活字畑でつかまえて "ガザに地下鉄が走る日" 2026年6月1日

ガザに地下鉄が走る日
世界で最も美しい本のタイトルでありながら 書かれている内容は世界で最もおそろしい現実の落差。 この本のおそろしさは 読んだからにはもう知らないふりはできないということだ。 刊行から更に8年半が過ぎた今も尚、ガザは最悪を更新し続けている。 さぁ、どうする? 「ノーマンとして難民キャンプの泥土のなかで聖地した難民二世の子どもたちは、家族の糊口をしのぐために自分の人生を犠牲にするのではなく、パレスチナを取り戻すために、命を賭して闘うことを選んだのだった。彼らは、「難民」という「人道問題」であることを止め、祖国の解放とそこへの帰還のために銃をとり解放戦士たちとなって、この世界の前に立ち現れることになる。彼らを難民キャンプという砂漠の辺獄に留めおき、その存在を安らかに忘却していた人間たちの喉元に銃を突きつけ、「この世界」の安寧を揺さぶる彼ろを、世界は「テロリスト」と呼んだ。何者でもなかった者たち、人間ならざる者たちが、「人間」として、政治的主体として、この世界に存在を刻みつけた瞬間だった。」 「人間がこの世に誕生するということと、人が国民になるということは、まったく次元を異にすることがらでありながら、「生まれ」と「国民になる」ということのあいだにいささかの隔たりもありえない、そのような暗黙の虚構の上に成り立つ「この世界」において、国民でも市民でもなくか「ただ人間でしかない者」とは人間であって人間ならざる者たち(ノーマン)だ。これら人間ならざる難民たちが暮らす難民キャンプは、それゆえに法外のトポスであり(なぜなら法とは「人間」のためのものだからだ)、この世界が人間に保障する一切の権利が無効とされる場、世界の外部であった。ナクバ以来この七○年間のパレスチナ難民の歴史が集団虐殺の歴史であるのはそのためだ」 「エルサレムは三つの信仰(ユダヤ教•キリスト教•イスラーム教)の聖地であり、この聖地で人々は信仰を異にしつつもアラビア語を話しながら隣人として歴史的に共生してきた。それがエルサレムの街の歴史であり、パレスチナの歴史であり、さらに敷衍(ふえん)すれば中東イスラーム世界のありようだった。イスラームはユダヤ教徒、キリスト教徒を同じ「啓典の民」と見なし、彼らを被保護民として庇護した。千数百年に及ぶ長い歴史の過程で、異教徒に対する迫害がなかったわけではない。しかし、総じて「共生」こそがムスリム社会の原則だった。(中略)エルサレムとは、アラブ•イスラーム世界における、この歴史的共生のシンボルにほかならない。その共生の歴史を暴力的に破壊したのが、近代におけるシオニズムによる侵略であり、イスラエル国家の建設だった。」 「デイル•ヤーシーン(村)の名だけが記憶された背景には、この虐殺がイスラエル建国前に、ユダヤ正規軍ではない民兵組織によって実行された出来事だという点が挙げられる。実行車が極右の軍事組織であったために、シオニスト指導部は自らの責任と切り離して、自分たちの倫理性を担保しながら事件を非難することができた。だが、イスラエル建国後、これら民兵組織は正規軍のハガナーと統合されイスラエル国防軍となる。」 「イスラエル国家の責任が問われる建国後の犯罪行為については、態度を一変させる。(中略)イスラエルのナショナル•ヒストリーにおいては徹底的に隠蔽され、抑圧されることになる。」 「パレスチナ問題について話をするたびに、必ずと言ってよいほど、「ホロコーストを経験したユダヤ人がなぜ、同じようなことをパレスチナ人に?」という質問を受ける。デイル•ヤーシーンの虐殺について述べたイラン•パペの次の文章は、この問いに対するひとつの答えとして読むことができるだろう。 『ユダヤ人といえども、この惑星に暮らす他の人々と異なっているわけではないのだ。ほぼすべての人間集団に対して、他のある人間集団を非人間化することを教え込むことができる。1948年のシオニスト部隊は、パレスチナで、老若男女問わず殺害するという仕事にいたく熱心にいそしんだのである』」 「1923年9月、大地震のあとの関東地方で「朝鮮人」と名指された者たち、1948年の済州島で「アカ」、2001年のアフガニスタンで「アルカイダ」、2003ねんのイラクで「テロリスト」と名指された者たち。そして1948年のパレスチナで、シオニストに「アラブ人」と名指された者たち。これらの者たちは、「これほど全面的に、何かをされようとそれが犯罪として現れることがないほどに自らの権利と特権を奪われることが可能」」になった。それはいったい「どのような法的手続き、政治的装置を手段としてのことだったのか(アガンベン)」 「1923年の東京で、埼玉で、千葉で、神奈川で、「朝鮮人」と名指された者たち。そのような者として名指されたとき、そこは、すべてが可能な「収容所/ノーマンズランド」へと変貌し、彼らはそのヘテロトピア(異化された空間)の囚人、非人間(ノーマン)となって殺された。聞こえないか、私たちがそこを歩く時、私たちの足の下、塗り固められたコンクリートのその下で、今なお無数のノーマンたちの骨が砕ける音がするのを。」 「「テロと報復の連鎖」や「暴力の連鎖」といった枕言葉を冠せられて書かれる記事は、そこで起きている出来事を報道しているようでいてその実、占領者と被占領者があたかも対等な存在であるかのように、両者のあいだの圧倒的な非対称性を覆い隠し、さらにパレスチナ人のテロルが、数十年、違法に続いている占領の暴力によって生み出されているという根源的な事実を隠蔽してしまう。」 