
綾鷹
@ayataka
2026年5月25日
ガザに地下鉄が走る日
岡真理
現代アラブ文学・パレスチナ問題の専門家である岡真理によるエッセー・評論集。完全封鎖されたガザ地区を舞台に、過酷な占領と暴力の下でなお人間性を失わずに生きるパレスチナの人々との出会いや、彼らの根源的な抵抗について描かれている。
この問題にはあまりに救いがないと思えてしまう。。
不条理な世界、無関心な自分自身への怒り。自分の無力感への絶望。
国民でないが故に人間ならざる者、人権など慮る必要のないノーマンとして生きるしかない人がいるなんて。。正しく無知は罪である。
では自分に何ができるだろうか。
・自分たちがこのような暴力を生きることを強いられている、その同じ世界で、そんな暴力とはまったく無縁に、安穏な暮らしを楽しんでいる者たちがいるという事実。
普遍的人権、人間の尊厳、人間の自由、平等、平和、そういったことがまことしやかに語られる二一世紀のこの同じ地球上で、人権も平和も自由も尊厳も、空気のように享受している者たちがいる一方で、人権も自由も尊厳もなく、日々、殺されて一顧だにされない者たちがいる。人間が虫けらのように殺されるという不条理、だが、その物理的暴力以上に、世界がその不条理を耐えがたいこととして感じていないという事実↓存在の耐えられない軽さーこそが、人間にとって致命的な黒力なのではないだろうか。
世界は、パレスチナの占領を放置し、そうすることによってそこに生きる人々を半世紀にわたり占領の暴力のただなかに遺棄し続けることでーあるいはガザの完全封鎖を十年以上にわたり放置し、ガザの人々を「生きながらの死」と彼らが呼ぶ状態に捨て置くことでー、パレスチナ人に対してメタメッセージを発しているのだと言える。おまえたちの尊厳が冒されようと、私たちには関係のないことだ。おまえたちは私たちと平等な人間ではない。おまえたちがどうなろうと、それはこの世界にとって何ら問題ではないと。
・すべてが破壊されたなかで、それでも人間として生きる、ということだ。それを失ったとき私たちは、たとえフィジカルには生きていたとしても、人間としては死んだも同然なのだから。
・社会全体が、他者を自分たちと対等な存在と見なさず、蔑み、差別的な仕打ちをすることに法がお墨付きを与えるとき、他者に対する非人間化はすでに始まっている。行き着く先は、ジェノサイドだ。
・インタビューのあいだずっと、ムハンマドさんは私たちと目を合わそうとはしなかった。受け答えも最小限だった。何かが自分のなかに侵入してくるのを、全身で拒絶しているように感じられた。ムハンマドさんが部屋を出ていくと、父親を亡くした彼を幼い頃から世話してきたセンター長のジャミーラさんが言った。「ムハンマドはほんとうは頭のいい子なのだけれど、何に対しても興味が持てなくて、努力が続かないのです。コンピュータの勉強をしていましたが、それもやめてしまいました」だが、それも当然ではないだろうか。私たちがこの世で何事かに興味をもって努力をするには、その前提としてまず、この世界がかくのごとくある、という事実を受け入れなければならない。野球をするなら野球のルールを受け入れるように、世界とはそのようなものだ、ということを認めなければならない。しかし、ムハンマドさんにとって彼が生きるこの世界とは、五歳の少年の目の前で、父親やおしたち、従兄たち、そして妊娠中の姉や、まだ生まれてもいない赤ん坊がパレスチナ人というだけで虐殺される、そのような不条理な暴力に満ちた世界なのだ。どうしたら世界とはこのようなものだと、そんな世界を受け入れることができるだろう。
