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糸太
@itota-tboyt5
  • 2026年5月17日
    社会
    社会
    複数の体と体をつなぎ、社会をつくる条件とは何か。ゼロ地点から積み上げるような原理的な考察は、かなりエキサイティングなものだった。 社会をつくるのは、「性」「言語」「権力」の三つの作用であるという。「言語」は全ての前提となるのでおいておくとして、私には、いま生きている社会が極端に「権力」の側へ傾きすぎているように思えた。 たとえば様々な場面で、「言語化」が求められることが増えている。これは自分の内側にあるあれこれを「形式」に落とし込むことで、自分以外の体と共有することに他ならない。つまり意味の整合性をはかる「権力」による、人との繋がりをより重視するようになった傾向にも見える。 さらに、飛躍するようだが、この背景には資本主義がべったり張り付いている気もする。 なぜ内側を共有したいのか。きっと、共有こそが「価値」になるからだ。だからいとも簡単に「貨幣」に置き換えらる。貨幣も言葉と同じく形式であるから、さらに遠くにある体の内側をも次々に通り抜けていく。 でも、こうして突っ走ってきた資本主義は、行き詰まりを見せ始めている。もちろん地球環境などの外的な問題もあるが、それぞれの社会が一度は受け入れた「貨幣」のような共通の価値について、体の内側のレベルで違和感があることに気づき始めたようにも感じられる。やっぱりその言葉の意味は私たちの感覚には置き換えられない、と感じることは自然にあることだろう。無意識下にあった「宗教」の違いも無視できなくなる。そうなれば「権力」の地盤は大きく揺れる。 だから、みんなが改めて考える。そもそも私たちは何で繋がっているのだっけ? ゴリラの研究で有名な山極さんが言っていた「社会脳」の話を思い出す。人間の脳は社会集団のなかで生活するために大きくなった。顔や性格を覚えたりする複雑な処理が必要なためだが、その許容範囲は大体150人くらいだという。 たとえばこれを、直接声が届くくらいの距離と考えたらどうだろう。文字が生まれる前の言葉、つまり誰々の体から発せられた声という、体から体へと直接働きかける作用による繋がりこそ、私たちホモサピエンスがつくれる社会の規模と考えられなくもない。 もちろん「権力」による繋がりによって、私たちの生活水準が向上して来たことは疑いがない。でも、これからの社会を夢見るにあたって、それに加えたオルタナティブな作用を模索するのも楽しそうである。 先日読んだアメリカのスモールタウンの話も思い出した。毎週金曜日の夜、コミュニティのメンバーが近所の公園に楽器を持ち寄って、自分たちのルーツであるアイリッシュ音楽を演奏する。車座になって音楽を楽しむ人たちは、おそらく「言語」にならない何かを、肌と肌で確かめ合っているのかもしれない。 こうした人とのつながり、社会のあり方は、前近代的なものとして忘れ去られようとしている。だが、それを未来へと希望として捉え直した時、現代のテクノロジーを利用した新たな工夫も考えられよう。ここから生まれる幸せは、私たちの生活をより豊かにする可能性だってある。 橋爪さんは言う。「生まれてからの出来事の積み重ねを考えてみよう。家族、学校、就職、結婚…。そうでなくてもよかったが、そうであるしかなかった出来事の積み重ね。自分のあり方が偶然に左右されたからと言って、いまこの自分にコミットしないでいいわけがあろうか。(中略)近代も同じではないだろうか。自分が生きるその社会なのだから」 現状を解体しようと試みるのは、未来への夢想に手を貸して、責任を持って実際の一歩を踏み出すためだ。これはきっと知の巨人による高らかな鬨の声。そう思ったら、なんだか胸が熱くなった。
  • 2026年5月15日
    ミャンマー、優しい市民はなぜ武器を手にしたのか