「本来、ペンの力によって伝えなければならないのは、自爆を選ばせるまでに若者たちを絶望の淵に追い詰める「占領」とはいったいいかなる暴力なのか、ということであるはずだ」 「パレスチナ人の「テロ」をイスラームにおける「聖戦」に結びつけ、彼らが、私たちには理解しがたい狂信的な信仰ゆえに「自爆テロ」をおこなっているかのようなイメージを社会に流布する。中東で起きることは、すべてイスラームという信仰、イスラームという文化、我々とは本質的に異質な文化に還元されてしまうと、サイードが『イスラーム報道』で批判している、まさにそのとおりの「カヴァリング•イスラーム」だ。」 「テロと報復の連鎖」「暴力の悪循環」などというと、人間の理性による制御がきかなくなった暴力が勝手にインフレを起こして暴走しているかのような印象を受けるが、現実はそうではない。」 「メディアにおけるクリシェの反復はパレスチナで現実に生起している出来事の真の意味ーすなわち占領の暴力ーを隠蔽する「カヴァリング•イスラーム」にほかならない。」 「この世界それ自体が、ノーマンを不断に産出し続ける巨大な構造的暴力装置だ。」 「目を疑うような大量破壊、大量殺戮が今、起きているという事実が、封鎖や占領といった構造的暴力が人間の許容範囲の事態であるかのように錯覚させる効果を生み、それを維持する結果につながってはいまいか。」 「2014年のガザ攻撃のさなか、ジェノサイドのただなかにあったガザの市民社会の代表たちが、無条件停戦を蹴ったハマースを非難する国際社会に対して、「封鎖解除なき停戦などいらない」と題するアピールを発表したのは、私ちちのことを本当に思って停戦を訴えるのであれば、即時停戦だけでなく、封鎖の解除と占領の終結も同時に訴えてほしいと、彼らは国際社会に求めたのだった」 「1980年代の前半に私がパレスチナ問題に関わり始めた当時、国際社会が許しがたいと考えていたパレスチナの占領やアパルトヘイトが、今では占領地のごく当たり前の現実として、特段、問題にされることもなく常態化してしまった。占領のノーマライゼーション(標準化)だ。」 「国際社会は、安保理決議に反し、国際法にも反して半世紀以上にわたって継続するイスラエルの占領を批判したり、その終結のために取り組んだりする代わりに、占領の存在を前提に、占領によって生を破壊され続けるパレスチナ人が占領下でも生活を維持できるよう開発援助することで、むしろ占領継続の共犯者となっている。私たちの税金は、占領という構造的暴力や不正をなくすためではなく、実際はむしろ、私ちちの願いに反して、その暴力と不正を維持し、恒久化することに使われているのだ。2006年に始まる日本政府によるヨルダン渓谷における「平和と繁栄の回廊」構想は、占領を批判することなく、占領を前提に、占領の既成事実化に加担する開発援助の一連だ。」 「イスラエル占領下のパレスチナを訪れた南アフリカのもと活動家たちが異口同音に語るのは、アパルトヘイトの暴力が頂点に達していたときでさえ、パレスチナにおけるイスラエルの占領ほど過酷ではなかったということだ。「日曜日のピクニックのようなものだ」と形容した者もいる。」 マンデラ 「私ちちの自由は、パレスチナ人が自由にならない限り完全なものにはならないということを私たちは熟知している。」 「2016年10月、オバマ大統領とケリー国務長官がイスラエルを公然と批判したが、大統領の任期ぐ3ヶ月を切った「レイム•ダック」でなければイスラエルを批判しえないということだが、その前月にオバマ政権はイスラエルに対し、空軍力強化のために380億ドルという合衆国史上最大額の軍事援助を決定していることも忘れてはならないだろう。」 「日本は2014年、イスラエルのネタニヤフ首相が来日した際、イスラエルと日本の「包括的パートナーシップ構築のための共同宣言」を発表、2015年、武器禁輸三原則を撤廃した政府は現在、イスラエルとの無尽機共同開発計画を推進しようとしている。」 「経済的見地から言えば、軍事産業はイスラエルの基幹産業のひとつだ。広島と長崎が二種類の新型爆弾の破壊力を実地に測るための実験場だったように、ガザもまた新兵器開発のための格好の実験場であり、同時にガザ攻撃は、世界市場にイスラエル製の兵器の性能を宣伝するためのデモンストレーションの役目を果たしている。」 「パレスチナに関しては、法による支配など存在しない。こうして、イスラエルを断罪しないことで国際社会は、メタメッセージを発しているのだ、パレスチナ人など取るに足らないものだ、何をしてもいい、と。」 「従来、平和とは戦争のない状態であると考えられてきた。これに対し、1970年代、「平和学の父」と呼ばれるノルウェーの平和学者、ヨハン•ガルトゥングは、暴力を、戦争など物理的暴力が直接行使される「直接的暴力」、貧困や差別など社会の構造から間接的に生み出される「構造的暴力」、そして直接的暴力や構造的暴力を正当化したりする態度や思想などの「文化的暴力」の三つに分類して平和ん再定義し、戦争という直接的暴力がないだけでは消極的平和に過ぎない、真の平和(積極的平和)とは直接的暴力に加え、構造的暴力がない状態のことだとした。」
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