・ガザに本部を置くパレスチナ人権センターの設立代表、ラジ・スラーニ弁護士が強調するように、イスラエルの犯した戦争犯罪がこれまでひとたびも正しく裁かれてこなかったという、国際社会におけるこのイスラエル不処罰の「伝統」が、パレスチナ人に対してイスラエルが繰り返し戦争犯罪を行使することを可能にしている。サブラー・シャティーラ、ジェニーン、ガザ、繰り返される虐殺・・・・・パレスチナ人がどのような戦争犯罪、不正を被ろうと、国際社会は寛大にも、つねにその犯罪を看過し、責任者を処罰しないことで、世界に向けてメタメッセージを発してきたのだと言える、パレスチナ人などとるに足らない存在であると。彼らは我々と等価な存在ではない、ノーマンであると。ラジ・スラーニは言う、私たちは人間として尊厳をもって生きる機会が欲しい、これは不当な要求だろうか、と。
・二〇〇二年の九月にレバノン南部のラシーディーエ難民キャンプを訪れた際に会った難民三世の二〇歳になるホダーは、レバノン大学の一年生だった。彼女にも心臓を患う幼い弟がいる。母を援けて、一人娘のホダーは小学生の頃から家事をこなし、兄たちや歳の離れた幼い弟の世話をしてきた。
そのせいもあって、中学で一年、高校でも一年、留年したが、それでも学業を諦めず、がんばって国立のレバノン大学に合格した。だが、翌年度の学費の目途が立っていなかった。翌月から始まる新学期までに納入しないと除籍になってしまうのだとホダーは言った(パレスチナ難民の学生には、「国民」であるレバノン人学生よりも高額な授業料が課せられていた)。同時に、弟の治療費も工面しなければならない。目の前にいる外国人に向かって、「そのための金銭的援助をしてもらえないか」という言葉が彼女の幌元まで出かかっているのを感じた。だが、ホダーはその言葉を飲み込むと、笑顔を作って言った、「でも、だいじょうぶ、心配しないで。なんとかするから」。帰国後ほどなくして、ホダーから手紙が来た。大学は退学したと書かれていた。代わりに、キャンプでNGOが運営する経営学のコースに通っているという。どんなことがあっても勉強だけは絶対にあきらめないという言葉でその手紙は結ばれていた。弟のことは書かれていなかったが、彼女が自分の学業よりも弟の治療費を優先したことは想像に難くない。
・名作の誉れ高い作品だが、これを読んだとき、ああ、これはパレスチナ難民の物語|とりわけ難民二世のーだと思った。難民としてキャンプで生まれ、両親から語り聞かされた故郷への帰還をひたすら待ちわびながらーそこに還れば、私たちは「難民」ではなくなる、尊厳ある人間として生きられるし、しかし、難民としてキャンプで死んでいく二世たち......。。貧困のなかで暮らし、「難民」として蔑まれ、差別され、繰り返し家を破壊され、繰り返し集団虐殺に見舞われて虫けらのように殺されるノーマンたち・・・・・。いったい何のための人生?
