JUMPEI AMANO "流されながら抵抗する社会運動..." 2026年5月22日

JUMPEI AMANO
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@Amanong2
2026年5月22日
流されながら抵抗する社会運動:鶴見俊輔『日常的思想の可能性』を読み直す (いま読む!名著)
今日は友田さんさん『「手に負えない」を編みなおす』のイベント対応で福岡出張。羽田までの電車で第4章を読む。 〈社会運動のこの二重性は、ある社会運動がその集団目標達成に失敗しても(実際、成功は少ない)、しばしば「失敗」とは判断・総括されない理由を説明してくれる。[...]/これらは、社会運動をその目標(集団目標)から演繹させるだけでは見えてこない。個々人の営みに即して社会運動を位置づけることで、初めて観察可能となる地平だろう。/では、「集団目標/個人目標」という形で社会運動が二重性を不可欠に持つとして、両者の結節点にあるものは何か。言い方を変えれば、日常の中で様々な欲望を抱く個人が、抽象的で集合的な社会運動という営みに関わるとすれば、その鍵となる要素は何か。〉(173頁) シンプルだけど、押さえておきたい見方だと思う(「鍵」の答えは本書にて)。 以下のくだりはジェイク・ホール『みんなこうして連帯してきた』とも通ずるものがあって面白かったな。 〈社会自体が必然的に「失敗」を生み出し、否応なくそれに対する抵抗が必要になると考える場合、その前提からすれば、社会運動の必要性から逃れられる人はいなくなる。正確に言えば、何も知ろうとしないか知った上で無視を決め込む場合や、発生する「失敗」で被害を被らない者たちならば無関係でいられるかもしれない。しかしそうでない大多数の人々は、社会運動の当事者にならざるを得ない。〉(175頁) 〈社会運動が単一の理論を信奉する「主義者」たちの営みでしかないのであれば、細部までの判断の一致は、その理論の妥当性を体現するものとして歓迎されるはずだ。しかし、社会の「失敗」に対する抵抗としての社会運動という見方からすれば、その運動の根拠は理想の一致にあるのではない。もちろん、「シングル・イシュー」としての目標の共有はある。だがそれは、どちらかと言えば消極的な、強いられた一致だ。〉(177頁) 思想とは、主体性とは何かについても、現代的に思われる。 〈思想を「信念と態度の複合」だとするならば、それは「知識人」の専有物ではなく、生きている誰しもが持つものだろう。そして、矛盾の少なさや材料の多さを競うような作品としてではなく、どこからどこに向かうという「動き」自体が、思想の評価軸となる。〉(184頁) 〈全き主体性など存在し得ない。流されながらの微々たる変化にこそ主体性を見出さなければならないのではないか。〉(191頁)
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