    自然災害などを前にした無力感は、大なり小なり誰にも経験があることだろう。でもその相手が人間であったら…。無力感はより大きく、より深くなるに違いない。 なぜ、分かってくれないんだ。同じ人間であれば通じるはずの当たり前が、いくら投げかけても届いてくれない。何度も何度も何度も、あの手この手で辛抱強く繰り返しているのに、返ってくるのは見当違いの暴力だけ。 もしかしたら言葉は通じないのかもしれない。「非暴力による民主化」という正しさは、「暴力による恐怖」によって徐々に蝕まれていく。それでも心に残る「未来への希望」まで脅かされたとき、正しさはこれまでと同じ顔ではいられなくなってしまう。 80年間、戦争をしてこなかった日本はたしかに素晴らしい。でもこうした多面的な正しさに、私たちは正面から向き合えているだろうか。 西方さんは言う。 「ここにきて気がついた。戦争反対、というのは確固たる信念ではなく、ただの思考停止だった。(中略)だけど今は、戸惑いながらも、思う。正しい戦争は、あるのかもしれない」 「武力闘争を美化するつもりは決してない。だが、武器を手にしてまで希望ある未来を生み出そうとするミャンマーの人々の思いに、私は共感する」 これはもちろん、ただ戦闘に賛成しているわけではない。完全に信頼を失いつつも、相手が同じ人間であることは、変わりない事実なのだから。 戦争は嫌だ。ただ、皆が反対すれば戦争は起こるはずない、などと考えるのはあまりに楽観的にすぎるのかもしれない。ミャンマーで続いている惨状は、83%もの民意が一方的な暴力によって覆された結果だ。圧倒的多数の想いや行動があってもなお、正反対の状況へと流されていってしまった現実を前にして、心がかき乱され続けている。
  • 2026年5月5日
    犬婿入り (講談社文庫)
    うっかり母国語を見失い、はたと辺りを見渡したら、世界がこんな風に動いていたので、そのままに記録してみました。多和田さんの作品に、私はいつも、そんな雰囲気を感じる。 言葉とは世界を切り分けるものである、と言っていたのはソシュールだったか。もしも、その切り分けていた仕切り板がフニャフニャに溶けてしまったりすれば、目の前に現れるのは世界そのものと言えるだろう。 とてつもなく面白い現象が繰り広げられているのに、言葉がないので記述できない。そこで忘れかけた母国語と新しく習得した外国語といった、不確かな道具をなんとか駆使して表現を試みる。 そんな稀代のアーティストによる作品に、人々は酔いしれる。でも、興奮しつつページをめくっていくうちに、読み手は母国語の使い勝手の悪さにも気づかされ始める。いままで疑ったことすらなかったのに…。頼りにしていた地面がひび割れて、するする崖下へと滑り落ちていく。必死に岩壁にしがみつこうとするも、手に持っている杭やロープの、なんと脆く、心許ないことか。 こうなれば、安全な場所からただ面白がっているだけでは済まされない。谷底にまで降りていき、前触れもなくやって来た「太郎」受け入れ、ときには「能面」を被って外に出てみたりする。そして、思うかもしれない。ありのままの世界では「嘘」なんか要らないじゃないか、と。 芥川賞ということは新人の時の作品なのか。多和田さんは新作長編も出ているようだけど、やっぱり昔の作品から読んでいこうかな。
  • 2026年4月26日
    語るに足る、ささやかな人生
    似ているけど何かが違う…ような気がするのだが、それは一体なんなのだろう。 本書の舞台であるアメリカのスモールタウンを取り巻く状況は、数十年の差こそあれ、現在の日本にも共通している。国道を迂回するバイパス沿いには、大型のチェーン店が次々と進出し、日本中どこも同じような風景に変えてしまっている。若者は土地を離れて高齢化が進み、地場産業には明るい未来が見通せず、村落共同体は弱体化の一途をたどる。 これに抗う動きも似ている。地方への移住を選択する若者は増えており、都会生活にはない人々の強い繋がりに、様々な社会問題を解決する糸口を見出したりしている。昔からの住人も自分たちの土地を見つめ直し、たとえば伝統行事の継承などを通じて、誇りを次世代へ繋げていこうとしているケースも多々見られる。 どの話もそのままスモールタウンに置き換えられそうだ。では、何が違っているというのか。まず初めに思いつくのは、目の前に広がる景色の雄大さである。 