おぐゆう "1984" 2026年5月24日

1984
1984
ジョージ・オーウェル,
田内志文
過去のようで、未来のようで。 いや、現在なのかもしれないと不穏に揺さぶられるディストピア小説。 管理も監視も当たり前の世界に生きるウィンストン・スミス。 体制に疑念を持ち、行動を起こそうとすればするほど、判断を見誤るようになっていく。 人間らしい歓びを優先したが故に判断力が鈍ってしまったのか、それとも単に思慮が足りず自ら蟻地獄にはまっていってしまったのか…… ウィンストンの恋人であるジュリアの存在が、私にはなんだか光って見えました。 世の中へ疑問を持ち、自分の範疇で出来る限りの抵抗を示しながら、強かに靭やかに生きるジュリア。 自白と裏切りについての話になったときにジュリアが言った 「喋らせることはできても、本気でそう信じさせたりはできないの。人の中にまで入り込んだりは、あいつらだってできやしないわ」 という言葉は、ウィンストンにとって最後の砦だったように思います。 「精神の自由」はどうやって守ることができるのだろうか。ふと『夜と霧』を思い出したりもしました。 もと司書目線でいえば、本や新聞、文書についての記述が多いことにも興味がわきました。 歴史も、さっきまで起きていた事実も、支配層にとって都合のよいように書き換えられていく中で、ウィンストンの「日記」という行動はもしかしたら最強の抵抗なのでは?(な〜んて思ったけど、あれも多分罠だったのよね) それにしても、そんなことが現実世界で起きていたら非常に恐ろしいこと。これは過去?未来?それとも現在? 訂正が加えられた本は、元の版が書店に並ぶことは殆どないけれど、図書館には残されている。アーカイブとしての使命がそこにはあるのだよなと、改めて思ったり。(もちろんスペース上の問題もあるし、全ての図書館が全ての書籍を保存しておくことは不可能であることを経験を持って分かっているけれど) ちなみに私が読んだ角川文庫の田内志文さん訳(2021年)は、「hate」を「ヘイト」と訳している。もっと前のハヤカワepi文庫(2009年)は「増悪」と訳していた。この差についても何だか考えさせられてしまいます。言葉がそのまま通じるほどの世相の変化よ。 「知る」ことは大事で、必要なのは「考える」こと。インターネットの普及により私たちの生きる社会は「知る」に溢れていて、時に溺れてしまう。 「知る」ことに飢えていたウィンストンは、得られた少ない情報を裏付けも確かめないままに信頼しすぎている節があったけれど、では果たして、多くを「知る」ことのできる現実社会を生きる私はどうか?と自問しながらページを閉じたのでした。
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