

活字畑でつかまえて
@catcher-in-the-eye
読んだ本を片っ端から忘れてしまうので、せめて感じたことをつかまえたい。
- 2026年7月28日
やくざと芸能となべおさみ読み終わったたまたまブックオフで見つけた本 あまりにも興味をそそられるタイトル そして帯には大好きなたけしさんの推薦文 買わない手はない。 それにしても変な人というか変な本というか 変は変でも偏りのある「偏」な人、「偏人」という感じがする。 「やくざの本当の語源」の章から トンデモ本的な内容になる。 それまでは良かったんだけどなぁ。 だからとばし読みした所もある。 まぁ、そういう読み方もありだ。 でも勉強になった所もあった。 やくざは二つの分類からなる ①博打を業とする博徒。渡世人と呼ばれた。 ②祭礼や盛り場の路面で物を売る香具師(やし)。野 師とも。今で言うテキヤ。 野師とも。 仏教が伝来し仏具を売るため利用されたのが武士 の職を失い浪人となった御家人。この人たちは学 があり常識に長けていたので能書きを並べること ができた。 香具師よ呼ばれるのは武士のプライドが許さない ので自ら野に下った武士「野武士」と名乗る。 しかし世の風は冷たく武士でない者が武士と名乗 るのをゆるさない。 それで「武」を取って「野士」になり「香具師」と 呼ばれるようになった。そして被差別民の中に組 み込まれ表通りで商売は出来ず、祭礼の神社境内 や河原に生活の場を求めた。 当時の江戸の裏店(うらだな)で表向きは半弓を 使った射的屋を商っていたが2階で売春をしてい た。お上への申告書には「的屋(マトヤ)」で出し たが役人は「テキヤ」と勘違いした。 「私が出会ったやくざも、皆、いいかげんには生きてはいなかったと断言出来る。むしろ、私の知るたくさんのいいかげんな堅気よりも、真面目に生き死にしていたと言える。」 「腕っ節や鼻っ柱の強い者は、男を売って生きたのだ。男伊達という世界だ。これがやくざだ。」 「売るものが無い者は困った。長は賢かった。「売るものが無かったら、媚を売れ!」と言ったに違いない。」 「外れ者には、女も大勢居た。女は女を売ったのだ。鬻ぐとは、売るとか商うことだが、春を鬻いでいたはずだ。食うための手段として、粥より高く、色香は代価になったのだ。それは水商売となった。水商売は息抜きだ。息抜きは和みで、和みは金に為ったのだ。こうして吹き溜った人々がもちつもたれつ、生きてきたのだ。」 「ヤクザには「反社会勢力」とか「暴力団」とかいう現代の言葉では引っ括れない千年を越す歴史があります。と申しますのは、「役座」という「座」は、お祭りのための相談会みたいな「寄り合い」から起こったものです。 「神社や寺を中心にした日本式のお祭りは、「五穀豊穣」を祈願したり農耕民族としての儀式的色彩の濃いもので、その時々の支配者が、上手に利用して民を喜ばせながら、年に二度程の無礼講「大イベント」 に育て上げました。無礼講というのは、貴も賤も上下の差もない。祭りの大義名分は「五穀豊穣」ですが、その裏は民百姓の一揆や反乱を防ぐ「ガス抜き」の政策だったのです。それが支配者の真の目的です。盆踊りなども文字通り踊らされて毒気を抜かれたのです。」 「無礼講の催しには支配者の隠し願望、次代の労働力の確保が秘められていた。日本の社殿は山にあり、山は神聖で、女性は不浄とされており山へ入れなかった。祭りの前夜祭たる宵祭からは、宮祭で女性も山に入れた。そして山門を一歩入るや、乱行自由の無秩序です。男女の醜美を隠すために、お面を付けての入山の掟があったり、田園で泥の擦り合いを儀式として組み立てた。」 - 2026年7月25日
呪われた町 下スティーヴン・キング,永井淳読み終わったキングの小説は結末に重きを置いていないように思える。あまりにも過程が面白すぎるから結末はどうでもいいというか。結末なんてだいたい似たようなものになるからね。 「町はあくまでポーカー・フェイスを通してそれらの秘密を守り続けるのだ。町は神の業や人間の業を好むのと同じように、悪魔の業を好んでいる。町は闇を知っている。そして闇はいたるところにあった。」 「完全に眠りに入る前に、彼は大人の特質について考えていたーそれを考えるのは今夜がはじめてではなかった。大人は恐怖を追いはらって眠りを呼びこむために、下剤や酒や睡眠薬をのむ。だいたいが彼らの恐怖というのはひどく平凡で世帯じみている。仕事や金のこと、ジェニーにもっとましな服を買ってやれなかったら先生はどう思うだろうか、女房はおれを愛しているだろうか、おれの友達はだれなのか、といったようなことばかりだ。それらは、あらゆる子供たちが大人に話してもわかってもらえる望みがないままに、暗いベッドの中で抱いて寝なければならない恐怖にくらべたら、まさに散文的としかいいようがない。毎晩のようにベッドの下や地下室にひそみ、目に見えないところを跳楽して彼らをおびやかす怪物と戦わなければならない子供たちのためには、グループ療法も精神分析も地域の社会奉仕もない。くる夜もくる夜も同じ孤独な戦いを続けなければならず、唯一の療法はやがて訪れる想像力の骨化だけである。それが世にいう大人になることなのだ。」 「キャラハンは、癌、心臓発作、あるいはその他の主要な内臓疾患を知らされた患者が最初に示す共通の反応は、人目をはばからぬ感情の露出であることを経験から知っていた。患者は自分自身の肉体という親しい(そして、少なくともそれまでは、完全に理解していたつもりの)友人が、みずからの責任すら果たしえないほどの怠け者であることを知って愕然とする。この最初の反応のすぐあとに続くのは、これほど手ひどく期待を裏切るような相手は、友人の名に価しないという考えである。その結果、こんなやつは友人であろうとなかろうと構わないという結論に達する。彼は自分の肉体という二心ある友人と口をきくことを拒めもしないし、そいつが電話をかけてきたときに居留守をつかうこともできない。こうして病床であれこれ考えた末に辿りつくのは、自分の肉体が実は友人などではなく、彼を酷使してきた横暴な主人を滅ぼすべく決意した執念深い敵だったのではないか、という恐ろしい疑惑である。」 「原稿の東をくず籠に投げこんで、表紙を破って点火用のこよりを作った。ライターでこよりに火をつけて、充分に燃えあがってからタイプ原稿の上に投げた。焔がタイプ用紙の味見をし、味が気に入ったらしく、めらめらと拡がっていった。」
- 2026年7月21日
呪われた町(上)スティーヴン・キング,永井淳読み終わったキング先生の作品にまた戻ってきた。 おもしろいんだよぁキング先生は。 ベンにとってマーステン館はギャツビーにとっての対岸の緑の灯火のようだ。 「人間には二つの種類がある。意のままになる人間とならない人間。世の中には十対一の割合で前者のほうが多い。」 ⭐︎くそーっ!どうせ俺は奴隷労働のキングですよーだ! 「二十七年間の結婚生活で彼女が示した唯一の思いやりは、夫より先に死んだことだった」 ⭐︎さすがキング先生。素晴らしい表現。 「東の空が白みはじめ、ノートン家と町の間に拡がる野原では、露が王様の身代金のダイヤモンドのように輝いていた。」 ⭐︎王様のダイヤモンドではなく、王様の身代金のダイヤモンドとは。身代金とすることでより高価なものに思える表現。さすがキング先生。 「彼女は十七歳で、彼ら夫婦はこの七月に最初の結婚記念日を祝った。六カ月の身重で、グッドイヤー・タイヤの飛行船みたいなおなかを抱えてロイス・マクドゥガルと結婚したとき、結婚生活はキャラハン神父の言葉通りにー祝福された脱出ロー祝福されているかに見えた。ところがいまはそれがうんこの塊としか思えなかった。」 ⭐︎笑ってしまった。 「彼の手が上のほうに滑ってゆくと、彼女の豊かな胸が大きく盛りあがってやわらかく彼の手を迎えた。彼女と知りあってから自分が十六歳の少年に戻ったような気持になったのは、これで二度目だった。頭に血がのぼった十六歳の前には、なんの障害物も見当たらない六車線の道路のように、欲するすべてが横たわっていた。」 ⭐︎六車線の道路というのがいいな。 「マーク•トウェインがいってますよ、小説とはなにもしなかった人間のすべての告白だとね」 「こんな世の中では、坊さんたちがみんな精神科病院通いにならないほうがむしろ不思議というものだ。」 ⭐︎クリシュナムルティという思想家が今は精神科の医者も病んでいるから精神科に通ってもしょうがない。って言ってたな。 「リッチー・ボッディンたちに理解できる唯一の言葉は暴力だけで、おそらく世界じゅうが仲よくやってゆけないのはそのためだろう、とマークは思った。あの日彼は学校から家に帰され、かんかんに腹を立てた父親に、丸めた雑誌で朝打ちのお仕置をくらいかけたとき、ヒトラーの本質はリッチー・ボッディンだったと父親に向かっていった。それを聞くと父親はげらげら笑いだし、母親まで釣られて笑った。おかげで親打ちの刑をまぬがれた。」 「泣かなかったからこそ、いつまでも思い出が残ったのだ。泣くことはすべてを小便と一緒に地面に流してしまうことだった。」 「かつては彼も挑戦にあこがれていた。新米の神父はだれでもそうだった。人種差別、婦人解放、同性愛者解放、貧困、精神の病い、不正等々。だがそうした新米神父たちは彼を不愉快にした。社会的関心に目ざめた神父たちで、一緒にいても不愉快でないのは、ヴェトナム戦争に反対する戦闘的な神父たちだけだった。だがいまは彼らの大義名分も時代遅れになってしまい、彼らは年老いた夫婦がハネムーンや最初の汽車旅行の思い出話をするように、いたずらに座して行進や集会の回顧にふけるだけだった。 しかしキャラハンはもう新米の神父でもなければ年老いた神父でもなかった。気がついたときはもはやみずからの基本原理さえ信じることのできない伝統主義者の役割を演じさせられていた。彼は軍隊をひきいてーなんの軍隊を?神の、正義の、善の、言葉は違っても実質はみな同じだ!悪と戦うことを望んだ。論争と戦列を望み、必要とあればスーパーマーケットの前の寒風の中に立って、レタス・ボイコットやグレープ・ストライキに関するパンフレットを配ることも辞さなかった。彼は悪の欺瞞の皮をひんむいて、その相貌のあらゆる特徴をこの目で見きわめたかった。ムハマッド・アリ対ジョー・フレイザーのように、ヤコブ対天使のように、セルティックス対ニックスのように、あらんかぎりの力を振りしぼって悪と戦いたかった。そしてこの戦いを混じりけのないものにすることを、結合双生児のようにあらゆる社会問題と背中合わせになっている政治によって妨げられないようにすることを望んだ。彼は司祭を志したときからずっとこれらのことを望んでいたが、その使命感に目ざめたのは十四歳の年に、石もて打たれ、死ぬ直前にキリストを見た最初のキリスト教殉教者聖ステパノの物語に感動したときだった。神のために戦うーそして、おそらく命を落とす ー魅力にくらべたら、天国の魅力など物の数ではなかった。ところが現実には戦いなどどこにもなかった。ただ優柔不断な小競り合いがあるだけだった。」 ⭐︎ひゃー、俺もこういう文章を書きたいんだよ! 「三十余年の教師体験から、何人も規律を無視してはゲームに勝てないこと、それを勝ったと思うのは愚かな人間だけだということを知っていた。」 - 2026年7月18日
