糸太
@itota-tboyt5
- 2026年7月10日
フレドリック・ブラウンSF短編全集1 未来世界から来た男フレドリック・ブラウン,安原和見読み終わった冒頭の何行かで物語の世界に引き込まれてしまう。短さ勝負のショートショートならではなのかもしれないが、この強引に手を引っ張って連れてかれる感じがとても心地よい。なにせ初っ端から状況がかなり切羽詰まっているんだ。それだけで笑ってしまう。 時代もあるのだろう。オチはすこし首を傾げてしまう話も、あるにはある。けれども、最後にそこへ持っていく話の流れは無駄なくスムーズで、思わず拍手したくなるほど見事だ。 この短編集、第二弾もあったような。チェックしてみようかな。 - 2026年7月10日
読み終わったAIの登場によって、人々の仕事が奪われるのではと危惧されている。ひと昔前までは、機械に労働させて人間は指示を与えるだけ、といったイメージが共有されていたように思う。しかし昨今の議論は逆である。クリエイティブな労働をAIが担い、出された答えに人間は従う。信じたくはないが、技術の進歩を見るにつけ、そんな未来は現実味を帯びつつあるようにも思える。 最新のテクノロジーを使った表現の分野で第一線を走る橋本さんは、人間にしか担えない役割としての「判断力」に注目している。 本書はべつにAI社会に対する未来図を描こうとしているわけではない。橋本さんのこれまでの歩みをたどりながら、事業を進める上での「判断」という機能を解きほぐし、その大切さを共有しようとしている。 よく考えれば、判断が正しかったかどうかは、やってみた後でなければ分からない。だとすれば「判断力」は、後出しジャンケンではないけれど、鍛えれば成功の確率が上がるものではなく、成功したのは優れた「判断力」のおかげだった、と振り返ることしかできないスキルなのかもしれない。 いや、果たしてそうだろうか?橋本さんは、この本は一つの答えを示そうとするものではない、と何度も釘を刺す。 判断力があろうとなかろうと、人間は色んな場面で判断を繰り返して生きている。そしていざ振り返ってみれば、失敗とまでは言わなくても、「ちょっと間違ったかも」と反省することの方が多いのではないだろうか。 本を読み終えて思った。もしかしたら「判断」というのは、間違えることの方が肝なのかもしれない。 なんらかの判断をすれば、人間は結構な確率で間違う。それを、あってはならなかったミスと捉えるのではなく、次にどこへ向かうかの道標と考える。つまり「判断力」とは、判断をするその瞬間だけでなく、反省も含めたすこし長いスパンで捉えるべき、歩みを進めていくための実用的なスキルなのかもしれない。 「判断力」と似た言葉に「決断力」がある。誰かのスキルとして評価する場合には、「決断力」を使う方が一般的だろう。にも関わらず、橋本さんが「判断力」の方を重視しているのは、この時間的な射程の違いこそではないだろうか。 間違うのは人間ゆえである。AIには担えない役割を考えるとき、未来の成功も失敗も関係なく、ただ「判断」することを楽しもうとする態度は、これからの社会を描く大きなヒントになるのかもしれない。 - 2026年7月1日
太陽諸島多和田葉子読み終わった冒頭から船は予想外の方向へ向かった。目的地は極東ではなかったか。Hirukoたちが進んだのはバルト海。各国の港町に立ち寄りながら、ゆっくりと内海を回る。 理由は本人たちにも分かっていない。考えようとするたびに誰かに声をかけられ、会話の応酬のなかに思考が埋もれていってしまう。 それは読み手も同じ。でも、しばらく物語に身を委ねていると、戸惑いは徐々に和らいでいく。 そうか。「境界」を疑い続ける旅であるならば、いまさら祖国を探しに行ってどうする。たどり着いた先に懐かしい島影があろうとなかろうと、それは「境界」をいま一度確かめたことにしかならないではないか。 逡巡する。Hirukoたちの船旅も一直線には進まない。寄港地はそれぞれ国が違う。上陸のたびに触れる歴史や文化も、「境界」を強く浮かび上がらせる。 それだけではない。第三巻に入ってから、登場人物らはお互いの距離も意識し始めたように思える。Hirukoとクヌートは近づき、ノラはナヌークへの想いを新たにし、逆にナヌークはそこから逃がれようともがく。みんなから煙たがられるSusanooも、その態度をさらに荒ぶらせ、否が応にも「境界」を際立たせる。 