糸太
@itota-tboyt5
- 2026年4月10日
ゆきどけ産声翻訳機暮田真名読み終わったまえがきにある問いかけに唸った。 「知っている川柳を、なんでもいいので一句、言ってみてください」 「知っている川柳人の名前を教えてください」 うーむ、なんにも思い浮かばない。川柳人なんて言葉に至っては初めて聞いた。 こうなれば認めざるを得ない。きっと私は川柳について、俳句や短歌に比べて、誰にでもできるお遊び程度のものとしか考えていなかったのだと思う。 だから川柳という表現を、軽いジョークを超えた文芸として、真剣に競い合う場があることすら想像していなかった。そんな私であるから、現代川柳は充分に衝撃的だった。 面白い。意味が分からないのに、いや、だからこそ心がくすぐられてしまう。暮田さんのセレクトが抜群なのだと思うが、どんどんのめり込んでしまった。 自由律俳句との違いもよく分からないが、おそらくそんな区分はどうでも良くて、でも印象としては、現代川柳の方がぶっ飛んで狂っているように見える。それが奇を衒って感じさせないところが、また良い。どこか生真面目な真剣さ(あくまでイメージだが、自由律俳句の方が斜に構えた態度を感じる)がある。あまりの正直さが、結果的にズレを生じさせてしまい、後からおかしみがやって来ている感じがする。 残念ながら、現代川柳に触れられる書籍はあまり刊行されていないと、あとがきにあった。でも、こんなに面白ければブームが起こっても不思議じゃない。自然なタイミングで、現代川柳とまた出会るといいな。 - 2026年4月10日
何も共有していない者たちの共同体アルフォンソ・リンギス,堀田義太郎,田崎英明,野谷啓二他者との共有を研ぎ澄ました先にある、目指すべき共同体があると考えたとき、それに並行した、もうひとつ別の共同体の姿を探っていこう。本書の試みを、私はこんな風に解釈して読み進めていた。 でも難解で、なかなか頭に入ってこない。代わりにずっと頭の中に浮かんでいたのは、同時に読み進めていた「現代川柳」のことだった。 現代川柳は、ぱっと見、意味がよく分からない。でも心に何かが引っ掛かるので、読み返して自分なりの解釈を試みる。ここに現れる作者と読者のコミニュケーションは、おそらく作品の真意を「共有」できているかは関係ない。何かを伝えたかったんだろうなという数文字の羅列と、そこに寄り添ってみたいと思う気持ちだけがある。 「共有」を優先するなら、思いを多少犠牲にすることで、言葉はその役割を充分に担えるだろう。でも、あえて川柳を書いた。なぜかという理由を、言葉で説明することはできない。言葉の限界を超えたところにこそ、きっと理由はあるのだから。 もうひとつの共同体が立ち上がる契機は、あらゆる場所に潜んでいるのかもしれない。そう思える心の土壌を、もっと豊かに育てていければ嬉しい。 - 2026年4月6日
存在論入門中村昇,中村昇(哲学)読み終わった言葉だけは知っている、という類の哲学用語をやさしく噛み砕いて教えてくれる。これぞ入門書と言える好著。 いいなと思うのは、なんとなく分かったような気にさせつつも、頭の中に適度な疑問符を植え付けていくこと。難解な思考を丁寧に解きほぐしつつ、その表面を見通しやすくするだけでなく、深淵を覗き込める入口に立たせてくれる。読み終わった勢いそのまま、手当たり次第に門を開きたくなってしまう。 西田哲学については、いろんな所で引用されているけれど、なんとなくの雰囲気で読み飛ばしていた。今回読んでいて特に思い出したのは、藤田一照さんの坐禅の話(ただの勘違いかもしれないが)。せっかく「絶対矛盾的自己同一」にすこしだけ近づけたこのタイミングで、読み返したくなったけれど、どの本のどんな箇所だったっけか。 - 2026年3月25日
献灯使多和田葉子読み終わった想像に想像を重ねたようなフィクションに、ここまでの現実感が宿るのはなぜだろう。いわゆるリアリティとは違う。いつの間にか多和田さんの夢の中へと連れていかれ、でも、その地面は自分の足でしっかり踏み締めているような気分。 唐突な終わり方も夢みたい。起きてすぐ思い返そうとするんだけれど、物語はうまく繋がっていってくれなくて、焦る私の心に残るのは底知れぬ興奮のみ。これもまた夢に似ている。 タイトルの作品は、海外の文学賞を受賞しているという。この日本語遊びの面白さも、そこで得られる興奮を損なうことなく、苦労して翻訳されたのだろう。素晴らしい!! - 2026年3月25日
