
綾鷹
@ayataka
2026年5月25日
黄色い家
川上未映子
親元を離れた17歳の主人公・花が、「黄美子」という女性や同年代の少女たちと疑似家族のように暮らし、生きるためにより深い闇・犯罪へと巻き込まれていく物語。
読みながら胸が苦しくなる物語だった。
生まれながらに変えられないものに対するやるせなさ。安心して生きること、幸せを守ることへの切実さ。窮地の中に現れる日常の幸せ。
花が黄美子さんとの生活をなんとか守ろうとし、それでも崩れていく様子は辛い。
本当に辛いときに支えてくれた黄美子さんとの生活に花が執着するのは仕方がなくて、花も黄美子さんも悪かったとは思えない。
黄美子さんや花の母親の様子は『ケーキの切れない非行少年たち』を思い出した。
自分も当たり前の幸せを軽く見過ぎでいるのかもしれない。
・『血ってなんだ』
しばらくして雨俊さんは言った。
「ガキの頃からさんざん言われてきたけどさ、じっさい俺、わかんねえんだわ。あいつらの言ってる血ってのがなんなのか。血に汚いとかきれいとか、えらいとか、そんなのあるのか?本当のところ、あいつらはどういう意味で言ってんだ?仮にそんなのがあるとして、でもそれをなにでみわけるんだ?食べてるものか?生まれた場所か?親の、そのまた親のやってきたことか?顔つきか?それとも名前か?なんなんだ、血って』「連中もわかってないよ』志訓さんは言った。『わかってないから言えるんだろ」「なんだそれ、なんでてめえでわかってないことが言えるんだよ』「わかってないことを話すときが、人間いちばん調子にのれるからだろ』
「調子にのる?」雨俊さんは志訓さんの顔を見て首をかしげた。『なんだよ、調子にのるとかの問題かよ」
「そうだよ、雨俊』志訓さんは笑った。『だいたいのことは、ぜんぶ調子の問題だよ。理由とか、本当はどうとか、そういうの誰もいらないんだよ。調子にのってるやつといると、自分までうまくいってるように感じるだろ、気分がよくなって、ぜんぶうまくいってるように思える。みんなそれが好きなんだよ。だから調子にのってるやつに、人も金も、運も集まる。力をもつ。だからいちばん調子にのってるやつの言うことが、そのときいちばん正しいってことになるんだ』
「おまえの言うことは、いっつもよくわかんねえけど』雨俊さんは頭をかいた。『調子にのったやつがいい目するなら、じゃあ、俺らが調子にのれんのはいつなんだよ。どうやったら調子にのれんだよ。俺も調子にのりてえよ』『あはは、俺らは無理だよ』
「なんでだよ」
「なんでもだよ」
そう言って笑う志訓さんに、雨俊さんは最初は納得できないような顔をしていたけれど、そのうちにつられて顔をゆるめ、最後は三人で声を出して笑った。
・金を出すやつは金を出してもらうやつより強い。金を出してもらわないといけないやつは、金を出してくれるやつより弱い。金を出すやつは口を出すし、それが通る。金を出すやつには意識していてもいなくてもいつも優越感があって、出してもらうほうは無意識のうちに卑屈になるし、顔色をうかがうようになっていく。強いものは弱いものを自分の都合でいつだってないことにできる。現にスナックを辞めて不動産屋の仕事を一緒にやるんだと目を輝かせていた母親は二年もたたないうちにそうなった。別れたのが病気のあとなのかまえなのかはわからないけど、けっきょくなんにもならなかった。いつだったかエンさんが言っていたことも思いだす。金をもってる男にろくなのはいないーもちろん金をもってるのは男のほうが多いからエンさんの言うことは筋が通っているかもしれないけれど、でも肝心なのは金をもっているのが誰なのか、つまり、金のありかなのではないだろうか。貯めて貯めてちょっとこぼれてくるのをすするくらいがちょうどいい、エンさんはそうも言っていた。自分で稼いだ金だけが自分の金で、自分を守ってくれるのは誰かの金ではない。自分で稼いだ自分の金だけなのだ。
・「・・・・・・・映水さんの仕事のことね、わたし最初すっごいびっくりして、わけがわかんなくて怒ったんだよね。「れもん』が勝手に使われてるのもいやだったし。怖かったしさ。なんかじられないって感じで。でも、映水さんの話を聞いてるうちにーうまく言えないんだけど、なんかいろいろ、考えるようになって」
「うん」
「だってわたしだってさ、未成年で家出同然で、まだお酒飲んじゃいけないのに毎日飲んで仕事してるわけだよね。響察が来たときびくびくしたし。今も年齢は隠してるしさ。でもね、わたしからすると、生きていくにはこれしかないっていうか、これ以外になかったっていうか、それは本当なわけだよ。だから映水さんも、そこはおなじで」
「うん」
「だからって、べつに自分のやってることとか映水さんのやってることが正しいって言いたいわけじゃないし、言えないんだけどね、でも、じゃあ、わたしは間違ってるのかって言われると、なんか、そうは思えなくて」
わたしは考えていることがうまく説明できなくて、こめかみをごしごし掻いた。