アメリカン・スクール小島信夫読み終わった確か村上春樹が言及していた 「アメリカン•スクール」だけ読んだ。 戦後、3年目 英語教師一行によるアメリカン•スクール見学譚 伊佐の人間味がいい。 伊佐は英語を(完全な外人の調子で話すのは恥だ。不完全な調子で話すのもはじめてだ)と思っている。その中間で呻吟し揺れているのだ。 なぜなら英語に染まりきることは(おれが別のにんげんになってしまう。おれはそれだけはいやだ!)と思っているからだ。 「英語を話す時には何かもう自分ではなくなる。外国語で話した喜びと興奮が支配してしまう。」事に敏感だからだ。 戦争には負けたが 心だけは、自分の心の領土だけは奪われてなるものかという伊佐の意地。に心を打たれる。 - 2026年7月18日
心臓を貫かれてマイケル・ギルモア読み終わったついにこの本を読む時がきた。 世界で最も恐ろしい本だ。 どうかフィクションであってくれと思う反面、紛れもない事実である事にどうしようもないほど好奇心を掻き立てられる。 「でも僕はまた知っている。僕が外の世界でうまくやっていけるかもしれないというー言い換えれば一家の伝承からなんとかうまく抜け出せるかもしれないというー思いを植えつけるべく全力を尽くしてくれたのが、母であったことを。またその夢をかなえることができるように手を貸してくれたのも、誰あろう母であった。実際のところ、僕が首尾よくそれを実現できるように、晩年の健康と安全を母がいくらか犠牲にしたことに間違いはあるまい。そしてその返礼に、僕は彼女を見捨てる術を身につけた。ほかの家族全員を見捨てる術を身につけたのと同じように。母は僕が悪しき遺産から逃れて生き延びることを望んだ。僕が彼女の産み出した最良のものであることを望んだ。でもそのために僕は母のもとを去らざるをえないだろうと思っていたし、当然ながらそのことは彼女を傷つけた。旧い世界の要求に従いながら新しい世界に足を踏み入れることは不可能だったし、僕は常に自分は新しい世界をめざす人間であると考えていたのだ。」 「『モルモン書』におけるもっとも激しい瀆神の場面は、コリホルという名のカリスマティックな無神論者にしてキリスト否定者が神の審判官と王の前に立ってこう言い放つところである。「これらの人々はその父祖の行った破戒の故に罪があり、堕落していると汝らは言う。しかし聞け、私はここに告げる。父の罪が故に、子に罪はないのだ」 「プロヴォの多くの小規模農家がそうであるように、ウイルの農場は夫婦子供たちが食べていけるのに十分な程度の果物と野菜を収穫した。でもそれが精一杯だった。牛乳をとるために彼らは乳牛を一頭飼っていた。名前はベッシーといった。僕の母はその牛を激しく憎んでいた。牛と同じ名前を持つなんて、とても我慢できないことだった。もっと具合の悪いことには、彼女の生まれる前から牛にはその名前がついていたのだ。おかげで母はみんなにいやというほどからかわれることになった。それから長いあいだー死にいたるまでー母は自分が飼っていた乳牛と名前を共有しているという指摘に対して、むきになって反論し続けていた。「私のほんとうの名前はベティーなの、ベッシーじゃなくて」と彼女は言ったものだった。「エリザベスの省略なのよ。英国の女王さまから名前をとったわけ」。いったいどっちのエリザベス女王からとったのか尋ねてみるという考えは僕の頭には浮かばなかった。でもそれはたぶん新しいほうのエリザベス女王に違いない。女王が生まれたのは一九二六年で、それはベッシー・ブラウンが生まれた十三年も後のことだったのだけれど。」 「父さん」と彼女はある日の午後言った。父親は鉄床に向かって仕事をして、彼女はそれを見ていた。「私はあのお山を自分のものにできるかしら?私だけの持ち物だって言えるかしら?」 父親はハンマーを振るう手をちょっと休めて、顔をあげて山をちらりと眺めた。それから肩をすくめた。「そりゃ、いいとも」。そしてまたハンマーを振 るい始めた。 「オーケー、お山さん。あなたはあたしのものよ」とべッシーは言った。 「お墓から歩いて離れるときに、僕はうっかり墓石を踏みつけてしまった。それから僕は今度はわざと、次から次へ墓石を踏みつけていった。どうしてそんなことをしたのかよくわからないが、たぶん死に近づくことによって自分が感じた恐怖を、少しでも追い払いたいと思っていたのだろう。子供のよくやるたわいのない行為。でもそれは伯母たちや従兄弟たちに眉をひそめさせ、息をのませた。僕はすぐに厳しい顔をしたモルモンの古老の一人に身体を掴まれ、揺すられ、顔の前に指を突き立てられた。 「おい坊主、死んだ人を踏みつけにしてはならん」と老人は指を突きだすようにして僕に言った。「断じてならん。いいか、おまえは死者の残したものの上に生きているんだ」 「ある夜、一日の雪が降り終えたあとで、プロヴォの農家の裏庭に一頭の白い馬が迷い込んできた。グランドヴューは小さな共同体だったし、そこに住む人々はみんなどの家にどんな子供がいるか知っているように、誰がどんな馬を持っているかちゃんと知っていた。そしてブラウン家の人々はそんな美しい、まるで幽霊のような雌馬を持っている人間を一人も知らなかった。ベッシーと姉妹たちは外に出て、その動物をじっと見ていた。アルタはふらふらと近くに寄って、たてがみを撫でた。メリッサは娘たちが見慣れない馬と一緒にいるのを目にして、家の中に入りなさいとみんなに命令した。そして声をあげて馬を追い払おうとした。でも馬はただ彼女を見ているだけだった。 馬はそこに何時間も立って、冬の月明かりの下で身体を光らせながら、家をじっと見ていた。ウィル・ブラウンは学校の仕事から戻ってくると、馬を追い払った。その夜遅く、ベッシーは両親の話す声を聞いた。「あなたは白馬が訪ねてくるのがどういう意味だか知っているでしょう」と祖母が夫に言った。「それはこの家の誰かがやがて死ぬということなのよ」 「数週間後に最後の亡霊が現われた。「夜に姉妹たちは寝室にいたの」と従姉妹のブレンダは僕に言った。「そのときに暗い部屋の中に白い光が浮かんだ。その光は彼女たちのベッドにどんどん近づいてきた。それはアルタだったの。彼女は少女たちと一緒にベッドに腰掛けて、自分は大丈夫だと言った。痛みも感じないし、すごく幸せなのよ。そのことをみんなに知ってもらいたかっただけなの。あなたたちみんなのことを愛しているわ。それから光は弱くなって、彼女は消えてしまった。でもアルタが坐っていたベッドの場所にはっきりとくぼみが残っていた」 「死刑に対するモルモン教徒たちの姿勢を目にしたことで彼女はまわりの人々を憎むようになった。 少なくとも彼女はこのような集まりをよしとする彼らの僧仰の中に、憎むべきものを見たのだった。いずれにせよ、母は処刑という行為を憎んだ。僕が子供のころ、オレゴン州ポートランドに住んでいたとき、近く行なわれることになっている死刑があると、母は怯え、落ち着きを失い、そのニュースにずっと目を配っていた。母はよく知事に手紙を書いて、死刑の道義性に疑問を呈し、死刑囚の減刑を嘆願した。そして僕を食卓に一緒に坐らせ、知事宛の手紙を書かせたものだった。死刑というのは唯一の予定された殺人であるから1つまりスケジュールに従って行なわれる殺人であるからー逆にいえば阻止することができる唯一の殺人なのだ、というのが母の言い分だった。彼女はそういう論理の道義性を心から言じていたと思う。しかしそれに劣らず、誰かが処刑されるところを人々が見物するという考え方の背後にある恐ろしいものに、母は耐えられなかったのだと思う。自分の家族を処刑に連れていって見物させるような人間は、ある意味で殺人者よりも悪質だと彼女は倍じていた。その人たちは子供たちに殺人の片棒を担がせているのだから。」 「母は最後まで、たとえ世界が彼女をすくみあがらせた日々においても、勇気を失わなかった女性だった。もし勇気がなかったなら、彼女はその最後の日々をとても耐え忍ぶことはできなかっただろうと思う。でも母は希望とは縁の薄い人だった。僕は母の顔に晴れわたった希望が浮かんでいるのを目にした記憶がない。僕にショックを与えたのは、その写真が撮られた日には、彼女の顔には希望が浮かんでいたという事実だった。希望に光り輝いていたというほどではないにせよ(どちらかといえば希望よりはプライドのほうが勝っている)、でも希望を失うことが五十年足らずのあいだに人の顔をどのように変えてしまうものか、見てとることはできた。それらの写真を見て僕は思った。母さんはまったく違った顔で死ぬことだってできたんだなと。それは母に対する僕の悲しみの念を新たにかきたてたばかりではなく、僕自身の顔だって最後にはどんなふうになるかわからないんだという不安をも呼び起こした。」 「とれが正しい答えであるにせよ、ギルモア夫婦の結婚生活は長続きしなかった。数年の後には終わりを告げ、フェイは去り、ハリーは忘れ去られた。ネブラスカを出たあと、フェイがフランク・ギルモアを自分の身近に置いて愛を注いだとは僕には思えない。彼女は息子を小さいころから寄宿舎学校に入れっぱなしにして、たまに同じ屋根の下で暮らすことしかしなかった。愛したあげく土に埋めるよりは、遠くに離れていたほうがいい。フランク・ギルモアはそのようにしてすべての人々に拒絶されることになった。彼は父親をなくして育ち、母親をなくして育った。三十年後にロバートを連れてフェイの家の戸口に姿を見せたとき、彼はこう言いたかったのかもしれない。「さあ、僕をもう一度ここに連れてきたんだよ」と。そしてフランクは自分の息子を押しやった。かつて自分をよそに押しやった母の手の中に。」 「でも父は今では四六時中しらふだった。また以前よりもっと意地悪くなり、暴力的になった。ベッシーは長い間、父の格好の怒りの標的になっていた。それからの数年にわたって、二人のやりあいは目を覆うばかりにすさまじいものになっていった。兄はこう回想する。「その時期には拳骨で殴り合う荒っぽい乱闘が、少なくとも二週間に一回はあったな。母さんはしょっちゅう目のまわりを真黒にして、顔をはれあがらせていた。ボクシングの試合にでも出たみたいに見えることもあった。顔のかたちが変わって、そこかしこが切れて、唇は腫れあがっていた。父さんが容赦なく叩きのめしたんだ。」 「地元のカソリック系小学校を出たあと、兄たちはポートランドにあるジョゼフ・レイン・グレード・スクールに移され、中等部に通うことになった。兄たちと同じクラスにいた連中の多くはやがて人を殺すか、誰かに殺されることになった。そういう類の学校であり、そういう類の土地柄だった。」 「愛とは人をも殺しかねない行為なのだと僕は学んだ。あるいは少なくともときとして、選択とは殺人と同義なのだと。自分が両親のどちらを捨てるかを決め、どちらをより好きか、より愛しているかを明確にすることで、あとの一人を傷つけざるをえないことを僕は承知していた。また実際に僕は、黒白をつけることによって、どちらかの心を殺したものだった。大抵の場合、殺さなくてはならなかったのは母の心だった(僕が母のことを恐れたのも無理はないだろう)。」 「誰かに死刑を宣告することはできる、でも生きることを宣告はできないのだー」 「僕が学ばなくてはならないこと、すべての人々が学んでこなくてはならなかったことがあるーそれは人生は続くということだ。僕らは苦痛を呑み込み、記憶に向かいあい、赦せるものは放していかなくてはならない。ともあれ、そういった真実だけは学べたのだ。しかし問題は人生はなおも続くということだった。死を別にすれば、人生には本当の結末なんてものはない。死は、これで物語が終わったのだということを僕らに教えてくれる。終止符を打った人生に、そこで評価を与えることができる。そのプロットとドラマを要約し、筋書きを語ることができる。これでおしまいと幕を引いてしまう資格があるのは、この物語の中では、ゲイリーと、死者の仲間入りをしたそれ以外の人々ー僕の家族のメンバーや、ゲイリーが殺した人々ーだけだ。彼らだけ が役割を終え、代価を支払ったり、あるいは遺産から逃れたりするのをやめることができた。でも残りの僕らは、最終ページのまだその先まで、人生を生きていかなくてはならない。その人生の中では、死者たちの残した波が収まることは、絶えてないのだ。」 - 2026年7月9日
