
ジクロロ
@jirowcrew
2026年5月24日
ミシェル・フーコー
慎改康之
読んでる
決してすべてが語られることはないという原理、すなわち、ある一つの時代において語られうることのうち、結局は比較的わずかのことが語られるにすぎないという原理に依拠しつつ、フーコーが示そうとするのは、解釈が、言説をめぐるそうした「稀少性」によってもたらされる効果であるということである。すなわち、語られたことの豊かさのうちに秘められたものを探り出すと称しながら、解釈は、実のところ、語られたことの貧しさに対して反応し、それを埋め合わせるための、一つのやり方に他ならないのだ、と。
(p.102-103)
「解釈」とは、
語られたことの「貧しさ」に対する反応、
というところに目から鱗。
解釈に、正しいも間違っているもなく、
ただそれが常に「不十分」であるということにおいて、人は平等であるということ。
他者により「語られたこと」に「豊かさ」が感じられるのであれば、自身が何らかの志向性または抑圧を内に蔵しているということ。
解釈とは、求めていたからこそたまたま現れた、ひとつの狭い「出口」に過ぎないということ。


