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糸太
@itota-tboyt5
  • 2026年9月28日
    尼僧とキューピッドの弓
    登場人物の名付け方に驚いた。第一部の主人公である「わたし」は、ドイツの女性たちに次々と漢字の名前を与えていく。それらがどれも独特で、ぱっとは読めないのだ。 そのまま音読すると、一度も口にしたことのない発音になってしまうので、違和感を抱きながら物語を読まされていくことになる。でもそこは表意文字。朧げなイメージを先行させつつ、物語とともに彼女たちのキャラクターを形作っていくことができる。 これが楽しい。そもそもこの小説は、修道院に住む僧尼たちについて、主人公が距離をとりながら探っていくような筋立てになっている。初対面の人でまず分かるのは外見である。逆に言えば、それしか分からない。登場する途端に与えられていく漢字の名前は、まさに外見をビジュアルとして読み手にまず差し出してくれる役割を担っているようだ。 第二部では一転して、一人の女性の内面が丁寧に描かれる。第一部では姿を表さなかったその女性は、不在という強烈な存在感によって物語に渦を生み出す起点となっていた。 僧尼たちがそれぞれに抱く、彼女のイメージが読み手の頭には残されている。はたして彼女自身もまた、自分の意志そのものに疑問を抱き、他者が自分を規定しているという想像に悩まされていた。 ここで出会ったのが「弓道」と「性愛」だった。どちらも個人の輪郭をフィジカルからアプローチする象徴のように思えた。 体がある。他者の命とも簡単に関係しうる体は、とても無視できるものではないが、適正な社会関係を生み出すのに有用なのだろうか。ここに至って、プロテスタントを媒介にして、僧尼たちの姿が再び立ち上がってくる。 今回も多和田さんには随分楽しませていただいたなあ。まだまだ手に取りたいけれども、文庫で他にも出ているのがあると有り難いのだが…。
  • 2026年9月28日
    人間関係の構造と手立て
    私たちが生きるのに不可欠な「社会」を、ゼロベースで見つめ直し、その構造を理論立てて説明してくれる。たしかにそう出来てるよなあ、と感心しながらするする読み進めていくと、結論に至る直前で突然ストップがかかる。 ちょっと待て。なるほど、とか考えているその自分は、本当の自分なのかと問いかけられる。社会を考える第一歩であった、誰かとの対話で生まれた関係性から、気がつけば随分遠いところに来てしまっているのでは。自分が社会の中でどうありたいかを考えるならば、一度そこへ立ち戻る必要があるのではないか。 つまりは実際の対話である。柿内さんの話に説得力があるのは、その場づくりをすでに実践しているからだ。 この論考の伝わりやすさと、懐疑的に自分を客観視できる頭の柔らかさ、そして仮説を実証に移す行動の速さが、とても好ましいし応援したくなる。できることなら対話の場へも、参加したくなってしまう。 「ひとは話すことで、「こうでなくてはいけない」という規範から逸脱し、「それでよければそれでよい」というあっけらかんさへとひらかれる」 こうした表現の仕方が好きだ。きっと実践からのフィードバックもいろいろ整理されているのだろう。どう展開されていくのか、とても興味がある。
  • 2026年9月28日
    わたしのなかにある巨大な星
    歌人とは、歌を「見つける」ことができる人なのかもしれない。 うまく「書く」ことができる人は結構いるだろう。初めは下手であっても、練習を積み重ねれば上達もする。けれども、何を歌うかを「見つける」のは、練習したから必ず身につくのもでもなさそうだ。 伊藤さんは、自分をよく観察する。そこにこそ、見つけようとしているものが隠れているかのように。 『RAWの言葉』という章が面白い。写真データのことで、自分の心に浮かんでくるありのままの気持ちを「RAWデータ」、誰かとコミュニケーションを取りやすい社会性の高い言葉を「JPEG」に準える。 伊藤さんはJPEGへの変換が苦手だと振り返りつつ、それが自在に操れる人のことを羨む。しかしその技術が高すぎれば、おそらくRAWは意識すらされなくなるだろう。「だとすると、RAWの言葉をRAWのまま自分の心の内にありありと感じ、触れられること自体が、ひとつの才能でもあるのか」もしれない。 歌はここにあるように思えた。大概の人は成長とともに忘れてしまっている心の動きを、伊藤さんは日常の中で手繰り寄せようとしている。 その方法を試行錯誤する姿が、なんともユーモラスなのである。 一気に好きになった。順番が逆かもしれないけど、今度は歌集にもあたってみようと思う。