かと言って、周囲からにじり寄ってくる「境界」をそのまま受け入れることはできそうもない。「境界」が揺らぎ続けている実感は、間違いなくあるのだから。 Hirukoたちは事あるごとに甲板へ出る。「境界」のない海と空に身を晒すことで、存在を慰めようとしているのかもしれない。 何にも縛られず、カモメは自由に飛んでいく。甲板から投げつけた空瓶は、カモメには当たらず海に落ちて沈んでいく。誰のものでもなくなったゴミは、太平洋のどこかに堆積して新しい島をつくるかもしれない。 すべてが繋がっているようでバラバラで、でもやっぱりよく見たら、大きなひとつであるような世界。ここを矛盾なく生きることは、はたして可能なのだろうか。 家になりたい、とHirukoは言った。これまでの船旅とは違い、自分は乗客の一人であることをやめて船そのものになろう、という提案にも感じる。 宇宙から見たら地球も船みたいなものだ。話がぐるぐると回り続ける。自らの尾を噛んだウロボロスのように、ミクロがマクロになり、マクロはミクロに還っていく。 Hirukoの旅は終わらない。読み手には、想像力の翼だけが残される。 - 2026年6月27日
星に仄めかされて (講談社文庫)多和田葉子読み終わったsusanooがいよいよ口を開き、抽象度のギアがぐんと一段階上がった。長編ならではの大がかりな展開に胸が躍る。 Hirukoの渇望する「共感」に導かれるように、登場人物たちの旅は続いていた。でも、この旅に同伴する者たちの目的はいったい何なのだろう。 自身の生活は徐々に犠牲にし始めている。でも、誰もそんなこと気にしていない。何かに突き動かされるような情動は、単純に興味と言ってしまえるほど軽いものでもない。 それぞれが問いかけ始める。無意識に囚われていた「境界」を確認して、自らの世界を改めて構築しようと試みる。が、記憶のなかに、いや思考力や想像力といった脳内の世界のなかには、腑に落ちる地平を見出すことができない。 象徴的なのはロンドだ。手を繋ぎ、輪になって躍る。ここには「共感」を超えた、身体同士の「連帯」がある。 これからは船旅がはじまるのだろうか。狭い船室で共に時間を過ごしながら、ひとつの生命体としての可能性を見つけるのかもしれない。 振り落とされないよう、船にしがみついていなければ。まずはケープタウン。楽しもう! - 2026年6月24日
地球にちりばめられて (講談社文庫)多和田葉子読み終わった留学中に祖国を失ってしまったHirukoを中心に動き出す物語。極東の島国は自然災害で沈没したようにも仄めかされるが、はっきりとしたことは分からない。遠い昔の人々の記憶から消え去ろうとしている国とも読めるが、そうするとHirukoという一人の人間に起こった出来事であるはずがない。 時空が歪む。だから読みながら焦点を合わせようと目を細める。すると、うっすらと見え始める景色がある。失ったのは国そのものではなく、自分自身が拠って立つ根拠ではなかろうか。 つまりアイデンティティ。国籍はもとより性別や家族など、物語の中ではさまざまな境界が揺らいでいる。 なかでも大きいのが言葉だ。Hirukoはスカンジナビア地方の言語をつぎはぎした、パンスカという自作の言語を話す。言語が変われば思考そのものも変質する。私は誰だろうと考えるときも、言葉からは離れることはできない。 だからもしも言語がオリジナルになったとき、個人はこれ以上にないほど差別化される。ただ、共感はされない。だからHirukoは、母語話者との会話を求めて旅に出る。この旅路に巻き込まれる登場人物たちもまた、言葉の問題に直面しながら、次第にぼやけていくアイデンティティに心が揺れる。 境界を越えていくのではない。境界そのものが疑わしくなるのだ。これから私たちが迎えるかもしれない、個が解体していく世界を予感させる。 Hirukoの旅は始まったばかり。さあ、二巻目へ急ごう。 - 2026年6月21日
