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JUMPEI AMANO
JUMPEI AMANO
JUMPEI AMANO
@Amanong2
文鳥の世話人/編集者。2025年3月からの読書日記(新刊書籍がメイン)。自分の仕事は「はてなブログ」にまとめています。
  • 2025年8月26日
    世界 2025年9月号
    松本創さんの兵庫の記事、李琴峰さんの新連載、胸が痛む。駒林歩美さんによる国際刑事裁判所・赤根智子所長インタビュー、大畑凜さんの論考も読む。『闘争のインターセクショナリティ』も読まなきゃなぁ...
  • 2025年8月26日
    20代からの文章読解
  • 2025年8月25日
    世界 2025年9月号
    竹峰誠一郎さんの論考、とても重要。望月優大さんの連載も流石。
  • 2025年8月23日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    読み終わる。 〈「からゆき」という語は、「あんにや」や「ズンム」としてすくいとられることで可視化された男たちと性差においては非対称性にありながら、「流民」状態にある点において相似となる女たちの群れの一領域を言語化することで可視化し、言葉によって歴史的存在として創造するために見出された名ではなかったか。〉(326頁) 〈森崎は「からゆきさん」という言葉に、「わたしはできるならば、村の人びとの思いにちかづきながら、そのことばにさわっていたいと思う」と述べる。〉(334頁)この森崎さんの言葉がとても良いし、このあとに展開される〈別様の「ふるさと」の感性〉の話も良かった。 私がもっもっと本を読んで勉強を続けたら、きっとより良く読める本だと思う。いつか再読したい。
  • 2025年8月23日
    光を見た ハンセン病の同胞たち
    「趙根在を語る——写真・映像・文章・人物」シンポジウムに参加。会場がそこそこ遠かったので「ハンセン病の同胞たち」を読みながら移動。 〈私は、切羽でツルハシを振るいながらとりとめもなく考えました。大陸のヘリと思っていた地は、四千万の同胞が生きる祖国の大地。山もあれば川もある、空には太陽、地下には石炭......そこでなら石炭掘りも悪くないな......自分たちの土地で自分たちのために石炭を掘るのだから......。〉(82頁) 〈まして、幾多の障害を身にもって終身隔離の憂き目にある恵楓園の同胞たちまでは、受け入れようと思ったにしても[祖国には]そんな力はまだないのじゃないか。現実は厳しいのだから、今すぐ受け入れられないのは止むを得ないとしても、将来において見捨ててはならない......。/だが、私には、見捨てるように思われたのです。〉(84頁)
  • 2025年8月22日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第四章七を読む。 「海の思想圏」(290頁)、森崎が希望を預けた異質なものたちの接触、「交流」、浸透の話(290-294頁)。面白い。まさに他者と出会いともに生きていくための思想。 第五章一〜ニも読む。 寺尾紗穂、いちむらみさこ、『小山さんノート』の話から始まる。おおっ、となる。そして「失対人夫」の、「後山」の、「土方」の、「ニコヨン」の、女たちの話へ。 〈私的領域での再生産労働や家庭内のケア労働が愛と呼ばれるに値するには、「エロス」を交わす者たちの間での協働が、ともにする労働が不可欠なのだ。その協働の契機を欠くかぎり、「後山」たちにとって、再生産(ケア)労働は労働という名に値しないだろう。〉(312頁)
  • 2025年8月22日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第四章四〜六を読む。 引用する気力体力が残っていないので簡単なメモ。森崎さん、すごいなぁ... ジェンダー論的に介入し、フェミニズム的な批判を行うためのフィクション(263-264頁)。 「からゆき」を階級と性だけでなく、階級と性と「民族」の交差性において捉えることで、加害性を捨象しなかったこと(272-273頁) 『遙かなる祭』に描かれた差異をめぐる遭遇。脱植民地化も脱帝国化も未だ完了してはいないということ(276-277頁)。
  • 2025年8月20日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第四章ニ〜三読む。日本の資本主義の「二重構造」を踏まえながら。 〈森崎が、香具師、テキ屋稼業の人びとに惹かれたのもまた、定住とは差異化される放浪という運動性であったと言えよう。明治初期に流刑者たちを従事させる囚人労働を「はじまり」のひとつにもつ炭鉱は、沖縄奄美群島などの離島民や、被差別部落、貧しい農漁村や山村の人びと、さらには、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島をはじめ、旧植民地出身者など、各地から流れてきた者たち、「流民」たちを構成員として成り立つ労働の場所であった。それは移動を基調とする点で、定住を基本とする農村や山村の共同体のあり方とは異質の原理や倫理を育む場所でもあった。〉(240頁) 〈小説『遙かなる祭』は、後期近代・現代の資本主義と労働、そこでの生のあり方を遠望しつつ、「都市雑業層」の生や身体性が示す微細な差異をこそ掬い取っている。〉(251頁)
