

中野
@nowoyuku
古典〜昭和の日本文学多め (♡:夢野久作、江戸川乱歩、横溝正史、小栗虫太郎、山川方夫、三島由紀夫、星新一、吉村昭、吉屋信子、八木重吉、桜庭一樹、小田雅久仁)
- 2026年5月23日
仏像の誕生高田修気になる - 2026年5月23日
文学部で読む日本国憲法長谷川櫂気になる - 2026年5月23日
文庫版 絡新婦の理京極夏彦気になる - 2026年5月23日
吸血鬼遠野遥気になる - 2026年5月23日
毒婦の日本史小林明気になる - 2026年5月15日
禍小田雅久仁読んでるすごいものを読んだ 官能の極致 母性信仰と破滅願望 全てが入り混じったとんでもない話 もはやある種の怪異と言える《大いなる女》に導かれ、許され、現世を捨て、己を捨て、何もかもを忘れ、【母】の下へ還る… 頭をブン殴られたかのような衝撃を受けている やっぱりすごい人だ この人は… (↑「柔らかなところへ帰る」という作品の感想です。1番おすすめ) - 2026年5月8日
小川未明童話集 赤いろうそくと人魚・野ばらなど小埜裕二,小川未明,柊有花読み終わっためちゃくちゃよかった。母親の描かれなくても分かる美しさ、艶かしさと、人間を信じて娘を託したのにそれを裏切られた時の、ゾッとするほど静かで、でも深く呑み込むような怒り…超常的存在としての力の振るい方…。 - 2026年3月28日
絶歌元少年A読み終わった図書館本⚠️猫への筆舌に尽くし難い暴力の描写があるため、かなり注意です。「ああ、完全に“やったことないと書けない“ 文章だな」って分かる、「迫ってくる」書き方なので。目の前でやられてるみたいだった。 「元少年A」……つまり、あの酒鬼薔薇聖斗が書いた手記である。 この間、図書館で少年Aの両親の手記、『少年A この子を生んで……』を読んだので、次はこれを読まねばなるまいと思っていた。その時は見当たらなかったのだが、今日たまたま図書館へ行ったところ、サッと目を通した棚にわたしを待つかのようにその本はあった。今日は、いろんな本を濫読するつもりで訪れたのだけれども、時間を忘れてこの一冊を貪り読んでしまった。 死に焦がれ、死に極限まで肉薄した者の文章は、やはりわたしの心をどうしようもなく惹きつける。 彼がこの耐え難い、名状し難い死への憧憬・衝動を、もし、人ではなく紙にぶつけていたら?何か違う未来があったのではないかと考えてしまう。 嘘偽りなく、わたしは読みたかった。彼の書く物語が。 - 2026年1月24日
父と母 悔恨の手記 「少年A」 この子を生んで……「少年A」の父母読み終わった図書館本あの「少年A」の両親の手記だが、「普通の親」的側面の中にところどころ「ん?」となる部分が多々あった。しかし、それはわたしの思う「普通」からズレているだけで一般?にはもしかしたら妥協点であるのかも知れず、また時代も違うことであるし、「普通」とは何かを考えさせられる本でもあった。 少年がしたことが許されないことはもちろん大前提として、形は違えど死に魅入られた人間にとって、「生の素晴らしさ」とかを真正面から説かれるのって割と絶望ではある。「ああ、話通じないな、言っても一生わかんないんだろうな、この人たちには」って途方もない孤独を感じる。 そして、一般には「生の素晴らしさ」を語る人の方が「正しくて」、やっぱり死に魅入られた側は生きているだけで否定され続けていく。その自己への評価に対する不満や疑問が我慢の限界に達したのかもしれない。しかし、我慢の限界に達したとしても、やってはいけないことをしたのは事実。 わたしが1番ゾッとしたのは、息子の部屋でそういうビデオが見つかった時、母が父に相談して(? すみませんうろ覚え)、父が「そんなに見たいなら一緒に見よう」と言って息子の部屋で一緒に見始めたことがあったというところ。父と息子ってこうなのだろうか?普通、絶望じゃないだろうか。 思春期の男子のそういううっかり見つかっちゃったシチュエーションで考え得る限り最悪じゃないかと思ってしまう。ある程度、そっとしといてくれ(やれ)よ…と思いません?しかも「性教育」的な感じで真面目と言うわけでもなくライトな友達のような父親としてふざけてる感じでもなく、実に中途半端な感じなのがまた…。 - 2026年1月7日
- 2026年1月6日
卍の殺人 (中公文庫)今邑彩読み終わった図書館本 - 2026年1月6日