  • 2026年9月28日
    半分の半分の半分
    半分の半分の半分
    途中まで読んで気づいた。あ、この話、繋がってるかも…。 登場人物たちはみな、日本人の私にとっては慣れない名前ばかり。だから繋がりに確信を持ったわけではなかったが、あえてページを遡って確認したりはしなかった。 結果的にそれが良かったんだと思う。 たとえば誰かと話していると、表情や仕草からうっすらと読み取れる背景がある。そんな勝手に思い描いたストーリーは、会話するなかで思い違いに気がついたりして、幾度となく更新される。 それに近い感覚。私はこの短編集を「あれ、この人って確か…。いや、違うか」なんて思いながら読んでいた。小説のなかでフィクションを前提として出会う人物たちとは、あきらかに違う感覚がそこにはあった。 家父長制の強い社会で生きる女性たち。時代や場所が違えど、はたまたキャラクターには天と地ほどの差がありつつも、共通した根っこを持っている。距離を取りたいと感じながらも惹かれてしまい、いつのまに安心したかと思えば胸の奥がざらつき始める。 異なる物語たちに共通する、この支離滅裂な感覚は、読み手にしっかりと届けられる。物語の背骨がそれぞれ強靭であるからこそ、なし得る離れ業なのだろうと感じた。
  • 2026年9月7日
    スマートシティとキノコとブッダ
    スマートシティとキノコとブッダ
    これは読み逃していたなあ。初版は2024年9月か。テクノロジー系の分野は進化のスピードが速いから、今ではずいぶん環境が変わっているのかもしれない。でも、それらとどう向き合い、自分たちがどう変わっていくか、といった大きな思想については、これから先も考えていく余地が充分にあろう。 未来図を描く、というのとは違う。むしろ合理性から離れた態度を見直す必要性を説いている。人間を超えた「知性」の象徴としての「キノコ」と「ブッダ」。日進月歩のテクノロジーを軸にして想像される未来よりも、地に足がついたリアリティを感じることができた。 もちろん前近代に戻ろうというわけでもない。進化を止めることなど、それこそ現実的ではないだろう。ますます高度に進化していくテクノロジーを前提として、いったん頭の回転を止めてみたら、予想もしなかった風景が見えてくるかもしれない。 そのヒントがこの本にはたくさん詰まっている。とくに対話篇は刺激的で、付箋ばかりになってしまった。 一番面白く読んだのは津川恵理さんとの対話。しかし、なぜかこの章には付箋が一枚も貼られていない。理由は自分でも分からない。面白くて一気にのめり込んだのに、もしかしたらそれは直感的に過ぎて、きちんとした理解には至っていないのかもしれない。 くしくも練習編で「読んだ本を5年間放置する」という課題があった。 まさに津川さんの章はうってつけである。2031年か。忘れないように、本棚の見える場所に立てかけておこう。
  • 2026年8月24日
    2つのイラン
    タイトルに「2つ」とあるが、イランはとてもそれでは収まりきらなそうだ。民族や宗教、思想が何層にも折り重なり、ひとつの国が成り立っている。本書では、その層を一枚ずつ剥がし、丁寧に説明してくれる。 地理的な条件もあるのだろう。層が増えていってしまったのは、他国に翻弄されつづけた結果による部分も大きい。にもかかわらず、ペルシアという誇りを皆が共有している。その強さは他のどんな国や地域も敵わないように思える。悠久の歴史だけが持ち得る凄みすら感じる。 2026年、米国とイスラエルが本格的な攻撃に踏み切った。日本にいると、どうしても西側諸国の視点に慣れてしまう。 当たり前だが、イランにも、そりゃそう思うよな、という「正しさ」がある。そんな「正しさ」が何層にも重なっている国なのだ。「間違い」なんて一つもない。 もちろん米国にも「正しさ」があるだろう。相手が本当に「間違い」なら、暴力が選択肢にのぼる可能性も、もしかしたらあるのかもしれない。 でも向き合っているのは「正しさ」なのだ。ならば、お互いに相手を理解しようと努め、折り合いをつけるしかないではないか。 難しいとは思う。分かってる。でも、そこに向かって歩みを進めようと思えるタイミングは、決して逃さないようにしてほしい。