  • 2025年8月19日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第四章一読む。 〈フィクションという言葉の機構で『遙かなる祭』を構成することで、森崎はなにをなそうとしたのだろうか。〉(230頁)
  • 2025年8月18日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第三章三〜六を読む。 〈その「逃亡を許されなかった魂」の苦しみと悲しみが文学となる。〉(223頁) 凄みのある一文。 生産ならざる生産や化学肥料とは異なる循環を描く、「分解の哲学」としての『椿の海の記』。あるいは、家父長制と資本主義に抗するケアの倫理。再生産労働の豊穣性。愛と労働を同時に生きる女たちの「エロス」に満ちた協働。そして、「もうひとつの、この世」の追求。豊かな読みが次々と展開されていく。 多くの人が知っておいたほうがいいチッソの歴史だけ、今回もメモしておく。 〈「椿の海の記』は、窒素水俣工場の価値観を描き出し、同時に、それを批判的に対照化する小説世界の価値観を提示している。というのも一九三一年とは、チッソがアセトアルデヒドの製造に成功した年だからだ。/[...]チッソが水俣に工事を設立したのは、一九〇八年である。石牟礼道子が生まれた一九二七年には朝鮮窒素が設立され、一九四四年には水豊ダムが完成している。そして、一九三一年、チッソはアセトアルデヒドの製造に成功し、翌一九三二年、チッソ水俣工場で、生産を開始する。/[...]アセトアルデヒドからは、プラスティックやビニールなどの原料になる塩化ビニールが製造される。アセトアルデヒドは、水銀を触媒として生成され、その過程で無機水銀は有機水銀、メチル水銀へと変化する。[...]メチル水銀こそ、水俣病の原因である。[...]水俣病は、もとは自然になかった物質が生態系の循環に入り込むことで起こった[...]〉(191-192頁) 〈アセトアルデヒドは、理論的には人造石油の生産まで可能とした[...]。アセトアルデヒドの製造によって、石油の輸入が仮にとまっても戦闘機を飛ばすことができるとも言われ、またアンモニアからできる硝酸は、火薬の原料としても活用された。宇井純や藤原辰史が強調するように、チッソとは、軍需製品をつくる軍需産業であり、その要のひとつがアセトアルデヒドの製造だったといえる。[...]チッソが植民地朝鮮に進出する利権を得ることができたのは、このような軍需産業としての貢献があってこそだと言える。〉(192-193頁)
  • 2025年8月17日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第三章一〜ニを読む。 〈みちこを通してらおもかさまという「老狂女」の半生を描くという意味で、『椿の海の記』は、他者の自伝であり、「狂女」の伝記である。その伝記は、人間社会を「健常者」と「狂者」に、女たちを妻と「妾」に、あるいは母性と娼婦性に分断し序列化する社会の構造を可視化し、それを超えゆき連なる世界の地平を描き出そうとする。その意味で、この私的な伝記は、歴史的社会的な文脈のなかで現象している。/事実、『椿の海の記』は、仔細に出来事の起こった日時を記すわけではないが、作品の舞台である水俣は、ある特定の日付を伴う場所として現れている。その日付とは、「昭和六年」だ。〉(181頁) と一にあるように、石牟礼の『椿の海の記』を掘り下げる章。歴史的に大事なところなので、基本的な情報もメモしておく。 〈チッソの歴史は、鹿児島県大口の曾木水力発電所から始まる。それがやがて日窒コンツェルンとなり、植民地朝鮮で大規模ダムを経営し電力開発事業を展開していくノウハウは、草創期の曾木発電所で培われたものだと言える。戦前のチッソの収益は、この朝鮮での電力事業に大きく支えられていた。戦後、チッソは国内の水俣に回帰するが、戦後のチッソの経営を支配していくのは朝鮮帰還組であったという。[...]鴨緑江節が示すのは、このチッソに体現される戦前の植民地開発と戦後の地域開発との連続性だと言える。〉(188-189頁) 〈『椿の海の記』の水俣とは伝統的で土着の閉じられた共同体でない。むしろ、それは、近代的な交通や交換、労働力移動と貨幣経済が入り込み、企業進出による開発を被る空間である。近代化(モダナイゼーション)される被開発の地域、その過渡期の時空の表象が、『椿の海の記』の水俣なのだ。〉(190頁)
  • 2025年8月16日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第二章三〜八読む。 〈真剣な言葉を通じた対話という意味で、それは武力を用いた戦争ではない。それはまた思想や言説、運動の圏域で行われる男たちの闘争とも異なる、女たちの争闘である。対話(ダイアローグ)という中村の方法から、わたし/たちは、森崎のダイアローグを想起すべきだろう。〉(160頁) 被害から権力への加害へ。忖度なしに、「根」を問い、「理」をただすこと。「その場で愛と労働を同時に生きようと」する世界への希求。この章もまた重厚...