大工日記中村季節読み終わったまるで呼吸だ、と思った。頭に浮かんだ言葉がそのまま、吸って吐く息に乗っかって流れ出てくる。無駄な漢字変換なんていらない。だって次の息を待ってられないから。このリズムは生きている証そのもの。そう思えるくらい、中村さんの文章は読み手の私に生々しく響いてきた。 だからだろうか。読んでいると自然と呼吸が合ってくる(ような気がする)。そして、中村さんと同じように、怒ったり悲しんだり、笑ったりしてしまう。いつもの自分とは違う、コントロールの外にある感情の表れかたが、とても新鮮で心地良い。 この感じが、きっと私には足りていないんだ。言葉がものすごい勢いでドアをノックしてくる。鈍感な私も気づけるくらいのボリュームで。 ちょうど今、職場の隣でマンション建設が進んでいる。職人さんの声や作業している音も聞こえてくるのだが、自然に湧き起こってくるリスペクトが、素直に嬉しい。 - 2026年3月9日
体の居場所をつくる伊藤亜紗読み終わった体が自分のものだなんて、よくそんなことを、当たり前に考えていたものだと思う。本書に登場する方々の様々な困難と体に対する工夫は、それぞれに固有のものである。ただ伊藤さんの解釈を通して見てみると、自分に引き寄せて考えられるヒントみたいに思えてくるから不思議だ。 「原因は過去に向かうけれど、回復は未来に開かれている。(中略)原因を特定するとは、「自分が今こうであるのは〇〇だからだ」という、自己にまつわるストーリーを描く作業です。これに対して回復は、こうだと思った自己像の外側で、「そうあってもいい」と思える意外な自分と遭遇することによって成立します」 回復でなくても、生きていくとは確かに、この連続である。自省する。私ははたして、「そうあってもいい」という心持ちで歩みを進められているだろうか。 ALSを発症している新井さんの考え方は、とくに印象に残った。 「外からの力に対してそれを受ける度合いの大きさとしての「入力度合い」もまた、体の力と言うことができるのではないか」 体というものを、自分と、その外にある他人や環境との橋渡しをする存在として考えるとき、「入力度合い」を高めることで広がっていく可能性には、はっと胸を打つものがある。 たとえ、その橋渡しが体ではなかったとしても、同じようなことは多くの場面で発生し得る気がする。「そうあってもいい」可能性は案外、そこかしこに広がっているのかもしれない。 - 2026年3月9日
批判的日常美学について難波優輝読み終わった本当にそうなのだろうか。読みながらずっと考えていた。各章で投げかけられる問いは、いままで考えたこともなかったものばかりだったからだ。 難波さんの文章は一文一文が明解である。だから読むたびに頷かされてしまう。すると、いつの間にか最初にあった抵抗感は和らぎ、たしかにそうかもしれない、と思い始める。 のだが、納得する一歩手前でやはり、ちょっと待った!と思い直す。そして、もう一度スタート地点に戻ってみるのだが、目の前に広がる風景は先ほどとは全く違ったものに変わってしまっているのである。 なるほど。この経験こそ「美しい」と言える価値なのかもしれない。自らの足で立って考えを深めるための、素晴らしい散歩に誘ってもらえた気分。 - 2026年3月7日
百年の散歩(新潮文庫)多和田葉子読み終わった高校生に勧められた。多和田葉子さんの文章が国語のテストに出たのだが、あまりに面白すぎて問題を解くどころではなかった、と。私は読んだことがなかったので手に取ると、なるほどこれは魅力的すぎる。 舞台はベルリン。「わたし」を通して描かれる街の風景は、思い浮かぶ言葉の端っこを広げていくような連想が繰り返され、イメージは多層的に折り重なっていく。 妄想と言えば妄想。でも、そう簡単には切って捨てられない、ほんとうの姿が描かれているようにも感じてくる。「わたし」という一人の人間の頭の中を軽く飛び越えて、気がつけば都市そのものが語り始めているようにさえ思えてくる。 それにしてもテストとは…。どんな設問だったにせよ、答えなど私には導き出せそうもない。 - 2026年3月2日