やり残したこと北野武読み終わった - 2026年7月5日
物語北野武読み終わった - 2026年7月1日
シャーロック・ホームズの冒険コナン・ドイル,アーサー・コナン・ドイル,延原謙読み終わった初シャーロック•ホームズ 村上春樹のなんの小説だったか、主人公 がこの作品を読んでいて気になっていた。 けっこうそれは無理があるだろうというトリックがあり、他の作品を読みたいと思わせるまでの水準ではないが、しかしホームズはやはり魅力的だしワトソン君との関係も素晴らしい。 当たり前だがちゃんと工夫が凝らしてあり登場人物や街並の描写など匂い立つような魅力がある。 お気に入りは『ボヘミア醜聞』と『椈屋敷』かな。 『ボヘミアの醜聞』 「一方ホームズのほうは、例の世事に無頓着な気質から、どんな形式での社交をも嫌悪して、独りベーカー街の古巣にふみとどまって古本のなかに埋まり、」 ⭐︎いいねぇ。社交を嫌悪し古本のなかに埋まる生 活。たしかに村上春樹的だ。 「君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大ちがいなんだぜ。」 「まだ材料が一つもない。資料もないのに、ああだこうだと理論的な説明をつけようとするのは、大きな間違いだよ。人は事実に合う理論的な説明を求めようとしないで、理論的な説明に合うように、事実のほうを知らず知らず曲げがちになる。」 ⭐︎なんて含蓄に富んだセリフだ。 ⭐︎くぅ〜 なんてオシャレで機知に富んだ短編なん だ。男などすべて女性の手のひらの上! 『赤髪組合』 ⭐︎うむー、ちょっと無理のあるトリックのような。 だってトンネルを掘るって易々とできる事じゃな いしなぁ。 でも、「赤髪組合」というシュールな組織は村上春 樹に受け継がれているような気がする。 「一般に事件というものは、不可解であればあるだけ、解釈は容易なものだよ。ちょうど平凡な顔というものが見覚えにくいように、平凡で特徴のない犯罪というものこそ、ほんとうに解決がむずかしいものなんだ。」 「彼の気質は極端なゆるみから極端な緊張へ、また極端なゆるみへと移りかわって、その中間に停滞する場合というものがない。私はよく知っているが、だから、彼が幾日も幾日も、わき目には怠情そうに肘掛椅子にへばりついて、即興詩や古版の書物に埋もれているときほど、しんじっ恐るべきはないのだ。そうしているうちにとつぜん、あの活動欲がわきおこり、あのはげしい推理力が、まるで直感かと思われるばかり敏速に働きだし、彼の手法を知らぬ者の眼には人間以上の知能をもっているのではないかとまで、疑わせるにいたるのだ。 この日も私はセント・ジェームズ会館で、彼がすっかり音楽に浸りきっているのを見て、この男に見込まれたやつらにとって、一大危機が迫りつつあるのを感じたのである。」 『花婿失踪事件』 ⭐︎うむー、このトリックもどうだろう? いくら近眼とはいえ変装した義理の父と気付かな いのはちょっと解さない。 恋は盲目といってしまえばそれまでだけどね。 「とるに足らぬ事件のなかにこそ、つねに観察の場があり、原因と結果とを敏速に分析する活きた舞台があり、そこにこそこの仕事のもつ魅力があるのだと思う。」 ⭐︎観察の場、という表現がいいな。 「入口まで来てためらうのは、必ず恋愛問題だ。相談はしたいが、人にうちあけるにはちと恥ずかしい気がする。もっともこれにも差異はある。男にひどい目に合わされたのなら、その女はためらいなぞしていない。その場合の徴候は呼鈴の紐のきれるのが普通だ。」 『ボスコム谷の惨劇』 「あなたの健康状態からみて、何も処置いたしますまい。あなたはほどなく、巡回裁判よりもはるかに高い裁きの廷に立って、ご自分の行為の責を果す覚悟でおいでです。」 『オレンジの種五つ』 ⭐︎犯行の詳細が分かりにくい所があるが、ホームズ が依頼者を救えず死なせてしまった事件の一つな んだろう。 終わり方がカッコいい。 『唇の捩れた男』 「すこしばかり顔を塗って、どろのうえに帽子を置いてすわってさえいれば、一日でそれくらいの金になる途があるのに、一週二ポンドぽっちでこつこつ働いてくすぶっていなければならないとは、どんなに辛いことかお察しくださるでしょう。矜持(ほこり)をすてようか金を得ようかの二途に、私は久しいあいだ苦しみました。結局金銭のほうが勝ちをしめ、記者の職を放棄して、くる日もくる日も最初に選んだ場所に土下座しては、恐ろしい顔で人々の同情をひき銅貨でポケットをふくらますことをはじめたのです。」 ⭐︎わかるよ、わかるよ ほんとコツコツ働いてもちっぽけな金しか稼げな いなら、いっそ生活保護!とか思ってしまう気持 ちと似たようなものだろう。 貧すれば鈍するじゃないが、矜持(ほこり)を捨 ててまで家族を養うためにした乞食商売を誰が笑 えようか。矜持(ほこり)なんてクソ喰らえ!の 時だってあるのだ。 たとえそれで心まで捻れてしまってもね。 『青いガーネット』 「そとは一片の雲もない空に星が冷たくこおりつき、道ゆく人のはく息は白い煙となって、あっちでもこっちでもピストルを発射しているように見えた。」 ⭐︎すごい表現。 すごすぎる。はく息の白さをピストルの煙に見立 てるなんて💨 『まだらの紐』 ⭐︎なるほど。毒蛇か。 でも、真の闇の中でホームズがステッキで毒蛇を 打つことは簡単なことではないし、更に毒蛇がロ イロット氏に遅いかかり死にいたらしめる結末は いまいち腑に落ちない。 『花嫁失踪事件』 ⭐︎いやいや、これ あまりにもセントサイモン卿が気の毒すぎやしな いか。ハティ夫人の裏切り、あんまりだぜ。だま ってずらかるなんて最低じゃないか。最低の裏切 り行為だ。自分勝手がすぎるぜ。 「われわれの子孫もいつかは愚かな君主や失政だらけの大臣から解放されて、世界的に大きな一大国家の市民となる日がくる、」 「ちょっと椅子をよせてそのヴァイオリンをとってくれないか。われわれにのこされた問題は、このもの寂しい秋の夜をいかにしてすごすべきかにあるんだ」 『椈屋敷』 「君の過っている点といえば、おそらく、書くものに血や肉をつけたがるところにある。」 ⭐︎これは至極、金言である。 言葉の贅肉! 「僕が自己の芸術にたいして全幅の公平を要求するのは、それがけっして僕個人の問題ではないー僕というものを超越した問題だからだ。」 ⭐︎これもまた、金言。 ホームズは自分というみみっちいもののために奉 仕しているのではない。 「材料だ、材料だ、材料だよ!粘土がなくて煉瓦が作れるもんか!」 ⭐︎これもまた、金言。 「ヴァイオレット•ハンター嬢に関しては、私はそれを知って失望を感じたのではあるが、ホームズはひとたび彼女が事件の中心でなくなると、それきり何の関心をも見せなかった。」 ⭐︎ホームズのこの冷徹さがいい。 - 2026年6月17日
漫才病棟 (文春文庫 ひ 10-1)ビートたけし読み終わったビートたけしの小説が好きだ。 その中でいちばん好きな作品。 すでに3回は読んでいる。 この作品で直木賞を獲ってよかった。 おそらく芸能人としてビッグになりすぎたぶん 正当な評価は得られなかったのだろう。 たけしの存在に比べれば 直木賞なんて小さい小さい。 自分みたいに とことんパッとしない者にとって たけしのイキきった生き様は 惚れ惚れするほどカッコいい。 結局、中途半端なのだ。 しかしたけしはちがう。 たけし映画については語られど たけし小説については全く語られていない。 だが自分は たけし映画と同じぐらい たけし小説が好きだ。 たけしのように生きたかったな。 - 2026年6月16日
ムーンウォークマイケル・ジャクソン,田中康夫読み終わった映画「Michael/マイケル」を観て再びマイケル熱が再燃したのでずっと読んでみたかった自伝。 「僕の中で何かが変わりつつありました。いや実際、僕はそのことを感じて、ミニバスの中で震えていたのです。僕らは何年もの間、車でシカゴに向かいながら、自分たちがゲイリーを出ていけるほどの腕前なのかどうか考えていました。で、僕らは実際、出かけていたわけです。それから僕らはニューヨークまで車を走らせました。もしそこでうまくやれなければ、地球の隅っこから落っこちっしまうのは確かでした。フィラデルフィアやワシントンで演奏している夜も、ニューヨークには僕らの知らない、僕らを打ち負かすようなバンドやグループがいるんじゃないかと考えずにはいられなかったのです。アポロ劇場でそんな不安を拭い去って初めて、僕らの行く手をさえぎるようなものは何もないんだと信じることができました。今や、僕らはモータウンに向かっていました。ここにも僕らを驚かすものは何もないはずです。いつもしてきたように、僕らが彼らを驚かしてやるだけです。」 カッコいい。ベートーヴェンが貴族たちを自分の音楽で跪かせてやると意気込んだのと同じような熱情。くそ、俺だって! 「14歳になった頃から、僕の容貌は明らかに変わり始めました。背がぐんと伸びたのです。僕に会ったことがない人は、可愛くてちっちゃなマイケル•ジャクソンを紹介されると思って部屋に入ってきて、僕のすぐ傍を通り過ぎて行ってしまうのです。「僕がマイケルです」と言うと、彼らは疑わしそうな顔をしたものでした。マイケルは、可愛くてちっちゃな子供だったはずでした。でも僕は、178㎝に届こうという、ひょろ長い青年になっていたのです。僕は彼らが期待していた人間でも、会いたいて思っていた人間でもありませんでした。思春期というのは、ただでさえ不安定なものですが、体の変化による心の不安は、他人の否定的な反応で、余計に高まってしまうものなのです。みんな、僕が変化するということに、僕の体が他のみんなと同じように自然に変化していくことに、本当に驚いているようでした。」 「それはつらいことでした。みんな僕のことを長い間、可愛いと言っていたのに•••••。いろいろな変化とともに、僕の肌はにきびだらけになってしまったのです。ある朝、鏡を覗くと、それはまさに「オー•ノー?!」でした。」 「僕は、潜在的に、その肌のことで怯えるようになってしまいました。ひどい顔だったので、とてもシャイになって、人に会うのさえ恥ずかしくて仕方なかったのです。」 「容貌のせいで僕は落ち込み始めました。つまり、にきびは人の心を荒ませるほど大きな影響を持つこともあるということです。僕の場合はその影響はかなりひどく、性格を破壊してしまうほどでした。人と話す時でも、その人の顔を見ることができませんでした。うつむくか、視線を反らしてしまうのです。自分には誇れるものなど何もないし、それにもう、外に出かけることもしたくないと思いました。実際、僕は何もしなかったのです。」 「僕は自分がクリエイトしていく仕事に関しては、獲物を狙う猛獣のように客観的になれます。もし、何かがうまくいってなければ、それに気づくこともできます。でも、アルバムとか歌を作り終えると、その作品に自分のエネルギーと神から与えられた才能を一オンス残らず注ぎこんだ自分が残るのです。」 「「オフ•ザ•ウォール」の成功は、1979年のグラミー賞ノミネートが発表された時の衝撃で、屈折したものになりました。その年最も売れたレコードの一枚だったのに、僕はたったの一部門、R&B最優秀ヴォーカル賞にノミネートされただけだったんです。 同業者に無視すれたように思い、傷つきました。」 「僕は落胆し、同時に、次のアルバムのことで頭がいっぱいになりました。僕は「次の機会を待つんだ」と、自分に言い聞かせてたのです。連中は次のアルバムも無視するというわけにはいかないはずです。」 「「オフ•ザ•ウォール」は、ファンには快く受け入れてもらえただけに、グラミー賞のノミネートには傷つきました。この経験で、僕の魂に火がつきました。僕は次のアルバムのこと、今度は何をやるかといったことしか考えられなくなったのです。本当にものすごいアルバムにしたかったのです。」 「「スリラー」を制作する過程で、僕は、一緒に働いている人間に自分の考えていることを理解させることができず、感情的になったり動揺してしまったことが度々ありました。今でも時々そういったことが起きます。僕が考えていることを、人は正しく理解してくれないのです。みんな自分の能力を疑いすぎるのです。自分て自分を疑っていては、最善を尽くすことなどできないんです。自分が信じなかったとしたら、誰が信じてくれるでしょう?前と同じことをするだけではふさな不十分なのです。手に入れられるものは何でも手に入れるよう心がけることだと思います。背伸びをしたり、立派になれということではないのです。僕はそんなことを信じているのではありません。」 「口を開くと、自然に音楽が出てくるのです。こうした能力が持てたことを、光栄に思っています。僕は毎日、神にそのことを感謝しています。神から与えられたものを磨いていくのです。これからも、そうし続けなければならないと感じています。」 - 2026年6月10日
