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糸太
@itota-tboyt5
  • 2026年8月24日
    2つのイラン
    タイトルに「2つ」とあるが、イランはとてもそれでは収まりきらなそうだ。民族や宗教、思想が何層にも折り重なり、ひとつの国が成り立っている。本書では、その層を一枚ずつ剥がし、丁寧に説明してくれる。 地理的な条件もあるのだろう。層が増えていってしまったのは、他国に翻弄されつづけた結果による部分も大きい。にもかかわらず、ペルシアという誇りを皆が共有している。その強さは他のどんな国や地域も敵わないように思える。悠久の歴史だけが持ち得る凄みすら感じる。 2026年、米国とイスラエルが本格的な攻撃に踏み切った。日本にいると、どうしても西側諸国の視点に慣れてしまう。 当たり前だが、イランにも、そりゃそう思うよな、という「正しさ」がある。そんな「正しさ」が何層にも重なっている国なのだ。「間違い」なんて一つもない。 もちろん米国にも「正しさ」があるだろう。相手が本当に「間違い」なら、暴力が選択肢にのぼる可能性も、もしかしたらあるのかもしれない。 でも向き合っているのは「正しさ」なのだ。ならば、お互いに相手を理解しようと努め、折り合いをつけるしかないではないか。 難しいとは思う。分かってる。でも、そこに向かって歩みを進めようと思えるタイミングは、決して逃さないようにしてほしい。
  • 2026年8月17日
    それはどこでも起こり得る 壊れゆく世界への抵抗
    人間が生きているんだ。この当たり前の事実が、どんどん薄れていっている感覚がある。非常識なことを書いているようだけど、自分を顧みても認めざるを得ない。 たとえば一人暮らしをしていたとき、隣人の顔が分からなかった。ひと昔前では考えられなかった事態が珍しくもなく、むしろ、その方が暮らしやすいという気持ちすら充分に理解できる。 ここ30年でインターネットが普及して、私たちはスマホを持つようになり、最近ではAIを使いこなし始めている。自らが望んで、便利さに飛びついてきた。引き換えに失ってきたことの多さよ。今さらながらに驚くことが、近ごろずいぶんと増えてきた。 ブレイディさんの社会を捉える視点は、いろんなことを気づかせてくれる。英国だろうが日本だろうが関係ない。どの切り口も、私たちが「人間として」どうありたいか、が出発点として据えられているように思えるからかもしれない。 おそろしいと思うのは、自分の選択がその「人間として」を踏まえていないことに、もしかしたら気がつけていないかも、という事実だ。 未来についてこうありたいとか考えるよりも前に、いまの自分がどうしてこう考えているのか、を客観的に捉え直すことが必要な気がする。ここを通らないときっと社会を見誤るし、自分の選択にあとから後悔することにもなるだろう。英語圏の若者が使い始めたという「agency」も、背景が似ているのかもしれない。 また、powerには二つの意味があるという話も印象に残った。私の「力」を改めて見つめ直したい。
  • 2026年8月11日
    アムンセンとスコット
    人類初の南極点到達という偉業に挑む、二つのチームの物語。リーダーの資質やチームづくりが対象的で、さらには結果もはっきりと明暗が分かれたことから、いま振り返っても学ぶべき点は非常に多い。 とくにアムンセンのプロジェクトの進め方には瞠目しどおしである。ソリを引いてくれる大切な犬を、食糧としても計算しつくす用意の周到さ。ゲームの要素を取り入れてチームの士気を高めるマネージメント力などはさすがである。 一方のスコット隊については、うまくいかなかった事例が数多く示される。でもそれは結果を知ってからの指摘のようにも思えて、すこし切なくも感じてしまう。 たとえば極点隊にエバンズを残したこと。また パワーズを加えたことは、本当にその時点で悪い結果に必ず至ると予測し得た選択肢だったのだろうか。「もしも」ということを言い始めたらキリがないが、天候がすこしでも変わっていたら、マイナス要因が逆にプラスへと働いた可能性は、もちろんあったに違いない。 むしろ、より学びがあると感じたのは、スコット隊の悲劇が伝えられた後の、アムンセンに対するイギリス国民の態度である。 偉業を讃えようとする姿勢は見られない。自国民の悲劇を受け止めきれずに、そのやり場のない感情を成功者への怒りに変えてしまった。おそらく無自覚に。そして、公平さを欠いた評価だけが残されることになった。 人間は感情で動く。でも、その場に身を置いていると、なかなか気がつけない。賢明な人ほど、自分は冷静だと勘違いしてしまいそうな気もする。たとえばスコットは自身の情緒的な判断にどれほど自覚的であっただろう。正しいか正しくないかは別にして。 俯瞰的な視点が大切なのは言うまでもない。感情との距離をうまくコントロールするためには、こうした歴史的なドキュメントと何度も向き合うしかないのかもしれない。