本を読んでの想像に過ぎないが、スケールの大きさたるや、日本ではとても体験し得ないものなのだろう。しかもこの「アメリカの大地というのは、基本的に不気味だ。うつすらと、しかし確実に気味悪い」と、著者の駒沢さんは感じ入っている。 あまりの大きさに気味が悪い感覚は、ポジティブにもネガティブにも働くに違いない。ふと、人智を超えた神のような存在が思い浮かぶ。望もうが望むまいが、大きすぎる景色に抱かれたスモールタウンは、あまねくこの存在の下にある。そして、この環境こそが、本書に登場する人々の、地に足がついた「自己肯定感」に直結するような気もするのだ。 すると、スモールタウンの住民がそれぞれに担っている「役割」も、すこし違って見えてくる。つまり、神のような大きな存在から与えられた「役割」だからこそ、揺るぎない自信を持ち得て暮らせているように思えてくる。 これは日本の場合とは少しニュアンスが違う。もちろん人口の少ない村落共同体で、与えられた「役割」によって責任が生じ、生きがいを感じることはあるだろう。自分の仕事が目に見える誰かのためになっていたら嬉しい。「ここにいていいんだ」という想いはより強く持てる。 でも、その「役割」を与えたのはあくまで共同体である。自分と同じ地平に立つ人間である。相対するのが山や海といった自然だとしても、それらはまだ応答可能な距離感の中にある。たとえ災害などの猛威に一方的に見舞われても、「何でだよ」と呟けるくらいの関係性はある気がする。 アメリカのスモールタウンと圧倒的に異なるのは、この点ではないか。有無を言わせぬほどの大いなる存在を、誰もが大前提として受け入れていること。あまりのスケールギャップを前にして、誰もが肩の力を抜いてフラットな人間関係を構築しているようにも見える。 もちろん単純に比較できる話ではないだろう。でも、こんな風に考えを巡らせてみたことで、今まで出会ったことのないアメリカの表情が垣間見えたようにも感じるのだ。 近ごろ、アメリカの負の側面ばかりを見せられ続けている。このタイミングで本書を手に取れたのは、本当に運が良かった。復刊に感謝!!
  • 2026年4月25日
    手の言語学
    手の言語学
    数年前からフラを習っている。先生からはハンドモーションをよく注意されるのだが、何度言われても直らない。フラの手の動きは、よく手話に例えられる。花、海、風…。自分ではやっているつもりでも、微妙に何かが違っているのだろう。なかなか褒めてはもらえない。 本書を読んでいて気付いたことがある。なるほど、フラのハンドモーションもまさしく「シネクドキ」である。 手話は媒体が体であるがために、話し手自らの判断で情報を補う場面が多々あるという。たとえば「どうやって」とか「どんな風に」という部分。つまり、上位概念を伝えようとするときに、相手に違和感を持たれない下位概念を自然と選んで使っているというのだ。 当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。むしろ日本語の方が不親切にすぎる、と言えなくもない。ただ私が膝を打ったのは、コミュニケーションのルールが違うことに今更ながら気がつけたからだ。 シネクドキが前提の世界では、言っていることを理解するための最低条件として聞き手はその情報を求めるだろう。一方で日本語話者の感覚では、受け手の想像力に委ねることを無自覚に求めている部分がないだろうか。だから、たとえば私がフラで風を伝えようとしても、場のルールが変わっていることに自覚的でなければ、「いやいや、それじゃ分かんないよ」となるのは当然かもしれない。 分かりきったことをくどくど書いているようではあるが、私には大きな気づきであった。私のフラの先生は「表現が甘い」とか高いレベルの指摘をしているのではなく、単純に「なに言ってるか全然分かんないんだけど」と首を傾げているだけなのだ。 異なる世界を覗き見るのは楽しい。幸い私にはフラが身近にある。遠くから見るだけでなく、もう一歩踏み込めそうなのは、何より嬉しい。
  • 2026年4月12日
    仏伝身読
    仏伝身読