完全に平等で、非常に差別的なキム・ウォニョン,牧野美加読み終わった20世紀の革新的なダンサーたちに言及しながら、西洋で生まれたバレエという権威的な形式が、どのように拡張されてきたかを紐解いていく。 踊る意味を根源的に問い直すうえでは、西洋に対するところの東洋の「未開の野蛮さ」だけではなく、身体的なハンディキャップという健常者には持ち得ない感覚も、無視できない大きな鍵となる。著者のキム・ウォニョンさんも障がいを持つダンサーであり、自身のこれまでの経験も、本の内容をより豊かなものにしてくれている。 たとえばこうある。 『わたしたちは、各自の行為を規律する多様な社会的「振り付け」の中で生きていく』が、『その規則の権威よりもっと大きな正当性の源泉がわたしたちの中にあ』り、『政治や法、芸術における進歩や革新は、時に「いま存在している形式よりもっと賢明で、もっと大きな何かがある」という確信によって推進される』 無意識下の常識を、「社会的振り付け」と呼ぶのは、とても腑に落ちる。自覚のない身体の反応によって引き起こされる差別は確かにある。ここに違和感を持ち、より大きな正しさに身を委ねることで、私たちは世界を更新してきたのかもしれない。 でもキムさんは、『正当性の源泉を「われわれ」だけに限定してはならない』とも釘を刺す。正しさを自ら塗り固めて肥大させていってしまう、現代のエコーチェンバーも頭をよぎる。 『反応とは、ある外部刺激に対し社会的・生物学的に決められたいくつかの標準的な形式を迅速かつ効率的に取捨選択する、わたしたちの戦略的な対応策だ。(中略)その反応に対するわたしたちの反応として可能な選択肢は「相手を攻撃する」または「自分を破壊する」だろう』 これでは望むべき進歩へは向かえない。そこで思考の補助線として引かれるのが、コンタクト・インプロビゼーション(CI)である。 CIとは日本語にすれば接触即興となり、複数人が身体の一部をくっつけたままダンスをするジャンルだという。身体の動きには他人からの制約がかかるが、逆に自分一人では発想されなかった身体運用へと導く可能性にも開かれる。 『より大きな接点で(複数の)他人とつながることで、パターン化された少数の選択肢から抜け出すことが可能になるのだ。これを、反応(react)と区別して対応(response)と呼ぶことにしよう。CIをおこなう二人は「反応」から「対応」へと移っていく』 私なりに解釈すると、この「対応」へと身体が開かれることで、大きな正当性が具体的なダンスとして宿り始めるのだと思う。そうした過程を踏むことこそが、あるダンスを「善い」と感じるときの判断材料にもなろう。 ここには健常者も障がい者もない。もちろん、これから新たに投げ込まれる視点もあるに違いない。でも本書に出会えたことで、ダンスに触れる作法の現在地については、ひとまず確認できた気がしている。 - 2026年6月12日
踊る菩薩たち岡田文弘読み終わった法華経はお経の最高峰にある、というイメージは何となく持っていた。「ほんとうの法華経」という、橋爪さんと植木さんの共著を手に取ったのはいつだったか。内容があまり思い出せないところを見ると、私には手に余る難しさだったのかもしれない。 本書を開き、そんな法華経と久しぶりの再会を果たした。あれ?こんな感じだったっけか。何と言うか、とても親しみやすい。岡田さんが法華経を心から面白いと感じているのが、そのまま読者の私に伝わってくる。 素人が触れても楽しめるような文学的な魅力がありつつ、出家して修行を積んだ方々にも届く教義にも満ち溢れているのが、法華経なのだろう。全てを包み込むような大らかさを感じられたことが、今回の読書の何よりもの収穫だった。 地面が割れて躍り出てくる菩薩たち。想像するだけで心が浮き立って、こちらも音楽を奏でて迎えたくなるではないか。大真面目に、この空気感は本当に素晴らしいと思う。 解釈の仕方が多様なだけに、望ましくない実践へと向かう懸念も、もちろんあるだろう。ただ、自分の今日や明日がどうありたいかを考えたときに、法華経に寄りかかれる安心感は充分に理解できた。 - 2026年6月8日
忘れられない日本人ーー民話を語る人たち小野和子,櫻井拓,清水チナツ,菊池聡太朗読み終わった民話とは、土地に根づいた昔話である。ストーリーの合間からは、現代では失われつつある風習や社会常識などを読み取ることができる。だから学術的な資料としても価値は高い。まるで古代史の謎が隠された遺跡みたいだ。 でも、よく考えてみると、それは民話の一側面に過ぎないのかもしれない。 民話は、語る人とそれを聞く人がいる場があって初めて立ち現れる。つまり、その場その場で生まれては消えていく。消えてしまうのではあるが、聞いた人の体の中には何かが残る。そして、それぞれの人生の中でゆっくりと熟成されて、いずれ聞かせたい人が目の前に現れた時に、また新たな民話としてこの世界に生まれ出てくる。 本書では、民話を語る人に焦点を当てることで、民話がまさに息づいている場を描き出そうとしている。私には、この試みが見事にはまっているように感じた。途中で挿入される民話の、なんと温もりのあることか。いままで読んできたものと全然違う。胸に響く。 もしかしたら民話とは、内容以上に、こうした「語りの場」こそが主役なのかもしれない。語り継ぐという場面は民話以外にも色々あるが、何より大切なのは、場をどうつくっていくかなのかもしれない。 - 2026年6月6日