歌よみに与ふる書正岡子規,永井祐読み終わった激しい。子規の批評が的を得ているのかは分からない。でも鋭いことだけは分かる。スパッと短い言葉で言い切られるだけに、その指摘には有無を言わせぬ説得力がある。 訳者の永井さんが断っているように、たしかに原文のニュアンスはもうすこし丁寧なのかもしれない。でも込められた熱量は、この訳でなければ伝わってこないだろう。 なによりも感じたのは「美」への執着だ。 俳句でも和歌でも、表現方法は何だって構わない。伝統におもねている暇なんてない。自らのうちに芽生えた感動だけに忠実であれ。そして、その感動を表現するテクニックは、確かにここにあるから。と、そのことだけをシンプルに言い続けられているように思えた。 「子規の言葉が直撃する歌は今でも、というか今こそたくさんある気がした」と、永井さんはいう。べつに歌人でない私にも、直撃するものはたくさんあった。「人間は別に進歩しない。そして子規はいつでもそこにいる」 時代を超えた出会いを可能にしてくれた、素晴らしい現代語訳に感謝したい。 - 2026年2月15日
精選日本随筆選集 歓喜宮崎智之読み終わった随筆が流行っているという。ほかにも、近ごろは日記もよく目にするようになった。一人称で日々を描くのが、というより、それを読みたいと思う人が増えているということだろう。 こうやって名随筆を集めてもらったおかげで、鈍い私もようやく気がつく。なるほど、面白い。とくにジャンルにこだわって読書してこなかったけれど、意識して手に取ってみてもいいのかもしれない。とくに薄田泣菫。いつかまた出会えますように。 宮崎さんの作品も、随筆だとは意識してなかったけれど、たしかに印象に残ってるもんなあ。この一人称の日常というのが、いまの私にもフィットしていたということを、図らずもうまく流行りに乗れていたという意味で、こそばゆくもちょっと誇らしい。 - 2026年2月15日
タタール人の砂漠ブッツァーティ,ディーノ・ブッツァーティ,脇功読み終わった思い当たる節がありすぎる。でもその共感はけっして、こんなコトあるよなあ、といった体験に基づくものではない。 主人公ドローゴの置かれているのは、現実ではちょっと考えにくいシチュエーションである。なのに、あまりに自然に共感してしまうのは、ドローゴがこの環境下で選んでしまう、後ろ向きな決断の一つひとつが、自分もたしかにそんな風にしちゃうかも、と素直に思えてしまうからだ。 理屈では説明できない不可思議な心の動き。誰とも分かち合ったことがないのに、見事に言い当ててくる。これが、とくに大きな展開もないストーリーを通じてなのだから、ただただ驚く。 でも、時の遁走が止まった後の心象は、まだ私の感覚には遠いものだった。いつか分かるのかな。きっと分かるんだろうな。そんな予感を抱いてしまうほどに、私にとっては説得力を持つ小説だった。 - 2026年2月15日
わたしもナグネだから伊東順子読み終わった韓国の人々の生きざまを介することで、見知った近現代史がより立体的に立ち上がってくる感覚がした。日本人として学校で学んだ知識だけでは、いかに世界を捉えるのに不充分かを思い知らされる。 北朝鮮、ロシア、中国、そして米国。隣国であるだけに取りまく環境は日本と似ているが、それぞれの国との関わり具合は随分と違う。もちろん地理的要因もあるだろう。でも決定的に異なるのは、やむを得ず移動せざるを得なかった人々の数なのかもしれない。そんな同胞の存在が、国境という前提を無意識に拡張していく。 コロナへの対応の違いにも、はっとさせられる。水際対策を加速させた我が国に対して、韓国は「国境を閉じることはしなかった。日本以上に厳しい監視と行動規制をしながらも、人々の移動は止めない。それが韓国政府のポリシーであり、背景には「誇りある七〇〇万人海外同胞」の存在がある」と、伊東さんは指摘している。 そしてこの感覚は、いま現在と地続きなのだ。登場する人物たちの魅力的な語りに、私自身の足元を照らし出してもらえた気がしている。 - 2026年2月3日
斜め論松本卓也読み終わった何か問題が生じたとき、その原因を探り当てて除去する。また動き出してみて上手くいかなかったら、違う原因を探し出して除去。そしてまたすぐ動く。繰り返せば必ず未来は開ける。怖がるな、スピードを落とすな、動き続けろ…。 べつに医療やケアの現場の話ではないけれども、一般的にそんな価値観ってある気がする。 でも、原因に対処する動きはなにも一つだけってわけでもない。仲間と話し合ったりしながらいろいろと試してるうちに、ひょんなことから問題そのものが雲散霧消し、なのにまた新たに問題が見つかって、顔を見合わせ笑っちゃうこともあるんじゃなかろうか。 この本を読みながら、そんなことを考えていた。そしてこうも思った。でもやっぱり、どっちかだけじゃなくてバランスなんだよな。 水平、垂直、そして斜め。空間的に捉えれば、ほかの場面でも面白く捉え直すことができるかもしれない。そのための参考になる考え方が、この本からは多く得られた気がしている。 たとえばオープンダイアローグの中で、弱毒化した垂直的関係を導入するための「リフレクティング」という工夫、さらに補論Ⅱのアディクションアプローチとハームリダクションの関係などは、とても興味深かった。 - 2026年2月2日