物語ることの反撃リフアト・アルアライール,岡真理,藤井光読み終わったこの短編アンソロジーの編者である リフアト•アルアライールの言葉 「パレスチナの占領は、まず比喩的に、つまりは言葉や物語や詩において行われました。だから、私ちちは書くことによって抵抗すべきなのです。あらゆる努力とペンを使い、私たちの大義を広く伝え、私私たち自身と世界じゅうの人びとに教えるべきなのです。私たち自身の物語を伝えることが抵抗ですー忘却と占領に対する抵抗なのです。抵抗とは騒がしくすることであり、マルコムXが言ったように、「何かを求めているのなら、騒がしくするべき」なのですから。」 あまりにも多くの示唆に富んだ言葉だ。 この姿勢から学ぶ必要がある。 彼は暗殺されている。 『Lは生命のL』 なんて純真で爽快な短編なのだろう。 イスラエル兵によって父を喪った少女は オリーブの木のように強く ターエルの物語の先を生きていかねばならない。 「歳月とは人生の長さかもしれませんが、信念は間違いなく人生の幅を決めます。」 「わたしが生きがいにしているものには、死にがいにするだけの価値があるのだろうか、と自問し始めました。」 「太陽には二時間を与えて、畏敬の念を覚えさせる空でお気に入りの場所に昇れるようにしました。」 太陽に左右される卑小な存在ではなく、太陽の動きを左右させうる大いなる自分であること。 『戦争のある一日』 結末、そうきたか。 まさに物語ることの反撃。 それにしても無念だ。 「眠っている彼がどうして微笑んでいるのか、それは誰ひとりとして理解できなかった。眠っているときだけ、彼は安心や幸せをもたらすものを手にできるのだとは、誰ひとりとして思い当たらなかった。眠ってはいないときに奪われているものを手にできるのだ。」 「(弟)は毛布を肩にかけて引きずりながら近ついてくると、ハムザの横に座った。ハムザは本をざっと眺め始めた。スラックスの裾を膝まで上げていて、脚を投げ出していた。それに目を留めたジハードは、毛布を引っ張って兄の脚にかけた。兄の脚が危ない目に遭いそうだと感じたからだが、何による危険かは分からなかった。脚に毛布をかければ兄の助けになるだろうし、少なくとも兄が集中できるようになる。」 ホッとする可愛らしい描写だと思いきや、実はかなりコワイ描写なのかもしれない。例えば弟はこの先兄が両足を失うことになる姿を予見したのかもしれない。 「ハムザは弟を待っている輝かし未来のことを考えた。それを実現するために惜しまず努力しよう、とそっと言った。」 「言葉を容赦なく貪り食って飢えを和らげた。完全に新しい生命を自分に吹き込んだ。」 『助かって』 1秒前と1秒後 一瞬の閃光で、外でサッカーをしていた友達たちは死に、バルコニーから見下ろしていた自分は生き残ってしまった世界。 『カナリア』 一目惚れというか 公園でお互いの存在を気にかけていた男女が 実は敵同士だったという悲劇、そして死。 『土地の物語』 「「神に与えられた土地」の一部だと言いながら、その土地にある189本のオリーブの木を、ひとりのイスラエル兵がブルドーザーで倒してしまう。そのことを、私は決して理解できないだろう。神が怒るかもしれないとは考えなかったのだろうか。自分が倒しているのは一本の木なのだということに気がつかなかったのだろうか。パレスチナのブルドーザーなんてものが発明されたとして(まあ、そんなこと起きっこないけれど)、たとえば私がハイファにある果樹園にいるとなったら、私はイスラエル人が植えた木を一本たりとも倒さないだろう。そんなことをするパレスチナ人はないない。パレスチナ人にとって、木は神聖なのだし、それを育む土地も神聖なのだ。」 「ガザについて語るとき、ガザはパレスチナのほんの一部なのだということを私は思い出す。パレスチナはガザよりも大きいのだと思い出す。パレスチナは西岸地区だ。パレスチナはラッマッラーだ。パレスチナはナーブルスだ。パレスチナはジェニーンだ。パレスチナはトゥールカリムだ。パレスチナはベツレヘムだ。何よりも、パレスチナはヤーファーであり。ハイファであり、アッカーであり、イスラエルが私たちに忘れさせようとするすべての街なのだ。」 「父さんと土地のあいだにあるのは、壊すことのできない絆だ。パレスチナ人と土地のあいだには、壊すことのできない絆がある。草木を根こそぎ倒して木を伐採することで、イスラエルはその絆を壊して、絶望という自分たちの習わしをパレスチナ人に押しつけようとする。木々を何度でも植え直すことで、パレスチナ人はイスラエルの支配を拒んでいる。「わが土地、わが習わし」と父さんは言う。」 『不眠症への願い』 パレスチナ人作家が書くイスラエル兵の苦悩、心的外傷後ストレスというやつか。 イスラエル兵もまた同じ人間であることを願うばかりだが、実際はどうなのだろうか? 命令だから 仕事だから それはナチスの犯した過ちと同じことである。 厳しい態度で臨みたい。 それは自分への戒めでもある。 『包み』 良作。 ドラマがある。なんて言っていいのか分からないが。 『撃つときはちゃんと殺して』 「アブー•ライラーは三ヶ月後に死んだ。悲しみに暮れてはいても、ほかと比べれば自分たちはまだ運がいい。ライラーはそう思って、自分も家族も納得させようとした。家の壁はまだあるから、テント暮らしで厳しい冬の寒さと夏の暑さに耐えなくていいぶん、一家は幸運だ。」 『イスラエル軍のアパッチヘリコプターが空を切り裂いていく音を耳にすると、あたりを見回し、その弱々しい瞬間に、父親の負傷から始まったあらゆる苦しみを思い出し、歯を食いしばってつぶやいた。「次は、ちゃんと仕事をしなさいよ。爆撃するのなら、最後まで爆撃して。銃を撃つのなら、ちゃんと撃ち殺して」 最も残虐な仕打ちは殺してしまうことではなく、生殺しにすることなのかもしれない。と思わせる。 『家』 捻った展開がおもしろい。 見つかったら即、射殺されるのを覚悟の上で 我が家への束の間の帰還。 頑固親父とあきらめつつ従うしかない息子。 「「家を爆破する」と父親は答えた。「自分の家にしておけないのなら、誰にも渡すものか」」 「「あいつらは俺の家を奪った。俺の歴史、俺の根っこ、それに俺の土地を奪った。そしていまの俺を見てみろ、それを破壊しようとしついる。こんなことをいつまでも続けさせるわけにはいかないし、ろくでもない政治家連中に任せておくわけにもいかない。」」 「おまえの言うとおりだ。家を爆破するなんて狂ってる。だがな、爆弾はそこに置いておくことにした。あいつらに怖がってもらいたい。恐怖のなかで生きてもらいたい。俺たちがつきまとってるんだと感じてもらわないとな。イスラエル人たちには疑問を持ってもらいたい」 『ネバーランド』 この作品はヤバイ。 つらい。 「男の子のところに行ってみると、その子は本を胸のところで開いて、髪の毛のない顔は枕の端にのせ、顔に微笑みはなかった。彼女はそのそばにそっと腰を下ろし、本を手に取った。『ピーター•パン』、けっして大人にならず、終わることのない子どもの日々を、忘れられた少年たちの暮らすネバーランドという小さな島で過ごしている。 彼女は男の子の小さく冷たい両手にその本を戻した。男の子が結末まで読めたことを願った。「しっかり寝てね、ぼ••••••小さなピーター•パン」とつぶやいた。」 『あっというまに失って』 同じパレスチナ人同士であっても 100メートルと離れていない家に住む同士であっても、そこには厳然たる階級の差、貧富の差が横たわる。 『傷痕』 ラストを飾るに相応しい作品だ。 もう言葉がでない。 俺の言葉のすべてが嘘っぱちに思える。 なんて俺は軽いんだろう。 ただただ自分が悔しい。 あまりにも無力で無知で無恥で厚かましい。 「戦争は終わるものだと人は言うが、それはじっさいには違う。戦争はけっして終わらない。」 「どうして置いておきたいの?難民の女性の、大きくて醜くて暗い写真じゃないか。どうして置いておこうとするのかさっぱりわからない」 息子が言っていたのは、陰気な家の玄関扉のそばに、聖なるもののようにかかっていた写真のことだ。その家で私たちにあったのはイメージだけだった。カメラも、畑もないー薄暗い光だけだった。 「これはナクバのときの肖像写真。あれほどの苦しみを味わった人たちのことを、私ちちは覚えておかないといけないの。それに、未来の人たちが私たちの苦しみも覚えていられるよう祈らないといけない」 例えば日本なら原爆がそれにあたる。 改めて強く思う。 「笑顔になってるね」 「うん、大丈夫だよ」 サラームが初めて心からの笑顔を見せたのは、死んでいくときだった。 今度は、息子の後ろには美しい風景はなく、場面を完璧にしたいから笑顔になってほしいと頼むこともなく、カメラもなかった。あるのはただ、薄らいでいく微笑みだけだった。 - 2026年6月4日
