
ゆい
@no1sin
2026年5月18日
自然のものはただ育つ
イーユン・リー,
篠森ゆりこ
買った
読み終わった
図書館で借りて読了したが、半ばまで読んだ辺りでこの本は必ず買って手元に置くと決めていた。
読んでいる間にピューリッツァー賞を受賞したようで、大手書店から在庫が消えかけていた。すぐ重版がかかるだろう。
長男を16歳で、次男を19歳で相次ぎ自死により失うという、壮絶な状況に置かれた作家によるエッセイ。
>でも、行き場がないというその考えは、ヴィンセントが死んだいま誰にも驚かされないという発言と同じように、誇張した表現だ。苦しみが大きいとき、そうした誇張は避けがたい。感じたことがろくに吟味されないまま、考えたことのような顔をするのだ。それどころか事実のような顔を。
>今回は感じたことが、考えたことや事実であるかのように勘違いしないよう気をつけている。(P.31)
と書く著者の、徹底的な眼光の鋭さが全編に張り詰めた緊張感をもたらしている。
ぱっと見のタイトルと書影から想起されるような、ある種セラピー的な雰囲気は全くない。
ごくシビアな面を持つ本書はしかし、喪った子どもたちへの深い愛で満たされている。往々にしてそれを包むことになる、甘やかな感傷を極力排して表される愛。
彼女の際立った観察力と記憶力、表現力によって書き起こされる在りし日の息子たちの人となりは個性にあふれ、とびきり魅力的で時折危うい。彼らについての具体的なエピソードの数々がこの本をひときわ素晴らしいものにしている。
ティーンエイジャーが、とりわけ自死を選ぶ子どもが親に自らの心のうち全てをさらけ出すことはほとんどの場合ないだろう。子を喪った親が子どものことを語るときには、さまざまな理由からその子との思い出の美しい部分を掬い取りがちであろうとも思う。
命を絶った子どもたちがこの本で語られることをどう受け取るのか(ちなみにこのエッセイは基本的には弟のジェームズのための本とされていて、先に旅立った兄ヴィンセントのための本は別にある)、第三者には全く判断のつかないことだけれども、少なくとも子どもたちを一人の人間として尊重するため、考えに考え抜いて綴られた言葉ばかりだということは文章が信じさせてくれる。
大切な人を喪った相手と関わるときにまで自分を主役にしてしまう人々、的外れな行動をしてしまう人々を語る書きぶりのエッジの利き方も印象的だ。
一方で、真に相手のことを想って寄り添える聡明な人々のあり方も心に残る。
徹頭徹尾死に向き合う本であると同時に、思考というものの凄味を思い知らされる本。この先の岐路で何度も読み返すだろう。
> 私の庭は希望や再生の比喩にはならない。花に明るさや楽観の使者となる務めなどない。自然のものはただ育つだけだ。自死願望のあるバラも怒るバラもいないし、抑鬱状態のユリも反抗的なユリもいない。植物が目指すところは一つだけだ。生きること。生きるために、可能なときは育つし、必要があれば休眠に入る。死ぬまでは生き──やがて自然が定めるままに死ぬか、ほかの自然の要素に切られるかだ。庭はいっときだけ場をとっておくもの。花はプレースホルダー。(P.91)
> 子どもが死ぬと、動詞も死ぬことがある。子育てする、養育する、パンケーキをZより先の文字に形作る。こういう死んだ動詞は、時間の琥珀に包まれた蜂や蟻や蝶のようなものだ。 死なない動詞は「いる」だ。ヴィンセントはヴィンセントでいたし、ヴィンセントでいるし、ずっとヴィンセントでいるだろう。ジェームズはジェームズでいたし、ジェームズでいるし、ずっとジェームズでいるだろう。私たちは二人の親でいたし、親でいるし、ずっと親でいるだろう。いまと次とか、いまと後なんてものはない。いま、いま、いま、いまだけだ。(P.113)