  • 2026年8月17日
    それはどこでも起こり得る 壊れゆく世界への抵抗
    人間が生きているんだ。この当たり前の事実が、どんどん薄れていっている感覚がある。非常識なことを書いているようだけど、自分を顧みても認めざるを得ない。 たとえば一人暮らしをしていたとき、隣人の顔が分からなかった。ひと昔前では考えられなかった事態が珍しくもなく、むしろ、その方が暮らしやすいという気持ちすら充分に理解できる。 ここ30年でインターネットが普及して、私たちはスマホを持つようになり、最近ではAIを使いこなし始めている。自らが望んで、便利さに飛びついてきた。引き換えに失ってきたことの多さよ。今さらながらに驚くことが、近ごろずいぶんと増えてきた。 ブレイディさんの社会を捉える視点は、いろんなことを気づかせてくれる。英国だろうが日本だろうが関係ない。どの切り口も、私たちが「人間として」どうありたいか、が出発点として据えられているように思えるからかもしれない。 おそろしいと思うのは、自分の選択がその「人間として」を踏まえていないことに、もしかしたら気がつけていないかも、という事実だ。 未来についてこうありたいとか考えるよりも前に、いまの自分がどうしてこう考えているのか、を客観的に捉え直すことが必要な気がする。ここを通らないときっと社会を見誤るし、自分の選択にあとから後悔することにもなるだろう。英語圏の若者が使い始めたという「agency」も、背景が似ているのかもしれない。 また、powerには二つの意味があるという話も印象に残った。私の「力」を改めて見つめ直したい。
  • 2026年8月11日
    アムンセンとスコット
    人類初の南極点到達という偉業に挑む、二つのチームの物語。リーダーの資質やチームづくりが対象的で、さらには結果もはっきりと明暗が分かれたことから、いま振り返っても学ぶべき点は非常に多い。 とくにアムンセンのプロジェクトの進め方には瞠目しどおしである。ソリを引いてくれる大切な犬を、食糧としても計算しつくす用意の周到さ。ゲームの要素を取り入れてチームの士気を高めるマネージメント力などはさすがである。 一方のスコット隊については、うまくいかなかった事例が数多く示される。でもそれは結果を知ってからの指摘のようにも思えて、すこし切なくも感じてしまう。 たとえば極点隊にエバンズを残したこと。また パワーズを加えたことは、本当にその時点で悪い結果に必ず至ると予測し得た選択肢だったのだろうか。「もしも」ということを言い始めたらキリがないが、天候がすこしでも変わっていたら、マイナス要因が逆にプラスへと働いた可能性は、もちろんあったに違いない。 むしろ、より学びがあると感じたのは、スコット隊の悲劇が伝えられた後の、アムンセンに対するイギリス国民の態度である。 偉業を讃えようとする姿勢は見られない。自国民の悲劇を受け止めきれずに、そのやり場のない感情を成功者への怒りに変えてしまった。おそらく無自覚に。そして、公平さを欠いた評価だけが残されることになった。 人間は感情で動く。でも、その場に身を置いていると、なかなか気がつけない。賢明な人ほど、自分は冷静だと勘違いしてしまいそうな気もする。たとえばスコットは自身の情緒的な判断にどれほど自覚的であっただろう。正しいか正しくないかは別にして。 俯瞰的な視点が大切なのは言うまでもない。感情との距離をうまくコントロールするためには、こうした歴史的なドキュメントと何度も向き合うしかないのかもしれない。
  • 2026年8月3日
    あいたくて ききたくて 旅にでる
    あいたくて ききたくて 旅にでる