ハイファに戻って/太陽の男たちガッサーン・カナファーニー,奴田原睦明,黒田寿郎読み終わった「ガザに地下鉄が走る日」で引用されていたので 興味がわいたカナファーニーの短編集 とんでもない作品群だ。 ただただ圧倒され倒しだった。 『太陽の男たち』 いわゆる密入国もの。 サスペンスフルだ。 「ガザに地下鉄が走る日」で結末は語られていたにも関わらず。 書き出しからしてすばらしい。 まるで映画のファーストカットのようだ。 「おまえ以外の誰もがおまえよりもの知りだ••••••おまえ以外の誰もが」 「この長の十年の間に人々はそれぞれ自分の道を切り拓いてきたが、おまえときたら賤しい主家の追いぼれ犬のように、ただ坐りこんで無為の日々を送ってきたのだ••••••散々待ち侘びて何があったというのか」 主人公、アブー•カイスはどうやら 心根が弱い設定のようだ。 なるほど アブー•カイスはあくまで クウェイトへ密入国を目論む登場人物のうちの一人という設定なのか。 「アブー•カイスがこれまで冒険じみたことをしたことがあると思うか••••••あの男はうまくはいかんぞ•••••このいまわしいお天道さまに賭けたっていいが、こいつはまず絶対に間違いなしだ。」 アブー•カイス、ひどい言われようである。 『悲しいオレンジの実る土地』 主人公たちが難民となった夜、ユダヤ人宅に押し入り「あんたたちはパレスチナへ行けばいいんだ!」と声を荒げたおじさんの凄まじさ。 圧倒されたユダヤ人家族は隣の部屋に移り ようやく屋根とタイル張りの床を獲得する。 まず声を荒げることの重要性。 ん?そんな生易しいものではない。 わずか11ページの凄まじい短編だ。 『路傍の菓子パン』 とんでもない傑作 難民児童学校に赴任した教師とその生徒ハミード少年の短編 お願いだからこの二人の絆だけは 永遠であってくれと願わずにはいられない。 夜中まで上映している映画館の前で 菓子パンを売るハミード少年。 しかし客待ち中に睡魔に襲われ、客を逃してしまうこともある。もちろん勉強に身が入るわけがない。 ため息しかでない。 凄まじい短編だ。 自分の甘さをこれでもかと殴られる。 俺こそが菓子パン野郎だ。 「難民児童学校では、どの生徒も自分の悲劇を決して明かそうとはしないのだった。どの生徒も、それをきつく胸の底にたたみこんでしまっていて、なんだかそこには、そうすることが義務であもあり、掟でもあるという互いの黙約げあるかのようでさえあった。」 「おまえ知ってるか?先生の兄貴もなあ、死んじゃったんだぞ」 「本当?」 「そうだよ、でっかい自動車に轢かれちまったんだ」 『ぼくは嘘をついていたのだ。ぼくは何としてもでも、この小さな子供の悲しみの中に一緒に入りこんでやりたかった。』 胸が苦しい。 「ぼくは自分が彼の生涯におきた悲劇を傍観するだけの、単なる行きずりの者だけで終ることが、どうしてもできなかった。」 俺もそういう人になりたい。 『盗まれたシャツ』 「この溝掘り仕事を終りにして、テントの中に入り冷たい掌を焦げるほど火にかざすことができたら、どんなにいいだろうと彼は思った」 掌を焦げるほど、という表現がすごい。 俺はそこまで切実に火を求めたことがないのだろう。 こちらの脳天をかち割られる作品だ。 『彼岸へ』 とんでもない言葉の掃射。当たり前だ。 パレスチナ人がどれだけのことをその胸に溜め込んできたのか、すべての者を薙ぎ倒すだけの権利が彼らにはある。 『戦闘の時』 「それは、戦争のさなかのことだった。戦争?いや、ちがう。それは戦闘状態そのものだ。つまり敵との間断のない、激戦のさなかのことなのだ。なぜって、戦争にはその間に心を安らげてくれる微風がこころよく吹く時だってあるし、そんなとき兵士たちはほっと息抜きすることができるだろう。それに、休戦とか、停戦とか、前線から退いてとる休暇だってある。ところが戦闘ってやつは、ひっきりなしに弾丸がとびかっている状態のことだろう。」 戦争は微風が吹き抜ける時が僅かながらある。 すごい表現だ。 「それは、戦闘時のことなのだ。ぼくがこう言うのも、きみはそれがどんなものか知らないからなのだ。そのとき、世の中はさかさまにひっくり返っちまっているんだ。誰一人道徳はどうしたなんて、問う者はいないんだ。そんなことを言う奴がいたら、さぞかし滑稽に見えるだろうなぁ。どんなふうにでもいい、どんな手段を使ってでもいいから生きのびること、それこそが、立派に徳を達成することになるんだよ。いいね!人間、死んじまったら徳もへちまもありはしなくなっちまうのさ、そうじゃないかい?」 「さあ、それじゃあ、戦闘時においてきみのすべきことは、第一番目の徳を達成するってこと、つまり自分が生きのびるってことなんだということで、同意してくれるね。それ以外のことは、二の次なのさ。なぜってきみ、戦闘が続けば二番目のものなんてありはしないのさ。きみは一番目の徳を果たして終えてしまうということはないのさ」 ホールデンのような饒舌体がおもしろい。 「戦闘」のメタファーや結末までサリンジャーのようだ。 他の短編に比べて喜劇的な要素があるのが面白いし したたかさを際立たせている。 つまりなんとか生きていかねばという強靭さがある。深刻なだけでは生き延びていけないのだ。 『ハイファに戻って』 これぞ人間ドラマ ただただ感服。 とんでもない高みに達した作品だと思う。 - 2026年6月1日
ガザに地下鉄が走る日岡真理読み終わった世界で最も美しい本のタイトルでありながら 書かれている内容は世界で最もおそろしい現実の落差。 この本のおそろしさは 読んだからにはもう知らないふりはできないということだ。 刊行から更に8年半が過ぎた今も尚、ガザは最悪を更新し続けている。 さぁ、どうする? 「ノーマンとして難民キャンプの泥土のなかで聖地した難民二世の子どもたちは、家族の糊口をしのぐために自分の人生を犠牲にするのではなく、パレスチナを取り戻すために、命を賭して闘うことを選んだのだった。彼らは、「難民」という「人道問題」であることを止め、祖国の解放とそこへの帰還のために銃をとり解放戦士たちとなって、この世界の前に立ち現れることになる。彼らを難民キャンプという砂漠の辺獄に留めおき、その存在を安らかに忘却していた人間たちの喉元に銃を突きつけ、「この世界」の安寧を揺さぶる彼ろを、世界は「テロリスト」と呼んだ。何者でもなかった者たち、人間ならざる者たちが、「人間」として、政治的主体として、この世界に存在を刻みつけた瞬間だった。」 「人間がこの世に誕生するということと、人が国民になるということは、まったく次元を異にすることがらでありながら、「生まれ」と「国民になる」ということのあいだにいささかの隔たりもありえない、そのような暗黙の虚構の上に成り立つ「この世界」において、国民でも市民でもなくか「ただ人間でしかない者」とは人間であって人間ならざる者たち(ノーマン)だ。これら人間ならざる難民たちが暮らす難民キャンプは、それゆえに法外のトポスであり(なぜなら法とは「人間」のためのものだからだ)、この世界が人間に保障する一切の権利が無効とされる場、世界の外部であった。ナクバ以来この七○年間のパレスチナ難民の歴史が集団虐殺の歴史であるのはそのためだ」 「エルサレムは三つの信仰(ユダヤ教•キリスト教•イスラーム教)の聖地であり、この聖地で人々は信仰を異にしつつもアラビア語を話しながら隣人として歴史的に共生してきた。それがエルサレムの街の歴史であり、パレスチナの歴史であり、さらに敷衍(ふえん)すれば中東イスラーム世界のありようだった。イスラームはユダヤ教徒、キリスト教徒を同じ「啓典の民」と見なし、彼らを被保護民として庇護した。千数百年に及ぶ長い歴史の過程で、異教徒に対する迫害がなかったわけではない。しかし、総じて「共生」こそがムスリム社会の原則だった。(中略)エルサレムとは、アラブ•イスラーム世界における、この歴史的共生のシンボルにほかならない。その共生の歴史を暴力的に破壊したのが、近代におけるシオニズムによる侵略であり、イスラエル国家の建設だった。」 「デイル•ヤーシーン(村)の名だけが記憶された背景には、この虐殺がイスラエル建国前に、ユダヤ正規軍ではない民兵組織によって実行された出来事だという点が挙げられる。実行車が極右の軍事組織であったために、シオニスト指導部は自らの責任と切り離して、自分たちの倫理性を担保しながら事件を非難することができた。だが、イスラエル建国後、これら民兵組織は正規軍のハガナーと統合されイスラエル国防軍となる。」 「イスラエル国家の責任が問われる建国後の犯罪行為については、態度を一変させる。(中略)イスラエルのナショナル•ヒストリーにおいては徹底的に隠蔽され、抑圧されることになる。」 「パレスチナ問題について話をするたびに、必ずと言ってよいほど、「ホロコーストを経験したユダヤ人がなぜ、同じようなことをパレスチナ人に?」という質問を受ける。デイル•ヤーシーンの虐殺について述べたイラン•パペの次の文章は、この問いに対するひとつの答えとして読むことができるだろう。 『ユダヤ人といえども、この惑星に暮らす他の人々と異なっているわけではないのだ。ほぼすべての人間集団に対して、他のある人間集団を非人間化することを教え込むことができる。1948年のシオニスト部隊は、パレスチナで、老若男女問わず殺害するという仕事にいたく熱心にいそしんだのである』」 「1923年9月、大地震のあとの関東地方で「朝鮮人」と名指された者たち、1948年の済州島で「アカ」、2001年のアフガニスタンで「アルカイダ」、2003ねんのイラクで「テロリスト」と名指された者たち。そして1948年のパレスチナで、シオニストに「アラブ人」と名指された者たち。これらの者たちは、「これほど全面的に、何かをされようとそれが犯罪として現れることがないほどに自らの権利と特権を奪われることが可能」」になった。それはいったい「どのような法的手続き、政治的装置を手段としてのことだったのか(アガンベン)」 「1923年の東京で、埼玉で、千葉で、神奈川で、「朝鮮人」と名指された者たち。そのような者として名指されたとき、そこは、すべてが可能な「収容所/ノーマンズランド」へと変貌し、彼らはそのヘテロトピア(異化された空間)の囚人、非人間(ノーマン)となって殺された。聞こえないか、私たちがそこを歩く時、私たちの足の下、塗り固められたコンクリートのその下で、今なお無数のノーマンたちの骨が砕ける音がするのを。」 「「テロと報復の連鎖」や「暴力の連鎖」といった枕言葉を冠せられて書かれる記事は、そこで起きている出来事を報道しているようでいてその実、占領者と被占領者があたかも対等な存在であるかのように、両者のあいだの圧倒的な非対称性を覆い隠し、さらにパレスチナ人のテロルが、数十年、違法に続いている占領の暴力によって生み出されているという根源的な事実を隠蔽してしまう。」 「本来、ペンの力によって伝えなければならないのは、自爆を選ばせるまでに若者たちを絶望の淵に追い詰める「占領」とはいったいいかなる暴力なのか、ということであるはずだ」 「パレスチナ人の「テロ」をイスラームにおける「聖戦」に結びつけ、彼らが、私たちには理解しがたい狂信的な信仰ゆえに「自爆テロ」をおこなっているかのようなイメージを社会に流布する。中東で起きることは、すべてイスラームという信仰、イスラームという文化、我々とは本質的に異質な文化に還元されてしまうと、サイードが『イスラーム報道』で批判している、まさにそのとおりの「カヴァリング•イスラーム」だ。」 「テロと報復の連鎖」「暴力の悪循環」などというと、人間の理性による制御がきかなくなった暴力が勝手にインフレを起こして暴走しているかのような印象を受けるが、現実はそうではない。」 「メディアにおけるクリシェの反復はパレスチナで現実に生起している出来事の真の意味ーすなわち占領の暴力ーを隠蔽する「カヴァリング•イスラーム」にほかならない。」 「この世界それ自体が、ノーマンを不断に産出し続ける巨大な構造的暴力装置だ。」 「目を疑うような大量破壊、大量殺戮が今、起きているという事実が、封鎖や占領といった構造的暴力が人間の許容範囲の事態であるかのように錯覚させる効果を生み、それを維持する結果につながってはいまいか。」 「2014年のガザ攻撃のさなか、ジェノサイドのただなかにあったガザの市民社会の代表たちが、無条件停戦を蹴ったハマースを非難する国際社会に対して、「封鎖解除なき停戦などいらない」と題するアピールを発表したのは、私ちちのことを本当に思って停戦を訴えるのであれば、即時停戦だけでなく、封鎖の解除と占領の終結も同時に訴えてほしいと、彼らは国際社会に求めたのだった」 「1980年代の前半に私がパレスチナ問題に関わり始めた当時、国際社会が許しがたいと考えていたパレスチナの占領やアパルトヘイトが、今では占領地のごく当たり前の現実として、特段、問題にされることもなく常態化してしまった。