シリアの家族小松由佳読み終わった戦場は思ったよりも日常で、日常は思ったより戦場である。戦禍を描く作品に触れるとき、よくこんなことを思う。考えれば当たり前のこと。どんな環境に置かれても生活は続くのだから。戦場から遠く離れた場所に暮らしているとつい忘れがちなこの当たり前を、小松さんの文章は手触り感のある現実として思い出させてくれる。 アサド政権下の緊迫した空気感を味わった直後に、「おいおい、ラードワーン(小松さんのパートナー)」と頭を抱えたくなる家族の騒動が起こったり。どちらも切羽詰まった問題であり、いや、そもそも分けて考えられるものでもなく、一人の人間が直面しているたった一つの日常であることを教えてくれる。 もちろんシリアの貴重な記録であることは間違いない。ただ心に残るのは人間のことなのだ。前作の『人間の土地へ』というタイトルがまさに、今作にもずっと響き続けている。 - 2026年1月26日
つぎの民話松井至読み終わった「言葉が嫌いだった」という人が書いたとはとても思えない。まるで詩のように、頭を経由することなく直接心を動かされる。不思議に思いながらも、いや、もしかしたら逆かもしれないと思い直す。つまり、嫌いだからこそ、こんな風に書けるのかもしれない。 『うたうかなた』という章は、障がい者の集うアトリエが舞台だ。ここには複数の職員が働いているがマニュアルはない。利用者ごとに異なる特性の把握も「ひとりの人間に向き合うことに変わりはないので意味を感じなくなって止めました」と、代表の男性は当たり前のように語る。そんな場のあり方を見て松井さんは、「いつも言葉が持つ分別の能力とは反対を向いて、むしろ分け隔てられてきたものの境をなくして初期化することを試みていた」のではと感じる。 私には、この世界への向き合い方が松井さんの文章と重なって見えた。 言葉が覆い隠してしまう世界がある。饒舌になればなるほど、あるという確かな事実すら忘れてしまう。 それは映像も同じだ。カメラはどうしたって恣意的に世界を切り取ってしまう。そんな道具を携えて、松井さんは悩みつつキャリアを重ねてきたのだろう。だからこそ、カメラをペンに持ち替えても、世界へと触れようとする作法や佇まいは変わらない。 たとえば多様性という概念がある。いろんな人の個性を尊重しようとする態度が大切であることは間違いない。 でも、そもそもが多様なのである。それを画一的に向かわせてきたのが、言葉であり映像なのだということを思ったりした。つまり、自分と相手を分けて考えて、お互いの立場を尊重するという態度がすでに、世界の在り方に即してないのではないか、という直感に出会ったりして、案外慄いたりする。 映像作品へのリンクもある。 こんなにも本が面白いんだ。本業である仕事にはさらに興味津々である。 - 2026年1月19日
大正教養主義の成立と末路松井健人読み終わった何の疑いも持っていなかった。「教養」は善いもので、あるに越したことはない、のではなかったっけ。 価値観が揺さぶれる。とても心地よい。読書に求めるものがまさにこれ。そんな思いを抱き、手当たり次第に本を求めたいと感じた自分に、思わず苦笑してしまう。なにも東西の古典を漁ろうってわけじゃないが、同じ穴のムジナと言えなくもないような…。 - 2026年1月19日
オルタナティブ民俗学島村恭則,畑中章宏読み終わったたしかに「民俗学」って、何を対象にしているのか、知っているようで知らずに過ごしてきた。たとえば「民藝」とは、扱う範囲がどう違うのか。無理に線引きする必要もないのかもしれないが、その眼差すところの違いは非常に興味深かった。 また、民俗学を取り巻く現在の世界的な流れも、私が抱いているイメージとはズレがあった。なるほど「オルタナティブ」である。機会があれば、島村さんの本もぜひ手に取ってみようと思う。 - 2026年1月12日