    親から子へと、何世代も越えて語り継がれてきた物語がある。これを「民話」と呼んだとき、いや、たとえば令和に生きる私たちがいわゆる「日本昔ばなし」みたいなフレームとして受け取ったとき、なにか零れ落ちてしまっているものはないだろうか。 小野さんは宮城県の山村にある一軒一軒を訪ね歩いて、そこに暮らす人々に直接民話を語ってもらってきた。本書はその記録でもあるのだが、読み終わって心に残るのは「民話」そのものよりも、語ってくれた人とそれを聞いた小野さんとの間に生じたであろう緊張感なのである。 あとがきに濱口竜介さんが書いている。小野さんにとって「聞く」とは、「古い自分を打ち捨てていくこと」とだという。情報を得ることでも、ましてや人に好かれる社交術でもなくて、「聞いたならば、それに対する自分自身のからだの反応に出会わざるを得ない。そこで自分がどのような人間か、どの程度の人間かを突きつけられる」ものと覚悟を決め、「語り手に見合う自分をつくり出さなくちゃいけない」と能動的に関わっていく。 きっと語り手も然り。自らの体を用いて語ることで、幼い頃の体験に改めて向き合う。記憶の底から絞り出した言葉は、思いがけず震えたり掠れたりして、それでも話に身を任せることで新しい自分と出会えるのかもしれない。 文字通りの真剣勝負が、幾度となく交わされてきたのだろう。このピリッとした空気感こそ、私たちがいま受け取るべき価値に違いない。
  • 2026年8月2日
    植物でめぐるハワイの神話
    二冊続けてのハワイ。読む順番が逆だったろうか。ハワイの植物にまつわる神話の数々は、先住民の姿をより鮮やかにイメージさせてくれる。この頭でイザベラさんの文章に触れていたら、19世紀のハワイをもっと楽しめたかもしれない。 神話がそのまま本当の話であると考える人は少ないだろう。ただ、近所の花々にまつわる物語を、幼い頃から聞かされ続けていたら、いま自分たちが生きている世界にも、太古の神話が当たり前に息づくことは想像に難くない。 はたしてそれは、啓蒙されるべき暗い世界なのだろうか。 たしかに現代的な解釈を試みたら、合理的な意味は見出せないのかもしれない。でも、先祖から連綿と語り続けられてきたという、そのこと自体を、ただ尊重したい気持ちは強くある。 だって素敵じゃないか。ここに価値が宿るといいなあ。もっと生存にかかわる範囲で。そしたら意味がないなんて、だれも言えなくなるのに。
  • 2026年7月25日
    イザベラ・バードのハワイ紀行(868)
    イザベラ・バードのハワイ紀行(868)
    幸せな読書時間だった。本を開けばハワイ。しかも時は19世紀なのだ。訳が良いのか、イザベラさんの見たであろう景色が、頭の中に無理なく広がっていく。 大自然の迫力や美しさもさることながら、とくに興味深かったのは、先住民に対するその時代ならではの眼差しである。 人の命すら生け贄として捧げることを、当たり前にしてきた社会がある。この島を訪れた初期の伝道者たちは、キリスト教の価値観を広めることで、先住民たちが「人間らしさ」を獲得していくことに、宗教的な使命とともに喜びを感じていたことだろう。 上から目線で価値観を押し付けるやり方には、現代から振り返れば、批判があって当然である。しかし、この当時の常識として、「未開人」を「救って」あげているんだ、という感覚を共有していたことは、よく理解ができた。 キャプテン・クックから百年後のイザベラさんにも、この感覚は色濃い。ハワイの素晴らしさをこれでもかと書き綴った一方で、ハワイでの暮らしについては同胞にはお勧めしないとしている。 時間の感覚すらも失ってしまうほどの快適な楽園にあっては、「真の議論と対話を呼び起こすような西洋諸国の知的な動向が心に入りこむことはない。理由の一つには信義の相違があるが、気候が生む怠情や、精神的な刺激の欠如も関係している」という。つまり、西洋的な進歩を無意味化してしまうような、ある種、麻薬に近い魅力あふれる地としてハワイを紹介しているように思える。 フラに言及がなかった点も意外だった。(補論の「ハワイの歴史」に、カメハメハ五世が「フラにうつつを抜かして」といった表現はあるが、それも随分な言い方である) たしかに現代フラは、カラカウア王の後に確立されたものなのかもしれないが、神に捧げるようなカヒコにも全く触れられていない。偶像崇拝の最たるものとして、語るに足りないものと見なされてしまったのかもしれない。 個人的にはコナに行ってほしいなと思いながら読んでいた。最後の最後に寄ってくれたので、かなり興奮したが、イザベラさんにはあまり印象が良くなかったようだ。残念。