セス・アイボリーは娘に故郷の記憶を教えながら苦悩する、必要最小限しか教えないほうがこの子のためではないか、故郷のことなど何一つ知らずに、帰還の希望など、はなから持たないほうが、娘の苦しみが少ないのではないかと。パレスチナ人もまた、そうではないか。イスラエル軍が兵のジャーゴンで「芝刈り」と呼ぶ、伸びてきた芝を定期的に刈りとるように数年ごとにガザに対して仕掛ける大規模軍事攻撃も、ガザのパレスチナ人(その七割がナクバで難民となった者たちとその子孫だ)が、彼らの正当な権利である故郷帰還の夢も、同様に正当な権利である「主権をもったパレスチナ国家の独立」の夢も決して手放そうとしないからだ。二七年間、獄に繋がれたマンデラが、南アフリカ解放の夢も、そのための武装闘争の権利も手放さなかったように。パレスチナ人がパレスチナ人であるがゆえに差別され、迫害され、殺裁の対象となるのなら、そんな夢など忘れ去り、七〇年前、自分たちを襲った歴史的不正も忘れ去り、故郷パレスチナのことも忘れ去り、いっそパレスチナ人であることもやめてしまえば、彼らの生ははるかにつつがないものになるはずだ。
それは、シオニズムがナクバ以来この七〇年間、イラン・パペが「漸進的ジェノサイド」と呼ぶ暴力によって、パレスチナ人に対して発し続けているメッセージにほかならない。
・「私はここ(キャンプ)で生まれ、ここで死ぬのよ」ーヒッティーン難民キャンプのアスマハーンさんのことばは、パレスチナ難民に生まれついたことに対する絶望でもなければ諦念でもない。自動でも呪詛でもない。それは、パレスチナ人であることを引き受けた者の覚悟のことばだ。二〇〇九年のあの夏、ブルジルバラージネ難民キャンプの自宅で、未期癌の苦しみの末に、四〇数年の短い人生を閉じた難民二世の彼女もまたそうだったにちがいない。
娘を大学にやるお金を自分の入院費や緩和ケアに使うこともできたはずだ。だが、彼女はそうしなかった。卒業まで学費を支払えるかどうか分からない大学に娘を進学させ、卒業できたとしてもレバノンにいるかぎり正規の職には就けないデザイナーの夢を娘が追い求めることを彼女は選んだ。末期癌の耐えがたい苦痛をその身に引き受けることを代償に。一息、一息、呼吸するごとに、彼女は闘っていた、自らが選びとった運命と。
あの日、「ソムード」のセンター長はなぜ、私を彼女のもとに連れて行ったのか。パレスチナ難民がいかなる辛酸を舐めているか、難民であることの悲惨や悲哀を、外国人の目にもっとも気の毒に映じる者のありさまを見せることで伝えて、人道支援の必要性を訴えるためなどではない。ジャミーラさんが「私たちは何十年も闘っているのに」と言うその「闘い」、パレスチナ人がパレスチナ人であることを引き受けるということが人間にとっていかなる闘いであるのか、そのことを、それを果敢に闘っている者の姿を通して教えようとしたのだと思う。
・この地のあちら側ー占領下ーでは、幼い子どもがミサイルで殺され、脳性麻療の息子が瓦礫の中に生き埋めにされ、何百もの家族が家を破壊され、半世紀をかけて築いてきた人生の一切合切が土秒と鉄筋のこみの山にされている。その同じ土地のこちら側では、あたかもそんな現実など存在しないかのように、あるいは存在したとしても自分たちには微塵も関係ないかのように、世界の人形劇フェスティバルが開催されている。たしかに、人形劇などやっている場合ではない。でも、と私は思うーサーミーのことばを思い出してーこんな時だからこそ、ジェニーン難民キャンプのあの子たちは、世界の誰よりも今、自分たちのために人形劇をしてくれる人を必要としているのではないか、と。