ちぐはぐな身体(からだ)鷲田清一読み終わった他人からどう見られたいか、それを表現する手段を、私はファッションだと思っていた。おそらく間違ってはいない。けれども、表現する対象である見られたい私というのは、よく考えればかなり曖昧なものである。 自分の身体は直接見えない部分がたくさんある。見えるところだけを頼りに、パッチワークのように繋ぎ合わせて全体をイメージするしかない。この自分でつくりあげた〈像〉こそ、我々が最初に着る服だと、鷲田さんは言う。 もしも服がなければ、自分が自分でいられない大変な事態である。まず自分があってそれを表現するのとは、真逆の捉え方になろう。でも人間がファッションへと突き動かされる情動を考えたとき、自分を確かめざるを得ないという逼迫した状況は、どこか近しく思えるのは確かだ。 日本では無印良品の登場以来、個性的とは異なる極を目指すトレンドが根強く続いている気がする。また、根っこは同じ気がするのだが、毎朝服を選ぶのに脳みそのカロリーを使いたくないから同じTシャツしか着ない、という考え方をポジティブに捉える声もよく聞く。 でも、どんな服を着た自分も、他者の他者としての想像でしか確かめることはできない。だとすれば、自分の身体とぴたりと一致させるような〈像〉を描き出すことは、不可能に近いのではないか。 何かが違うんだよな、という消化不良を抱えたまま、かと言って裸で過ごすわけにもいかないから、私たちは毎日服を着続けている。ファッションは、そんな私たちの乾いた心をあの手この手で絶えず潤し続けてくれているのかもしれない。 - 2026年5月31日
ふだんづかいの人類学 気づきと観察力を磨く19の練習ニコラ・ノヴァ,倉地三奈子読み終わった何かに似ていると思ったら、そうだ。俳句をつくる発想法である。 幾度となく入門書を開いては神妙に頷きつつ、真面目に実践しようとしないから素敵な句など思いついた試しがない。今回の読書を機に…とは思ったけれど、専用のノートをつくるという第一歩さえ、すでに億劫がってる自分がいる。 観察や分析に費やす時間があるなら、いろんな本をもっと読みたい。元も子もないが、これが正直な気持ちで、実際そう過ごしてきたものだから、「気づき」の能力は開花しないままである。 読書からだって新しい発想が生まれそうじゃないか。たしかに、そうかもしれない。でも本書で紹介されるエクササイズと大きく違うのは、知識欲を能動的に働かせているかどうかだと思う。 なにか知りたいことを見つけたら、とにかく手に届く範囲の情報を集めまくる。多ければ多いほどいい。それらが何の役に立つかなんて分からない。むしろ意味なんか見えない方がいい。続けると不意に、今まで考えもしなかった疑問が頭をよぎるかもしれない。こうなれば、しめたものだ。気がつけば探求の道のりは、自分だけのものに変わっている。ただ「見ている」のではなく、オリジナルの「見方」を獲得したとも言えるだろう。ここに来て観察は非常にクリエイティブな作業になる。あくまで他者である著者の探求をたどる読書という行為とは、異なる体験が待っていることだろう。 なにもノートを片手に出かけなくても、いまはスマホのメモ機能だってある。気負わずに言葉集めくらいから始めてみようか。 それにしても本書は、ずいぶん魅力的な本が数多く紹介されている。生物学者デヴィッド・ジョージ・ハスケルの「ミクロの森:1mの原生林が語る生命・進化・地球」はいつか読みたいなあ。ああ、やっぱり観察が縁遠くなりそう。 - 2026年5月17日