  • 2026年8月3日
    あいたくて ききたくて 旅にでる
    あいたくて ききたくて 旅にでる
    親から子へと、何世代も越えて語り継がれてきた物語がある。これを「民話」と呼んだとき、いや、たとえば令和に生きる私たちがいわゆる「日本昔ばなし」みたいなフレームとして受け取ったとき、なにか零れ落ちてしまっているものはないだろうか。 小野さんは宮城県の山村にある一軒一軒を訪ね歩いて、そこに暮らす人々に直接民話を語ってもらってきた。本書はその記録でもあるのだが、読み終わって心に残るのは「民話」そのものよりも、語ってくれた人とそれを聞いた小野さんとの間に生じたであろう緊張感なのである。 あとがきに濱口竜介さんが書いている。小野さんにとって「聞く」とは、「古い自分を打ち捨てていくこと」とだという。情報を得ることでも、ましてや人に好かれる社交術でもなくて、「聞いたならば、それに対する自分自身のからだの反応に出会わざるを得ない。そこで自分がどのような人間か、どの程度の人間かを突きつけられる」ものと覚悟を決め、「語り手に見合う自分をつくり出さなくちゃいけない」と能動的に関わっていく。 きっと語り手も然り。自らの体を用いて語ることで、幼い頃の体験に改めて向き合う。記憶の底から絞り出した言葉は、思いがけず震えたり掠れたりして、それでも話に身を任せることで新しい自分と出会えるのかもしれない。 文字通りの真剣勝負が、幾度となく交わされてきたのだろう。このピリッとした空気感こそ、私たちがいま受け取るべき価値に違いない。
  • 2026年8月2日
    植物でめぐるハワイの神話
    二冊続けてのハワイ。読む順番が逆だったろうか。ハワイの植物にまつわる神話の数々は、先住民の姿をより鮮やかにイメージさせてくれる。この頭でイザベラさんの文章に触れていたら、19世紀のハワイをもっと楽しめたかもしれない。 神話がそのまま本当の話であると考える人は少ないだろう。ただ、近所の花々にまつわる物語を、幼い頃から聞かされ続けていたら、いま自分たちが生きている世界にも、太古の神話が当たり前に息づくことは想像に難くない。 はたしてそれは、啓蒙されるべき暗い世界なのだろうか。 たしかに現代的な解釈を試みたら、合理的な意味は見出せないのかもしれない。でも、先祖から連綿と語り続けられてきたという、そのこと自体を、ただ尊重したい気持ちは強くある。 だって素敵じゃないか。ここに価値が宿るといいなあ。もっと生存にかかわる範囲で。そしたら意味がないなんて、だれも言えなくなるのに。
  • 2026年7月25日
    イザベラ・バードのハワイ紀行(868)
    イザベラ・バードのハワイ紀行(868)
    幸せな読書時間だった。本を開けばハワイ。しかも時は19世紀なのだ。訳が良いのか、イザベラさんの見たであろう景色が、頭の中に無理なく広がっていく。 大自然の迫力や美しさもさることながら、とくに興味深かったのは、先住民に対するその時代ならではの眼差しである。 人の命すら生け贄として捧げることを、当たり前にしてきた社会がある。この島を訪れた初期の伝道者たちは、キリスト教の価値観を広めることで、先住民たちが「人間らしさ」を獲得していくことに、宗教的な使命とともに喜びを感じていたことだろう。 上から目線で価値観を押し付けるやり方には、現代から振り返れば、批判があって当然である。しかし、この当時の常識として、「未開人」を「救って」あげているんだ、という感覚を共有していたことは、よく理解ができた。 キャプテン・クックから百年後のイザベラさんにも、この感覚は色濃い。ハワイの素晴らしさをこれでもかと書き綴った一方で、ハワイでの暮らしについては同胞にはお勧めしないとしている。 時間の感覚すらも失ってしまうほどの快適な楽園にあっては、「真の議論と対話を呼び起こすような西洋諸国の知的な動向が心に入りこむことはない。