
句読点
@books_qutoten
2026年5月14日
ヴィジュアル版 沖縄文化論
岡本太郎
読み終わった
今月の読書会の課題本。前に読んだのは随分前でなんとなく断片的に記憶しているだけだったので、ほぼ初めて読んだような感覚。こんなに面白い本だったか。
岡本太郎のあのギョロっとした鋭い目で沖縄のさまざまなものを観察するとこんな風に写り、また考えるのか、ということが生き生きと伝わってくる。太郎の目の内側から沖縄を見ているような。ごく短い滞在期間にその目は驚くほど深いところまで沖縄の底に流れているものを見つけ出す。外間守善さんの解説にも書かれているように、まさに「天才的な直感と直観の確かさ」によるものなんだろう。
琉球諸島は長い歴史のほとんどを抑圧の歴史として歩んできた。特に離島の生活の貧しさ、苦しさはとてつもない。想像もつかない。その貧しさの中で生活の「余剰としての」文化や芸術など生まれる余裕などなかった。しかし「生きるために」人々は苦しみや悲しみ、怒りや希望を歌や踊りに託して伝えてきた。生きるための芸術。毎年のように襲ってくる台風に備えて、「美しくつくろう」などと思って作ったわけではない、珊瑚礁のゴツゴツした石を無造作に積み上げただけの石垣にもそうした「生きるための芸術」の美しさを太郎は発見する。他にも沖縄のどこにでも自生している植物を使って編んだクバ笠やアダン葉の柄杓、籠、ポーチなどにも。漁に使うクリ舟にも太郎の目は吸い寄せられている。いわゆる琉球文化として紹介される琉球王朝の王宮とか紅型とかそういったものにはほとんど関心を寄せずに。それらは洗練された工芸品としての魅力はたしかにあっても、民衆が生きるうえではあまり関係がない余剰の芸術として太郎には捉えられたのだろう。
「ここにはまるで別な天体であるかのような透明な空間の広がりと、キラキラした時間の流れがある。(中略)私の予想しなかった、人間の生き方の肌理。──現代生活のカレンダーによって画一化され、コマ切れにされた時間とその連続。自然に対する畏怖と歓喜をうしなって無感動に測られる空間。そのような生の条件とはまさに異質だ。
そして、それがかえってわれわれ日本人の根源的な生き方にふれてくる。現代日本は己れの実体を見失っている。こういう根源的な時間と空間をどのように現代と対決せしめるか、ということが実は日本文化の最も本質的であり、緊急な課題なのではないだろうか。」p.22「沖縄の肌ざわり」より
民衆の「貧しいながら驚くほどふてぶてしいほどの生命力」を太郎はそうした生活の中に生きる芸術、文化の中に見出した。そしてそれらの奥底にある「何もないということの凄み」を久高島の聖地御嶽で「発見」し、強烈に揺さぶられる。何もないことの清らかさと豊かさに。人間が原初に持っていた神々との直接的な交わりの記憶がそのまま継承されている姿に。
そしてそれは近代化が進み、画一化された時間の中で生きる「本土の一億総小役人」のような顔をした人たちが忘れてしまったものではないかと。
1972年に、沖縄は本土復帰を果たす。しかし岡本太郎は「本土復帰にあたって」という文章の中でそれを本当に喜ぶべきことなのか、と留保する。沖縄が沖縄独自のものとして持っていた豊かな時間感覚、文化を投げ捨て、「本土並み」になどなってはいけないと忠告する。むしろ沖縄復帰の問題は、本土に生きる人間にとってこそ大きな問題とならなければならないともいう。
「本土の一億総小役人みたいな小ぢんまりした顔つきにうんざりした人は、沖縄のような透明で自然なふくらみ、その厚みのある気配にふれて、自分たちが遠い昔に置き忘れてきた、日本人としての本来の生活感を再発見すべきなのである。」
「沖縄の人に強烈に言いたい。沖縄が本土に復帰するなんて、考えるな。本土が沖縄に復帰するのだ、と思うべきである。そのような人間的プライド、文化的自負をもってほしい。」(ともに「本土復帰にあたって」より)
岡本太郎の流れるような文体、次々と視点が移り変わって、話題も移り変わって、ポロッと飛び出る江戸っ子らしい呟きや軽口に笑いながら、また太郎が感じていたであろう沖縄の透明な風が身体の中を吹き抜けていくような感覚を味わいながら楽しく読める一冊。優れた沖縄文化論であり、日本文化論でもある。