  • 2026年7月17日
    〈連鎖〉の冒険
    これまで歩んできた私たち人類の営みに、縦串や横串、はたまた斜めから串を刺し、時系列とは違った文脈で歴史を整理し直してくれる。切り口のユニークさはさすが。とくに「ストライプ」柄や「黄」色などは、予想外の連鎖反応を見ることができて、とても刺激的だった。 ただ楽しんでばかりもいられない。終盤の「負の連鎖」「偽の連鎖」などは、戦争の歴史そのものである。 なぜ人間は、こうも同じことを繰り返すのか。極論を言えば、歴史とは、戦争の勝者がつくってきたものだ。いくら大きな犠牲があったとしても、得られるメリットの方が多ければ、他者を傷つける暴力も、知らぬ間に「正しさ」にすり替えられていく。 でも、もう少し長いスパンで考えれば、一方的に押し付けた「正しさ」は、必ず綻びを見せてはいないだろうか。 これを、また「正す」ために暴力を用いれば同じ穴のムジナ。だから、歴史のなかに同じ構造を見つけ出そうとするならば、権力の綻びという「連鎖」もあるような気がする。 歴史をつくるのは、非戦を継続することへの努力の「連鎖」であってほしい。個々の具体的な取り組みの間に、ポジティブな歯車が回り出すことを心から祈っている。
  • 2026年7月10日
    フレドリック・ブラウンSF短編全集1 未来世界から来た男
    冒頭の何行かで物語の世界に引き込まれてしまう。短さ勝負のショートショートならではなのかもしれないが、この強引に手を引っ張って連れてかれる感じがとても心地よい。なにせ初っ端から状況がかなり切羽詰まっているんだ。それだけで笑ってしまう。 時代もあるのだろう。オチはすこし首を傾げてしまう話も、あるにはある。けれども、最後にそこへ持っていく話の流れは無駄なくスムーズで、思わず拍手したくなるほど見事だ。 この短編集、第二弾もあったような。チェックしてみようかな。
  • 2026年7月10日
    クリエイティブのための判断力 --つくる人が考えるべきこと
    AIの登場によって、人々の仕事が奪われるのではと危惧されている。ひと昔前までは、機械に労働させて人間は指示を与えるだけ、といったイメージが共有されていたように思う。しかし昨今の議論は逆である。クリエイティブな労働をAIが担い、出された答えに人間は従う。信じたくはないが、技術の進歩を見るにつけ、そんな未来は現実味を帯びつつあるようにも思える。 最新のテクノロジーを使った表現の分野で第一線を走る橋本さんは、人間にしか担えない役割としての「判断力」に注目している。 本書はべつにAI社会に対する未来図を描こうとしているわけではない。橋本さんのこれまでの歩みをたどりながら、事業を進める上での「判断」という機能を解きほぐし、その大切さを共有しようとしている。 よく考えれば、判断が正しかったかどうかは、やってみた後でなければ分からない。だとすれば「判断力」は、後出しジャンケンではないけれど、鍛えれば成功の確率が上がるものではなく、成功したのは優れた「判断力」のおかげだった、と振り返ることしかできないスキルなのかもしれない。 いや、果たしてそうだろうか?橋本さんは、この本は一つの答えを示そうとするものではない、と何度も釘を刺す。 判断力があろうとなかろうと、人間は色んな場面で判断を繰り返して生きている。そしていざ振り返ってみれば、失敗とまでは言わなくても、「ちょっと間違ったかも」と反省することの方が多いのではないだろうか。 本を読み終えて思った。もしかしたら「判断」というのは、間違えることの方が肝なのかもしれない。 なんらかの判断をすれば、人間は結構な確率で間違う。それを、あってはならなかったミスと捉えるのではなく、次にどこへ向かうかの道標と考える。つまり「判断力」とは、判断をするその瞬間だけでなく、反省も含めたすこし長いスパンで捉えるべき、歩みを進めていくための実用的なスキルなのかもしれない。 「判断力」と似た言葉に「決断力」がある。誰かのスキルとして評価する場合には、「決断力」を使う方が一般的だろう。にも関わらず、橋本さんが「判断力」の方を重視しているのは、この時間的な射程の違いこそではないだろうか。 間違うのは人間ゆえである。AIには担えない役割を考えるとき、未来の成功も失敗も関係なく、ただ「判断」することを楽しもうとする態度は、これからの社会を描く大きなヒントになるのかもしれない。