- 2025年11月25日
変な地図雨穴読み終わったもはやこれは絵本ですってレベルで図解してくれるからすらすら読め、雨穴さんのポリシーをひしひしと感じた 実は雨穴さんって横で「ね?わかりました?これはこういうことなんです」って読書をサポートしてくれる「怪異」なんじゃないかって思うくらい分かりやすい だからといって、分かりやすすぎるから怖くない・味気ないということは全くなくむしろ読み応えがあり、ちゃんとゾッ…とする部分もあり、ほんとに稀有な文章で、すごいなあと思う これからもずっとこの方の書く文章を追っちゃうんだろうな〜って読みながら思ってた - 2025年7月29日
べっぴんぢごく岩井志麻子読み終わった途中から、正確に言うと目も鼻も口も手も足もないけれど、確かに《女》として生を受けた冬子という存在が出て来た時、「ん?」と思った。何かに似ている、と。すぐに分かった。つい最近、と言っても今年の3月に読んだ、彩藤アザミ著『あわこさま ─不村家奇譚─』である。もっとも、わたしが出会った順が逆なだけで、本来は『あわこさま』の方が『べっぴんぢごく』に似ていると言った方が正しいのだが。 『あわこさま』も『べっぴんぢごく』も閉鎖された田舎の旧家を舞台に、因果な人間模様を描いた作品である。 『あわこさま』は、たまたま書店で見かけて気になった上に、彩藤アザミ先生の『昭和少女探偵團』や『エナメル』という作品を拝読した経験もあることから、「これは期待出来るぞ」と思って購入し、本当に偶然読んだと言える。 『べっぴんぢごく』の方は、もうハッキリ覚えてすらいないが、少し前にTwitterでおすすめ欄のどなたかの「〇〇好きな人は岩井志麻子の『べっぴんぢごく』も読んだ方がいいよ!おすすめ!」みたいなツイートを見て、すぐ「いつか買う本メモ」に追加してあった。とはいえ、当時は書店ですぐ手に入るものではなく、まあいつか購入するか、という気持ちでいた。岩井志麻子先生は『夜啼きの森』しか読んだことがなかった。これはわたしが「津山三十三人殺し」に興味を持ち、関連した書籍を読み漁っていた時にたまたま読んだだけなので、作者を特に意識してはおらず、上記のツイートを見ても「ああ、『夜啼きの森』の…」くらいの認識であった。 ちなみに、「いつか買う本メモ」には大量の書名が記してあるが、これを意識的に集めることはあまりない。もちろん、金銭的な意味で全てを一気に買うのが難しいというのはあるが、それ以上に本屋さんに行くとフィーリングで本を買うことが多いからだ。その時々で、気になる本は違う。「いつか買う本メモ」に書いた時は確かに気になってるし、自分のことだからいつか買うのは分かっているのだが、それは「今」ではないことがかなりある。つまり、「いつか買う本メモ」に書かれた本を購入するのは、「本屋さんに行ったその日のフィーリングと、本屋さんにその本が存在した時」という、極めて低い確率なのである。いつかの自分のために気になる本をストックしているのだ。 少し話が逸れたが、一昨日、たまたま本屋へ行ったところ、新刊コーナーに『べっぴんぢごく』という文字が見えた。「『べっぴんぢごく』………あ!あの『べっぴんぢごく』じゃないか!」と驚いた。なんと、全く知らなかったが、新しく角川ホラー文庫版が出ていたのだ。こういう運命にブチ当たることがあるので、本屋通いはやめられない。迷わず買った。こうして思いがけず『べっぴんぢごく』を手にした訳だ。 お化けだのなんだのひっくるめてホラーと人は言うが、結局突き詰めると人間の為したことが始まりであり、人間が「業」をつくっているのだ、人間という存在が真に恐ろしいのだと気付かされるような作品が好みのわたしにとって、『べっぴんぢごく』はとても面白く、どんどん読み進める内に上記の類似に気付いた。「うーん、似てるなあ、しかし、旧家を舞台にした《不思議》な話っていうものは、ある種王道とも言えるしな、多少の類似は有り得るか」と思いながら最後まで読み、そして、「解説」を読んでゾッとした。そこには、「『べっぴんぢごく』を参考にして書いたという、『あわこさま』も読んでみてください(意訳)」と書かれていたのだ。 類似しているのは当たり前であった。この二作品は言わば姉妹作品…いやそれは言い過ぎかも知れないが、『べっぴんぢごく』という作品がなければ『あわこさま』もなかったかもしれない、そういう繋がりが確かにそこにあるのだ。