社会橋爪大三郎読み終わった複数の体と体をつなぎ、社会をつくる条件とは何か。ゼロ地点から積み上げるような原理的な考察は、かなりエキサイティングなものだった。 社会をつくるのは、「性」「言語」「権力」の三つの作用であるという。「言語」は全ての前提となるのでおいておくとして、私には、いま生きている社会が極端に「権力」の側へ傾きすぎているように思えた。 たとえば様々な場面で、「言語化」が求められることが増えている。これは自分の内側にあるあれこれを「形式」に落とし込むことで、自分以外の体と共有することに他ならない。つまり意味の整合性をはかる「権力」による、人との繋がりをより重視するようになった傾向にも見える。 さらに、飛躍するようだが、この背景には資本主義がべったり張り付いている気もする。 なぜ内側を共有したいのか。きっと、共有こそが「価値」になるからだ。だからいとも簡単に「貨幣」に置き換えらる。貨幣も言葉と同じく形式であるから、さらに遠くにある体の内側をも次々に通り抜けていく。 でも、こうして突っ走ってきた資本主義は、行き詰まりを見せ始めている。もちろん地球環境などの外的な問題もあるが、それぞれの社会が一度は受け入れた「貨幣」のような共通の価値について、体の内側のレベルで違和感があることに気づき始めたようにも感じられる。やっぱりその言葉の意味は私たちの感覚には置き換えられない、と感じることは自然にあることだろう。無意識下にあった「宗教」の違いも無視できなくなる。そうなれば「権力」の地盤は大きく揺れる。 だから、みんなが改めて考える。そもそも私たちは何で繋がっているのだっけ? ゴリラの研究で有名な山極さんが言っていた「社会脳」の話を思い出す。人間の脳は社会集団のなかで生活するために大きくなった。顔や性格を覚えたりする複雑な処理が必要なためだが、その許容範囲は大体150人くらいだという。 たとえばこれを、直接声が届くくらいの距離と考えたらどうだろう。文字が生まれる前の言葉、つまり誰々の体から発せられた声という、体から体へと直接働きかける作用による繋がりこそ、私たちホモサピエンスがつくれる社会の規模と考えられなくもない。 もちろん「権力」による繋がりによって、私たちの生活水準が向上して来たことは疑いがない。でも、これからの社会を夢見るにあたって、それに加えたオルタナティブな作用を模索するのも楽しそうである。 先日読んだアメリカのスモールタウンの話も思い出した。毎週金曜日の夜、コミュニティのメンバーが近所の公園に楽器を持ち寄って、自分たちのルーツであるアイリッシュ音楽を演奏する。車座になって音楽を楽しむ人たちは、おそらく「言語」にならない何かを、肌と肌で確かめ合っているのかもしれない。 こうした人とのつながり、社会のあり方は、前近代的なものとして忘れ去られようとしている。だが、それを未来へと希望として捉え直した時、現代のテクノロジーを利用した新たな工夫も考えられよう。ここから生まれる幸せは、私たちの生活をより豊かにする可能性だってある。 橋爪さんは言う。「生まれてからの出来事の積み重ねを考えてみよう。家族、学校、就職、結婚…。そうでなくてもよかったが、そうであるしかなかった出来事の積み重ね。自分のあり方が偶然に左右されたからと言って、いまこの自分にコミットしないでいいわけがあろうか。(中略)近代も同じではないだろうか。自分が生きるその社会なのだから」 現状を解体しようと試みるのは、未来への夢想に手を貸して、責任を持って実際の一歩を踏み出すためだ。これはきっと知の巨人による高らかな鬨の声。そう思ったら、なんだか胸が熱くなった。 - 2026年5月15日
読み終わった自然災害などを前にした無力感は、大なり小なり誰にも経験があることだろう。でもその相手が人間であったら…。無力感はより大きく、より深くなるに違いない。 なぜ、分かってくれないんだ。同じ人間であれば通じるはずの当たり前が、いくら投げかけても届いてくれない。何度も何度も何度も、あの手この手で辛抱強く繰り返しているのに、返ってくるのは見当違いの暴力だけ。 もしかしたら言葉は通じないのかもしれない。「非暴力による民主化」という正しさは、「暴力による恐怖」によって徐々に蝕まれていく。それでも心に残る「未来への希望」まで脅かされたとき、正しさはこれまでと同じ顔ではいられなくなってしまう。 80年間、戦争をしてこなかった日本はたしかに素晴らしい。でもこうした多面的な正しさに、私たちは正面から向き合えているだろうか。 西方さんは言う。 「ここにきて気がついた。戦争反対、というのは確固たる信念ではなく、ただの思考停止だった。(中略)だけど今は、戸惑いながらも、思う。正しい戦争は、あるのかもしれない」 「武力闘争を美化するつもりは決してない。だが、武器を手にしてまで希望ある未来を生み出そうとするミャンマーの人々の思いに、私は共感する」 これはもちろん、ただ戦闘に賛成しているわけではない。完全に信頼を失いつつも、相手が同じ人間であることは、変わりない事実なのだから。 戦争は嫌だ。ただ、皆が反対すれば戦争は起こるはずない、などと考えるのはあまりに楽観的にすぎるのかもしれない。ミャンマーで続いている惨状は、83%もの民意が一方的な暴力によって覆された結果だ。圧倒的多数の想いや行動があってもなお、正反対の状況へと流されていってしまった現実を前にして、心がかき乱され続けている。 - 2026年5月5日
