時をかけるゆとり朝井リョウ読み終わった「子ども心ながらに感じていた、この世界への不安、生きていくことへの揺らぎのようなものが、本の中のある一行によってぴったりと書き表されているようなとき、私は、自分はひとりではないのだと思えた。」 又吉直樹が「良い文章とは何か」という問いに対して似たようなことを語っていたが、この文章こそが、正しくそうだ。 普段あまり手に取らないような類の本書を読み始めたのは、単純に文体が面白そうだからだ。たまたまXで見た朝井リョウのエッセイの著者紹介に噴き出し、興味を持った。だから、何か重要な省察などを得たわけではない。 ただ、文体に関しては確かに面白い。恐らくすぐに飽きる文体ではあるが、ユーモアに溢れている。それはおそらく、「事前に出たワードの回収」「単純に言葉選びが独特」という要素がある。特に「単純に言葉選びが独特」というものに関しては、例えば「〜といった感じである」というように、「〜といった」という口語体に近い文体と「である」という堅苦しい文語体が合わさりあって、ある種言葉の雰囲気のギャップによって生まれるものが多い。お笑いなどでもこのギャップにより笑いを誘うというものがあるように感じるが、それは偏に、そのギャップが「オーディエンスの想像を超えつつも、オーディエンスの理解できる程度に収まっている」からであろう。我々は理解はできるけれども突拍子な物事に対し、おかしさを感じるのだろうと思う。それがお笑いのひとつの手法だろう。 とはいえ、全てが全てそういうおかしさに包まれているわけではない。終盤に著者が直木賞を受賞した際のエッセイがおさめられていたが、その文章には目を見張るものがある。書き出しの引用も、そこから持ってきたものだ。尤も、著者自身はそのエッセイをスカしてると自虐しているが。 ともかく、読みやすい文章であった。少し前、「イン・ザ・メガチャーチ」が話題になっていたが、(とてもとても)気が向けば読んでみようと思う。 - 2026年3月22日
ツァラトゥストラはこう言った(下)ニーチェ,フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ,Friedrich Nietzsche,氷上英広,氷上英廣読み終わった「わたしは眠りに眠りーー、 深い夢から、いま目が覚めた、ーー この世は深い、 『昼』が考えたよりもさらに深い。 この世の嘆きは深いーー しかしよろこびはーー断腸の悲しみよりも深い。 嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。 しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬーー、 深い、深い永遠を欲してやまぬ!」 読み終わってから整理するのに、少し時間がかかった。 本書は哲学書というよりは文学書の形式を取っており、ニーチェの著作の中でも読みやすい部類とされているが、だいぶ昔に書かれた本であることから、最初はなかなか読むのに苦戦した。そういう本でありがちなのは、中盤や終盤に差し掛かって漸く読む要領を得るということだ。なんともじれったい気分である。 私の話をする。私がこの本を手に取った理由は、数年程前私がここに描かれている「超人」と似たことを考えていたからだ。人間は、絶望しなければならない。絶望し、絶望し、絶望する。その絶望の底にある残滓こそが、幸福というものなのだ。そしてそれを達成する条件こそ、「自己を愛する」ということなのだ。絶望の底の幸福には、自己を軽蔑し尽くし、愛することによって初めて到達できる。そうした考えを私は持っていたから、「人間は克服されるべきものである」と謳う「超人」の概念は首肯できるものがあり、慰めからの読書など何も齎さないと分かっていながらも、本書を手に取ったわけである。 しかし本書には、もう一つ大事なキーワードがある。3章より徐々に強調されていく、「永劫回帰」である。私の解釈が間違っていなければ、ニーチェの思想の反映体であろう本書の主人公・ツァラトゥストラは、この永劫回帰を受け入れることこそ「自己を愛する」ことになると説く。この永劫回帰とは簡単に言えば万物は繰り返されるという主張だが、思うに、ツァラトゥストラの言う「自己を愛する」とは、永遠の絶望があるならば永遠の幸福があるということを認識し、その微かにニヒリズムを予感させる一切の価値転換を受け入れ、究極的にポジティブになろうとする試みなのであろう。 また、文学的に本書を捉えるならば、これはツァラトゥストラが宗教を否定して人々に教えを説くというあらすじになっているが(宗教による束縛を否定する本書がこう捉えられるのも皮肉なものだが、これもまた、キリスト教と同じく宗教的なものに見える。本書の最終節の『徴』というタイトルは、正しくそういう類のことを思わせる)、同時に、ツァラトゥストラが自己超克する物語であるとも取れる。特に、読者である私をも神的存在と捉えていたツァラトゥストラが永劫回帰を受け入れ、同情に甘んじ、「大いなる正午」を迎える結末には、震えるものがある。 当たり前だが、私は本書を完全には理解できていない。だからこそ、2周目を読んだ時の喜びは、もっと大きなものになるだろう。分厚い本だから読むのがとても大変だが、またいつか読み直したい。 余談であるが、本書は解釈が難解な点に関しては、chatGPTと訳者解説を参考に読み進めた。なかなか良いものであるので、お勧めしたい。 また、第二の余談として、1章だか2章だかの、気に入った一節を載せておく。 「孤独はいつも1×1だがーー長いあいだには、それが2になってくる。」 あと、これが一番好き。 「そうだ、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れたからではない。むしろ愛することに慣れたからだ。」 - 2026年3月9日