上手く言えないが、わたしはこのことがなんだか恐ろしかった。二作品とも作中で、呪われた家系を終わらそうとする人間がいるのだが、何か「大きな力」によって、「家」や「血」は絶えず続く「ようになっている」、というか「続けさせられている」。そういう運命なのだ。何人によっても妨げることの出来ない、呪い。 これに本…物語というものが似ていると思った。まず古典というものがあり、それを読んだ者が着想を得てまた新しいもの─しかし、必ずどこかでモチーフは繋がっている─を書く。それが絶えず続けられている。 まさに、この二作品は確かにそういう流れの中で生まれたものなのだ。そのなんとも言えない「途方もなさ」に背筋が冷える。 わたしという人間に焦点を絞っても、わたしが今まで培って来た読書体験、ひいては人生経験…それらが、わたしの趣味嗜好をつくり上げ、この繋がりのある二作品を「たまたま」手に取るような人間に「なった」という事実。これに気付いた時、幽体離脱して自分という存在を宙から見ているかのような錯覚に襲われた。本当に途方もないことだ。恐ろしいよ。しかし、一方でこういう体験がしたいから本を読み続けているのだと思う。バラバラに見えてもふとした時に何かが「繋がる」ことがある、その愉快さを感じるために。 - 2025年7月1日
「鬼畜」の家石井光太読み終わった現実の虐待子殺し事件を取り扱った本 少なくともこの三件の加害者たちに共通しているのは、自分を客観視する能力が欠如しているということだろう 自分の視点でしか物事を考えられず、というか客観視することを知らないという方が正しいだろうか 自分が生育した環境によって、「他者から自分がどう思われているか」、こう言う時「《普通》ならどうするか」ということを考えることを自分の親から教えられないまま自分の親になってしまったという感じ だから、あくまで本に載ってる部分で言えば、一人称視点でしか物事を語ることが出来ないのだと思う 想像力が欠如してる だから、自分の視点で言えば、「ちゃんと育てている」という供述になるのだと思う 第三者から見て、というか自分が第三者だと仮定するなどして、冷静に俯瞰して物事を見ることが出来ないから、異常に気付けないのではないか 常に目先のことを優先して動いているように思えた つまり、なんというか、知らないことが多すぎる(教えてもらってないことが多すぎる)「子供」のまま、自分が親になってしまい、パニックになってるという感じかな それでも子供を可愛がってる部分もあるのは、実際の子供だって年下の子供を「可愛がる」ことは出来るしな…と思う - 2025年7月1日
- 2025年6月18日
死と生の民俗田原開起,諸岡了介読み終わったお年寄りへの聴き取りを行って書かれている。「人間の生き死に」にまつわる「生きている(た)、民俗」を知ることが出来る。こうして誰かが残していかねば、消えてしまう。 - 2025年6月12日
不適切な昭和葛城明彦読み終わった昭和に生きると「汚れ」と密接だったんだと改めて気付いたが、そんな時代と共に生き、死んだ三島由紀夫が、汚穢屋の男などになんとも言えない崇拝的な気持ちを抱いたのって、やはりそれが眩しいまでの「生」の象徴だったからなのかなと思った。育ちがよく、「外」から断絶された環境で育った三島由紀夫は、そういうのから極力遠ざけられていたはずだから。汚れてまで外で遊ぶ健康的な男子たちは、とてつもなく「生きている」感じがして、なんというか、もっと詳しく調べないと断言出来ないが、「(昭和の)男というのは汚れている方が自然、男らしい」といったくらいのレベルの価値観がある中で、いつも綺麗に部屋で「仕舞わ」れている自分は、彼らとはどこかが違うと感じ、そこの差に魅力を感じていたのではないか、と。 身体は間違いなく、彼らと同じだが、「違う」。だからと言って、よく一緒にいる女の子たちと「同じ」かというと、これもまた圧倒的に「違う」。このある種の「歪み」が葛藤というか苦悩が人生の根底にあるのではないかと思った。 - 2025年3月31日
あわこさま―不村家奇譚―(新潮文庫)彩藤アザミ読み終わったとある「憑き物筋」の一族の100年以上に及ぶ因果を描いた物語 視点や時代を変えながら一族の不思議な話が展開していくので、ページをめくる手が止まらず、一気に読んでしまった 彩藤先生の作品は『昭和少女探偵団』以来の読書でしたが、やはり面白い - 2025年3月26日