理由の一つには信義の相違があるが、気候が生む怠情や、精神的な刺激の欠如も関係している」という。つまり、西洋的な進歩を無意味化してしまうような、ある種、麻薬に近い魅力あふれる地としてハワイを紹介しているように思える。 フラに言及がなかった点も意外だった。(補論の「ハワイの歴史」に、カメハメハ五世が「フラにうつつを抜かして」といった表現はあるが、それも随分な言い方である) たしかに現代フラは、カラカウア王の後に確立されたものなのかもしれないが、神に捧げるようなカヒコにも全く触れられていない。偶像崇拝の最たるものとして、語るに足りないものと見なされてしまったのかもしれない。 個人的にはコナに行ってほしいなと思いながら読んでいた。最後の最後に寄ってくれたので、かなり興奮したが、イザベラさんにはあまり印象が良くなかったようだ。残念。
  • 2026年7月17日
    〈連鎖〉の冒険
    これまで歩んできた私たち人類の営みに、縦串や横串、はたまた斜めから串を刺し、時系列とは違った文脈で歴史を整理し直してくれる。切り口のユニークさはさすが。とくに「ストライプ」柄や「黄」色などは、予想外の連鎖反応を見ることができて、とても刺激的だった。 ただ楽しんでばかりもいられない。終盤の「負の連鎖」「偽の連鎖」などは、戦争の歴史そのものである。 なぜ人間は、こうも同じことを繰り返すのか。極論を言えば、歴史とは、戦争の勝者がつくってきたものだ。いくら大きな犠牲があったとしても、得られるメリットの方が多ければ、他者を傷つける暴力も、知らぬ間に「正しさ」にすり替えられていく。 でも、もう少し長いスパンで考えれば、一方的に押し付けた「正しさ」は、必ず綻びを見せてはいないだろうか。 これを、また「正す」ために暴力を用いれば同じ穴のムジナ。だから、歴史のなかに同じ構造を見つけ出そうとするならば、権力の綻びという「連鎖」もあるような気がする。 歴史をつくるのは、非戦を継続することへの努力の「連鎖」であってほしい。個々の具体的な取り組みの間に、ポジティブな歯車が回り出すことを心から祈っている。
  • 2026年7月10日
    フレドリック・ブラウンSF短編全集1 未来世界から来た男
    冒頭の何行かで物語の世界に引き込まれてしまう。短さ勝負のショートショートならではなのかもしれないが、この強引に手を引っ張って連れてかれる感じがとても心地よい。なにせ初っ端から状況がかなり切羽詰まっているんだ。それだけで笑ってしまう。 時代もあるのだろう。オチはすこし首を傾げてしまう話も、あるにはある。けれども、最後にそこへ持っていく話の流れは無駄なくスムーズで、思わず拍手したくなるほど見事だ。 この短編集、第二弾もあったような。チェックしてみようかな。
  • 2026年7月10日
    クリエイティブのための判断力 --つくる人が考えるべきこと
    AIの登場によって、人々の仕事が奪われるのではと危惧されている。ひと昔前までは、機械に労働させて人間は指示を与えるだけ、といったイメージが共有されていたように思う。しかし昨今の議論は逆である。クリエイティブな労働をAIが担い、出された答えに人間は従う。信じたくはないが、技術の進歩を見るにつけ、そんな未来は現実味を帯びつつあるようにも思える。 最新のテクノロジーを使った表現の分野で第一線を走る橋本さんは、人間にしか担えない役割としての「判断力」に注目している。 本書はべつにAI社会に対する未来図を描こうとしているわけではない。橋本さんのこれまでの歩みをたどりながら、事業を進める上での「判断」という機能を解きほぐし、その大切さを共有しようとしている。 よく考えれば、判断が正しかったかどうかは、やってみた後でなければ分からない。だとすれば「判断力」は、後出しジャンケンではないけれど、鍛えれば成功の確率が上がるものではなく、成功したのは優れた「判断力」のおかげだった、と振り返ることしかできないスキルなのかもしれない。 いや、果たしてそうだろうか?橋本さんは、この本は一つの答えを示そうとするものではない、と何度も釘を刺す。 判断力があろうとなかろうと、人間は色んな場面で判断を繰り返して生きている。そしていざ振り返ってみれば、失敗とまでは言わなくても、「ちょっと間違ったかも」と反省することの方が多いのではないだろうか。 本を読み終えて思った。もしかしたら「判断」というのは、間違えることの方が肝なのかもしれない。 