    人生で困難なことに出会ったとき、たとえばブッタのエピソードが頭に浮かんだとする。何となく記憶にあったその話を、自分の置かれている状況に照らしてみると、苦しみが違って見えることもあるに違いない。 宗教的な振る舞いとは、まさにこれだろう。しかし仏教に関しては、世界三大宗教であるにもかかわらず、このプロセスを嫌う傾向があるように思える。「仏教は宗教ではなく哲学である」といった文脈に、この空気はとくに色濃く漂っている。 藤田一照さんの禅の話は、とてもロジカルで分かりやすい。東西の哲学の知見や身体運用の理屈などもも取り入れながら、ひとつずつ積み上げるように解説してくれる。アメリカの道場で異文化の方々に坐禅を教えていた経験も大きいのだろう。私のような仏教から遠い人間にも、深遠な悟りの世界を垣間見させてくれる。 だがそれは、あくまで言葉をつかって描き出した、みんながシェアできるイメージでしかないのかもしれない。個々人が抱える苦しみを前にして、仏教には理屈で諭すこと以上に、できることが充分にあるはず。宗教として寄り添ってほしいと考えている人が世界中にいることからも、それは明らかだ。 本書は、あくまで宗教者である藤田さんによる、仏教の新しい手引書のように思えた。読み終わってみて、仏伝が何かあったとき戻ってきたい場所になった。実際に何度も戻ってきたときに、それぞれの「身読」が進んでいくのだろう。それだけのヒントが、この本にはたくさん詰まっている。 藤田さんは〈修行〉は終わることがない。この試みがどう続いていくのか、楽しみがまた増えた気分。
  • 2026年4月10日
    ゆきどけ産声翻訳機
    まえがきにある問いかけに唸った。 「知っている川柳を、なんでもいいので一句、言ってみてください」 「知っている川柳人の名前を教えてください」 うーむ、なんにも思い浮かばない。川柳人なんて言葉に至っては初めて聞いた。 こうなれば認めざるを得ない。きっと私は川柳について、俳句や短歌に比べて、誰にでもできるお遊び程度のものとしか考えていなかったのだと思う。 だから川柳という表現を、軽いジョークを超えた文芸として、真剣に競い合う場があることすら想像していなかった。そんな私であるから、現代川柳は充分に衝撃的だった。 面白い。意味が分からないのに、いや、だからこそ心がくすぐられてしまう。暮田さんのセレクトが抜群なのだと思うが、どんどんのめり込んでしまった。 自由律俳句との違いもよく分からないが、おそらくそんな区分はどうでも良くて、でも印象としては、現代川柳の方がぶっ飛んで狂っているように見える。それが奇を衒って感じさせないところが、また良い。どこか生真面目な真剣さ(あくまでイメージだが、自由律俳句の方が斜に構えた態度を感じる)がある。あまりの正直さが、結果的にズレを生じさせてしまい、後からおかしみがやって来ている感じがする。 残念ながら、現代川柳に触れられる書籍はあまり刊行されていないと、あとがきにあった。でも、こんなに面白ければブームが起こっても不思議じゃない。自然なタイミングで、現代川柳とまた出会るといいな。
  • 2026年4月10日
    何も共有していない者たちの共同体
    何も共有していない者たちの共同体
    他者との共有を研ぎ澄ました先にある、目指すべき共同体があると考えたとき、それに並行した、もうひとつ別の共同体の姿を探っていこう。本書の試みを、私はこんな風に解釈して読み進めていた。 でも難解で、なかなか頭に入ってこない。代わりにずっと頭の中に浮かんでいたのは、同時に読み進めていた「現代川柳」のことだった。 現代川柳は、ぱっと見、意味がよく分からない。でも心に何かが引っ掛かるので、読み返して自分なりの解釈を試みる。ここに現れる作者と読者のコミニュケーションは、おそらく作品の真意を「共有」できているかは関係ない。何かを伝えたかったんだろうなという数文字の羅列と、そこに寄り添ってみたいと思う気持ちだけがある。 「共有」を優先するなら、思いを多少犠牲にすることで、言葉はその役割を充分に担えるだろう。でも、あえて川柳を書いた。なぜかという理由を、言葉で説明することはできない。言葉の限界を超えたところにこそ、きっと理由はあるのだから。 もうひとつの共同体が立ち上がる契機は、あらゆる場所に潜んでいるのかもしれない。そう思える心の土壌を、もっと豊かに育てていければ嬉しい。
