ごうき
@IAMGK
2026年5月16日
李陵・山月記
中島敦
読み終わった
中島敦『山月記』
「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」
高校3年生(2年生かもしれない)の頃に授業で読んだきりだったが、今度ある読書会に参加するために再読した。2回目である。
やはり名作だ。どこからどこまで、エッセンスが詰まっている。とても良い文学作品だ。中島敦って、こんなに良かったのか。
本作には様々なテーマが込められており、だからこそ読む人にとって受ける印象が違うのだろう。また、或いは解釈の違いもあるのかもしれない。「李朝は虎になっていない」と言う説もあるくらいなので。ただ、最初に着目すべきはやはり文章の形式であろう。この作品は李徴に焦点が当てられているが、物語として、李徴の鉤括弧が付いている台詞は、序盤に虎として叢から躍り出た時の「あぶないところだった」「如何にも自分は隴西の李徴である」しかない。その他の台詞には一切の鉤括弧がついておらず、物語の進行とともに李徴の独白は量を増していく。これにより李徴の語りは物語そのものとなり、李徴は自己劇化される。自己劇化し李徴のバックストーリーを作中作のように配置することで、我々は袁傪に共感しながら、李徴を客観視することができる。
さて、この作品は「内面のコントロール」「罪と罰」「芸術家の苦悩」といった様々なテーマを包含しているようだが、やはり「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という語が有名なように、一番大きなテーマは「芸術家の苦悩」であろう。思うに芸術家の素質は例えば孤独であることやら矜持心やら青臭さやらナルシシズムであることやら己への厳格やら色々な要素があるだろうが、一番大切なのは謙虚であることだろう。これはナルシシズムとは異義に思えるが、そうではない。あくまで芸術家として自信家な姿勢を見せつつ作品に対しては謙虚である、そういう姿勢だろう。袁傪は虎になった李徴の詩を聴き、「作者の素質が第一流に属するものは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか」と述べる。この「何処か」とは、紛れもなく謙虚であることだろう。不思議なものだ。作品への思惑や姿勢は、作者が意識しないところで読者に読み取られる。作家に唯一コントロールできないもの、それが作家の生まれながらの内面であり、これが本作品のテーマの一部である「内面のコントロール」であろう。これは鋭敏なる読者には、例えその読者が文章の鍛錬をさほど積んでいなくとも、すぐに直感できるものである。そして李徴はそれに勘付いていた。しかし、勘付いたのが、少し遅かった。そしてそれを勘づいて初めて、己が中途半端な精神、即ち「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」と詩作への油断が、妻子を苦しめていたと言うことに気がつくのである。
李徴は人間にも芸術家にもなりきれないようであるが、謂わば芸術家としての矜持を持ちながら、そうして芸術家として生きる性質を持たなかった、そうして生活を送る能力のなかった人間だったのだろう。そうしてこういう人間は現代にもごまんといる。芸術家や芸能人、その他何者かになろうかと思いつつ、けれども何者にもなれない、年齢は歳をとっているけれども年齢は若いフリーターのような夢追い人、そういう人に重なるところがあある。そういう点では、本作は芸術家を志す人間の手本・バイブルとなるポテンシャルを秘めていると言えるだろう。