  • 2025年8月15日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第二章一〜二を読む。 〈中村の『女と刀』は、(旧)武士階級の女のフェミニズムという点で大原の『婉という女』と交差し、同時に、「娘世代」による「母」という他者の伝記という点で、石牟礼、森崎らの言葉と交差している。これらの言葉の群れは、彼らの歴史(his-story)から零れ落ちてきたかの女たちの声の欠片を拾い集め、「もうひとつの声」の記憶(her-story)を紡ぐという言語行為において共鳴している。/また[...]石牟礼、森崎、中村の三人の娘による母の伝記は、いずれも、母恋いの担い手を息子から娘へ転じ、語られてこなかった女たちの記憶を拾遺し、口を噤まされてきた女たちの声を掬い/救いとっている。娘に規範を与える「母」の「呪い」や「束縛」は、そこでは、家族関係における私的で個人的な関係性であると同時に、社会的に構築された構造がもたらす抑圧であり、歴史的な出来事の現象でもある。かくして[....]〉(118-119頁) このあたりの導入的な整理、わかりやすいな。中村きい子の短編「かやかべ」も、著者の導きに従ってあらすじを確認していくだけでもだいぶ面白そう。
  • 2025年8月15日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第一章ニ〜八読む。第一章からこの重厚さ、すごいな...。難しいところもあったけど、森崎の「エロス」と「非所有の所有」について、手がかりをいただけた感じ。
  • 2025年8月14日
    インターセクショナリティで語る植民地支配と侵略戦争
    登録し忘れていた。ふぇみ・ゼミついでに購入。
  • 2025年8月14日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    第一章一「戦後文化運動と『サークル村』」読む。『サークル村』だけでなく炭鉱業についても基本的なところをまず押さえる。 〈炭鉱業は、明治期の日清・日露戦争、そしてアジア太平洋戦争の遂行を支えるエネルギー産業であり、石炭・石油をはじめとするエネルギー源の要求や需要は、日本の海外侵略や植民地開発を「合理化」し誘発する要因でもあった。日本の敗戦後、一九五〇年代になると、朝鮮戦争が日本経済に特需をもたらすが、炭鉱もまた、朝鮮戦争によって活気を得る。したがって、申知瑛が鋭く指摘するように、「日本においてサークル運動が活発になった背景には、朝鮮戦争による日本の経済特需(朝鮮特需)があった」のだ。/炭鉱は、日本の植民地支配とも密接な関わりを持っていた。[...]〉(42頁)
  • 2025年8月14日
    到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学
    〈かの女たちの言葉は、「小さな声」を不揃いなままで束にすることで、「わたし」という個を消し去ることなく「わたしたち」という群れとすることで姿を顕わすことを可能とし、その潜勢力を手渡すための言葉として読まれる。/「わたし/たち」の表現という点において、三人の女たちは、『サークル村』の集団論の批判的な遺産相続人である。〉(12頁) ここ数日はテンポよく読むことを重視していたけど、久々に腰を据えないと読めない本。 メモ:「わたし/たち」=「斜め線を引かれた女たち」については16頁、「思想文学」という著者の造語については20-25頁(前近代からの歴史をもつアジア漢字圏における「文」という言葉が念頭にあるという)。
  • 2025年8月13日
    物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために
    第4章のギャンブル批判と第5章のおもちゃ批判も読んだ。全体を通して、書かれていること自体はどの章もそこまで難しくないのだけど、5つの主体/遊び方がもつ危うさをどうかわしていくか、どう付き合い引き受け落とし込んでいくか、というところが個人的には難しく感じたので、他の方の感想も読みつつしばらく考えてみたいと思う。
  • 2025年8月12日
    物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために
    第2章のゲーム批判と第3章のパズル批判を読む。パズルについてはほとんど考えたことがなかったので、こういう先行研究があるのだなと勉強になった。
  • 2025年8月12日
    物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために
    長い第1章=物語篇を読み終わる。 2節に出てくる自己語りがもつ「改訂排除性」と「目的閉塞性」という二つの危険性についてはもう少し批判的に自分なりにも考えてみたい気がする(今の随筆シーンで語られる「特権的な一人称が真実を占有してしまう可能性」の問題とともに)。 結論部で提示される著者にとっての「ユートピア」をまだ具体的にイメージできていないので、第2章以降=探究篇を読みつつ考えたい。
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