占領のノーマライゼーション(標準化)だ。」 「国際社会は、安保理決議に反し、国際法にも反して半世紀以上にわたって継続するイスラエルの占領を批判したり、その終結のために取り組んだりする代わりに、占領の存在を前提に、占領によって生を破壊され続けるパレスチナ人が占領下でも生活を維持できるよう開発援助することで、むしろ占領継続の共犯者となっている。私たちの税金は、占領という構造的暴力や不正をなくすためではなく、実際はむしろ、私ちちの願いに反して、その暴力と不正を維持し、恒久化することに使われているのだ。2006年に始まる日本政府によるヨルダン渓谷における「平和と繁栄の回廊」構想は、占領を批判することなく、占領を前提に、占領の既成事実化に加担する開発援助の一連だ。」 「イスラエル占領下のパレスチナを訪れた南アフリカのもと活動家たちが異口同音に語るのは、アパルトヘイトの暴力が頂点に達していたときでさえ、パレスチナにおけるイスラエルの占領ほど過酷ではなかったということだ。「日曜日のピクニックのようなものだ」と形容した者もいる。」 マンデラ 「私ちちの自由は、パレスチナ人が自由にならない限り完全なものにはならないということを私たちは熟知している。」 「2016年10月、オバマ大統領とケリー国務長官がイスラエルを公然と批判したが、大統領の任期ぐ3ヶ月を切った「レイム•ダック」でなければイスラエルを批判しえないということだが、その前月にオバマ政権はイスラエルに対し、空軍力強化のために380億ドルという合衆国史上最大額の軍事援助を決定していることも忘れてはならないだろう。」 「日本は2014年、イスラエルのネタニヤフ首相が来日した際、イスラエルと日本の「包括的パートナーシップ構築のための共同宣言」を発表、2015年、武器禁輸三原則を撤廃した政府は現在、イスラエルとの無尽機共同開発計画を推進しようとしている。」 「経済的見地から言えば、軍事産業はイスラエルの基幹産業のひとつだ。広島と長崎が二種類の新型爆弾の破壊力を実地に測るための実験場だったように、ガザもまた新兵器開発のための格好の実験場であり、同時にガザ攻撃は、世界市場にイスラエル製の兵器の性能を宣伝するためのデモンストレーションの役目を果たしている。」 「パレスチナに関しては、法による支配など存在しない。こうして、イスラエルを断罪しないことで国際社会は、メタメッセージを発しているのだ、パレスチナ人など取るに足らないものだ、何をしてもいい、と。」 「従来、平和とは戦争のない状態であると考えられてきた。これに対し、1970年代、「平和学の父」と呼ばれるノルウェーの平和学者、ヨハン•ガルトゥングは、暴力を、戦争など物理的暴力が直接行使される「直接的暴力」、貧困や差別など社会の構造から間接的に生み出される「構造的暴力」、そして直接的暴力や構造的暴力を正当化したりする態度や思想などの「文化的暴力」の三つに分類して平和ん再定義し、戦争という直接的暴力がないだけでは消極的平和に過ぎない、真の平和(積極的平和)とは直接的暴力に加え、構造的暴力がない状態のことだとした。」 - 2026年5月24日
キャリースティーヴン・キング読み終わった傑作。 キャリーの怒り、復讐心に火がつき 爆発が爆発を呼び連鎖し続けすべてを焼き尽くしていく様は、シャイニングにも通じる。 きわめて映像的でもある。 そしてラスト 新たなキャリーが育ちつつあるという結末。 しかしもう誰にも止められない。 優生思想は法律違反であり人権侵害である。 さぁ、どうする人類?と キングは我々に突きつける。 キャリーの学校の校長と いじめっ子のリーダー格、クリス•ハーゲンセンの父親(弁護士)のやり取りが素晴らしい。 とりあえず校長は父親を返り討ちにするが 父親が大人しく引き下がるわけないよなと思う。 この先、なにがしかの復讐が待ち受けているだろうという予感しかない。 キャリーか七学年の時に宿題で書いた短詩 ⭐︎ イエスは壁から見守っている けれどその顔は石のように冷たい もしも彼女がいうように イエスがわたしを愛しているのなら なぜわたしはこんなに孤独なのだろう? ⭐︎ スーザン•スネル「だけど、だれかが本気で ••••••なにか意味のある行動で、彼女に同情しなきゃいけないわ」 スーはキャリーへの贖罪から キャリーを春の舞踏会に誘うよう ボーイフレンドに懇願する。 地獄への道は善意で舗装されているの典型のような 贖罪意識。悪い予感しかない。 「かつがれるのはいやよ」 スーのボーイフレンドに舞踏会に誘われた時のキャリーの気持ちを想うとせつない。 「わたしをいつまでも騙しつづけられると思っているの?」 「いいわ」と、彼女は囁いた。「ありがとう」 このありがとうがまたなんともせつない。 しかしキャリーは釘を刺している。 「きっと恐ろしいことになるわ」と。 「気おくれを感じたけれども断念はしなかった。なせなら、その気になれば店内の人間が悲鳴をあげて外へ逃げだすように仕向けることもできたからである。」キャリー強い(笑) 「ねえ、わかってよママ、わたしだってそろそろ••••••みんなに溶けこむように努力しなきゃ。わたしはママと違うわ。わたしは変り者なの••••••つまり、みんなに変り者だと思われているのよ。だけどそんなのいやだわ。手遅れにならないうちに、なんとかまともな人間になりたいー」 ミセス•ホワイトはキャリーの顔に紅茶を浴びせかけた。 なんという痛切なキャリーの母への吐露。しかし母親はそんなキャリーの痛ましい思いを跳ね返す。 あぁ、母親がいちばんの敵になる不幸。 キャリーを目の敵にするクリスのボーイフレンド一味による豚殺しの凄惨な場面は胸糞が悪い。 豚にポテチを食わせている間にハンマーで脳天をカチ割る。なんともいえない殺戮シーンだ。 第二部の冒頭 「五月二十七日の朝、彼女は自分の部屋ではじめてドレスを着てみた。」 なんて美しいはじまりだろう。 しかし、美しいぶんきっときっと恐ろしい何かが待ち受けている予感しかない。絶望感がある。 「この家にいるかぎり、女の子たちに笑われ、罵られ、物を投げつけられるおそれはなかった。」 キャリーはそれでも前に進もうとした。 自分から変わりたいと思った。 その態度は僕の心を真っ直ぐに打つ。 (お願いだからハッピー•エンドにしてください) だけど僕は知っている。 キャリーのたった一つの願いすら叶えられないということを。 舞踏会で教師ミス•デジャルダンがキャリーに 「いままでのことは••••••もうみんな忘れたわ。」と言うが、キャリーは「わたしは忘れません。」と返す。なぜなら「なによりも自分に対して正直でありたかった」からというのが胸を打つ。 キャリー「卑劣ないたずら わたしの一生そのものが長い卑劣ないたずらだった」 なんて痛切極まりない独白だろう。
- 2026年5月20日
ロングウォークスティーヴン・キング(リチャード・バックマン名義),沼尻素子読み終わったあー、読み始めて数ページですでに面白い。 なんなんだキングという作家は。 まさにストーリーテラーのキング・オブ・キングだ。ひれ伏すしかない。 死のロングウォーク。 単純に理不尽に徴兵されることのメタファーなのかな。 ウォーカーたちはチューブに入った流動食で栄養補給をしているのは、過酷な戦地ではまともな食にすらありつけないことなのかなと。 そして所詮は、死のロングウォークや戦争すら 見物人にとっては娯楽の一つ。 死の消費。 それを裏付けるように「フランスの貴族や貴婦人は、ギロチン見物のあとでセックスしたそうだし、古代ローマ人は剣闘試合の最中に腹一杯食ったそうだ。ロングウォーク見物もお楽しみなんだよ。」というセリフがある。 小さいころロングウォーク見物に行ったギャラティにマクヴリーズが言うセリフ「知らなきゃ許されるんだな?」は強烈だ。 小さいころとは言えお前だってロングウォークを消費し死を消費していたんだと冷や水を浴びせる。 「死は大いに食欲ゃ性欲をそそる」というセリフも凄い。「おれたちが人間だって、どうしていいきれる?」 あぁ、キング先生! 「おれたちは死にたいのさ。だからこうして歩いてる。ほかにどんな理由がある?」 あぁ、キング先生‼︎ 「何か特別な理由があってロングウォークに参加したのか?」 「実はわからないんだ」ギャラティは本当のことをいった。 「おれもそうなんだよ」ベイカーはしばらく考えていた。 なぜ参加したのか本人にもわからないというのがすごくリアルだ。生きている理由がわからないというのにも通じるというか。なんとなく成り行きでそうなってしまったという感じ。 この物語はもしかしたら、ウォーカーたちを見つめる傍観者たちにスポットを当てた作品なのかもしれない。傍観者がいちばん残酷だということ。 「最悪の破壊的な痛みに見舞われながら、これから先自分は存在しないのに、宇宙は今までどおり何事もなく何物にも妨げられずに運行を続ける、と悟るのだ。」名文である。 「もしおれが優勝したとして、何をもらいたいか、全然思いつかないんだ」とマクヴリーズ。 「本当にほしいものなんてなにもない。つまりな、老いぼれて病気で寝たきりのおふくろとか(以下、略)」 「重要な点をついてるな」 「重要な点が抜けてるってことだろ。ロングウォークなんて百パーセント無意味だ。」 これまたリアルなやり取りだ。すごい。 「雲の上のどこかで雷が手をたたいた。前方で青いフォーク形の稲妻が地面に突きささった。」 素晴らしい表現だ。 「本なんて時には読み捨てにするものよ、研究するものじゃないわ、と彼女は教えた。 たしかにもっと気楽に読書と向き合いたいな。 「暗闇。くそったれの暗闇。ギャラティは闇に生き埋めにされたように思った。監禁されてしまった。夜明けは一世紀も先だ。〈中略〉闇の中に六フィートの深さで埋められている。」 これもまた素晴らしい表現だ。闇に生き埋め。 「レイ•ギャラティというこの有機体が死ぬはずはないという、揺るぎない妄信がいぜんとしてある。他の奴は死ぬかもしれない。彼らはギャラティの生涯の映画のエキストラだ。しかしロングランのヒット映画〈レイ•ギャラティ物語〉のスター、レイ•ギャラティは死なない」 かっこよすますキング先生! 終盤になると死のロングウォークが反転して 生のロングウォークになる見事な手腕。 キング先生はとにかく歩き続けろ、それがお前を顔のない群衆ではな輝くメインの星にするんだと焚き付ける。「おれの仕事は、片足をもう片方の足の前に出し続けることだって」と。 「パーカーの殺した兵士の代わりが、知らないまに補充されていた。」 交換可能な兵士たち。 傑作だけど もったいない! ラストの描写が分かりにくい。 よく分からなくて何度か読み返した。 フィクションなんだから 金髪の兵士や少佐に 一矢報いてほしかったな。
- 2026年5月14日