・ガッサーン・カナファーニーが一九七〇年に上梓した、小説『ハイファに戻って』(完成した作品としては、これが彼の遺作となった)は、主人公の口を借りて明示的に発せられる、人間にとって「祖国とは何か」という問いと並んでもう一つ、作品のプロットから浮かび上がる問いがある。人が「パレスチナ人であるとはどういうことか」という問いだ。
人がこの世界で何者であるかは、決して自明なことではない。パレスチナ人の親から生まれればパレスチナ人なのか。そうではない、と物語は言う。自分が何者であるかは「生まれ」、つまり血縁関係によって定められるのではなく、人間一個一個が、彼あるいは彼女自身の固有の生を通して自ら選びとるものだと。一九六〇年代後半から八〇年代にかけて、パレスチナをその目で見たことも訪れたこともない難民二世の若者たちが、解放戦士として「祖国」の解放を求める闘いに続々と参与したのは、彼らがパレスチナ人に生まれたからだけではない。その難民的生の経験を通して、彼らは人生のいずれかの時点で、自身の生をパレスチナ人として生きることを自らの意志で選びとったのだ。それはパレスチナ人に生まれた者だけに限らない。それ以外の者たちもまた、あの時代、その生の政治的実践において、「パレスチナ人」であろうとした。
エドワード・サイードはエッセイ「生まれついてか、選びとってか」(一九九九年)において、この自ら選びとったアイデンティティについて以下のように論じている。
自ら選びとったアイデンティティとは、パレスチナ人であるということに政治的に関わっていくことである。すなわち、単に独自の国家を建設することだけでなく、不正に終止符を打ち、パレスチナ人を、現代史のなかに位置づけうるような、新たな非宗教的アイデンティティへと解放するという、よ意義深い理念(cause)に積極的に関わることである。(強調引用者)
・カナファーニーの『ハイファに戻って』における「人間とはその一人ひとりがひとつの大義である」ということばは、十九世紀のアメリカの思想家、ラルフ・ワルド・エマソンのエッセイ集『自己言頼』の一節を踏まえたものだ。そこには次のように書かれている。
真の人間とは、どの時代、どの場所にも属さない。(…)真の人間とは一人ひとりが、ひとつの大義であり、ひとつの国であり、ひとつの時代である。彼の企図するものを完全に実現するには、無限の空間と数と時間が必要だしやがて後の世代は列をなして彼の足跡を辿るだろう、自らの導きを求めて。
エマソンが「真の人間とは」としたそれを、カナファーニーは「人間」全般に敷術した。それは、ナクバによってノーマンとされたパレスチナ人同胞に向けて、一人ひとりが一つの普遍的大義、普遍的理念である、そのような人間たれ、という呼びかけだった。カナファーニー自身がそうであったように、アルナも、ジュリアーノも、自ら選びとった「パレスチナ人である」ことのCauseを生きた者たちだった。
・それは、想像を絶する攻撃だった。アウシュヴィッツのあとで、人間が人間に対してなしうることに想像を絶することなど、もはや何一つないのだとしても。
世界がクリスマスの余韻にひたるなか、その攻撃は突然、始まった。ガザ地区はその前年から完全封鎖されていた。世界最大の野外監獄と化したそこに、一年以上に及ぶ完全封鎖で遠築した一五〇万もの人々(当時)が閉じ込められていた。逃げ場もなく、まさに「袋のネズミ」状態に置かれた彼ら234
の頭上に、空から海から陸から、ミサイルや砲弾の雨が二二日間にわたり降り注いだ。死者は一四〇0人以上に及んだ。四年数カ月に及ぶ第二枚インティファーダの死者が約三〇〇〇人だ。その半分通くが、たった三週間で殺されたことになる。まさに一方的な破壊、一方的な殺裁だった。