犬婿入り (講談社文庫)多和田葉子読み終わったうっかり母国語を見失い、はたと辺りを見渡したら、世界がこんな風に動いていたので、そのままに記録してみました。多和田さんの作品に、私はいつも、そんな雰囲気を感じる。 言葉とは世界を切り分けるものである、と言っていたのはソシュールだったか。もしも、その切り分けていた仕切り板がフニャフニャに溶けてしまったりすれば、目の前に現れるのは世界そのものと言えるだろう。 とてつもなく面白い現象が繰り広げられているのに、言葉がないので記述できない。そこで忘れかけた母国語と新しく習得した外国語といった、不確かな道具をなんとか駆使して表現を試みる。 そんな稀代のアーティストによる作品に、人々は酔いしれる。でも、興奮しつつページをめくっていくうちに、読み手は母国語の使い勝手の悪さにも気づかされ始める。いままで疑ったことすらなかったのに…。頼りにしていた地面がひび割れて、するする崖下へと滑り落ちていく。必死に岩壁にしがみつこうとするも、手に持っている杭やロープの、なんと脆く、心許ないことか。 こうなれば、安全な場所からただ面白がっているだけでは済まされない。谷底にまで降りていき、前触れもなくやって来た「太郎」受け入れ、ときには「能面」を被って外に出てみたりする。そして、思うかもしれない。ありのままの世界では「嘘」なんか要らないじゃないか、と。 芥川賞ということは新人の時の作品なのか。多和田さんは新作長編も出ているようだけど、やっぱり昔の作品から読んでいこうかな。 - 2026年4月26日
語るに足る、ささやかな人生駒沢敏器読み終わった似ているけど何かが違う…ような気がするのだが、それは一体なんなのだろう。 本書の舞台であるアメリカのスモールタウンを取り巻く状況は、数十年の差こそあれ、現在の日本にも共通している。国道を迂回するバイパス沿いには、大型のチェーン店が次々と進出し、日本中どこも同じような風景に変えてしまっている。若者は土地を離れて高齢化が進み、地場産業には明るい未来が見通せず、村落共同体は弱体化の一途をたどる。 これに抗う動きも似ている。地方への移住を選択する若者は増えており、都会生活にはない人々の強い繋がりに、様々な社会問題を解決する糸口を見出したりしている。昔からの住人も自分たちの土地を見つめ直し、たとえば伝統行事の継承などを通じて、誇りを次世代へ繋げていこうとしているケースも多々見られる。 どの話もそのままスモールタウンに置き換えられそうだ。では、何が違っているというのか。まず初めに思いつくのは、目の前に広がる景色の雄大さである。 本を読んでの想像に過ぎないが、スケールの大きさたるや、日本ではとても体験し得ないものなのだろう。しかもこの「アメリカの大地というのは、基本的に不気味だ。うつすらと、しかし確実に気味悪い」と、著者の駒沢さんは感じ入っている。 あまりの大きさに気味が悪い感覚は、ポジティブにもネガティブにも働くに違いない。ふと、人智を超えた神のような存在が思い浮かぶ。望もうが望むまいが、大きすぎる景色に抱かれたスモールタウンは、あまねくこの存在の下にある。そして、この環境こそが、本書に登場する人々の、地に足がついた「自己肯定感」に直結するような気もするのだ。 すると、スモールタウンの住民がそれぞれに担っている「役割」も、すこし違って見えてくる。つまり、神のような大きな存在から与えられた「役割」だからこそ、揺るぎない自信を持ち得て暮らせているように思えてくる。 これは日本の場合とは少しニュアンスが違う。もちろん人口の少ない村落共同体で、与えられた「役割」によって責任が生じ、生きがいを感じることはあるだろう。自分の仕事が目に見える誰かのためになっていたら嬉しい。「ここにいていいんだ」という想いはより強く持てる。 でも、その「役割」を与えたのはあくまで共同体である。