パブロを殺せ: 史上最悪の麻薬王VSコロンビア、アメリカ特殊部隊マーク・ボウデン,Mark Bowden,伏見威蕃「ブレイキング・バッド」があまりにも面白すぎて 劇中に出てきたこの作品が気になって読み出した。 コロンビアの麻薬王、パブロ・エスコバルについての本。 タイトルがすごい 「パブロを殺せ」 図書館で書庫から出してもらうとき かなりヤバイ奴だと思われただろうな。 でも最恐のワルの人柄、手口、成り上がり方等々を 知っておくべきというか なぜか惹かれてしまうカリスマ性を知っておきたかった。 それにしてもパブロが殺しまくる殺しまくる。 おそらくその数、4桁はくだらない。 229ページから5ページに渡って ラジオの独占インタビューが再録されているが 口が上手いというか絶妙にすべてをはぐらかす術に長けまくっている。かなり地頭が良い。当たり前だがかなりのキレ者だ。 結局、言葉の能力に長け 言葉の力でもって人を配下におさめられる。 あらゆる独裁者に備わっている能力をパブロも持ち合わせていたということだ。 結局、なんだか読んでいるのがバカらしくなって 最後まで読むのをやめてしまった。 俺はもしかしたら 現実よりもフィクションの方が好きなのかもしれない。 - 2026年5月7日
ドグラ・マグラ(上)夢野久作読み終わった「ドグラ•マグラ」 とんでもない読書体験。 これだから読書はやめられない。 こんな気持ちを味わうために読書をしているのだ。 圧巻の大作。 維新前後までは切支丹伴天連(キリシタンバテレン)の使う幻魔術の長崎地方の方言。一種の廃語同様の言葉で、単に手品とかトリックの意味がある。 「堂廻目眩(どうめぐりめぐらみ)」 「戸惑面喰(とまどいめんくらい)」という字を当て 「ドグラ•マグラ」と読ませてもいい、そのような意味の全部を引っくるめたような言葉。 「世界の人間は一人残らず精神病者」という事実を立証する精神科学者の談話筆記が載っているドグラ•マグラ 正木先生の遺稿 「地球表面上は狂人の一大解放治療場」 「この地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない」 「キチガイ地獄外道祭文」の 精神病棟は満員ばかりというのは 現代では特養や介護施設に当たるか。 あらゆる施設は人手不足で受け入れ人数が限られ 商売は立ち行かず破綻する。 あるいは金欠や人間不審で要介護者を外に出せずに 介護者が疲弊し続けるシステムや病巣。 そんな地獄めぐり。 正木博士 「すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人の一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその賄係りに見立てられ得るのだ。」 「実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者ばかりと断言して差支えないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、又は智慧や情慾が多過ぎたり、足りなかったりする、所謂、精神的の片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態を呈していると考えても、断然間違いはないのである。早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。」 「頭の働らきの不叶いなところを持っていない者は無い。すなわち精神日者と五十歩百歩の人間でない者は居ないのだ。」 「太陽は、これ等無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、永久に無言の解放治療を続けている。そうするとその禽獣、虫ケラ以下の半狂人である人類たちは、永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群である事を自覚し初めて、宗教とか、道徳とか、法律とか、又は赤い主義とか青い主義とかいう御丁寧なものを作って「お互いに無茶を止しましょう••••••変な真似をやめましょう」をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って、僭越ながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、ホントウの科学的な精神病の研究治療を試みているのだ。」 「まず人間の脳髄の作用から研究し直して「脳髄は物を考える処」という従来の迷信的な学説をドン底から訂正する。」 「但し念のためにお断りしておくが、その実験をやっている吾輩ばかりが、精神に異状の無い、太平無事のデクノ坊だと誤診されては迷惑だよ。」 「だから地上のほかの狂人は治療るとも、吾輩の精神異状だけは永遠に全快しないだろうと思う。これだけは慥かに保証出来る。云々。」 アンポンタン•ポカン博士曰く、脳髄の罪悪史五項 「人間を神様以上のものと自惚れさせた」 「人間を大自然に反抗させた」 「人間を禽獣の世界に逐い返した」 「人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた」 「人類を自滅の斜面(スロープ)へ逐い落した」 「かくして物の見事に人間世界から神様を抹消(ノックアウト)した「物を考える脳髄」は、引き続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物文化を創造さか初めた。脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人を殖し、産児制限を自由自在にしてやった。あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。あらゆる光を工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。そうして自然の児である人間を片っ端から、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。瓦斯と電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて器械人形(ロボット)と遊戯させた。そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片と、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャが生み出す不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。••••••不自然なしには一日も生存できないように、人類を習慣づけてしまった。」 「人間世界から「神様」をタタキ出し、次いで「自然」を駆逐し去った「物を考える脳髄」は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合切を「唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である。」という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ、自瀆化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷わせるようになってしまった。「物を考える脳髄」は、かくして知らず識らずの裡に、人類をめつさせようとしているのだ。」 「胎児の夢」以降は読み進めるのがキツイ部分もあったが、しかしそれは自分が文語体を読み慣れていないという事もある。 そして後半の 呉青秀のエピソードからとんでもない面白さになる。青天井を突き抜けるほどの面白さだ。 「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っ剝いで見ると、その下から第一番に現われて来るのは燃え立つような名誉慾だ。その次には焦げ付くような芸術慾••••••その又ドン底には沸騰点を突破した愛慾、兼、性慾と、この四つの欲望の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性慾の固まりに過ぎなかった事が、ザラリと判明して来るのだ」 すげぇー。 呉一郎の好きな小説家 ポー スチブンソン ホーソン 図書館の書庫から出してもらったドグラ•マグラがボロボロで怨念がこもってみたいでよかった。
- 2026年4月23日
東京奇譚集村上春樹読み終わった『偶然の恋人』 主人公と姉が 10年ぶりの再会にしては 距離がいくらなんでも近くなりすぎではないか。 乳房切除手術を控えているにせよ耳にキスとは。 あと姉の旦那(傲慢な俗物であり同性愛差別主義者)は実際に付き合ってみると思っていたほど嫌なやつじゃなかったというのは都合が良すぎる。 これがもし長編ならその旦那との対決みたいな構図になるのかも。 作中で〈彼〉が読んでいた本 チャールズ•ディッケンズ「荒涼館」 『ハナレイ•ベイ』 サチさんがあまりにも自立した女性で 見知らぬ土地で自ら運転したった一人で 亡き息子に関する煩雑な手続きをこなしていくんだから尋常じゃない。 「大義がどうであれ、戦争における死は、それぞれの側にある怒りや憎しみによってもたらされたものです。でも自然はそうではない。自然には側のようなものはありません。〈中略〉息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていったのだと」 「女の子とうまくやる方法は三つしかない。ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている服をほめること、三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。簡単でしょ。それだけやって駄目なら、とりあえずあきらめた方がいい」 はい、サチさん! いや、村上春樹大先生! 『どこであれそれが見つかりそうな場所で』 これはいい短編だな。 この作品は読み進めるほどに どんな結末に持っていくのだろうと 好奇心が掻き立てられる。 「我慢強さと注意深さ」が必要とされる作業。 まさに村上春樹的だ。 「クルミザワさん」という名前 相変わらずのネーミングセンスだ。 『日々移動する腎臓のかたちをした石』 主人公が小説家という設定。 5年間で4回、芥川賞の候補になっている。 「観察して、観察して、観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、正しい小説家のあり方なんだ」 「私の印象ではあなたはいつか、もっと長い大柄な小説を書くことになると思う。そしてそれによって、もっと重みのある作家になっていくような気が する。時間は多少かかるかもしれないけれど」 芥川賞候補、長い大柄な小説への移行 自己言及的だ。 「淳平くんって、すごく好きな女の人がほかにいるんでしょ?どうしても忘れられない人っていうか」 村上春樹はずっと『ノルウェイの森』的世界から抜け出せないでいる。直子の亡霊に付き纏われているというより、生きている側が亡霊に付き纏っている。 『品川猿』 猿も人間も等しく病んでいるということ。 名前に付帯する呪いについて。 それにしても村上春樹という人は 人の心に巣食う闇や病や呪いを 深い所で感じられる作家だ。 まるでカウンセラー坂木哲子は村上春樹そのもののようだ。 初期の作品では 名前を持たない登場人物を書いていた作家が 名前に付帯する呪いについて書いた素晴らしい作品だ。 - 2026年4月20日
