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2026年5月17日

愛と人生
滝口悠生
滝口悠生さんの『愛と人生』に収録されている「かまち」と「泥棒」の連続する二作の短編を読んで、同じく滝口さんの傑作長編『長い一日』のことを思っている。「かまち」で記憶の編集と出力について考え「泥棒」でそれを試行錯誤のうえ実践してみせ、後に日記という出力形式を経て小説に至る『長い一日』で完成をみる。というのは、まあ、わたしの想像だしそれぞれの作品はそれだけでも素晴らしいのだけれど、そんな経緯を思えばさらに特別なものにも思えてくる。これから書こうとしている夏の日記もそんな風に書けたら良いな、とも思いはじめている。分不相応かもしれない。
5,6月の記憶を元に編集され出力される日記に「夏」と冠をつけて考えるのは先走っている気もするけれど、本を閉じて立ち上がり、トイレに行ってからコーヒーを淹れようとポットをコンロにかければ、その動きとコンロの火で少し汗ばんでくる。さっきまで心地良い気候だと思っていたのに。多少の不快感と一緒に、ああ、たしかに夏かも、と思う。季節の方が先走っている感は否めないけれども。窓から入ってくる風は、それでもまだ心地が良い。窓辺でコーヒーを飲んでこんなことを考えられている今日もやっぱりOKだった、と改めて夏の日記にも書いておきたい。
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「伊選さんの噺がどこまで事実に即したものなのか、どこからどこまでが創作なのか。またその創作が、意図的なものなのか、そもそも伊澤さんの記憶のなかで書き換えられて事実となった嘘なのか、誰も判断ができない。そもそもそんなこと、創作なしに語れるものだろうか。」
「かまち」(p172)
小説、だけでなく日記でも随筆でも、そんな風に思える文章が好きなのだと思う。
#本と日記のある過去