  • 2026年4月6日
    存在論入門
    存在論入門
    言葉だけは知っている、という類の哲学用語をやさしく噛み砕いて教えてくれる。これぞ入門書と言える好著。 いいなと思うのは、なんとなく分かったような気にさせつつも、頭の中に適度な疑問符を植え付けていくこと。難解な思考を丁寧に解きほぐしつつ、その表面を見通しやすくするだけでなく、深淵を覗き込める入口に立たせてくれる。読み終わった勢いそのまま、手当たり次第に門を開きたくなってしまう。 西田哲学については、いろんな所で引用されているけれど、なんとなくの雰囲気で読み飛ばしていた。今回読んでいて特に思い出したのは、藤田一照さんの坐禅の話(ただの勘違いかもしれないが)。せっかく「絶対矛盾的自己同一」にすこしだけ近づけたこのタイミングで、読み返したくなったけれど、どの本のどんな箇所だったっけか。
  • 2026年3月25日
    献灯使
    献灯使
    想像に想像を重ねたようなフィクションに、ここまでの現実感が宿るのはなぜだろう。いわゆるリアリティとは違う。いつの間にか多和田さんの夢の中へと連れていかれ、でも、その地面は自分の足でしっかり踏み締めているような気分。 唐突な終わり方も夢みたい。起きてすぐ思い返そうとするんだけれど、物語はうまく繋がっていってくれなくて、焦る私の心に残るのは底知れぬ興奮のみ。これもまた夢に似ている。 タイトルの作品は、海外の文学賞を受賞しているという。この日本語遊びの面白さも、そこで得られる興奮を損なうことなく、苦労して翻訳されたのだろう。素晴らしい!!
  • 2026年3月25日
    大工日記
    大工日記
    まるで呼吸だ、と思った。頭に浮かんだ言葉がそのまま、吸って吐く息に乗っかって流れ出てくる。無駄な漢字変換なんていらない。だって次の息を待ってられないから。このリズムは生きている証そのもの。そう思えるくらい、中村さんの文章は読み手の私に生々しく響いてきた。 だからだろうか。読んでいると自然と呼吸が合ってくる(ような気がする)。そして、中村さんと同じように、怒ったり悲しんだり、笑ったりしてしまう。いつもの自分とは違う、コントロールの外にある感情の表れかたが、とても新鮮で心地良い。 この感じが、きっと私には足りていないんだ。言葉がものすごい勢いでドアをノックしてくる。鈍感な私も気づけるくらいのボリュームで。 ちょうど今、職場の隣でマンション建設が進んでいる。職人さんの声や作業している音も聞こえてくるのだが、自然に湧き起こってくるリスペクトが、素直に嬉しい。
  • 2026年3月9日
    体の居場所をつくる
    体が自分のものだなんて、よくそんなことを、当たり前に考えていたものだと思う。本書に登場する方々の様々な困難と体に対する工夫は、それぞれに固有のものである。ただ伊藤さんの解釈を通して見てみると、自分に引き寄せて考えられるヒントみたいに思えてくるから不思議だ。 「原因は過去に向かうけれど、回復は未来に開かれている。(中略)原因を特定するとは、「自分が今こうであるのは〇〇だからだ」という、自己にまつわるストーリーを描く作業です。これに対して回復は、こうだと思った自己像の外側で、「そうあってもいい」と思える意外な自分と遭遇することによって成立します」 回復でなくても、生きていくとは確かに、この連続である。自省する。私ははたして、「そうあってもいい」という心持ちで歩みを進められているだろうか。 ALSを発症している新井さんの考え方は、とくに印象に残った。 「外からの力に対してそれを受ける度合いの大きさとしての「入力度合い」もまた、体の力と言うことができるのではないか」 体というものを、自分と、その外にある他人や環境との橋渡しをする存在として考えるとき、「入力度合い」を高めることで広がっていく可能性には、はっと胸を打つものがある。 たとえ、その橋渡しが体ではなかったとしても、同じようなことは多くの場面で発生し得る気がする。「そうあってもいい」可能性は案外、そこかしこに広がっているのかもしれない。