なんらかの判断をすれば、人間は結構な確率で間違う。それを、あってはならなかったミスと捉えるのではなく、次にどこへ向かうかの道標と考える。つまり「判断力」とは、判断をするその瞬間だけでなく、反省も含めたすこし長いスパンで捉えるべき、歩みを進めていくための実用的なスキルなのかもしれない。 「判断力」と似た言葉に「決断力」がある。誰かのスキルとして評価する場合には、「決断力」を使う方が一般的だろう。にも関わらず、橋本さんが「判断力」の方を重視しているのは、この時間的な射程の違いこそではないだろうか。 間違うのは人間ゆえである。AIには担えない役割を考えるとき、未来の成功も失敗も関係なく、ただ「判断」することを楽しもうとする態度は、これからの社会を描く大きなヒントになるのかもしれない。
  • 2026年7月1日
    太陽諸島
    太陽諸島
    冒頭から船は予想外の方向へ向かった。目的地は極東ではなかったか。Hirukoたちが進んだのはバルト海。各国の港町に立ち寄りながら、ゆっくりと内海を回る。 理由は本人たちにも分かっていない。考えようとするたびに誰かに声をかけられ、会話の応酬のなかに思考が埋もれていってしまう。 それは読み手も同じ。でも、しばらく物語に身を委ねていると、戸惑いは徐々に和らいでいく。 そうか。「境界」を疑い続ける旅であるならば、いまさら祖国を探しに行ってどうする。たどり着いた先に懐かしい島影があろうとなかろうと、それは「境界」をいま一度確かめたことにしかならないではないか。 逡巡する。Hirukoたちの船旅も一直線には進まない。寄港地はそれぞれ国が違う。上陸のたびに触れる歴史や文化も、「境界」を強く浮かび上がらせる。 それだけではない。第三巻に入ってから、登場人物らはお互いの距離も意識し始めたように思える。Hirukoとクヌートは近づき、ノラはナヌークへの想いを新たにし、逆にナヌークはそこから逃がれようともがく。みんなから煙たがられるSusanooも、その態度をさらに荒ぶらせ、否が応にも「境界」を際立たせる。 かと言って、周囲からにじり寄ってくる「境界」をそのまま受け入れることはできそうもない。「境界」が揺らぎ続けている実感は、間違いなくあるのだから。 Hirukoたちは事あるごとに甲板へ出る。「境界」のない海と空に身を晒すことで、存在を慰めようとしているのかもしれない。 何にも縛られず、カモメは自由に飛んでいく。甲板から投げつけた空瓶は、カモメには当たらず海に落ちて沈んでいく。誰のものでもなくなったゴミは、太平洋のどこかに堆積して新しい島をつくるかもしれない。 すべてが繋がっているようでバラバラで、でもやっぱりよく見たら、大きなひとつであるような世界。ここを矛盾なく生きることは、はたして可能なのだろうか。 家になりたい、とHirukoは言った。これまでの船旅とは違い、自分は乗客の一人であることをやめて船そのものになろう、という提案にも感じる。 宇宙から見たら地球も船みたいなものだ。話がぐるぐると回り続ける。自らの尾を噛んだウロボロスのように、ミクロがマクロになり、マクロはミクロに還っていく。 Hirukoの旅は終わらない。読み手には、想像力の翼だけが残される。
  • 2026年6月27日
    星に仄めかされて (講談社文庫)
    susanooがいよいよ口を開き、抽象度のギアがぐんと一段階上がった。長編ならではの大がかりな展開に胸が躍る。 Hirukoの渇望する「共感」に導かれるように、登場人物たちの旅は続いていた。でも、この旅に同伴する者たちの目的はいったい何なのだろう。 自身の生活は徐々に犠牲にし始めている。でも、誰もそんなこと気にしていない。何かに突き動かされるような情動は、単純に興味と言ってしまえるほど軽いものでもない。 それぞれが問いかけ始める。無意識に囚われていた「境界」を確認して、自らの世界を改めて構築しようと試みる。が、記憶のなかに、いや思考力や想像力といった脳内の世界のなかには、腑に落ちる地平を見出すことができない。 象徴的なのはロンドだ。手を繋ぎ、輪になって躍る。ここには「共感」を超えた、身体同士の「連帯」がある。 これからは船旅がはじまるのだろうか。狭い船室で共に時間を過ごしながら、ひとつの生命体としての可能性を見つけるのかもしれない。 振り落とされないよう、船にしがみついていなければ。まずはケープタウン。楽しもう!