自治政府関連の建物も警察署も、大学も、スポーツセンターも、公園も、民家も、攻撃された。病院も、国連の学校も、モスクも容赦されなかった。いくつもの家族が瓦礫の下で生き埋めになって死んだ。攻撃は夜に集中した。真っ暗闇の中、砲弾やミサイルが周囲に着弾する番音や振動が、深夜から明け方まで間断なく続く。そんな恐怖の長い夜を耐え抜いて、ようやく朝、陽がのぼって攻撃が止み、外を見れば、爆撃されたのは墓地だったり、すでに幾度となく攻撃され破壊された建物であったりする。住民をただただ恐怖に陥れるためだけになされる爆撃、まさに純粋テロルだ。それが二二日間、続いた。
二二日間·....。それは終わったからこそ言えることだ。攻撃が現在進行形で続いているさなか、空爆下の人々は、この事態があと何日、続くのかなど知る由もなかった。この晩を生き延びて、もう一度、朝を迎えられるのか、そんな恐怖の夜を二二夜も経験したのだ。私たちが新年をのどかに言祝いでいたとき、ガザは血にまみれていた。
・占領と闘うとはどういうことか。占領下でパレスチナ人が生きることそれ自体が、占領に対する抵抗だとよく言われる。なぜか。パレスチナに物理的に留まり続けることで、今なお続く民族化に抵抗しているから、だけではない。「占領」とは他者の人間性を否定する暴力だ。それは、「人を破壊する苦しみ」だとブサイナ・ホーリーは言う。「魂の破壊」だとサラ・ロイは言う。占領と闘うとは、この人間の破壊、魂の破壊と闘うことだ。
闘う者がいつしか敵の似姿と化してしまうことをニーチェは警告した。占領という「人間を破壊する」怪物と闘うパレスチナ人にとって真の敗北とは、自らが怪物と化してしまうこと、敵の似姿となってしまうことだ。たとえ政治的に勝利したとしても、軍事的に勝利したとしても、「人間であること」を手放してしまったら、それこそが人間にとって真の敗北となる。だから、彼らは人間であり続けようとする。人間の側に留まり続けようとする。サリ・ハナフィが言う「スペィシオサイド」、パレスチナ人がパレスチナで人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで、人間らしく生きること、それが占領下のパレスチナ人の根源的な抵抗となる。占領者が自分たちの人間性など一顧だにしないから、だからこそ自分たちは占領者の人間性を否定しない。同じ人間として呼びかけるのだ。占領が人間的な生を破壊するからこそ、壁と闘う彼らは宴を催して、笑い、冗談を言いあい、その瞬間、凝縮された人間的生を全身全霊で享受する、魂の破壊に抗して。
二〇〇二年四月、外出禁止令が敷かれたベツレヘムの、イスラエル軍に占拠されたスターホテルのロビーで、アウニーたちがなぜ、あんなに引きも切らず冗談を言っては笑い転げていたのか、今ならよく分かるような気がする。生を破壊する暴力、パレスチナ人の人間性を否定する暴力のただなかで、二人の青年たちは、生を愛し、今、この瞬間の生を精一杯、享受するという根源的な抵抗を遂行していたのだ。それはまた、ロビーの奥にたむろしている同年代のイスラエル占領軍の若者たちに対する抵抗のメッセージでもあっただろう。僕たちは何があろうと、生を愛し、人間であり続ける、お前たちに僕たちの魂を破壊することはできない、というメッセージだ。
・<十二秒間の電話>
電話。より正確には十二秒間の電話。十二秒間の電話が十家族全員を通りに追い出した。十二秒間の電話のせいで祖母たち、祖父たちは五〇年以上住み慣れた我が家、子どもを産み育て、その子どもたちが自分たちの子どもを産み育てた家を捨てねばならなかった。
伯父の電話が鳴った。私たち全員、ただちに家から避難しなければならない、占領軍があと十分でこの家を砲撃するからと。伯父の妻は気が狂ったように叫びながら家じゅうを走り回る。六人の子どもたちがどこにいるのか探し求めて。彼女の娘は障害者だ。誰が彼女を外に連れ出すのか?誰にまず伝えればいいのか?この建物に住んでいる家族六〇人に誰が知らせるのか?