すべての、白いものたちのハン・ガン,斎藤真理子読み終わった「私はあなたにきれいなものを見せてあげたかった。残酷さ、悲しみ、絶望、汚れ、苦痛よりも先に、あなたにだけはきれいなものを。」 美しい精神である。「白」は「私」にとって清きものの象徴であり、日常に溢れる「白」を切り取る行為そのものが、鎮魂となる。 本作に対する第一印象として、平易だが現実的な文体と「白」というテーマ、更には途中途中で挿し込まれている写真が相まってとても詩的に見えるというのがあったが、その実、とても小説的で1つのストーリーとして読者の受け皿となる作品であった。 この作品は、いかに死を生に昇華させるかという試みから作者自身の訣別・哀悼を一直線にしたものである。「姉という生を断絶してしまった存在の魂を自身の中に取り入れることにより、姉の生を実現する」という発想はありそうでなかったもので面白い。けれども結局、それは実現できず、我々生者は死者を弔い、前を向くしかない。本作は生の力強さを表象することなく、静かにその現実を突きつける。 私は最初、「死者への哀悼と、死者と訣別して生きること」という点から堀辰雄の『風立ちぬ』を連想した。しかし本作が『風立ちぬ』と異なる点は、一貫して、死者が生者として存在しないことにある。哀悼を捧げる「姉」は、常に死者として描かれる。そのため、対比としての生の力強さは薄くなる。これはどちらが優れているという話ではなく単に「生と死」というテーマのベクトルの向きが違うだけであろう。 余談であるが、この作品を読むにあたって、私は初めて文章に線を引き、頁に付箋を貼った。最初、そうすることでより多くのものを作品から吸収しようと思ったが、別段そうもいかなかった。とはいえ、再読する際にそういう目印があると面白いだろうから、今後も積極的に続けていこうと思う。 - 2026年2月26日
願ったり叶わなかったり宇野なずき読み終わった「将来の夢を描くには遅すぎるパレットの隅っこにある余白」 まず、短歌について。本書は私が人生で初めて手に取った歌集であるが、面白かった。1をきいて9を知り、100を妄想するような私にとって短歌は意外と心地よい。普段小説を読む時は余白を作者の言葉で埋めようとするが、短歌は余白を自分の言葉で埋めていくのだろう(もっとも、小説も自分の言葉で埋めて差し支えないのだろうが)。また、歌集一冊でストーリーになっているのも面白い。息抜きとして、難解な本と歌集を併読するのが私に合ったスタイルだろう。ともかく、短歌の世界をほとんど知らないので、気になった歌集は手当たり次第読んでいこうと思う。 次に、本作品について。初めて読んだ歌集がこれで心底良かったと思う。現代的な感性で分かりやすく、挫折することなくスラスラと読めた。想像もしやすく、楽しい。短歌は5-7-5-7-7で文章や単語が構成されているのかと勝手に思っていたが、単語や文章が節(?)に跨っていると、短歌らしさを感じずに、そのまま等身大の意味で受け取れた(5-7-5-7-7の韻に囚われることがよくあるので)。 多分この歌集は、孤独の哀愁、愛を知り捨てて独りで生きることを志す様を1冊で表現しているのだろう。そりゃあ、現代人に刺さりますよ。 恐らく本書が私の短歌への触れ方の源流となるので、定期的に戻ってこよう。 - 2026年2月26日
学問芸術論ジャン・ジャック・ルソー,Jean-Jacques Rousseau,前川貞次郎読み終わった「天からそれほど偉大な才能をわかち与えられてもいず、多くの栄誉をうける運命も与えられていないわれわれ凡人は、世にうもれたままにとどまっていましょう」 1年前にとある先輩から借りたルソーの学問芸術論を読み始めた(先輩、さーせん)。現代は技術によって支えられている部分があまりにも大きすぎるので「学問は習俗の純化に寄与しない」という主張に対しては疑問を呈するが、その大枠自体は現代のみならずあらゆる時代や場所において通用するだろう。そしてこれは、私が原始的な生活に憧れることの根源でもある。優劣は奢侈を生み、奢侈は更なる優劣を生む。 ところで、この本はモンテーニュの『エセー』の影響を色濃く受けているようだ。この本をもっと理解するためにはエセーを読む必要があるな。また、加えて、この本は中世ヨーロッパの歴史をよく例に挙げていたが、私は無学で歴史を知らぬ男なので、何一つ分からなかった。本論考はアカデミーの懸賞問題に提出された論文であるが、少々文学的で論文らしさはあまりなかった。 - 2026年1月26日
或旧友へ送る手記芥川竜之介読み終わった「唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期まつごの目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」 良い。芥川龍之介の弟子の堀辰雄の代表作、風立ちぬの中にも、似たような一節があったな。 「自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ」
読み込み中...