  • 2026年7月1日
    太陽諸島
    太陽諸島
    冒頭から船は予想外の方向へ向かった。目的地は極東ではなかったか。Hirukoたちが進んだのはバルト海。各国の港町に立ち寄りながら、ゆっくりと内海を回る。 理由は本人たちにも分かっていない。考えようとするたびに誰かに声をかけられ、会話の応酬のなかに思考が埋もれていってしまう。 それは読み手も同じ。でも、しばらく物語に身を委ねていると、戸惑いは徐々に和らいでいく。 そうか。「境界」を疑い続ける旅であるならば、いまさら祖国を探しに行ってどうする。たどり着いた先に懐かしい島影があろうとなかろうと、それは「境界」をいま一度確かめたことにしかならないではないか。 逡巡する。Hirukoたちの船旅も一直線には進まない。寄港地はそれぞれ国が違う。上陸のたびに触れる歴史や文化も、「境界」を強く浮かび上がらせる。 それだけではない。第三巻に入ってから、登場人物らはお互いの距離も意識し始めたように思える。Hirukoとクヌートは近づき、ノラはナヌークへの想いを新たにし、逆にナヌークはそこから逃がれようともがく。みんなから煙たがられるSusanooも、その態度をさらに荒ぶらせ、否が応にも「境界」を際立たせる。 かと言って、周囲からにじり寄ってくる「境界」をそのまま受け入れることはできそうもない。「境界」が揺らぎ続けている実感は、間違いなくあるのだから。 Hirukoたちは事あるごとに甲板へ出る。「境界」のない海と空に身を晒すことで、存在を慰めようとしているのかもしれない。 何にも縛られず、カモメは自由に飛んでいく。甲板から投げつけた空瓶は、カモメには当たらず海に落ちて沈んでいく。誰のものでもなくなったゴミは、太平洋のどこかに堆積して新しい島をつくるかもしれない。 すべてが繋がっているようでバラバラで、でもやっぱりよく見たら、大きなひとつであるような世界。ここを矛盾なく生きることは、はたして可能なのだろうか。 家になりたい、とHirukoは言った。これまでの船旅とは違い、自分は乗客の一人であることをやめて船そのものになろう、という提案にも感じる。 宇宙から見たら地球も船みたいなものだ。話がぐるぐると回り続ける。自らの尾を噛んだウロボロスのように、ミクロがマクロになり、マクロはミクロに還っていく。 Hirukoの旅は終わらない。読み手には、想像力の翼だけが残される。
  • 2026年6月27日
    星に仄めかされて (講談社文庫)
    susanooがいよいよ口を開き、抽象度のギアがぐんと一段階上がった。長編ならではの大がかりな展開に胸が躍る。 Hirukoの渇望する「共感」に導かれるように、登場人物たちの旅は続いていた。でも、この旅に同伴する者たちの目的はいったい何なのだろう。 自身の生活は徐々に犠牲にし始めている。でも、誰もそんなこと気にしていない。何かに突き動かされるような情動は、単純に興味と言ってしまえるほど軽いものでもない。 それぞれが問いかけ始める。無意識に囚われていた「境界」を確認して、自らの世界を改めて構築しようと試みる。が、記憶のなかに、いや思考力や想像力といった脳内の世界のなかには、腑に落ちる地平を見出すことができない。 象徴的なのはロンドだ。手を繋ぎ、輪になって躍る。ここには「共感」を超えた、身体同士の「連帯」がある。 これからは船旅がはじまるのだろうか。狭い船室で共に時間を過ごしながら、ひとつの生命体としての可能性を見つけるのかもしれない。 振り落とされないよう、船にしがみついていなければ。まずはケープタウン。楽しもう!