  • 2026年3月9日
    批判的日常美学について
    本当にそうなのだろうか。読みながらずっと考えていた。各章で投げかけられる問いは、いままで考えたこともなかったものばかりだったからだ。 難波さんの文章は一文一文が明解である。だから読むたびに頷かされてしまう。すると、いつの間にか最初にあった抵抗感は和らぎ、たしかにそうかもしれない、と思い始める。 のだが、納得する一歩手前でやはり、ちょっと待った!と思い直す。そして、もう一度スタート地点に戻ってみるのだが、目の前に広がる風景は先ほどとは全く違ったものに変わってしまっているのである。 なるほど。この経験こそ「美しい」と言える価値なのかもしれない。自らの足で立って考えを深めるための、素晴らしい散歩に誘ってもらえた気分。
  • 2026年3月7日
    百年の散歩(新潮文庫)
    高校生に勧められた。多和田葉子さんの文章が国語のテストに出たのだが、あまりに面白すぎて問題を解くどころではなかった、と。私は読んだことがなかったので手に取ると、なるほどこれは魅力的すぎる。 舞台はベルリン。「わたし」を通して描かれる街の風景は、思い浮かぶ言葉の端っこを広げていくような連想が繰り返され、イメージは多層的に折り重なっていく。 妄想と言えば妄想。でも、そう簡単には切って捨てられない、ほんとうの姿が描かれているようにも感じてくる。「わたし」という一人の人間の頭の中を軽く飛び越えて、気がつけば都市そのものが語り始めているようにさえ思えてくる。 それにしてもテストとは…。どんな設問だったにせよ、答えなど私には導き出せそうもない。
  • 2026年3月2日
    歌よみに与ふる書
    歌よみに与ふる書
    激しい。子規の批評が的を得ているのかは分からない。でも鋭いことだけは分かる。スパッと短い言葉で言い切られるだけに、その指摘には有無を言わせぬ説得力がある。 訳者の永井さんが断っているように、たしかに原文のニュアンスはもうすこし丁寧なのかもしれない。でも込められた熱量は、この訳でなければ伝わってこないだろう。 なによりも感じたのは「美」への執着だ。 俳句でも和歌でも、表現方法は何だって構わない。伝統におもねている暇なんてない。自らのうちに芽生えた感動だけに忠実であれ。そして、その感動を表現するテクニックは、確かにここにあるから。と、そのことだけをシンプルに言い続けられているように思えた。 「子規の言葉が直撃する歌は今でも、というか今こそたくさんある気がした」と、永井さんはいう。べつに歌人でない私にも、直撃するものはたくさんあった。「人間は別に進歩しない。そして子規はいつでもそこにいる」 時代を超えた出会いを可能にしてくれた、素晴らしい現代語訳に感謝したい。
  • 2026年2月15日
    精選日本随筆選集 歓喜
    随筆が流行っているという。ほかにも、近ごろは日記もよく目にするようになった。一人称で日々を描くのが、というより、それを読みたいと思う人が増えているということだろう。 こうやって名随筆を集めてもらったおかげで、鈍い私もようやく気がつく。なるほど、面白い。とくにジャンルにこだわって読書してこなかったけれど、意識して手に取ってみてもいいのかもしれない。とくに薄田泣菫。いつかまた出会えますように。 宮崎さんの作品も、随筆だとは意識してなかったけれど、たしかに印象に残ってるもんなあ。この一人称の日常というのが、いまの私にもフィットしていたということを、図らずもうまく流行りに乗れていたという意味で、こそばゆくもちょっと誇らしい。
  • 2026年2月15日
    タタール人の砂漠
    タタール人の砂漠