  • 2026年6月24日
    地球にちりばめられて (講談社文庫)
    留学中に祖国を失ってしまったHirukoを中心に動き出す物語。極東の島国は自然災害で沈没したようにも仄めかされるが、はっきりとしたことは分からない。遠い昔の人々の記憶から消え去ろうとしている国とも読めるが、そうするとHirukoという一人の人間に起こった出来事であるはずがない。 時空が歪む。だから読みながら焦点を合わせようと目を細める。すると、うっすらと見え始める景色がある。失ったのは国そのものではなく、自分自身が拠って立つ根拠ではなかろうか。 つまりアイデンティティ。国籍はもとより性別や家族など、物語の中ではさまざまな境界が揺らいでいる。 なかでも大きいのが言葉だ。Hirukoはスカンジナビア地方の言語をつぎはぎした、パンスカという自作の言語を話す。言語が変われば思考そのものも変質する。私は誰だろうと考えるときも、言葉からは離れることはできない。 だからもしも言語がオリジナルになったとき、個人はこれ以上にないほど差別化される。ただ、共感はされない。だからHirukoは、母語話者との会話を求めて旅に出る。この旅路に巻き込まれる登場人物たちもまた、言葉の問題に直面しながら、次第にぼやけていくアイデンティティに心が揺れる。 境界を越えていくのではない。境界そのものが疑わしくなるのだ。これから私たちが迎えるかもしれない、個が解体していく世界を予感させる。 Hirukoの旅は始まったばかり。さあ、二巻目へ急ごう。
  • 2026年6月21日
    完全に平等で、非常に差別的な
    完全に平等で、非常に差別的な
    20世紀の革新的なダンサーたちに言及しながら、西洋で生まれたバレエという権威的な形式が、どのように拡張されてきたかを紐解いていく。 踊る意味を根源的に問い直すうえでは、西洋に対するところの東洋の「未開の野蛮さ」だけではなく、身体的なハンディキャップという健常者には持ち得ない感覚も、無視できない大きな鍵となる。著者のキム・ウォニョンさんも障がいを持つダンサーであり、自身のこれまでの経験も、本の内容をより豊かなものにしてくれている。 たとえばこうある。 『わたしたちは、各自の行為を規律する多様な社会的「振り付け」の中で生きていく』が、『その規則の権威よりもっと大きな正当性の源泉がわたしたちの中にあ』り、『政治や法、芸術における進歩や革新は、時に「いま存在している形式よりもっと賢明で、もっと大きな何かがある」という確信によって推進される』 無意識下の常識を、「社会的振り付け」と呼ぶのは、とても腑に落ちる。自覚のない身体の反応によって引き起こされる差別は確かにある。ここに違和感を持ち、より大きな正しさに身を委ねることで、私たちは世界を更新してきたのかもしれない。 でもキムさんは、『正当性の源泉を「われわれ」だけに限定してはならない』とも釘を刺す。正しさを自ら塗り固めて肥大させていってしまう、現代のエコーチェンバーも頭をよぎる。 『反応とは、ある外部刺激に対し社会的・生物学的に決められたいくつかの標準的な形式を迅速かつ効率的に取捨選択する、わたしたちの戦略的な対応策だ。(中略)その反応に対するわたしたちの反応として可能な選択肢は「相手を攻撃する」または「自分を破壊する」だろう』 これでは望むべき進歩へは向かえない。そこで思考の補助線として引かれるのが、コンタクト・インプロビゼーション(CI)である。 CIとは日本語にすれば接触即興となり、複数人が身体の一部をくっつけたままダンスをするジャンルだという。身体の動きには他人からの制約がかかるが、逆に自分一人では発想されなかった身体運用へと導く可能性にも開かれる。 『より大きな接点で(複数の)他人とつながることで、パターン化された少数の選択肢から抜け出すことが可能になるのだ。これを、反応(react)と区別して対応(response)と呼ぶことにしよう。CIをおこなう二人は「反応」から「対応」へと移っていく』 私なりに解釈すると、この「対応」へと身体が開かれることで、大きな正当性が具体的なダンスとして宿り始めるのだと思う。そうした過程を踏むことこそが、あるダンスを「善い」と感じるときの判断材料にもなろう。 ここには健常者も障がい者もない。もちろん、これから新たに投げ込まれる視点もあるに違いない。でも本書に出会えたことで、ダンスに触れる作法の現在地については、ひとまず確認できた気がしている。