「正しくないよ、そりゃ正しくはないけど、でも間違ってるわけじゃない。そう感じるの。未成年だし、その意味で悪いことなのかもしれないけど、でも、人生として間違ったことをしてるのかって訊かれると、そうじゃないっていう気持ちがどうしてもあって。わたし、なんか、映水さんの話きいてから、ときどきそういうこと考えるんだ。わたしは年をごまかしたりしてるけど、その意味で嘘をついてるってことにもなるんだろうけど、でも1間違っていないと思う。でも、おまえの人生どうなんだって訊かれたら、なんて答えられるんだろうって」「人生って?」
「いや、だから、間違ってないかもしんないけど、でも、おまえの人生どうなんだっていう」「それは」黄美子さんがわたしの顔を見て言った。「誰に訊かれるの?」「え?」
「誰が、そんなこと訊くの?」
「誰って」
わたしは黄美子さんの顔をじっと見つめた。
「誰もそんなこと、訊かなくない?」
「訊かないかもしんないけど」
「じゃあ、いいじゃんか」「え、いいの?」
「だってそんなこと、誰も訊かないよ」「・・・・・・自分が自分に、訊いてるのかもしんないけど」「じゃあ、自分で自分に訊くの、やめればいいじゃんか」
わたしは黄美子さんの目を見た。自分で自分に訊くのをやめるしそれはこれまで考えたこともなかった発想だった。わたしは何秒間か言葉に詰まり、黄美子さんはそんなわたしを不思議そうに見ていた。
「いや、でも、それだとー」「うん?」
「困るっていうか、いや、困りはしないけど」「じゃあ、いいじゃん」「そうかも、しれないけど…・・・・」
「なんか、むずかしく考えるの花っぽいけど」黄美子さんは笑った。わたしはなんて答えていいのかわからず黙ってしまった。テレビは料理番組から通販番組に変わり、金粉入りのクリームが画面いっぱいに映しだされていた。
・「あー、あんま深く考えないでいいよ」ヴィヴさんがふふんと笑った。「世の中は、できるやつがぜんぶやることになってんだから、考えたってしかたないよ。無駄無駄。頭を使えるやつが苦労することになってるんだよ。でもそれでいいじゃんか」「苦労するのは、いいことなんですか」
「いいことだとは言ってないよ。しょうがないってこと。でも苦労もできない馬鹿よかましでしよ。あいつらは幸せかもしれないけど、馬鹿だよ。あんた、幸せになんかなりたい?」「わかりません、幸せっていうのがどういう感じか」
「幸せな人間っていうのは、たしかにいるんだよ。でもそれは金があるから、仕事があるから、幸せなんじゃないよ。あいつらは、考えないから幸せなんだよ」ヴィヴさんは言った。「あんたは頭が使えるんでしょ。じゃあいいじゃん、それで。頭使って金を稼げば。博突なんかやんないでふつうに生きていくぶんには、金はわかりやすい力だよ。それはそれでなかなか面白いもんだよ。知恵絞って体使って自分でつかんだ金をもつとね、最初からなんの苦労もなしに金をもってるやつの醜さがよくわかる。頑張んなよ」
・いっぽうで、わたしはすごく機嫌のよいときもあって、そんなときは以前のようにみんなを連れてマックに行ったり吉野家に行ったり、駅前をぶらぶらしたりした。桃子と蘭は渋谷や新宿に行くのが好きだったけれど、わたしは三茶以外の場所に行きたい気持ちにはなれなかった。大きな街はアタックで行くだけで充分だった。三茶を歩いていると、住宅街でも商店街でも、友達や家族、それから恋人みたいな誰かと楽しそうに歩いている誰かを、かならず見かけた。わたしとおなじ年くらいの女の子たち。みんな顔からはみでそうな屈託のない笑顔をみせて、みんな幸せそうにみえた。その幸せはたぶん、親なのか家族なのか彼氏なのかは知らないけれど、でも、自分より強い誰かに守ってもらっているという自と安心からにじみ出ているなにかであるように感じられた。そんな光景を見たあとには胸のあたりにどす黒いものが渦巻くのを感じた。
・「ねぇ、き、黄美子さん、わたしと」
わたしは両手で顔を押さえて言った。
「わたしと一緒にいこう」
自分がどれだけのことを言っているのか、そんなことができるのかどうかもわからなかった。
でもわたしはそう言わずにはいられなかった。仕事もない、狭い部屋で、自分ひとりが生きていくのがぎりぎりの日々で、ここから黄美子さんを連れて出て、こんな自分にいったいなにができるのかわからなかった。でもあの日、黄美子さんはわたしを連れていってくれた、ひとりぼっちだったわたしを一緒に連れていってくれた、長い時間がたってわたしたちはこんなことになったけど、こんなふうになってしまったけど、でもわたしたちが一緒に暮らした日々は、それだけじゃなかった、ひどいことばかりじゃなかった。
黄美子さんは「れもん」で、あの家で、ご飯を食べながら、歩きながら、心から笑うことをおしえてくれて、わたしをしあわせにしてくれた、受けとめてくれた、わたしがいま黄美子さんにできることはこれしかなかったし、取り返しのつかないことだけが残った今のなかで、黄美子さんはこうしてひとりきりで目のまえにいて、誰も頼れずに弱っていて、黄美子さんを支えることができるのは、こんなわたしだけれど、でももう、わたししかいないのだ、もう一度、黄美子さんとやり直すことができたら、そうすることができたなら、黄美子さんを救うことができたならわたしは泣きじゃくりながら、黄美子さんに言った。
「黄美子さん、わたしといこう」
黄美子さんは口を半分ひらいたまま、わたしを見ていた。
