izy "春琴抄改版" 2025年3月22日

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2025年3月22日
春琴抄改版
春琴抄改版
谷崎潤一郎
純愛物語というとどこか陳腐な感じがしてしまうのは、世代的には「セカチュー」や「冬ソナ」のせいかな。『春琴抄』も純愛物語には違いないけど、そういうブームと化した「純愛」に比べると、この作品の持つ独自性と新鮮さは今なお際立っていると思う。 描かれるのは、美貌で盲目の三味線師匠春琴と、丁稚から彼女の世話役となった佐助との「純愛」であるが、それはあくまでも、春琴が佐助をいじめたり罵ったりしながら身の回りの世話をさせ、佐助も喜んでそれに従うという、谷崎お得意のマゾヒズムである。 有名な作品なのでネタバレしてしまうが、生まれた子どもが春琴の意向で里子に出されるばかりか、美衣美食を恣にし、鶯や雲雀を何羽も飼い育てるなど贅沢の限りを尽くした挙句、何者かによって顔に大火傷を負わされた春琴の焼けただれた顔を見るまいと、佐助も自ら目を突いて盲目になり、死ぬまで春琴に仕えるというなかなかぶっ飛んだ話だ。 佐助が「誰しも眼が潰れることは不仕合はせだと思ふであらうが自分は盲目になつてからさう云ふ感情を味はつたことがない寧ろ反対に此の世が極楽浄土になつたやうに思はれお師匠様と唯二人で生きながら蓮の台の上に住んでゐるやうな心地がした」と述べているように、美の陶酔に殉じることで自らの運命を全うするという谷崎の思想が、句読点を極端に省いた流麗かつ簡素な文体を通じて遺憾なく発揮されている。 「セカチュー」に代表される、恋人の死という悲哀と、素朴な愛情の結晶化という結末が、洋の東西や時代を問わずごまんと語り尽くされて来た「純愛物語」の焼増しに過ぎないのなら、『春琴抄』において描き出されるのは、崇拝の対象への狂信的とも言える肉体的・精神的苦役である。その苦役が対象との一体化による快楽へと転化され、佐助みずから盲目となって春琴と同じ視覚世界への没入を図り、観念としての美貌の記憶と感覚世界の合一をもってその頂点を迎える過程は、「純愛物語」の極端にして過剰なひとつの到達点であるように思う。
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