  • 2026年6月12日
    踊る菩薩たち
    踊る菩薩たち
    法華経はお経の最高峰にある、というイメージは何となく持っていた。「ほんとうの法華経」という、橋爪さんと植木さんの共著を手に取ったのはいつだったか。内容があまり思い出せないところを見ると、私には手に余る難しさだったのかもしれない。 本書を開き、そんな法華経と久しぶりの再会を果たした。あれ?こんな感じだったっけか。何と言うか、とても親しみやすい。岡田さんが法華経を心から面白いと感じているのが、そのまま読者の私に伝わってくる。 素人が触れても楽しめるような文学的な魅力がありつつ、出家して修行を積んだ方々にも届く教義にも満ち溢れているのが、法華経なのだろう。全てを包み込むような大らかさを感じられたことが、今回の読書の何よりもの収穫だった。 地面が割れて躍り出てくる菩薩たち。想像するだけで心が浮き立って、こちらも音楽を奏でて迎えたくなるではないか。大真面目に、この空気感は本当に素晴らしいと思う。 解釈の仕方が多様なだけに、望ましくない実践へと向かう懸念も、もちろんあるだろう。ただ、自分の今日や明日がどうありたいかを考えたときに、法華経に寄りかかれる安心感は充分に理解できた。
  • 2026年6月8日
    忘れられない日本人ーー民話を語る人たち
    忘れられない日本人ーー民話を語る人たち
    民話とは、土地に根づいた昔話である。ストーリーの合間からは、現代では失われつつある風習や社会常識などを読み取ることができる。だから学術的な資料としても価値は高い。まるで古代史の謎が隠された遺跡みたいだ。 でも、よく考えてみると、それは民話の一側面に過ぎないのかもしれない。 民話は、語る人とそれを聞く人がいる場があって初めて立ち現れる。つまり、その場その場で生まれては消えていく。消えてしまうのではあるが、聞いた人の体の中には何かが残る。そして、それぞれの人生の中でゆっくりと熟成されて、いずれ聞かせたい人が目の前に現れた時に、また新たな民話としてこの世界に生まれ出てくる。 本書では、民話を語る人に焦点を当てることで、民話がまさに息づいている場を描き出そうとしている。私には、この試みが見事にはまっているように感じた。途中で挿入される民話の、なんと温もりのあることか。いままで読んできたものと全然違う。胸に響く。 もしかしたら民話とは、内容以上に、こうした「語りの場」こそが主役なのかもしれない。語り継ぐという場面は民話以外にも色々あるが、何より大切なのは、場をどうつくっていくかなのかもしれない。
  • 2026年6月6日
    ちぐはぐな身体(からだ)
    他人からどう見られたいか、それを表現する手段を、私はファッションだと思っていた。おそらく間違ってはいない。けれども、表現する対象である見られたい私というのは、よく考えればかなり曖昧なものである。 自分の身体は直接見えない部分がたくさんある。見えるところだけを頼りに、パッチワークのように繋ぎ合わせて全体をイメージするしかない。この自分でつくりあげた〈像〉こそ、我々が最初に着る服だと、鷲田さんは言う。 もしも服がなければ、自分が自分でいられない大変な事態である。まず自分があってそれを表現するのとは、真逆の捉え方になろう。でも人間がファッションへと突き動かされる情動を考えたとき、自分を確かめざるを得ないという逼迫した状況は、どこか近しく思えるのは確かだ。 日本では無印良品の登場以来、個性的とは異なる極を目指すトレンドが根強く続いている気がする。また、根っこは同じ気がするのだが、毎朝服を選ぶのに脳みそのカロリーを使いたくないから同じTシャツしか着ない、という考え方をポジティブに捉える声もよく聞く。 でも、どんな服を着た自分も、他者の他者としての想像でしか確かめることはできない。だとすれば、自分の身体とぴたりと一致させるような〈像〉を描き出すことは、不可能に近いのではないか。 何かが違うんだよな、という消化不良を抱えたまま、かと言って裸で過ごすわけにもいかないから、私たちは毎日服を着続けている。ファッションは、そんな私たちの乾いた心をあの手この手で絶えず潤し続けてくれているのかもしれない。
  • 2026年5月31日
    ふだんづかいの人類学 気づきと観察力を磨く19の練習