生きるための表現手引き渡邉康太郎読み終わった私にも「つたない」ながらも続けている趣味がいくつかある。これらを表現活動と呼ぶのはおこがましいが、渡邉さんはそんな気持ちを肯定して、それこそが大事なんだと背中を押してくれる。 大切なのは「変化」だという。目指すのは「上達」だけじゃなくていい。「下手」でもがいているからこそ、自分だけに見つけられることもあるのかもしれない。 「ひとりの人が自分の心身で感じ取った、言葉になりえない感触には、独特の意味が宿ります」 ここをもっと面白がれたら、「成長」という評価軸から逃れられそうだ。できないはずがない。だってその昔、面白そうという衝動にしたがってやり始めたんだから。 渡邉さんの授業って楽しいだろうなあ。いつか「ひとりだけの展覧会」も試してみようと思う。 - 2026年1月12日
天人五衰三島由紀夫読み終わったこれまで時代を越えて連綿と続いてきた「宿命」づけられた「純粋」。もっとも相容れないのが「自意識」でありそうなものだが、第四巻ではむしろ、登場人物たちがその自意識にとらわれていく様が描かれているように見える。 たとえば本多は、自意識とそれを超えた世界との狭間で、自分と性質がよく似た透に「夢」を見ようとした。しかし、この壮大な実験の中にも自意識は知らぬ間に忍び寄ってくる。 肉体を通してではなく、ただ「見る」ことはできるのだろうか。死という方法のほかに。 本多は自らの肉体の滅びを前にして、理知を介さずに世界に触れるための気づきを得ていく。 「死を内側から生きるという、この世の少数の者にしか許されていない感覚上の修練を本多はおのずから会得していた。(中略)この世をひとたび終末の側から眺めれば、すべては確定し、一本の糸に引きしぼられ、終りへ向って足並をそろえて進んでいた。(中略)理智はなお動いていたが氷結していた。美はすべて幻のようになった」 この境地に及んで、本多はラストシーンへと導かれていく。これこそ本多の運命だったとも言えるのかもしれない。 そこで衝撃的な言葉と出くわす。これまで紡いできた物語を一気にひっくり返すほどの、凄まじい一言に。 でも、読み終えて思う。妙な納得感があるのだ。とんでもないことを言われたのに、同時に、そりゃそうなるのかもなあと腑に落ちるような。 さて三島由紀夫である。この物語を読んで、市ヶ谷での最期について、すこし印象が変わった。憂国などという言葉以上の世界観が広がる。この入口を感じられただけでも、今回の読書は貴重な体験だったなあ。 - 2026年1月3日
暁の寺三島由紀夫読み終わった転生はしたのか。そもそも転生する主体とは何なのか。いや、むしろこれを感じ取っている本多の世界の方が、あまりに不確かで疑わしいのではないか。 幼い月光姫は日本人の生まれ変わりを訴える。しかし脇腹に黒子は見えない。この不在が本多の心の底と共鳴する。 「救われるという資質の久如。人が思わず手をさしのべて、自分も大切にしている或る輝やかしい価値の救済を企てずにはいられぬような、そういう危機を感じさせたことがなかった。(それこそは魅惑というものではないか。)遺憾ながら、彼は魅惑に失けた自立的な人間だったのである」 この自覚が屈折した恋心に変わる。不可能を前提とする「純粋」への、矛盾を孕む希求と重ね合わせながら。 そして、この欲望の成就する世界が、インドで体験した世界の在り方とも響き合う。アートマンとブラフマンに融け合う世界。阿頼耶識に触れては消滅していく世界。月光姫は言う。 「小さいころの私は、鏡のような子供で、人の心のなかにあるものを全部映すことができて、それを口に出して言っていたのではないか、思うのです。あなたが何か考える、するとそれがみんな私の心に映る、そんな具合だった」 黒子が見えるか見えないかも、そうなのかもしれない。世界をどう見たいのか。いま生きている世界もこんな理知や意志の入り込む隙もない不確かさの上にしかない…でも、本当にそうだろうか。 世界とは隔絶した存在もまたある。象徴的に描かれているのが、富士山と月光姫であるように思った。結局、本多の預かり知らぬところで月光姫は死んだ。しかも20歳で。 第四巻では転生がどう成されるのか。矜持をも失ってしまった日本人の群衆が、これでもかというくらい醜く描かれるような予感もする。 いよいよ最後か。どきどきしながら読み進めたいと思う。
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