レキシントンの幽霊村上春樹読み終わった『レキシントンの幽霊』 いい短編だな。 すらっと読めるのに深い読後感。 さすが短編の名手である。 この作品はちょっと言葉にできないな。 ただ感じた方がいいし感じたままがいい。 眠りは言葉を超えているし言葉なんて寄せ付けないから。 ただ眠ることで死者と一体になる。 「つまりある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ。」 『緑色の獣』 これもいい短編だな。 土の中の深い深い所からプロポーズしにやってきた緑色の獣。 緑色の獣が鼻の先を細くして鍵穴に突っ込み、ドアの鍵を開ける所はふつうにこわい。 獣はプロポーズをしにきたのだが 勝手に鍵を開けてしまっては人間の世界では犯罪行為でありストーカーである。 主人公は獣がとても傷つきやすい出来たてのマシュマロのような心を持っていると分かった途端、残虐性が爆発し歯止めがきかなくなる。 本当の獣はどちらなのか 考えさせられる。 『沈黙』 傑作中の傑作。 大沢さん。いいな。 「忘れたいものは忘れられないんです」 自分にとっての青木を思わずにいはいられない作品だ。 そして フィッツジェラルドの『グレート•ギャツビー』で ギャツビーの死後、ニック•キャラウェイが 道でバッタリ会ったブキャナン夫妻に感じる嫌悪と あまりにも子供じみた「不注意な人間」がもたらす害悪を描いた場面を想起させる。 大沢さんがいうように そんな子供じみた不注意な人間たちに 「負けるわけにはいかない」 「人生そのものに負けるわけにはいかない」し 「自分が軽蔑し侮辱するものに簡単に押し潰されるわけにはいかない」んだということに尽きる。 凄まじい作品だ。 『氷男』 詩的でいい作品だ。 まるで氷男のようにつかめない作品だ。 決定的な一言というものがある。 その場が凍りついてしまう一言が。 その相手を凍りつかせてしまう一言が。 発した言葉は取り返しがつかない。 氷山のように聳え立つ。 我々は自らがめぐらせた氷の世界で生きていくしかないのか。 『トニー滝谷』 どうしたらこんなに流麗な文章が書けるんだろうな。 淀みない文章の極致。 『七番目の男』 ちょっと宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』っぽいかなと思ったけど、やっぱりちがうかも。 凄まじい表現力をもった短編だ。 「波は音もなく、何の気配もなく、そのなめらかな舌先を私たちのすぐ足もとにまでこっそりと延ばしていました。」 「波は向きを転じ、荒くれた叫びを残しながら、全速力で沖に向かって引いていくところでした。まるで地の果てで誰かが巨大な絨毯を思いきり引っ張ったみたいに見えました。」 こんな表現が可能なんだな。すごい。 『めきらやなぎと、眠る女』 オリジナル「めくらやなぎと眠る女」に手を入れ原稿量を約4割減らした改訂作品。 バスに居合わせ老人たちの不気味さがなくなってしまっているのが残念だ。 病院の食堂で無意識に灰皿の中で 砂糖とミルクを吸殻で泥のように混ぜる描写もなくっている。あれがよかったのに! たしかにオリジナルの方は タイトルにめきらやなぎが入っているのに 他のエピソードが粒揃いすぎて奥に引っ込んでしまっている印象があった。 そのタイトルである必然性が感じられなかった。 しかし改訂版の方だと このタイトルであることに納得がいく。 だが、やはりオリジナルに比べると作品の魅力が劣ってしまっている。 めくらやなぎは『星の王子さま』の バオバブの木のようだと思った。 まさに村上春樹的というか 人は怠ってきたこと遠回しにしてきたこと逃げてきたことといずれ向き合うことになるし それは取り返しのつかない事態を引き起こし 決定的に自分を、いや大切な人を 損なってしまうかもしれないということ。 - 2026年4月17日
カンガルー日和 (講談社文庫)村上春樹読み終わった再読。 いい短編集だ。 村上春樹の貧乏なころが反映されていたり 『とんがり焼の盛衰』のように当時の文壇を皮肉った話もあり、自伝的な要素の濃い短編集だと思う。 『カンガルー日和』 母親カンガルーではないもう一匹の雌が謎だ。 恋人の機嫌を損ねないよう振る舞う男の気持ちがよく分かる。 『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』 世界でいちばん素敵なタイトルをもつ作品だ。 タイトルで勝っている。 それでよし。 谷川俊太郎の詩集「夜中に台所で僕は君に話しかけたかった」も素敵なタイトルだ。 なんとなく長いタイトルで思い出した。 それだけ。 『眠い』 この短編、なんかいいな。 村上春樹作品の〈僕〉は、いい加減で投げやりでひねくれ者だと面白い。 結婚式という盛大な茶番における眠るという潜在的反抗。 『タクシーに乗った吸血鬼』 読み終えてこのタイトルが気になった。 「タクシー運転手の吸血鬼」ではなく 「タクシーに乗った吸血鬼」。 ということはこれ、乗客の〈僕〉が吸血鬼ということではないだろうか。 「悪いことというのは往々にして重なるものである。これはもちろん一般論だ。しかしもし実際に幾つか悪いことが重なってしまえば、これはもう一般論なんかじゃない。待ち合わせていた女の子とはすれ違う、上着のボタンはとれてしまう、電車の中で会いたくもない知り合いに会ってしまう、虫歯が痛み始める、雨が降り始める、タクシーに乗れば交通事故で道路は渋滞という有様だ。そんな時にもし、悪いことは重なるもんだよ、なんて言う奴がいたら、僕はきっと殴り倒してしまうに違いない。あなただってきっとそうだろう。一般論なんて結局はそういうものだ。」 名文である。 「幽霊というのはつまり肉体的存在に対するアンチ•テーゼだな」と僕は口から出まかせを言った。そういうのはとても得意なのだ。 「ふうん」 「しかし吸血鬼というのは、肉体を軸にした価値転換だ」 「つまりアンチ•テーゼは認めるが、価値転換は認めない、と」 「ややこしいまのを認めると、もうキリがないからさ」 「お客さん、インテリですね」 さすが村上春樹。 「どうしてタクシーの運転手やってるの?」 「吸血鬼という概念に捉われたくないからです。マントをかぶったり、馬車に乗ったり、城に住んだりって、そんなな良くないですよ。私はちゃんと税金だって納めるし、印鑑登録だってします。ディスコにだって行くし、パチンコもします。」 いいなぁ。 『彼女の町と、彼女の緬羊』 たしかにローカルのテレビ局が紹介する我が町って 不思議な感興を呼び起こす。 チェックアウトを済ませるまでのほんの一瞬の興味。 『あしか祭り』 自分もまたあしかのように自分ルネサンス、引いては世界ルネサンスを目指す所存であります。 典型的なあしかレトリックはそのまま村上春樹レトリックである。 『鏡』 これはいい短編だな。そしてこわい。 鏡の中の自分ではない自分が心底自分を憎んでいる。そして鏡の中の自分が、こちら側の自分を支配しようとする。本当に上手い。 「とにかくそうなんだ。幽霊は見ないし、超能力はない。なんというか、実に散文的な人生、というわけさ。」 カッコいい。 『1963/1982年のイパネマ娘』 村上春樹はほんと「イパネマの娘」が好きだよな。 言わずと知れた名盤『ゲッツ•ジルベルト』の一曲目。村上RADIOでも何回かかけている。 僕も影響されてCDを持っている愛聴盤だ。 『バート•バカラックはお好き?』 なになに風ハンバーグ•ステーキがあふれた世界で、ごくあたりまえのハンバーグ•ステーキが食べられない話。実に村上春樹的主題だ。 ごくあたりまえ風ハンバーグ•ステーキまであるが、ごくあたりまえのハンバーグ•ステーキとは似て非なるものである。 それにしても村上春樹風があふれた世界になったのだから皮肉というか、僕はごくあたりまえにごくあたりまえの村上春樹作品が好きなんだ。 だから他の村上春樹風は消えちまえ。 なぜなら醜いから。 「世の中というのは奇妙な場所です。僕が求めているのはごくあたりまえのハンバーグ•ステーキなのに、それがある時にはパイナップル抜きのハワイ風ハンバーグ•ステーキという形でしかもたらされないのです。」 「どうか鋭くあろうと思わないで下さい。文章というのは結局は間にあわせのものなんです。」 『5月の海岸線』 詩だ。 良質な詩だ。 『駄目になった王国』 タイトルがまず素晴らしいな。 引きがある。 この短編はまさに 森田童子の名曲『ぼくたちの失敗』の歌詞 「だめになった僕を見て 君もびっくりしただろう」を思い出さずにはいられない。 女性にコーラをぶっかけられるくらい駄目になった旧友と〈僕〉。 〈僕〉にもコーラの三分の一がかかっているのがミソだ。 つまり〈僕〉も駄目になってしまったということ。 今は三分の一でもやがて三分のニになり 遅かれ早かれぜんぶが駄目になってしまうのだろう。 そう、ぐしょ濡れになった安物の面白くない文庫本のように。 やれやれ。 『32歳のデイドリッパー』 僕は窓際に、彼女は通路側に座っていた。 「席をかわってあげようか」と僕は言う。 「ありがとう」と彼女は言う。「親切なのね」 親切なわけじゃないんだ、僕は苦笑する。君よりはずっと退屈さに慣れているというだけのことなんだよ。 このけだるさがいい。 『とんがり焼の盛衰』 この作品は後に村上春樹自身が当時の「文壇」を皮肉ったものだと明かしている。 ラストの「僕は自分の食べたいものだけを作って、自分で食べる。鴉なんかおたがいにつつきあって死んでしまえばいいんだ。」が強烈である。 Spotifyでは村上春樹によるこの作品の貴重な朗読が聴ける。 『チーズ•ケーキのような形をした僕の貧乏』 「貧乏」という点で『とんがり焼の盛衰』のあとにこの作品があるのに納得がいく。 近い内に、村上春樹夫妻が住んでいた三角地帯にぜひ行きたいと思っている(村上主義者によるYouTubeで紹介されていたから)。 それにしてもいいタイトルだなぁ。 『スパゲティーの年に』 この作品も「貧乏」がテーマだろうか。 安価なスパゲティーを茹で続ける毎日。 しかし村上春樹はそこに紅茶とサラダを添える一工夫がある。 ただでは終わらせてなるものかという気概がある。 しかし人間関係のゴタゴタはうんざりだという諦念がある。 村上春樹作品の影響でパスタを作ったこともあったな。 『かいつぶり』 これも『貧乏』がテーマ。 貧困から抜け出せないループ。 「合言葉」は今だと「パスワード」だな。 やれやれ。パスワードなんてクソ喰らえだ。 そしていつだって時間切れ。 ややこしい規則•システムとやらにファック。 『サウスベイ•ストラット』 村上春樹の神であるチャンドラー的私立探偵もの。 「警官の笑い方はいつも同じだ。年金をもらえる見込みのある人間だけがそういう笑い方をする。」 キレキレである。 『図書館奇譚』 羊音がまた出てきてうれしいしいい短編だな。 地下や闇といった要素がその後の「世界の終わり」につながるような冒険譚だ。 それにしても美少女に救われる話というのが なんとも村上春樹すぎるが。 地下にいる美少女は母の昔の姿なのか。 母が失った少女性か。 「チャンスをつかむためにはまず柔順になったふりをしなくてはならないーとはいってもそれはむずかしいことではなかった。僕はもともとおそろしく柔順な性格なのだ。」 さて、ここで村上春樹が「じゅうじゅん」にどの漢字を当てがったか見てほしい。 村上春樹の「じゅうじゅん」は「従順」ではなく「柔順」なのである。 「従う」順さではなく「柔らかい」順さなのだ。 つまりあそびがある柔順。 村上春樹は「したたか」なのである。 「従順」ではなく「柔順」。 「彼女は小さな唇に指を一本あて、僕に黙るように命令した。僕は黙った。僕は命令に従うのがとても上手いのだ。特殊能力といってもいいくらいだ。」
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