    何かに似ていると思ったら、そうだ。俳句をつくる発想法である。 幾度となく入門書を開いては神妙に頷きつつ、真面目に実践しようとしないから素敵な句など思いついた試しがない。今回の読書を機に…とは思ったけれど、専用のノートをつくるという第一歩さえ、すでに億劫がってる自分がいる。 観察や分析に費やす時間があるなら、いろんな本をもっと読みたい。元も子もないが、これが正直な気持ちで、実際そう過ごしてきたものだから、「気づき」の能力は開花しないままである。 読書からだって新しい発想が生まれそうじゃないか。たしかに、そうかもしれない。でも本書で紹介されるエクササイズと大きく違うのは、知識欲を能動的に働かせているかどうかだと思う。 なにか知りたいことを見つけたら、とにかく手に届く範囲の情報を集めまくる。多ければ多いほどいい。それらが何の役に立つかなんて分からない。むしろ意味なんか見えない方がいい。続けると不意に、今まで考えもしなかった疑問が頭をよぎるかもしれない。こうなれば、しめたものだ。気がつけば探求の道のりは、自分だけのものに変わっている。ただ「見ている」のではなく、オリジナルの「見方」を獲得したとも言えるだろう。ここに来て観察は非常にクリエイティブな作業になる。あくまで他者である著者の探求をたどる読書という行為とは、異なる体験が待っていることだろう。 なにもノートを片手に出かけなくても、いまはスマホのメモ機能だってある。気負わずに言葉集めくらいから始めてみようか。 それにしても本書は、ずいぶん魅力的な本が数多く紹介されている。生物学者デヴィッド・ジョージ・ハスケルの「ミクロの森:1mの原生林が語る生命・進化・地球」はいつか読みたいなあ。ああ、やっぱり観察が縁遠くなりそう。
  • 2026年5月17日
    社会
    社会
    複数の体と体をつなぎ、社会をつくる条件とは何か。ゼロ地点から積み上げるような原理的な考察は、かなりエキサイティングなものだった。 社会をつくるのは、「性」「言語」「権力」の三つの作用であるという。「言語」は全ての前提となるのでおいておくとして、私には、いま生きている社会が極端に「権力」の側へ傾きすぎているように思えた。 たとえば様々な場面で、「言語化」が求められることが増えている。これは自分の内側にあるあれこれを「形式」に落とし込むことで、自分以外の体と共有することに他ならない。つまり意味の整合性をはかる「権力」による、人との繋がりをより重視するようになった傾向にも見える。 さらに、飛躍するようだが、この背景には資本主義がべったり張り付いている気もする。 なぜ内側を共有したいのか。きっと、共有こそが「価値」になるからだ。だからいとも簡単に「貨幣」に置き換えらる。貨幣も言葉と同じく形式であるから、さらに遠くにある体の内側をも次々に通り抜けていく。 でも、こうして突っ走ってきた資本主義は、行き詰まりを見せ始めている。もちろん地球環境などの外的な問題もあるが、それぞれの社会が一度は受け入れた「貨幣」のような共通の価値について、体の内側のレベルで違和感があることに気づき始めたようにも感じられる。やっぱりその言葉の意味は私たちの感覚には置き換えられない、と感じることは自然にあることだろう。無意識下にあった「宗教」の違いも無視できなくなる。そうなれば「権力」の地盤は大きく揺れる。 だから、みんなが改めて考える。そもそも私たちは何で繋がっているのだっけ? ゴリラの研究で有名な山極さんが言っていた「社会脳」の話を思い出す。人間の脳は社会集団のなかで生活するために大きくなった。顔や性格を覚えたりする複雑な処理が必要なためだが、その許容範囲は大体150人くらいだという。 たとえばこれを、直接声が届くくらいの距離と考えたらどうだろう。文字が生まれる前の言葉、つまり誰々の体から発せられた声という、体から体へと直接働きかける作用による繋がりこそ、私たちホモサピエンスがつくれる社会の規模と考えられなくもない。 もちろん「権力」による繋がりによって、私たちの生活水準が向上して来たことは疑いがない。でも、これからの社会を夢見るにあたって、それに加えたオルタナティブな作用を模索するのも楽しそうである。 先日読んだアメリカのスモールタウンの話も思い出した。毎週金曜日の夜、コミュニティのメンバーが近所の公園に楽器を持ち寄って、自分たちのルーツであるアイリッシュ音楽を演奏する。車座になって音楽を楽しむ人たちは、おそらく「言語」にならない何かを、肌と肌で確かめ合っているのかもしれない。 