
読書猫
@bookcat
2026年5月18日
帰れない探偵
柴崎友香
読み終わった
(本文抜粋)
“「疑うことと、人を信じることって別じゃないですか? どんなに信頼してる、すごく好きな人でも、その人が何をするかなんてわからないでしょう。自分で自分のことだってわからないのに」”
“「わたしの育った国は、小さくて人口もそれほど多くないんだが、」
テラさんは、わたしが買ってきたほうのフライを食べていた。この店のはビネガーと塩の塩梅がすばらしい。
「わたしが生まれる少し前から、すべてが記録されている」
窓の向こうの空を見ながら、テラさんはゆっくりと話した。
「記録を取り出せるのは、国の機関だけだ。わたしたちみたいな探偵が調べても、知ることができるのは上澄みの、ほんの一部に過ぎない。つまりは表向きのデータだ。だが、国の機関や、それに連なる企業は、そのデータを利用している。小学校一年生のテスト結果も、デートで入った店も、国や一部の企業の発展のために有益なのだそうだ。しかし、そこにある私の人生のすべての記録だとされる記録が、ほんとうにわたしが経験したものと同じなのかどうかは、知ることができない」”
”「わたしはね、学校で習う言葉とは少し違う言葉で育った。正しい言葉として国が決めた言葉も、周りの人たちから受け継いだ言葉も、もう長い間話していない。だんだん忘れるというか、自分の中から失われていくのは、学校で習った”正しい”ほうの言葉なんだ。生まれて最初に聞いた言葉、話した言葉、友人たちと毎日どうでもいいようなことをしゃべり続けていた言葉は、わたしの中から消えない。長い間会っていない友人たちの声が、何十年も前に交わした言葉が、今もときどき聞こえてくる」“
”書かないことは、そこに確かにいた彼女の存在をなかったことにすることだろうか。“
”大きく開け放たれた窓の外に、青い海が広がっていた。
ここからは、海は穏やかに見えた。水平線まで、淡い緑色の光を放っていた。
それは、わたしがこの世界で見た、もっとも美しい海だった。こんなに美しい海があることを、わたしはそれまで知らなかった。“
