糸太 "ミャンマー、優しい市民はなぜ..." 2026年5月15日

糸太
@itota-tboyt5
2026年5月15日
ミャンマー、優しい市民はなぜ武器を手にしたのか
自然災害などを前にした無力感は、大なり小なり誰にも経験があることだろう。でもその相手が人間であったら…。無力感はより大きく、より深くなるに違いない。 なぜ、分かってくれないんだ。同じ人間であれば通じるはずの当たり前が、いくら投げかけても届いてくれない。何度も何度も何度も、あの手この手で辛抱強く繰り返しているのに、返ってくるのは見当違いの暴力だけ。 もしかしたら言葉は通じないのかもしれない。「非暴力による民主化」という正しさは、「暴力による恐怖」によって徐々に蝕まれていく。それでも心に残る「未来への希望」まで脅かされたとき、正しさはこれまでと同じ顔ではいられなくなってしまう。 80年間、戦争をしてこなかった日本はたしかに素晴らしい。でもこうした多面的な正しさに、私たちは正面から向き合えているだろうか。 西方さんは言う。 「ここにきて気がついた。戦争反対、というのは確固たる信念ではなく、ただの思考停止だった。(中略)だけど今は、戸惑いながらも、思う。正しい戦争は、あるのかもしれない」 「武力闘争を美化するつもりは決してない。だが、武器を手にしてまで希望ある未来を生み出そうとするミャンマーの人々の思いに、私は共感する」 これはもちろん、ただ戦闘に賛成しているわけではない。完全に信頼を失いつつも、相手が同じ人間であることは、変わりない事実なのだから。 戦争は嫌だ。ただ、皆が反対すれば戦争は起こるはずない、などと考えるのはあまりに楽観的にすぎるのかもしれない。ミャンマーで続いている惨状は、83%もの民意が一方的な暴力によって覆された結果だ。圧倒的多数の想いや行動があってもなお、正反対の状況へと流されていってしまった現実を前にして、心がかき乱され続けている。
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