こうした人とのつながり、社会のあり方は、前近代的なものとして忘れ去られようとしている。だが、それを未来へと希望として捉え直した時、現代のテクノロジーを利用した新たな工夫も考えられよう。ここから生まれる幸せは、私たちの生活をより豊かにする可能性だってある。 橋爪さんは言う。「生まれてからの出来事の積み重ねを考えてみよう。家族、学校、就職、結婚…。そうでなくてもよかったが、そうであるしかなかった出来事の積み重ね。自分のあり方が偶然に左右されたからと言って、いまこの自分にコミットしないでいいわけがあろうか。(中略)近代も同じではないだろうか。自分が生きるその社会なのだから」 現状を解体しようと試みるのは、未来への夢想に手を貸して、責任を持って実際の一歩を踏み出すためだ。これはきっと知の巨人による高らかな鬨の声。そう思ったら、なんだか胸が熱くなった。
  • 2026年5月15日
    ミャンマー、優しい市民はなぜ武器を手にしたのか
    自然災害などを前にした無力感は、大なり小なり誰にも経験があることだろう。でもその相手が人間であったら…。無力感はより大きく、より深くなるに違いない。 なぜ、分かってくれないんだ。同じ人間であれば通じるはずの当たり前が、いくら投げかけても届いてくれない。何度も何度も何度も、あの手この手で辛抱強く繰り返しているのに、返ってくるのは見当違いの暴力だけ。 もしかしたら言葉は通じないのかもしれない。「非暴力による民主化」という正しさは、「暴力による恐怖」によって徐々に蝕まれていく。それでも心に残る「未来への希望」まで脅かされたとき、正しさはこれまでと同じ顔ではいられなくなってしまう。 80年間、戦争をしてこなかった日本はたしかに素晴らしい。でもこうした多面的な正しさに、私たちは正面から向き合えているだろうか。 西方さんは言う。 「ここにきて気がついた。戦争反対、というのは確固たる信念ではなく、ただの思考停止だった。(中略)だけど今は、戸惑いながらも、思う。正しい戦争は、あるのかもしれない」 「武力闘争を美化するつもりは決してない。だが、武器を手にしてまで希望ある未来を生み出そうとするミャンマーの人々の思いに、私は共感する」 これはもちろん、ただ戦闘に賛成しているわけではない。完全に信頼を失いつつも、相手が同じ人間であることは、変わりない事実なのだから。 戦争は嫌だ。ただ、皆が反対すれば戦争は起こるはずない、などと考えるのはあまりに楽観的にすぎるのかもしれない。ミャンマーで続いている惨状は、83%もの民意が一方的な暴力によって覆された結果だ。圧倒的多数の想いや行動があってもなお、正反対の状況へと流されていってしまった現実を前にして、心がかき乱され続けている。
  • 2026年5月5日
    犬婿入り (講談社文庫)
    うっかり母国語を見失い、はたと辺りを見渡したら、世界がこんな風に動いていたので、そのままに記録してみました。多和田さんの作品に、私はいつも、そんな雰囲気を感じる。 言葉とは世界を切り分けるものである、と言っていたのはソシュールだったか。もしも、その切り分けていた仕切り板がフニャフニャに溶けてしまったりすれば、目の前に現れるのは世界そのものと言えるだろう。 とてつもなく面白い現象が繰り広げられているのに、言葉がないので記述できない。そこで忘れかけた母国語と新しく習得した外国語といった、不確かな道具をなんとか駆使して表現を試みる。 そんな稀代のアーティストによる作品に、人々は酔いしれる。でも、興奮しつつページをめくっていくうちに、読み手は母国語の使い勝手の悪さにも気づかされ始める。いままで疑ったことすらなかったのに…。頼りにしていた地面がひび割れて、するする崖下へと滑り落ちていく。必死に岩壁にしがみつこうとするも、手に持っている杭やロープの、なんと脆く、心許ないことか。 こうなれば、安全な場所からただ面白がっているだけでは済まされない。谷底にまで降りていき、前触れもなくやって来た「太郎」受け入れ、ときには「能面」を被って外に出てみたりする。そして、思うかもしれない。ありのままの世界では「嘘」なんか要らないじゃないか、と。 芥川賞ということは新人の時の作品なのか。多和田さんは新作長編も出ているようだけど、やっぱり昔の作品から読んでいこうかな。
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