仮面の告白三島由紀夫読み終わった「私」はあまりにも自己を理解している。理解しているというか、理性的に客観視出来ている。自分がどういう人間なのかを。そして、「自分から見た自分」だけではなく、「周りから自分がどう見えるか」までも見えている。 何故、ここまで客観視出来るのか、それは自分という人間・生を「生きている」という実感が乏しいからなのではないかと思った。自分の人生だというのに、まるで他人事のように思っている。故に、「私」が確かに持つはずの「私の肉体」という存在は「透明」だったのではないだろうか。この肉体は「私」が動かしているはずなのに、どこか自分と繋がっているような感じがしない。つまり、簡単にいうと、脳みそ(理性)は「私」のものだが、「肉体(=実体・生そのもの)」は他人のもののように感じられていたのではないかと考えられる。 「私」は男性である以上、園子という「女性」を愛す「べき」だと考えるが、「肉体」(自分の生、奥底に深く結びついた本能とも言える)は、男性─とりわけ粗野で逞しく、「死」に瀕していることで逆に「生」というものを強く感じさせるような─をひたすらに求め続けている。 周りから見た自分(=男性としての肉体を持っている自分)は女性を愛して「見せる」のが当たり前だと「私」は考えているが、その実、自分の「生」というものに実感がないので、女性を心の底から求めた結果にある、「結婚」という現実的な問題には気付けない。 「私」は「来るべき時」が来れば、「肉体」が「私」に追いつき、正常になり、女性を「心の底から」求められるようになると信じていた。性的指向はそういうものではないというのに。直すとか直るとかそういうことではないのだ。 なんというか、つまり「私」は「私」という男性の身体を持って産まれた「自分」を演じているに過ぎず、作中、人生を「舞台」と言っているのが本当の想いなのだと感じることが出来る。 同級生への「片想い」の描写の数々はとても瑞々しく描かれており、有り体に言うと「恋する乙女」のようだし、頭の先から爪の先に至るまで全身でそう「思って」いるのだろうと感じられる。しかし、園子への想いは、好意…女性とか男性とかの以前になんとなく好ましいという気持ちは確かにあるのだろうが、「女性だから好ましい」・「同い年の男ならそう考える」という、自分自身を無理矢理納得させるような述べ方なのだ。 園子の疎開先から帰る時など、「肉体」は早々に女性を愛することを拒絶し、むしろ「私」を追い抜いて「真実」にたどり着いているが、いまだに「私」は「気持ちがまだありながら女に見切りをつけた男はそうする」という物語的なルールに乗っ取って悲劇的な自分を演じているように見える。さらには、周りに「ほら、見てくれ!私は女を置いてきたんだ、自分を慕う女を、置いてくる。そんなことが出来てしまうような《立派な男》なんだ」とアピールもしている。 要するに「普通」の人生に嫉妬があるのだ、「私」は。男という性別に産まれた者の男らしい人生、それを寸分狂わずやって見せたかったのだ。 「私」という理性は、女性を愛するという普通の人生をすべきであると「今」でもどこかで考えている。園子という存在は、男らしい自分を演出するために必要な「装置」であり(特に園子は「私」にとって、実に初めて、並の男のように「愛せ」そうな…「来るべき時」を「私」に訪れさせてくれそうな予感のした特別な女性であるから…)、故に人妻となった園子と未練がましく逢瀬を続けてしまったのだろう。 「私」を本当に素直に三島由紀夫そのものと捉えてよいのなら、作中全体に三島のあの最期を予感させるような濃厚な香りを感じた。 あとがきにも書かれていたが、自らの、それでいて他人事のようにも思える生に絶望しながらも三島が生き続け、作品も作り続けていたらどんな作品が生まれていただろうか、と思う。読んでみたかった。生きていてほしかった。昭和という時代を抜け、平成を生きた三島を見てみたかった。 しかし、一方で人生を舞台のように生きた者にとってあれ以上美しく完璧な最期は無いようにも思われる。あの死に様こそが三島を三島たらしめているのだろう。三島が監督した「三島由紀夫」という舞台は、あのような幕引きでなくてはならなかったのだとわたしは思う。
読み込み中...