  • 2026年6月24日
    地球にちりばめられて (講談社文庫)
    留学中に祖国を失ってしまったHirukoを中心に動き出す物語。極東の島国は自然災害で沈没したようにも仄めかされるが、はっきりとしたことは分からない。遠い昔の人々の記憶から消え去ろうとしている国とも読めるが、そうするとHirukoという一人の人間に起こった出来事であるはずがない。 時空が歪む。だから読みながら焦点を合わせようと目を細める。すると、うっすらと見え始める景色がある。失ったのは国そのものではなく、自分自身が拠って立つ根拠ではなかろうか。 つまりアイデンティティ。国籍はもとより性別や家族など、物語の中ではさまざまな境界が揺らいでいる。 なかでも大きいのが言葉だ。Hirukoはスカンジナビア地方の言語をつぎはぎした、パンスカという自作の言語を話す。言語が変われば思考そのものも変質する。私は誰だろうと考えるときも、言葉からは離れることはできない。 だからもしも言語がオリジナルになったとき、個人はこれ以上にないほど差別化される。ただ、共感はされない。だからHirukoは、母語話者との会話を求めて旅に出る。この旅路に巻き込まれる登場人物たちもまた、言葉の問題に直面しながら、次第にぼやけていくアイデンティティに心が揺れる。 境界を越えていくのではない。境界そのものが疑わしくなるのだ。これから私たちが迎えるかもしれない、個が解体していく世界を予感させる。 Hirukoの旅は始まったばかり。さあ、二巻目へ急ごう。
  • 2026年6月21日
    完全に平等で、非常に差別的な
    完全に平等で、非常に差別的な
    20世紀の革新的なダンサーたちに言及しながら、西洋で生まれたバレエという権威的な形式が、どのように拡張されてきたかを紐解いていく。 踊る意味を根源的に問い直すうえでは、西洋に対するところの東洋の「未開の野蛮さ」だけではなく、身体的なハンディキャップという健常者には持ち得ない感覚も、無視できない大きな鍵となる。著者のキム・ウォニョンさんも障がいを持つダンサーであり、自身のこれまでの経験も、本の内容をより豊かなものにしてくれている。 たとえばこうある。 『わたしたちは、各自の行為を規律する多様な社会的「振り付け」の中で生きていく』が、『その規則の権威よりもっと大きな正当性の源泉がわたしたちの中にあ』り、『政治や法、芸術における進歩や革新は、時に「いま存在している形式よりもっと賢明で、もっと大きな何かがある」という確信によって推進される』 無意識下の常識を、「社会的振り付け」と呼ぶのは、とても腑に落ちる。自覚のない身体の反応によって引き起こされる差別は確かにある。ここに違和感を持ち、より大きな正しさに身を委ねることで、私たちは世界を更新してきたのかもしれない。 でもキムさんは、『正当性の源泉を「われわれ」だけに限定してはならない』とも釘を刺す。正しさを自ら塗り固めて肥大させていってしまう、現代のエコーチェンバーも頭をよぎる。 『反応とは、ある外部刺激に対し社会的・生物学的に決められたいくつかの標準的な形式を迅速かつ効率的に取捨選択する、わたしたちの戦略的な対応策だ。(中略)その反応に対するわたしたちの反応として可能な選択肢は「相手を攻撃する」または「自分を破壊する」だろう』 これでは望むべき進歩へは向かえない。そこで思考の補助線として引かれるのが、コンタクト・インプロビゼーション(CI)である。 CIとは日本語にすれば接触即興となり、複数人が身体の一部をくっつけたままダンスをするジャンルだという。