中野 "仮面の告白" 2025年3月26日

中野
中野
@nowoyuku
2025年3月26日
仮面の告白
仮面の告白
三島由紀夫
「私」はあまりにも自己を理解している。理解しているというか、理性的に客観視出来ている。自分がどういう人間なのかを。そして、「自分から見た自分」だけではなく、「周りから自分がどう見えるか」までも見えている。 何故、ここまで客観視出来るのか、それは自分という人間・生を「生きている」という実感が乏しいからなのではないかと思った。自分の人生だというのに、まるで他人事のように思っている。故に、「私」が確かに持つはずの「私の肉体」という存在は「透明」だったのではないだろうか。この肉体は「私」が動かしているはずなのに、どこか自分と繋がっているような感じがしない。つまり、簡単にいうと、脳みそ(理性)は「私」のものだが、「肉体(=実体・生そのもの)」は他人のもののように感じられていたのではないかと考えられる。 「私」は男性である以上、園子という「女性」を愛す「べき」だと考えるが、「肉体」(自分の生、奥底に深く結びついた本能とも言える)は、男性─とりわけ粗野で逞しく、「死」に瀕していることで逆に「生」というものを強く感じさせるような─をひたすらに求め続けている。 周りから見た自分(=男性としての肉体を持っている自分)は女性を愛して「見せる」のが当たり前だと「私」は考えているが、その実、自分の「生」というものに実感がないので、女性を心の底から求めた結果にある、「結婚」という現実的な問題には気付けない。 「私」は「来るべき時」が来れば、「肉体」が「私」に追いつき、正常になり、女性を「心の底から」求められるようになると信じていた。性的指向はそういうものではないというのに。直すとか直るとかそういうことではないのだ。 なんというか、つまり「私」は「私」という男性の身体を持って産まれた「自分」を演じているに過ぎず、作中、人生を「舞台」と言っているのが本当の想いなのだと感じることが出来る。 同級生への「片想い」の描写の数々はとても瑞々しく描かれており、有り体に言うと「恋する乙女」のようだし、頭の先から爪の先に至るまで全身でそう「思って」いるのだろうと感じられる。しかし、園子への想いは、好意…女性とか男性とかの以前になんとなく好ましいという気持ちは確かにあるのだろうが、「女性だから好ましい」・「同い年の男ならそう考える」という、自分自身を無理矢理納得させるような述べ方なのだ。 園子の疎開先から帰る時など、「肉体」は早々に女性を愛することを拒絶し、むしろ「私」を追い抜いて「真実」にたどり着いているが、いまだに「私」は「気持ちがまだありながら女に見切りをつけた男はそうする」という物語的なルールに乗っ取って悲劇的な自分を演じているように見える。さらには、周りに「ほら、見てくれ!私は女を置いてきたんだ、自分を慕う女を、置いてくる。そんなことが出来てしまうような《立派な男》なんだ」とアピールもしている。 要するに「普通」の人生に嫉妬があるのだ、「私」は。男という性別に産まれた者の男らしい人生、それを寸分狂わずやって見せたかったのだ。 「私」という理性は、女性を愛するという普通の人生をすべきであると「今」でもどこかで考えている。園子という存在は、男らしい自分を演出するために必要な「装置」であり(特に園子は「私」にとって、実に初めて、並の男のように「愛せ」そうな…「来るべき時」を「私」に訪れさせてくれそうな予感のした特別な女性であるから…)、故に人妻となった園子と未練がましく逢瀬を続けてしまったのだろう。 「私」を本当に素直に三島由紀夫そのものと捉えてよいのなら、作中全体に三島のあの最期を予感させるような濃厚な香りを感じた。 あとがきにも書かれていたが、自らの、それでいて他人事のようにも思える生に絶望しながらも三島が生き続け、作品も作り続けていたらどんな作品が生まれていただろうか、と思う。読んでみたかった。生きていてほしかった。昭和という時代を抜け、平成を生きた三島を見てみたかった。 しかし、一方で人生を舞台のように生きた者にとってあれ以上美しく完璧な最期は無いようにも思われる。あの死に様こそが三島を三島たらしめているのだろう。三島が監督した「三島由紀夫」という舞台は、あのような幕引きでなくてはならなかったのだとわたしは思う。
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