自分と同じ地平に立つ人間である。相対するのが山や海といった自然だとしても、それらはまだ応答可能な距離感の中にある。たとえ災害などの猛威に一方的に見舞われても、「何でだよ」と呟けるくらいの関係性はある気がする。 アメリカのスモールタウンと圧倒的に異なるのは、この点ではないか。有無を言わせぬほどの大いなる存在を、誰もが大前提として受け入れていること。あまりのスケールギャップを前にして、誰もが肩の力を抜いてフラットな人間関係を構築しているようにも見える。 もちろん単純に比較できる話ではないだろう。でも、こんな風に考えを巡らせてみたことで、今まで出会ったことのないアメリカの表情が垣間見えたようにも感じるのだ。 近ごろ、アメリカの負の側面ばかりを見せられ続けている。このタイミングで本書を手に取れたのは、本当に運が良かった。復刊に感謝!! - 2026年4月25日
手の言語学松田俊介読み終わった数年前からフラを習っている。先生からはハンドモーションをよく注意されるのだが、何度言われても直らない。フラの手の動きは、よく手話に例えられる。花、海、風…。自分ではやっているつもりでも、微妙に何かが違っているのだろう。なかなか褒めてはもらえない。 本書を読んでいて気付いたことがある。なるほど、フラのハンドモーションもまさしく「シネクドキ」である。 手話は媒体が体であるがために、話し手自らの判断で情報を補う場面が多々あるという。たとえば「どうやって」とか「どんな風に」という部分。つまり、上位概念を伝えようとするときに、相手に違和感を持たれない下位概念を自然と選んで使っているというのだ。 当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。むしろ日本語の方が不親切にすぎる、と言えなくもない。ただ私が膝を打ったのは、コミュニケーションのルールが違うことに今更ながら気がつけたからだ。 シネクドキが前提の世界では、言っていることを理解するための最低条件として聞き手はその情報を求めるだろう。一方で日本語話者の感覚では、受け手の想像力に委ねることを無自覚に求めている部分がないだろうか。だから、たとえば私がフラで風を伝えようとしても、場のルールが変わっていることに自覚的でなければ、「いやいや、それじゃ分かんないよ」となるのは当然かもしれない。 分かりきったことをくどくど書いているようではあるが、私には大きな気づきであった。私のフラの先生は「表現が甘い」とか高いレベルの指摘をしているのではなく、単純に「なに言ってるか全然分かんないんだけど」と首を傾げているだけなのだ。 異なる世界を覗き見るのは楽しい。幸い私にはフラが身近にある。遠くから見るだけでなく、もう一歩踏み込めそうなのは、何より嬉しい。 - 2026年4月12日
仏伝身読藤田一照読み終わった人生で困難なことに出会ったとき、たとえばブッタのエピソードが頭に浮かんだとする。何となく記憶にあったその話を、自分の置かれている状況に照らしてみると、苦しみが違って見えることもあるに違いない。 宗教的な振る舞いとは、まさにこれだろう。しかし仏教に関しては、世界三大宗教であるにもかかわらず、このプロセスを嫌う傾向があるように思える。「仏教は宗教ではなく哲学である」といった文脈に、この空気はとくに色濃く漂っている。 藤田一照さんの禅の話は、とてもロジカルで分かりやすい。東西の哲学の知見や身体運用の理屈などもも取り入れながら、ひとつずつ積み上げるように解説してくれる。アメリカの道場で異文化の方々に坐禅を教えていた経験も大きいのだろう。私のような仏教から遠い人間にも、深遠な悟りの世界を垣間見させてくれる。 だがそれは、あくまで言葉をつかって描き出した、みんながシェアできるイメージでしかないのかもしれない。個々人が抱える苦しみを前にして、仏教には理屈で諭すこと以上に、できることが充分にあるはず。宗教として寄り添ってほしいと考えている人が世界中にいることからも、それは明らかだ。 本書は、あくまで宗教者である藤田さんによる、仏教の新しい手引書のように思えた。読み終わってみて、仏伝が何かあったとき戻ってきたい場所になった。実際に何度も戻ってきたときに、それぞれの「身読」が進んでいくのだろう。それだけのヒントが、この本にはたくさん詰まっている。 藤田さんは〈修行〉は終わることがない。この試みがどう続いていくのか、楽しみがまた増えた気分。 - 2026年4月10日
