
DN/HP
@DN_HP
2025年3月21日

読んでる
医療人類学者のクライマンの「説明モデル」という考え方からの流れが興味深かった。
「治療者と病者が説明モデルを共有して、その説明モデルに基づいて課題に取り組むときに、治療が生じる。クライマンは治療というものは一般的にそういうメカニズムで行われていると考える。」
「つまり、治療者は診断を告げることで、なぜ病いになったのかのメカニズムを説明し、そして治癒の形を呈示し、そのためにどうすればいいのかを説得するのだ。」
野の医者の「クライエントはそれを自由自在にブリコラージュして、自分なりの治癒を組み立てていく。だとすると、見立てとか診断とは、ひとつの物語を呈示することに他ならない。」
ここから少し飛躍していくけれど、わたしが小説、物語を読んでよく、選択肢を与えられたとか「救われた」とか書いたり思ったりしているのは、小説というかたちで呈示された物語を「共有」して「説得」され、そこから必要なものを取り出し、自分の「物語」、「治療」を組み立ていたとも言えるのかもしれない。その小説、物語に誰かを治癒する意図はなかったとしても、それを読み楽しみ感動しながら「共有」しいつのまにか「説得される」ことで勝手に「治療」されたり「救われたり」していたわけだ。半分くらいジョークみたいなノリで「読書セラピー」なんて言葉を何回か使ったことがあるけれど、あながち間違ってなかったのかもしれない。なるほど、面白い。