    思い当たる節がありすぎる。でもその共感はけっして、こんなコトあるよなあ、といった体験に基づくものではない。 主人公ドローゴの置かれているのは、現実ではちょっと考えにくいシチュエーションである。なのに、あまりに自然に共感してしまうのは、ドローゴがこの環境下で選んでしまう、後ろ向きな決断の一つひとつが、自分もたしかにそんな風にしちゃうかも、と素直に思えてしまうからだ。 理屈では説明できない不可思議な心の動き。誰とも分かち合ったことがないのに、見事に言い当ててくる。これが、とくに大きな展開もないストーリーを通じてなのだから、ただただ驚く。 でも、時の遁走が止まった後の心象は、まだ私の感覚には遠いものだった。いつか分かるのかな。きっと分かるんだろうな。そんな予感を抱いてしまうほどに、私にとっては説得力を持つ小説だった。
  • 2026年2月15日
    わたしもナグネだから
    韓国の人々の生きざまを介することで、見知った近現代史がより立体的に立ち上がってくる感覚がした。日本人として学校で学んだ知識だけでは、いかに世界を捉えるのに不充分かを思い知らされる。 北朝鮮、ロシア、中国、そして米国。隣国であるだけに取りまく環境は日本と似ているが、それぞれの国との関わり具合は随分と違う。もちろん地理的要因もあるだろう。でも決定的に異なるのは、やむを得ず移動せざるを得なかった人々の数なのかもしれない。そんな同胞の存在が、国境という前提を無意識に拡張していく。 コロナへの対応の違いにも、はっとさせられる。水際対策を加速させた我が国に対して、韓国は「国境を閉じることはしなかった。日本以上に厳しい監視と行動規制をしながらも、人々の移動は止めない。それが韓国政府のポリシーであり、背景には「誇りある七〇〇万人海外同胞」の存在がある」と、伊東さんは指摘している。 そしてこの感覚は、いま現在と地続きなのだ。登場する人物たちの魅力的な語りに、私自身の足元を照らし出してもらえた気がしている。
  • 2026年2月3日
    斜め論
    斜め論
    何か問題が生じたとき、その原因を探り当てて除去する。また動き出してみて上手くいかなかったら、違う原因を探し出して除去。そしてまたすぐ動く。繰り返せば必ず未来は開ける。怖がるな、スピードを落とすな、動き続けろ…。 べつに医療やケアの現場の話ではないけれども、一般的にそんな価値観ってある気がする。 でも、原因に対処する動きはなにも一つだけってわけでもない。仲間と話し合ったりしながらいろいろと試してるうちに、ひょんなことから問題そのものが雲散霧消し、なのにまた新たに問題が見つかって、顔を見合わせ笑っちゃうこともあるんじゃなかろうか。 この本を読みながら、そんなことを考えていた。そしてこうも思った。でもやっぱり、どっちかだけじゃなくてバランスなんだよな。 水平、垂直、そして斜め。空間的に捉えれば、ほかの場面でも面白く捉え直すことができるかもしれない。そのための参考になる考え方が、この本からは多く得られた気がしている。 たとえばオープンダイアローグの中で、弱毒化した垂直的関係を導入するための「リフレクティング」という工夫、さらに補論Ⅱのアディクションアプローチとハームリダクションの関係などは、とても興味深かった。
  • 2026年2月2日
    シリアの家族
    シリアの家族
    戦場は思ったよりも日常で、日常は思ったより戦場である。戦禍を描く作品に触れるとき、よくこんなことを思う。考えれば当たり前のこと。どんな環境に置かれても生活は続くのだから。戦場から遠く離れた場所に暮らしているとつい忘れがちなこの当たり前を、小松さんの文章は手触り感のある現実として思い出させてくれる。 アサド政権下の緊迫した空気感を味わった直後に、「おいおい、ラードワーン(小松さんのパートナー)」と頭を抱えたくなる家族の騒動が起こったり。どちらも切羽詰まった問題であり、いや、そもそも分けて考えられるものでもなく、一人の人間が直面しているたった一つの日常であることを教えてくれる。 もちろんシリアの貴重な記録であることは間違いない。ただ心に残るのは人間のことなのだ。前作の『人間の土地へ』というタイトルがまさに、今作にもずっと響き続けている。
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