身体の動きには他人からの制約がかかるが、逆に自分一人では発想されなかった身体運用へと導く可能性にも開かれる。 『より大きな接点で(複数の)他人とつながることで、パターン化された少数の選択肢から抜け出すことが可能になるのだ。これを、反応(react)と区別して対応(response)と呼ぶことにしよう。CIをおこなう二人は「反応」から「対応」へと移っていく』 私なりに解釈すると、この「対応」へと身体が開かれることで、大きな正当性が具体的なダンスとして宿り始めるのだと思う。そうした過程を踏むことこそが、あるダンスを「善い」と感じるときの判断材料にもなろう。 ここには健常者も障がい者もない。もちろん、これから新たに投げ込まれる視点もあるに違いない。でも本書に出会えたことで、ダンスに触れる作法の現在地については、ひとまず確認できた気がしている。
  • 2026年6月12日
    踊る菩薩たち
    踊る菩薩たち
    法華経はお経の最高峰にある、というイメージは何となく持っていた。「ほんとうの法華経」という、橋爪さんと植木さんの共著を手に取ったのはいつだったか。内容があまり思い出せないところを見ると、私には手に余る難しさだったのかもしれない。 本書を開き、そんな法華経と久しぶりの再会を果たした。あれ?こんな感じだったっけか。何と言うか、とても親しみやすい。岡田さんが法華経を心から面白いと感じているのが、そのまま読者の私に伝わってくる。 素人が触れても楽しめるような文学的な魅力がありつつ、出家して修行を積んだ方々にも届く教義にも満ち溢れているのが、法華経なのだろう。全てを包み込むような大らかさを感じられたことが、今回の読書の何よりもの収穫だった。 地面が割れて躍り出てくる菩薩たち。想像するだけで心が浮き立って、こちらも音楽を奏でて迎えたくなるではないか。大真面目に、この空気感は本当に素晴らしいと思う。 解釈の仕方が多様なだけに、望ましくない実践へと向かう懸念も、もちろんあるだろう。ただ、自分の今日や明日がどうありたいかを考えたときに、法華経に寄りかかれる安心感は充分に理解できた。
  • 2026年6月8日
    忘れられない日本人ーー民話を語る人たち
    忘れられない日本人ーー民話を語る人たち
    民話とは、土地に根づいた昔話である。ストーリーの合間からは、現代では失われつつある風習や社会常識などを読み取ることができる。だから学術的な資料としても価値は高い。まるで古代史の謎が隠された遺跡みたいだ。 でも、よく考えてみると、それは民話の一側面に過ぎないのかもしれない。 民話は、語る人とそれを聞く人がいる場があって初めて立ち現れる。つまり、その場その場で生まれては消えていく。消えてしまうのではあるが、聞いた人の体の中には何かが残る。そして、それぞれの人生の中でゆっくりと熟成されて、いずれ聞かせたい人が目の前に現れた時に、また新たな民話としてこの世界に生まれ出てくる。 本書では、民話を語る人に焦点を当てることで、民話がまさに息づいている場を描き出そうとしている。私には、この試みが見事にはまっているように感じた。途中で挿入される民話の、なんと温もりのあることか。いままで読んできたものと全然違う。胸に響く。 もしかしたら民話とは、内容以上に、こうした「語りの場」こそが主役なのかもしれない。語り継ぐという場面は民話以外にも色々あるが、何より大切なのは、場をどうつくっていくかなのかもしれない。
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