十分間で何ができる?服を着替える?子どもたちに伝える?うち棄てていく家の二〇年間の思い出を掻き集める?死者の仲間入りから逃れるための十分間。上空で飛行機が旋回する音が聞こえて、彼女はもうおしまいだと思う、十分が過ぎてしまったのだと思って。でも、ありがたいことに、恐ろしいニュースはすぐに広まった。数分でお隣の末っ子は、自分の命が危険にさらされていると気がつく。
紛争のいくつかの報告記録に従えば、祖父は一九二八年か二三年に生まれた。第二次世界大戦を目撃し、英国によるパレスチナの占領を、ナクバを、一九六七年の戦争を、一九七三年の戦争を、ベィルート侵攻を、第一次インティファーダを、第二次インティファーダを、オスロ合意を、イブラーヒーム・モスクの集団虐殺を目撃した。基本的に、祖父は、これらすべてが始まったときから、これらすべてを生きてきた。
祖父は八四歳だか九一歳になってまたも、家を追い出される。最初に家を追われて、何年か難民キャンプで過ごしたあと落ち着いた家を離れるのを余儀なくされる。またもや暴力と不正が自分を襲う。
またもや自宅を去らねばならない。祖父はそこに横たわり、動くことすらできない。歳をとっているから、ではない。死ぬことと難民キャンプあるいはUNRWAの学校でもう一度暮らすことにどんな違いがあるのか、分からなくて。どうしたら自分が築きあげた家を捨てて出ていくなんてできるだろ。祖父は文字どおり、煉瓦を一つ一つ積み上げて、この家を築いたのだ。
祖父はようやく起き上がると、壁に手をつきながら力なく歩いて行く。オリーブの木に別れを告げる暇もなく、六〇年間毎朝、掃き浄めてきた床にも別れを告げる暇もなく。一から築き上げた家を目に焼き付ける暇もなく、この家がどうなるのか思いを馳せる暇もなく。
あと十分、思い出が、かみしめる時間もなくどんどん脳裏から零れ落ちて行く。あと十分、急いで移動しなければ、私たちの命も、私たちから零れ落ちてしまう。あと十分で、何もかもが瓦礫になる。
私の金属製の机。父が何年もそこで仕事をしたその机。私が少なくとも十年は勉強し、私の兄弟全員が勉強するとき使った机。壁にかけられた額、父がエジプトのアズハル大学から授与された卒業証書がそこに誇らしげに飾られている。台所のバルコニーに気持ちよく巣作りしている鳩しこの鳩もいなくなってしまう、どこに避難したらいいかも知らないまま。姉が書いた壁の落書き。消えることも色褪せることもなく、三〇年以上もそこにあった落書き。一撃で、なにもかもがなくなってしまう。
私たちの家族はすでに、一人を戦争で亡くしている。でも、私たちの誰も、こんなことが実際に起こるだなんて考えていなかった。六〇人もの人間が住んでいる家を、住民すべてをそこから追い出して、破壊するなどということが人にできるだなんて、誰も思いもよらなかった。叔母が絶望のあまり祈る、「ああ、神さま、私は息子を失いました、今度は家まで失うのですか?」家を追われるのは私たちの家族だけではない。この通りのすべての家族がそうだ。四〇以上の家族が突然、難民になってしまった。こんな恐ろしい事態を予期していたのか、満杯の鞄、身分証明書の書類を手に。
十分が過ぎたけれど、飛行機はまだ攻撃してこない。でも、家に戻る者はいない。十分間が何事もなく過ぎたということは、砲撃の開始が遅れているということであって、中止になったというわけではない。これから起こることを考える時間が、悲しむ時間が、さらに長くなったということ。私たちはただ立ちつくしている。子ども時代の懐かしい壁にもう一度、触れることもできずに。
・なぜ、繰り返されるのかという問いが、何がそれを可能にしているのかという意味ならば、このようにも言えるだろう。第二次世界大戦後、絶滅収容所の真実が明らかになると、ドイツ人は「私たちは知らなかった」と弁明した。本当に知らなかったのかどうかはここでは措こう。「知らなかった」ということが弁明になりうるのは、知っていればこのようなことは許しはしなかった、必ずやそれを阻止しようとしただろう、という含意があるからだ。だが、本当にそうなのだろうか。ガザの殺数と破壊は、世界注視のなかで起きている。最新兵器の実戦デモンストレーションでもあるのだから当然だ。日本のメディアでも報道された。私たちは決して知らないわけではない。無知がホロコーストというジェノサイドを可能にしたのだとしたら、繰り返されるガザの虐殺を可能にしているのは、私たちの無関心だとも言える。茶の間に流れるガザのニュースは、一瞬、心を波立たせはしても、多くの者にとってそれ以上のものではないのだ。