ゆきどけ産声翻訳機暮田真名読み終わったまえがきにある問いかけに唸った。 「知っている川柳を、なんでもいいので一句、言ってみてください」 「知っている川柳人の名前を教えてください」 うーむ、なんにも思い浮かばない。川柳人なんて言葉に至っては初めて聞いた。 こうなれば認めざるを得ない。きっと私は川柳について、俳句や短歌に比べて、誰にでもできるお遊び程度のものとしか考えていなかったのだと思う。 だから川柳という表現を、軽いジョークを超えた文芸として、真剣に競い合う場があることすら想像していなかった。そんな私であるから、現代川柳は充分に衝撃的だった。 面白い。意味が分からないのに、いや、だからこそ心がくすぐられてしまう。暮田さんのセレクトが抜群なのだと思うが、どんどんのめり込んでしまった。 自由律俳句との違いもよく分からないが、おそらくそんな区分はどうでも良くて、でも印象としては、現代川柳の方がぶっ飛んで狂っているように見える。それが奇を衒って感じさせないところが、また良い。どこか生真面目な真剣さ(あくまでイメージだが、自由律俳句の方が斜に構えた態度を感じる)がある。あまりの正直さが、結果的にズレを生じさせてしまい、後からおかしみがやって来ている感じがする。 残念ながら、現代川柳に触れられる書籍はあまり刊行されていないと、あとがきにあった。でも、こんなに面白ければブームが起こっても不思議じゃない。自然なタイミングで、現代川柳とまた出会るといいな。 - 2026年4月10日
何も共有していない者たちの共同体アルフォンソ・リンギス,堀田義太郎,田崎英明,野谷啓二他者との共有を研ぎ澄ました先にある、目指すべき共同体があると考えたとき、それに並行した、もうひとつ別の共同体の姿を探っていこう。本書の試みを、私はこんな風に解釈して読み進めていた。 でも難解で、なかなか頭に入ってこない。代わりにずっと頭の中に浮かんでいたのは、同時に読み進めていた「現代川柳」のことだった。 現代川柳は、ぱっと見、意味がよく分からない。でも心に何かが引っ掛かるので、読み返して自分なりの解釈を試みる。ここに現れる作者と読者のコミニュケーションは、おそらく作品の真意を「共有」できているかは関係ない。何かを伝えたかったんだろうなという数文字の羅列と、そこに寄り添ってみたいと思う気持ちだけがある。 「共有」を優先するなら、思いを多少犠牲にすることで、言葉はその役割を充分に担えるだろう。でも、あえて川柳を書いた。なぜかという理由を、言葉で説明することはできない。言葉の限界を超えたところにこそ、きっと理由はあるのだから。 もうひとつの共同体が立ち上がる契機は、あらゆる場所に潜んでいるのかもしれない。そう思える心の土壌を、もっと豊かに育てていければ嬉しい。 - 2026年4月6日
存在論入門中村昇,中村昇(哲学)読み終わった言葉だけは知っている、という類の哲学用語をやさしく噛み砕いて教えてくれる。これぞ入門書と言える好著。 いいなと思うのは、なんとなく分かったような気にさせつつも、頭の中に適度な疑問符を植え付けていくこと。難解な思考を丁寧に解きほぐしつつ、その表面を見通しやすくするだけでなく、深淵を覗き込める入口に立たせてくれる。読み終わった勢いそのまま、手当たり次第に門を開きたくなってしまう。 西田哲学については、いろんな所で引用されているけれど、なんとなくの雰囲気で読み飛ばしていた。今回読んでいて特に思い出したのは、藤田一照さんの坐禅の話(ただの勘違いかもしれないが)。せっかく「絶対矛盾的自己同一」にすこしだけ近づけたこのタイミングで、読み返したくなったけれど、どの本のどんな箇所だったっけか。 - 2026年3月25日
献灯使多和田葉子読み終わった想像に想像を重ねたようなフィクションに、ここまでの現実感が宿るのはなぜだろう。いわゆるリアリティとは違う。いつの間にか多和田さんの夢の中へと連れていかれ、でも、その地面は自分の足でしっかり踏み締めているような気分。 唐突な終わり方も夢みたい。起きてすぐ思い返そうとするんだけれど、物語はうまく繋がっていってくれなくて、焦る私の心に残るのは底知れぬ興奮のみ。これもまた夢に似ている。 タイトルの作品は、海外の文学賞を受賞しているという。この日本語遊びの面白さも、そこで得られる興奮を損なうことなく、苦労して翻訳されたのだろう。素晴らしい!!
読み込み中...